いつも浅田真央の傍らに 支え続けた母・匡子さん
亡くなった浅田真央選手の母・匡子(きょうこ)さんのことを浅田選手と同様、私たち記者も「ママ」と呼んでいた。2005年のグランプリ(GP)ファイナルで優勝して国民的人気者になってから10年2月のバンクーバー五輪まで、浅田選手のいるところには必ずママがいた。
練習から海外遠征もそれこそずっと一緒。「ママは試合を見ないで」。浅田選手の要請もあって、試合の本番だけは会場にいなかったが……。
06年、山田満知子コーチの元を離れて米国ロサンゼルス近郊に拠点を移し、08年からロシアのタチアナ・タラソワコーチに指導を仰ぐようになった。そのとき、まだ浅田選手は16、17歳、その決定にはママの意向が大きく働いたのは間違いない。
ライバル・金妍児(キム・ヨナ、韓国)選手のコーチは五輪の開催地であるカナダの英雄、ブライアン・オーサー氏。対抗するには別のフィギュア大国・ロシアのコーチが必要だった。「タラソワ先生の力がいるの」。とうとうと語るママの姿は熱かった。
しかし、タラソワ・コーチを頼った結果、バンクーバー五輪シーズンのプログラムが酷評され、浅田選手も思ったような演技ができない試合が続くと、ママにもだんだん疲れが見えた。もともと体が丈夫でないと聞いていたが、明らかに顔色が悪くなり、こちらが心配するほどだった。
「ねえ、どうしてヨナにあんな点を出すのかしら。あれじゃ真央がいくらトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳んでも勝てない」。浅田選手が銀メダルに終わったバンクーバー五輪のエキシビション当日、ママに涙ながらに訴えられたこともあった。
「真央、反抗期みたい。真央ははっきり言うのよ。あの顔で得しているけれど」と言ったのは08~09年ころ。「もう、ママと練習するのは嫌だ」。浅田選手が涙ながらに反発したこともあったが、やっぱりママは特別な存在。同時期、一生懸命に写真を撮っている浅田選手に遭遇したことがある。「ホテルで待ってるママに見せるの」とうれしそうに話していた。
バンクーバー五輪の後、ママはめっきり姿を見せなくなった。「バンクーバーで燃え尽きたんだって」と、風の噂で耳にした。10年9月、佐藤信夫コーチについてから、ママの話題も出なくなった。
最後に姿を目にしたのは昨年12月の全日本選手権。小さいころから、浅田選手のマッサージはママの仕事。「マッサージャーよ。試合は見ない、見ない」。笑顔で話していた。以降、体調が悪くなっていったのだろう。連絡もとれなくなった。
それと並行するように、浅田選手は車の免許をとったり、めっきり大人びていった気がする。「でも真央ちゃんには大きな存在よ。よーく『ママにも教えてあげなきゃ』って話してるもの」と佐藤久美子コーチ。多分、ママが心配だったのだろう。しかし、浅田選手はそんな感情をおくびにも出さなかった。
(原真子)