かつて日本医療界の革命児と言われた男・徳田虎雄。
昭和50年代「生命だけは平等だ」との理念を掲げ、「24時間365日オープン」の病院を全国に拡大し、各地の医師会と対立した。
その後、政治の力を求めて奄美群島区から衆院選に立候補すると、金まみれの選挙戦を展開し、耳目を集めた。
善なのか、悪なのか。徳田虎雄の激動の半生を追う。
後編では、権力を追い求めた虎雄の政界進出、億単位の金が乱れ飛ぶ選挙戦、難病の発症など、波乱に満ちた半生と、虎雄の功罪を考える。
【前編】「生命だけは平等だ」 病院王・徳田虎雄が、全国に24時間365日行ける病院を作ったその時代
金で票を動かす泥沼選挙。「保徳戦争」の顛末
この記事の画像(18枚)昭和58年(1983年)、45才の徳田虎雄は、ついに政治の力で日本の医療を変えようと衆院選に立候補した。選んだ舞台は、故郷の奄美。中選挙区制の時代にあって、奄美群島区は、当時全国唯一の1人区だった。
相手は、代議士だった父から地盤を受け継ぎ、4期連続当選の保岡興治。後に言う「保徳戦争」の始まりだった。
徳洲会元事務総長の能宗は、虎雄とともに、奄美大島から与論島まで駆けずり回った。そしてすぐに奄美の選挙の異様さに気付いた。
「私のような内地の人間からすると、とんでもない選挙なんですね。文化的には良い悪いは別にして、その見返りがあるところに人を投票すると。世間的には買収行為になるんでしょうけど『向こうは2万だって。お前はいくらか』とそういう感じですからね。当時3億ぐらいを用意して、それがあっという間に無くなるわけですよ」
能宗によると、裏金は億単位の医療機器を購入した代理店からのキックバックを、グループの関連会社に回して作ったという。
ロッキード事件で、政治への不信感が高まっていたこの時代。虎雄は、田中派のプリンスとも呼ばれた相手候補を金権政治家などとこき下ろしながら、自らは金で票を買っていたことになる。
「ロッキード裁判の弁護人が勝つか、医療改革を唱えた徳田虎雄が勝つか」
能宗は当時の状況をこう話す。
「心のどこかで、これおかしいよねと良心に苛まれる。それはありますよね。ただし、院長のほうは純粋ですからね。政治力を持つことが、徳洲会の社会運動をよりスピードアップさせるということも、概念としてはわかっていましたので。納得できないけど、理解はできる。それで戦い始め以上は、勝たなくちゃいけないですから」
保徳戦争が過熱した理由の1つが、選挙賭博だ。
どちらの候補が勝利するか、住民たちはギャンブルに興じた。親子2代サラブレッドの政治家vs.苦労人のたたき上げの医師。ギャンブルの対象としてこれほどわかりやすい構図はなかった。
選挙には徳洲会の医療スタッフも駆り出された。東京大学医学部卒の医師・高野良裕は、学生運動の続きのようで選挙が楽しかったと語る。
「おもしろかったですね、今思うとね。皆さん徳田先生が選挙行くからどうのこうのと言うけれど、やっぱり政治を変えない限り、医療も変わらないと私たち普通に考えていましたから」
虎雄は死に物狂いで戦った。しかし、1105票差で敗れた。そして次の衆院選でも破れてしまった。前回以上に、人、物、金を投じたにも関わらず、差は開いた。それでも虎雄は、諦めるわけにはいかなかった。
元号が変わって平成2年、保徳戦争の第3ラウンドが始まった。能宗はこう話す。
「もう負けられないじゃないですか。2度目の選挙が終わった時に、3回負けたら恐らくもう無いんじゃないかという切羽詰まった状況でしたけど。
保岡事務所の一部金庫番をやられた方が寝返ってきたときにお話を聞いたら、2回目で保岡陣営がおそらく30億ぐらい使ったんじゃないかっていう話があって。それじゃあ10何億じゃ勝てんなと。実は3回目はですね、その30億を用意しなくちゃいけない。当時は、飛行機便で送りますからね。空港止めで、羽田空港から現金をダンボールに詰めて、それを毎日のように送るわけですね」
能宗は、虎雄と抜き差しならない共犯関係を築いていた。
そしてついに、虎雄は初当選を果たした。
念願の金バッチを手に入れた虎雄が浮かれる一方で、徳洲会は大きな問題を抱えていた。急速なグループ拡大、莫大な選挙費用、それにバブルの崩壊が追い打ちをかけ、徳洲会は資金繰りに行き詰まっていた。
元徳洲会の医師・山本智英は、初当選に浮かれる虎雄を苦々しい気持ちで見ていた。
「どっちみち陣笠(大物に追従するだけの議員)だと。何もできないと。でも彼の言い方はですね、2期目は厚生大臣、3期目は総理大臣、4期目は世界大統領だと平気で言うわけですね。私たちにしてみたら、馬鹿げているとしか言いようがないけどね」
選挙に反対する医師が、次々と徳洲会を去った。徳洲会内部の不協和音が次第に大きくなる中、保徳戦争、最大の戦いが始まる。
保徳代理町長選挙、選管委員長の逮捕。尽きない虎雄の欲望
平成3年、徳之島伊仙町の町長選挙。徳田虎雄は、次の自分の選挙に向け足場を固めようと、徳洲会ナンバー2で伊仙町出身の盛岡正博を送り込んだ。
対する保岡派も候補者を立て、伊仙町長選挙は、保徳代理戦争になった。
「この10年間、徳田先生、保岡先生の衆議院の激しい争いがありました。その争いの中で、どういう故郷を作るのかということは頭の中にも心の中にもわかっています。それを誰が実行するかです」
盛岡は徳洲会のため、故郷のため、苦渋の決断の末、立候補を決めた。盛岡は当時をこう語っている。
「3回目の選挙で様子を見ていたときに、多くの人が、大げさでなく、生活をかけて命がけみたいな形でやっていて、すごく荒んだ状況だったわけですよ。徳田先生はどんどん走るじゃないですか。僕が止まって、徳田先生に期待して命がけで色々おやりなった人の思いを、1人1人お話を聞いて少しでも解決できないかという思いでいたと思います」
開票作業中、問題が起きた。保岡派の支持者が、徳田派が不在者投票で不正を働き、替え玉投票をしていると騒ぎ立て、両派はもみ合いになった。開票所には石が投げ込まれた。
事態はこれで終わらない。公正であるべき立場の町の選挙管理委員長にまで、替え玉投票に関与した疑いで逮捕状が出たのだ。選管委員長は、徳之島徳洲会病院に逃げ込んだ。何のことはない、選管委員長は徳田派だった。警察の追っ手が迫る中、徳洲会病院は選管委員長に緊急手術をした。
手術後、当時の選管委員長・吉見忠業は逮捕された。吉見は当時を振り返る。
「兄弟も夫婦も、両派に分かれた。あんなことやるもんじゃないと思うよ。伊仙町のために。ひどかったもん」
結局、混乱は1年半も続き、盛岡は選挙に敗れた。自身の代理戦争であるはずのこの混乱を、虎雄が表立って収めようとした形跡が見られない。盛岡はこう振り返る。
「私は一応、何かをやろうとした。でも僕はやっぱり、どこが傲慢だったかもしれない。だから受け入れられなかった。おまけにその中で、僕よりも優れた弟まで失ってしまった」
選管委員長への緊急手術を、メディアは「徳洲会が容疑者をかくまった」と厳しく批判した。執刀したのは、立候補した盛岡正博の弟・康晃だった。
批判の矢面に立ち続けた康晃は、選挙の翌年、伊仙町の海で溺れ死亡した。44歳だった。死因は溺死とされたが、過労死だったという人もいる。
盛岡康晃が徳洲会の集中治療室に運び込まれた時、虎雄は容態を見守る人に、「よろしく」と言って国会議員の名刺を配ったと言う。それを見た盛岡は徳洲会を去ることを決意した。
盛岡正博は今、ふるさと徳之島から遠く離れた長野県佐久市で、医療系の学校の理事長を務めている。今、徳田虎雄をどう思っているのか。
「僕は色々な大きな人、優れた人にお会いして影響を受けました。そういう中のお1人だと思います。弟のことは、これは私の中でいつもぐるぐる回っていますから。どうすればよかったのかと。弟と交わした言葉がピンピンと時々蘇りますよ。でもその事と、徳田先生とは全然別の問題です」
虎雄の欲望は止まらなかった。
平成5年に再選を果たすと、翌年、政党「自由連合」を立ち上げる。時代は、非自民の連立政権が誕生した日本政治の激動期。徳洲会の集金力目当てに、多くの政治家が群がった。
「日本再生のためのね、政府を作るべきじゃないかなと。それがどうも今年は来るんじゃないかなと」
自由連合代表として多忙な日々を送っていたある日、徳田虎雄の体に異変が起きる。
ALSの発症、親族の逮捕。眠るように生きる虎雄の今
メモ魔だったという虎雄の手帳には、己を鼓舞するためか律するためか、強烈な言葉でびっしりと埋め尽くされている。
そのうちの一冊、平成14年(2002年)の手帳。
3月30日の欄には
「左半身異常に気付く。気分悪く自殺したくなる気持ち」
「診断 ALS」
と記されていた。
ALS=筋萎縮性側索硬化症とは、全身の筋力が徐々に衰え、最終的には全身不随となる病だ。年間10万人に1人の割合で発症する難病で、有効な治療法は存在しない。そしてこの病の特徴は、全身の筋力を奪われながらも脳は正常であり続ける点だ。
妻の秀子は当時の様子をこう話す。
「ちきしょー、ちきしょーと夜寝る前にそのように申しておりましたね。それはもう私にも当たり散らしたり、大変でしたけど。でも徐々に、その病気を受け止めて」
それでも虎雄は、執念で徳洲会グループの経営を続けた。声を失っても、文字盤を目で追うという方法で意思疎通をして、全国の病院のベッドの稼働状況から患者の食事メニューまで、細かくチェックし君臨し続けた。
一方で、政治家を続けるには体力的に難しくなり、後継者に次男・毅を指名した。総理にも、大臣にすらもなれず、虎雄は政界を去った。
ALS診断から10年後の平成24年(2012年)。
ある意外な人物が、虎雄と面会している。
「この方がおられなかったら、僕は医師にならなかったかもしれない」
IPS 細胞の発見でノーベル賞を受賞した、京都大学教授・山中伸弥だ。山中は高校時代に虎雄の「生命だけは平等だ」という言葉と本に触発されて医師を目指した。
「ALSを発症されてからですけれども、研究所訪問していただきまして。僕にとっては、自分が医学を目指したきっかけになった方に初めて直接お会いして、しかも自分たちがIPSで何とか治療法を作りたいと思っている最大の病気の1つがALSなんですけれども、このALSという病気と戦うことが、ある意味運命づけられていたのかなと。
徳田先生が唱えられた『生命だけは平等だ』ということは、私たちの研究で実現させていきたいと思っています」
ALSの進行は止まらない。病院経営も難しくなった結果、持ち上がったのが、後継者問題だった。
70をこえる病院、年商4200億円余りという、日本最大の医療集団・徳洲会グループのトップを誰に譲るか。問題を難しくしたのは、虎雄自身が、若い頃から発していた言葉だった。
「財産はいらない。家族に相続はしない」
そう公言するからこそ、虎雄を信じ、多くの職員はついてきた。
しかし、時として病気は人を変える。虎雄の家族が、一線をこえ、徳洲会の経営の中枢になだれ込んできたのだ。
そして平成25年(2013年)。
前の年、鹿児島2区から出馬し当選した次男・徳田毅の衆院選をめぐり、東京地検特捜部は地方議員の買収資金6000万円を徳洲会グループの幹部職員に渡した疑いで、親族らを逮捕した。
虎雄本人は、ALSで公判に耐えられないとして起訴猶予処分となる。徳田毅は衆議院議員を辞職した。
それまでも堂々と行われてきた、徳洲会恒例の組織ぐるみの選挙。
選挙の内部資料を東京地検特捜部に持ち込んだのは、元事務総長の能宗だった。
能宗はこう話す。
「ああいう病気になって、動けない本当にしんどい病気ですよね。それで理事長の家族に対する愛情が強くなるのは、1人の人間としてわかります。
ただし、その人間の情と会社の経営はちょっと違う部分があって。今まで中で苦労した人じゃなくて、いきなり外のファミリーが入ってくると、絶対に下が言うことを聞かないんですよ」
能宗は、徳洲会の後継者をめぐり水面下でファミリーと争った。ファミリーにとって、徳洲会と虎雄の秘密を知りすぎた能宗は、もはや疎ましい存在でしかなかった。虎雄は文字盤で、能宗にこう伝えた。
「じむそうちょうをやめるべき」
能宗は、懲戒解雇となった。
裏切られたと感じた能宗の足は、東京地検特捜部へ向かった。そして能宗自身も、徳洲会グループの関連会社の資金を着服した業務上横領の疑いで逮捕される。徳田虎雄とその家族は、混乱の責任を取る形で、徳洲会グループを追われた。
ここに1枚の写真がある。
平成31年(2019年)4月に撮影された徳田虎雄の姿だ。もはや車椅子に乗ることも目で意志を伝えることも、難しいという。
虎雄は今、何を思うのか。
「精一杯、私はやり切ったと思っているんですけどね。しかし、主人はそうじゃないと思っています」(妻・秀子)
「ちょっと変な表現ですけど、全能の何かと、神様と言ってもいいでしょうけど、それと会話するような心境にいるのか。それとも完全にそういうことを捨てちゃっているところにいるのか。ちょっと分からないですけど」(元徳洲会ナンバー2・盛岡正博)
「今この瞬間でも、北海道から沖縄まで、救急車が発走しました。40台に1台は徳洲会に飛び込んでいるわけです。言葉を変えれば、今この瞬間も徳田院長が作った徳洲会で命が救われている人がいる。これは徳田院長の誇りだと思います」(元徳洲会事務総長・能宗克行)
徳田虎雄が残した最後の手帳。ALSで急速に握力が衰え、ページをめくるごとに空白が目立つ中、虎雄が残した言葉とは。
「何の為に生きているか!!」
「世界同時医療カクメイ」
「人類愛」
鹿児島最南端、与論島にある与論徳洲会病院。
この小さな島の病院も、24時間365日明かりが消えることはない。
徳田虎雄は、今も医療に従事する人の心を鼓舞している。
生命だけは平等だ――。