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やしきたかじん

登録日:2017/08/12 Sat 08:47:45
更新日:2024/11/30 Sat 07:00:38
所要時間:約 2 分で読めます




やしきたかじんとは、日本の歌手・タレント・ラジオパーソナリティである。
生涯一貫して関西で活躍したためローカルタレントとして紹介されることもあるが、一時期は東京でも活動していた。
通称は「たかじん」だが、番組によっては「じんちゃん」と呼ばれることもあった。

▽目次

概要

本業は歌手だが、トーク力の高さから冠番組を数多く持つタレントとしての知名度が圧倒的に高い。
氏の番組はいずれも高視聴率を誇り、「ナニワの高視聴率男」のキャッチコピーでも知られた。
関西の民放5局全てで冠番組を持った司会者は現在までたかじんが唯一である*1

芸能界でも人脈の広さは有数であり、同業者は勿論のこと政治家にも友人・知人がいた。
ただし普段の言動から嫌われることも多く、民事訴訟レベルの争いに発展することも多々あった。

トークの腕もあって、バラエティ番組に出演している時には芸人にしか見えないのに、
歌手としては同一人物とは思えないほど美しい声でラブソングを歌いあげるという凄まじいギャップから、
しばしば「スズムシの声を持ったゴキブリ」と評される。
他にも島田紳助は氏について「愛を歌うヤクザ」と評したこともある。


来歴

1949年10月5日生まれ、大阪府大阪市出身。
本名は「家敷隆仁」と書いて「やしきたかじ」と読む。
在日韓国人の父と日本人の母の間に生まれる*2
父は在日韓国人であるものの日本の国粋主義者であり*3、また現在に続く事情からか事実婚の関係だった。
下の兄弟に教頭にまで出世した教職員がおり、兄の問題行動に常に困らされていたという。*4

桃山学院高校卒業、桃山学院大学中退(後に龍谷大学に再入学するも、そこも中退している)。
高校時代に所属していた新聞部はコンクール受賞の実績を残しているが、たかじんの暴走によって廃部へと追い込まれたらしい。
以来、桃山学院高校では、在校生が文化祭のゲストとして彼を呼ぼうとした時も教員側が断固拒否するなど、やしきたかじんの存在をすっかり黒歴史化してしまった。

大学中退後は京都に移り住み、そこで弾き語りのバイトからミュージシャンとしての活動をスタートさせる。
この時期からクラブで態度の悪い客相手に「俺の歌が聞けないのか!」とブチ切れて洗剤をかけるなど、後につながる暴走行為をしていたとか。

長らく芽が出ず廃業も考えていた矢先、周囲の勧めで「第2回大阪大衆音楽祭」に出場しグランプリを獲得。ようやくメジャーデビューのきっかけをつかんだ。

なんとかして客の気を引くために磨き上げたトークの面白さが評価され、次第にラジオ番組のパーソナリティや情報バラエティ番組のMCに抜擢されるようになる。
トークの面白さに定評がある歌手は少なくないが、たかじんのそれはもはや歌とトークの比重が完全に逆転し、歌手である事すら忘れられてしまうほどであった*5

その後、知名度が上がるにつれて本業の歌手活動も評価されるようになり、歌手とタレントの二足の草鞋を履くようになって芸能界でも一目置かれる重鎮となる。

人物

派手好き、遊び好き、豪胆な毒舌家として知られる一方で繊細な一面もあり、
ステージではストレスから来るプレッシャーで何度も倒れそうになっていたとされ、本当は小心者で寂しがり屋でもあった。
歌手としても、繊細な持ち味の曲を得意としていた。

典型的なイッチョカミ体質*6で、自宅に設置してある大量のビデオデッキやHDDレコーダーでテレビ番組を片っ端から録画し、トークのネタにするための情報収集に励んでいた。
話題の守備範囲は幅広く、トークのジャンルは芸能界の構図、政治・経済、キャバクラなど風俗の裏事情、ハワイ観光のノウハウなど多岐に及ぶ。
その一方、自身のプライベートについてテレビで語ることは殆どなかった。

トークの際はテーマについてまとめたパネルを用意し、そこを指差し棒*7でバンバンと叩いてゆく「パネル芸」で知られる。

一時はレギュラー出演の依頼を全て引き受ける方針だったが『聞けば効くほどやしきたかじん』・『晴れ時々たかじん』が軌道に乗ってからは同じ時期に出演するレギュラー番組は最大でも3本に抑える姿勢を貫いた。これは
  • 企画段階から参加できない番組でレギュラーを務めるのはギャラ稼ぎが目的の仕事にあたり、視聴者に対して失礼になる
  • テレビ番組に関わる以上、録画した番組を全部見て内容を徹底分析しないと納得がいかない
という考えによる。

暴走気味の行いから引き起こされた騒動は数知れず、機嫌を損ねると収録中でも帰ってしまうことがあり、スタッフや共演者は戦々恐々としていた。
かつて仲良く共演していた間柄のタレントと敵対関係*8になっていることも珍しくなく、ファンや高く評価してくれていた人とは知らずに誹謗中傷してしまったがために共演を拒否されることもあった。

大阪ローカルタレントとして不動の地位を築いたたかじんは、90年代に東京に進出したこともあるが、彼自身の問題もあり失敗。
以降は東京(というよりキー局)を嫌い続けるスタンスを貫き、自身の関西での冠番組を東京にネットするのを拒絶するレベルだった*9

かねてからNHK嫌いである上に東京嫌いであり、反権威的なイメージが強い一方で、
権威ある相手から評価されると一気になびく面もあり、かつて痛烈に批判したビートたけしから評価されると一転してベタベタの関係になる等、その点でも批判されていた。
また、タレント初期にレギュラー番組を持っていた朝日放送も嫌うようになり、21世紀以降は同局の番組に出演することも少なくなっていた。

政治的には保守、極右のスタンスであり、その傾向が顕著な番組として、よみうりテレビの『たかじんのそこまでいって委員会』があるが、
それ以外の自身の看板バラエティ番組でも似たような政治色が強く、それによって政治思想的にたかじんを評価するものもいれば逆に嫌う視聴者も増えていた。

大橋巨泉などと同じく才能を見る目があり、当時朝日放送の局アナだった宮根誠司がフリーに転身する際は朝日放送社長に直談判するなどして手助けをしている。
また、自身の番組に呼んだグラビアタレントがブレイクすることも多く、ほしのあきはその代表例。中にはほとんど喋らなかったのに大ブレイクした綾瀬はるかとかいう化け物も居たりするが

大のハワイ好き・競馬好きでありハワイは1年の1/4から1/3を過ごすほど、競馬は中央競馬に馬主登録して6頭の馬主を経験するほど。所有馬の1頭グレイトサンライズは2009年の秋華賞馬レッドディザイアの母でもある。
ただ馬主を経験する中で以下のようなバカ馬に当たったこともあるという。
  • 閉所恐怖症でゲート試験に合格できず、競走デビュー不能
  • 競走馬は負けん気の強さも大事だが、負けん気が強すぎて他の馬に噛み付く
  • 虚弱体質でレースに出られない
  • 最後に所有したドンコルレオーネは中央時代は全く芽が出ず、別の馬主に売却して地方の園田競馬場に転籍した途端10連勝する


歌手としての作風

デビュー当初はいわゆるフォークのような楽曲を歌っており、レパートリーは本人による自作曲が中心であった。主な代表曲は、デビュー曲の「ゆめいらんかね」など。
その後、レコード会社をキングレコードからビクターに移し、自作曲よりも本業の作詞家・作曲家から提供された歌謡曲がレパートリーの中心となる。
たかじんの曲の中でも知名度が高い「やっぱ好きやねん」はこの時期に歌われた曲である。
ちなみに、機動戦士ガンダムの「砂の十字架」を歌うことになったのはちょうどこの過渡期にあたる。

ビクター時代のそれは、バラード系ポップスでありながらもどこか演歌のような味わいも兼ね備えており、
「自分の夢をどこまでも追いかけようとする男」と「ひどい目に遭わされながらも、そんな男を信じて愛し続ける女」という構図の曲が多い。

たかじん本人の音楽の好みは保守的な部類に入り、シンセサイザーに頼った音楽や、詩的な表現を廃した話し言葉中心の歌詞などは嫌っていた。
特に歌詞については並々ならぬこだわりを持ち、業界では「作詞家泣かせのたかじん」と恐れられていたといい、
たかじんの楽曲の作詞を数多く手掛けた作詞家の鹿紋太郎によれば、新曲づくりの際はたかじんの家に半月ほど泊まり込んで作業をすることもあったという。

そのことから、まだ若手だった頃の秋元康は「アンタの作る歌詞は『詞』ではなくてただの文章や」と手酷いダメ出しを喰らったことがあるという。*10
その後、皆の知るとおり秋元康は大物作詞家・プロデューサーとなったため、自分の先見性のなさを恥じていたたかじんだったが、
ある企画がきっかけで歌詞を提供してもらうことになり、ついでに当時詐欺事件の渦中にいた小室哲哉にも再起の機会を与えるべく作曲を依頼。
その結果、作詞が秋元康、作曲が小室哲哉という豪華な布陣による「その時の空」という曲が誕生し、これがたかじん最後の新曲となった。


死去

酒や遊びなど、お世辞にも健康的とは言いがたい生活を送っていたのが災いしてか、2012年にとうとう食道がんを患い、以後療養生活に入った。
復活を目指し、2013年3月に一旦復帰するも同年5月に再び休養生活入り。その後も復活を目指していたが、2014年1月3日にこの世を去った。享年64歳。
その死は関西を中心に冠番組が放送されていた地域では衝撃を持って受け入れられた。
なお、東京嫌いで知られた氏であったが、皮肉にも亡くなったのは東京都内の病院であった。

死去が公表されたのは1月7日のこと。
これは生前「めでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で多くの人に悲しい思いをさせたくない」という本人の意向から。

彼の死後も冠番組はそのまま続いていたが、テレビ大阪の『たかじんNOマネー』以外は番組名から「たかじん」を外し、NOマネーは2015年に放送を終了した。
一方で、『たかじんのそこまで言って委員会』も2015年に『そこまで言って委員会NP』と「たかじん」の名を外しつつも、番組自体は続いている。

死去後、百田尚樹の『殉愛』で一騒動起きたのは周知の事実。*11


生前のエピソード

  • 大相撲春場所開催期間中、多くの幕内力士と飲みに出たが飲みに行った幕内力士がただ一人の例外もなく、全員怪我で休場に追い込まれた。
  • 話のタネにと訪れたぼったくりバーに入店したものの、ぼったくりで要求された金額が予想以下のものだったために激昂して相手の要求額を大幅に上回る金額を支払い、店側を逆にひれ伏せさせた。
  • あるホテルのディナーショーの形式に不満を持ち、キャンセルをしたが違約金600万円を請求された。
    これに対して「上等やないか!」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。
    この対応にホテル側は大慌て。対応策を示して何とかディナーショーを開催することが出来た。
  • 京都会館でコンサートを開いた時のこと。
    ステージ上にはタバコと水割りを用意し、水割りが無くなるとボーイが取りに行くという形式で、代表曲が殆どなかった当時は延々としゃべり続けた。
    その状況が延々と続いたために演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、
    楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、数年出入り禁止になった。
  • 北新地の本通りでストリートライブを開いていたミュージシャンを「下手じゃ!」と殴ってギターを取り上げ、ストリートライブを始めた。しばらくして偶然通りかかった金村義明を呼びつけて2人で『ゆめいらんかね』のサビだけを10分ほど歌い続けた。最終的にチップが30万円ほど集まり、それを殴ったストリートミュージシャンに全額渡して帰っていった。
  • 大阪にある旭食品の「旭ポンズ」を愛好しており、冠ラジオで「旭ポンズを使ったら他のポン酢は食えん」と発言したことがきっかけで一気に売上を伸ばし、たかじんのお別れ会でも記念品として配布された。
    現在の製品はカルピス式のキャップ構造だが、これもたかじんの要望から生まれたもの。
  • 自身のレギュラーラジオ番組にて、音楽グループ「ECHOES」がゲスト出演した際、ボーカルの辻仁成の横柄でやる気のない態度*12に、
    「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろ!」とブチ切れて、録音を強制終了させ譜面台を投げつける等、騒然となった*13
    この一件は当時梅田の阪神百貨店にあった松下電器のショールームからの公開録音中に起きた出来事のため、大勢の観客がその様子を目撃していたが、
    観客からは非難されるどころか拍手喝采だったという。
    また、ラジオにはアシスタントとして頭に注射を打った泰葉も出演していたが、泰葉も止めるどころか「やっちゃってください」とたかじんを煽っていた。
  • 東京進出の際に、深夜番組『M10』にて番組スタッフのミスが原因とはいえ常軌を逸したレベルで激昂して番組を破壊した過去がある。*14
  • 顔が吉本新喜劇ポット帯谷孝史にそっくりであり、両者対面の企画が行われたこともある。
  • ご存知の通り宝塚歌劇団は女性しか入れないが、その宝塚歌劇団の公演に男性でありながら出演できた唯一の人物。もちろんこれには理由があり、鳳蘭から直々にオファーを受けたためである。


作品

歌手としての代表曲

  • やっぱ好きやねん
  • ゆめいらんかね
  • 大阪恋物語
  • 東京
  • 最初から今まで(「冬のソナタ」の主題歌の和訳カバー)
  • そのときの空
  • 砂の十字架


代表的テレビ番組

  • たかじんnoばぁ~(よみうりテレビ)
  • たかじんのそこまで言って委員会(よみうりテレビ)
  • たかじん胸いっぱい(関西テレビ)
  • たかじんNOマネー(テレビ大阪)




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最終更新:2024年11月30日 07:00

*1 たかじんと双璧をなす存在として知られた上沼恵美子でさえ、テレビ大阪でのレギュラー番組を持ったことがない。但し上沼は氏の嫌っていたNHKの番組に数多く出演しており、1994・1995年には紅白歌合戦の司会も担当している。

*2 このことは死後初めて公表された。

*3 息子に「隆仁」という名前を付けたときも、「たかひと」だと天皇家を想起させて畏れ多いため「たかじん」という読み方にしたと言われている。

*4 両親のことを嫌っていたといわれるくらいに、たかじんの人生に多大な影響を与えていると思われる。

*5 彼と似たような歌手で同じく大阪出身の円広志がおり、共演の機会も多かった。

*6 大阪弁で「何にでも口をはさむ人、首を突っ込みたがる人」の意。

*7 中でも開明製のポインターを気に入っていたらしく、毎回収録時には叩いて折れ曲がった時の予備を用意して臨んでいたという。

*8 代表的な人物としては桂ざこば、大竹まこと、トミーズ雅など。なお、ざこばに関しては後に和解済み。

*9 但し、東京都以外の関東地方の独立局が番組購入してネットすることは咎めていなかった。

*10 のちに秋元は当時の状況を振り返り「たかじんさんはこだわりの強い人なので、満足させる歌詞を出すのは至難の業」と語っている。

*11 百田尚樹は「そこまで言って委員会」にも頻繁に出演していたが、実はたかじんが療養生活に突入し司会が辛坊治郎に代わった頃に有名になり始めたため、彼自身はたかじんとは接点がさほど無かった。かねてより家庭環境に問題があるとされてきたたかじんだったが、それを百田に食い物にされたともいえる。まぁ、火のない所に煙は立たぬともいうが…。

*12 質問されても無視したり、「CD買ってもらえば分かります」としか答えない等

*13 後年、辻はたかじん死去報道に際しこの件に触れ、当時の自分が若気の至りであのような行動に出ていたことを反省するコメントを発表している。

*14 後に味の素騒動と呼ばれる。