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災害と障害者・病者:東日本大震災
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東日本大震災 障害者関連報道 2011年10月
3月
/
4月 1(1〜10日)
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4月 2(11〜20日)
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4月 3(21〜30日)
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5月
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6月
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7月
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8月
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9月
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11月
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12月
災害と障害者・病者:東日本大震災
作成:
有松 玲
last update:20111108
*以下については別頁にも記事掲載されています。
◆
人工透析
◆
ALS
◆テレビ報道
◆救援活動の写真
https://picasaweb.google.com/107166457718666569802
「マスコミや各団体の広報等に活用できるように下記のURLに救援活動の写真をUPすることにしました。ご自由にダウンロードしてお使いください。」とのことです。
■
新聞記事見出し
◆2011/10/31
災害時の障害者支援考える、80人参加し多摩市民館でシンポ/川崎
カナロコ 2011年10月31日
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110310030/
◆2011/10/31
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(7完)見えない影/原発事故、動けぬ家族
河北新報 2011年10月31日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-38.html
◆2011/10/30
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(6)遠い再建/病床減難民化の懸念
河北新報 2011年10月30日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-37.html
◆2011/10/29
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(5)孤塁/慢性期病院、置き去り
河北新報 2011年10月29日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-36.html
◆2011/10/28
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(4)生命線/在宅介護、停電の恐怖
河北新報 2011年10月28日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-35.html
◆2011/10/27
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(3)届かぬ支援/復旧優先、対応後手に
河北新報 2011年10月27日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-34.html
◆2011/10/26
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(2)地域との絆/支えられ、避難2ヵ月
河北新報 2011年10月26日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-33.html
◆2011/10/26
災害避難 障害者ら訓練 震災時の課題探る
讀賣新聞 2011年10月26日
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20111026-OYO1T00655.htm?from=top
◆2011/10/26
震災時、障害者どう支援 神戸と仙台の担当者議論
神戸新聞 2011年10月26日
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004574248.shtml
◆2011/10/25
いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災 (1)道半ば/回復途上、津波の悲劇
河北新報 2011年10月25日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-32.html
◆2011/10/23
障害者犠牲 震災は人災 「きょうされん」が全国大会
しんぶん赤旗 2011年10月23日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-23/2011102314_02_1.html
◆2011/10/23
津波の対策 「5分で避難」の実現を
信濃毎日新聞 2011年10月23日
http://www.shinmai.co.jp/news/20111023/KT111021ETI090009000.html
◆2011/10/22
「多くの目に救われた」 視覚障害者、震災語る会
岩手日報 2011年10月22日
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20111022_7
◆2011/10/19
消防と共有2町だけ 仮設住宅のある県内14自治体
岩手日報 2011年10月19日
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20111019_5
◆2011/10/18
災害時「要援護者」の登録を開始 静岡市
静岡新聞 2011年10月18日
http://www.at-s.com/news/detail/100069513.html
◆2011/10/18
福祉避難所が県内で増加 39市町村267施設に
信濃毎日新聞 2011年10月18日
http://www.shinmai.co.jp/news/20111018/KT111017ATI090007000.html
◆2011/10/14
シンポジウム:人間の尊厳考えよう 震災と原発、日独の4氏議論−−高崎 /群馬
讀賣新聞 2011年10月14日 高知
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20111013-OYT8T01210.htm
◆2011/10/14
城山に3津波避難所
讀賣新聞 2011年10月14日 高知
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20111013-OYT8T01210.htm
◆2011/10/10
中村区でシンポ 震災被災者語る
朝日新聞 2011年10月08日 MY TOWN 愛知
http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000001110110005
◆2011/10/08
震災関連死、審査会設置へ…宮城県と仙台市
讀賣新聞 2011年10月08日
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=48422
◆2011/10/06
避難の現場から:東日本大震災 福島の障害者施設入所者、「鴨川青年の家」で半年
毎日新聞 2011年10月06日 朝刊
http://mainichi.jp/life/health/fukushi/news/20111006ddm041040153000c.html
◆2011/10/05
「都会みたいな仮設住宅」…進まぬ災害弱者把握
讀賣新聞 2011年10月05日
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111004-OYT1T00001.htm?from=navr
◆2011/10/05
東日本大震災:原発避難者の証言/中 自閉症の長男らと招待受け広島へ /広島
毎日新聞 2011年10月05日 地方版
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20111005ddlk34040577000c.html
◆2011/10/05
県地震・津波対策委:「福祉避難所、設置を」 障害者ら支援で委員−−会合 /岡山
毎日新聞 2011年10月05日 地方版
http://mainichi.jp/area/okayama/news/20111005ddlk33040527000c.html
◆2011/10/04
高齢者らの避難に岡山県積極関与を 地震・津波対策専門委
山陽新聞 2011年10月04日
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011100422520339/
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◆2011/10/31
災害時の障害者支援考える、80人参加し多摩市民館でシンポ/川崎
カナロコ 2011年10月31日
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110310030/
「東日本大震災を振り返り、災害時の障害者支援などを考えるシンポジウムが31日、川崎市多摩区の多摩市民館で開かれた。市民や福祉施設関係者、障害者ら約80人が参加し、災害時に求められるサポートなどについて探った。
市内の障害者支援団体などでつくる川崎市障害者地域自立支援協議会の主催。支援団体や行政などさまざまな立場から、今からできる備えや体制づくりは何かを考える狙い。被災地で安否確認や健康相談などに従事した支援団体代表や市職員がパネリストを務め、課題などを報告した。
相談専門員として支援にあたった「かながわ障がいケアマネジメント従事者ネットワーク」理事長の冨岡貴生さんは、宮城県石巻市などでの全戸訪問や障害者の権利擁護支援活動を紹介。「震災時は地域に助けてもらうことがたくさんあり、日ごろから関係をつくることが必要。地域住民の障害者への理解は欠かせない」などと述べた。
NPO法人らぽおる代表理事の北川千鶴子さんは、4月から10月にかけて、施設の障害者も参加して、個人宅の片付けや仮設住宅への引っ越しを手伝ったことなどを報告。「これからも被災者と気持ちでつながり、支援を忘れずに続けていきたい」と語った。」(全文)
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◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(7完)見えない影/原発事故、動けぬ家族
河北新報 2011年10月31日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-38.html
「「数値を見るのが怖いな。低いといいけど...」
10月下旬、須賀川市の車谷晴美さん(48)は市から貸与された放射線量計を手に、少し不安そうな表情で測り始めた。
傍らのベッドには、長女の侑子さん(21)が横たわっている。2003年10月、中学校の柔道部の練習で無理な投げ技を掛けられ、頭を強打した。今も意識が戻っていない。私たちは昨年12月に始めた連載の1回目で、遷延性意識障害になった侑子さんの介護の現実を取り上げた。
線量計は「毎時0.17マイクロシーベルト」を示している。「『ホットスポット』は、もっと高いですよ」。庭の雨水升に近づけると、数値は「0.4」以上になった。「でも、須賀川は低い方です」。晴美さんが説明した。
東日本大震災と原発事故に見舞われた福島県。震災から7カ月が経過した今も、晴美さんのような一般の市民ですら線量計を手にし、専門用語が当たり前のように口をつく。
<入院で救われる>
侑子さんは震災発生の3日前まで約2週間、急性肺炎で入院していた。発生翌日、原発で最初の爆発が起きた。本調子でない侑子さんの世話と、屋内退避を繰り返し呼び掛けるニュース。晴美さんは数日間、一歩も外に出られなかった。
窓越しに外を見ると車が走っておらず、人の気配もない。物音もない。「近所の人は、みんな避難したんだろうか」。夫も息子もいない日中は、侑子さんと世界に2人だけしかいないような感覚に襲われた。
訪問看護は震災翌日にストップした。地震直後に駆け付けてくれたヘルパーたちも、1日5回の訪問が少しずつ減っていった。1週間後、「ガソリンがない。明日から行けません」と告げられた。
原発事故は収束の気配すらない。避難区域は広がり続けていた。「この先ずっと、ヘルパーは来られないのではないか。医師も看護師も、いなくなってしまうのではないか」。晴美さんは本気で心配した。
体調が悪化した侑子さんを、市内の病院が受け入れてくれた。入院できなければ、物も人も不足していた一番厳しい時期を乗り切れただろうか、と思う。
<深まる孤独の色>
郡山市や須賀川市など中通り地方の医療機関や福祉施設に、原発周辺の浜通り地方から大勢が移ってきた。「避難しろと言われてもたぶん、どこにも行けなかった」。侑子さんの引受先がほとんどない状況は、今も変わらない。
「お姉ちゃん(侑子さん)と、ここ(自宅)にいるしかないね」。晴美さんは、侑子さんを見やりながらつぶやいた。
「先が見えない」
「いざという時、どうすればいいのか」
晴美さんが口にした思い。それは、私たちが侑子さんの介護について取材を始めた昨年夏、「無我夢中で介護を始めたころの気持ち」として聞いた言葉と同じだった。
長い時間をかけ、ようやく軌道に乗りかけた介護生活は、震災で「日常」から再び「非日常」へと逆戻りした。
放射能という見えない影が、家族の孤独の色を濃くしている。
(「いのちの地平」取材班)=第6部は12月に掲載します」(全文)
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◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(6)遠い再建/病床減難民化の懸念
河北新報 2011年10月30日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-37.html
「4階の病室に再びベッドが運び込まれた。部屋を占拠していた調理器や給湯器は姿を消した。
石巻市の旧北上川河口にある石巻港湾病院。津波で1階天井まで浸水したが、私たちが訪れた9月下旬には応急復旧を遂げていた。
「厨房(ちゅうぼう)室や外来診察室のある1階の改修がようやく終わりました」。マネージングディレクターの間山文博さん(51)は感慨深そうに語る。
震災当時は132人が入院していた。療養病棟にいたのは、全介助の必要な重い意識障害の高齢者がほとんどだった。
停電が解消したのは3月19日、断水が復旧したのは4月15日。病院はその間も、現地で医療を提供し続けた。
1階にあった設備を2階以上に移し、4月上旬に外来を再開した。震災直後、石巻市内の特別養護老人ホームに避難させた患者も、4月下旬には病院に戻した。
「ついのすみかとして入院した患者さんもいる。知らない病院に転院させるのは心苦しかった」
院長の石田秀一さん(67)が、思いを語る。
<進む縮小と再編>
沿岸部には、療養病床のある病院が点在、在宅介護の難しい高齢者を受け入れていた。大津波の直撃を受け、石巻港湾病院のように機能を維持できた病院は数えるほどしかない。
津波が4階まで達した宮城県南三陸町の公立志津川病院。3月14日までに患者の搬送を終え、病院を閉鎖した。
全126床のうち、療養病棟は50床。私たちが実施した遷延性意識障害者の実数調査で、該当者として回答した「20人」のうち、生存者はわずか2人だった。
志津川病院は床ずれや栄養管理に気を配り、関節が固まるのを防ぐマッサージを土日も施していた。看護と介護の質の高さは地域で評判だった。
現在の入院機能は登米市立よねやま診療所に間借りする39床。療養病床は12床に縮小した。「5年以内の病院再建を目指すが、具体的な場所や規模は決まっていない」と病院は説明する。
被災地では、震災を機に療養病床の見直しが進む。40床あった石巻市立雄勝病院は入院機能のない診療所に縮小。98床の半分が療養病床だった女川町立病院も、一般病床19床の診療所と介護老人保健施設に再編される。
<在宅介護困難に>
療養病床に患者を送り出す側の総合病院には影響がないのだろうか。10月中旬、私たちは石巻地域最大の総合病院、石巻赤十字病院を訪ねた。ロビーに患者があふれた震災直後の混乱は収まり、通常の医療体制に戻っている。
地域医療連携室の高橋斐美さん(29)は「急性期を脱した患者は被災状況を考慮し、内陸部の医療機関などに優先的に受け入れてもらっている」と現状を説明する。
石巻地域では、自宅2階や仮設住宅での生活を余儀なくされ、在宅介護が困難な世帯が増えた。介護を担っていた家族を失った患者もいる。
「石巻地域では震災前から療養病床が圧倒的に少なかった。将来的に転院先不足が深刻化する心配はあります」
高橋さんが口にした不安の先に見えるのは、震災を引き金にあふれる「医療難民」の姿だ。」(全文)
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◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(5)孤塁/慢性期病院、置き去り
河北新報 2011年10月29日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-36.html
「「水面が普段より2メートルぐらい低く見えた。これはただごとではないと思った」
石巻港湾病院(石巻市)のマネージングディレクター間山文博さん(51)は、病院の前を流れる北上川を見下ろし、7カ月前の緊迫した日々を思い起こしていた。
北上川の河口からわずか1キロ。本震の約30分後、5階建ての病院に大津波が押し寄せた。
<津波の犠牲なし>
私たちが震災後、この病院を訪ねたのは理由がある。昨年末、遷延性意識障害者の実態調査を行った際、病院は患者を「26人」と回答していた。自分で動けない人たちをどのように避難させたのか、知りたかった。
当日の入院者数は132人。2階の療養病棟に入院していた46人は、ほとんどがたんの吸引など医療的ケアが必要な患者で、意思疎通ができるのは4、5人だった。
病院の判断は早かった。本震が収まると、すぐに上階への避難が始まった。看護、介護、事務スタッフ約80人が、担架、マットレスに患者を乗せて階段を駆け上がった。間山さんはとにかくスタッフを急がせた。
「停電でエレベーターは使えないし、患者は全介助が必要な高齢者ばかり。このままでは間に合わないと思い、シーツや毛布に乗せて避難するよう指示した」
2階からの避難が終わるのとほぼ同じころ、津波が到達した。最終的に水位は1階天井まで達したが、津波による犠牲者は出さずに済んだ。
5階の食堂に避難した患者は51人。ほとんどが療養病棟から運ばれた寝たきりの高齢者だった。窓の外は吹雪。暖房器具はない。マットレスを敷いた床に患者を横並びに寝かせ、ありったけの毛布を掛けた。
「点滴、おむつ、食料、水。全て不足していた」。看護部長の庄司正枝さん(44)が振り返る。
深刻だったのは、停電でたんの吸引器が使えなかったことだ。庄司さんらスタッフは機転を利かし、注射器とカテーテルを代用してたんを吸い取った。しかし、寒さと水分不足でたんが次第に硬くなる。吸引が思うようにできない。
病院は震災翌日から市役所や消防、警察などに窮状を訴えたが、「われわれも孤立している」「自立してほしい」とまともに応対してもらえなかった。公的機関は機能不全に陥っていた。
日を追うごとに蓄えは減る。孤立感が増した。「うちの病院が医療を続けていることすら知られていないのではないか」。院長の石田秀一さん(67)は不安を打ち消しながら、体調を崩す患者たちの治療を続けた。
<死者通常の3倍>
3月14日、最初の支援物資が届いた。東京と北海道の系列病院からだった。市内の災害支援拠点から初めて物資が届いたのは、震災8日後の19日だった。
多くの寝たきりの高齢者が入院していた慢性期病院は震災直後、公的支援から置き去りにされた。石田さんは今、そんな思いを捨てきれない。
「報道を見ても分かるように、世の中の関心は規模の大きい救急病院に向いていた」
石巻港湾病院では3月、20人が亡くなった。通常の月の3倍近かった。」(全文)
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◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(4)生命線/在宅介護、停電の恐怖
河北新報 2011年10月28日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-35.html
「今月5日、気仙沼市の写真スタジオ。1年遅れの七五三の撮影は、穏やかな秋の日が差し込む下で始まった。羽織はかま姿の男の子が、小さなベッドに横たわる。首元から伸びる人工呼吸器の管は命を支える「生命線」だ。
難病のミトコンドリア病と闘う気仙沼市の川口倹司ちゃん(5)。数え年で5歳になった昨年は呼吸器を付けたばかりだったため、記念撮影を見送っていた。
震災を乗り越え、七五三を祝うことができる幸せを、母親の清美さん(44)はかみしめた。
ミトコンドリア病は国指定の特定疾患。細胞の中でエネルギーをつくる働きをするミトコンドリアの機能が落ち、脳や心臓などに異常を来す。倹司ちゃんは自発呼吸が難しく、重い意識障害もあり、全介助が必要だ。
<呼吸器どうなる>
3月11日、激しい揺れに襲われたとき、清美さんは買い物先のスーパーにいた。大渋滞を避けて裏道を通って自宅にたどり着くと、長女の気仙沼西高2年、安耶香さん(16)が涙を浮かべ、倹司ちゃんのベッド脇で途方に暮れていた。
「お母さん、電話がつながらない。電気も止まった。どうしよう...」
海から自宅までの距離は約1キロしかない。清美さんは、子どもたち4人を近くの階上中に避難させ、倹司ちゃんと2人で自宅に残った。
保健所から説明されていた災害マニュアルの対応は「救急車を呼ぶ」だった。しかし電話は何度かけてもつながらない。呼吸器は内蔵バッテリーに切り替わったが、いつまで持つのか分からない。
「高台に避難してください」。消防車のスピーカーの声とサイレンが響く。「流されるかもしれない」。余震と津波の恐怖に襲われた。
何度目の119番だっただろうか。午後3時半すぎ、ようやく電話がつながった。救急車に乗り込み、気仙沼市立病院に到着したのは午後5時ごろ。津波は自宅の300メートル手前まで押し寄せた。
清美さんは「停電や電話が通じないとき、どうすればいいのか。在宅の家族はみんな不安を抱えている」と訴える。
<災害対策示さず>
「メニューはそろっているが、いつも品切れ」。私たちが、遷延性意識障害の患者を在宅で介護する家族から耳にしたのは、制度は名ばかりで、医療・福祉サービスの提供が整わない現場の実情だった。
厚生労働省は2012年度、「在宅医療推進室」に専任の室長を配置して体制強化を図る方針だ。医療・介護の連携を密にして、在宅医療の推進や支援に取り組むという。
しかし、停電した場合の医療機器の電源、避難誘導など災害対策に関しては、「これから検討する」(厚労省医政局)と答えるにとどまる。
東日本大震災では、倹司ちゃんをはじめ、重度の意識障害者を在宅介護する家族が身動き取れず、孤立無援の状態に追い込まれた。明確な災害対策を示さず在宅医療推進をうたっても、被災地ではむなしく響く。
「けんけんのはかま姿、じぃじとばぁばにも見せたかったね」。清美さんは倹司ちゃんの耳元で優しく語り掛けた。
羽織はかまは、陸前高田市の祖父母からのプレゼントだった。いつも孫の病状を心配していた2人は、震災で帰らぬ人になった。
「子どもたちをよろしくね」。震災前日、電話口で「ばぁば」が話した最後のひと言を、清美さんは鮮明に覚えている。」(全文)
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◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(3)届かぬ支援/復旧優先、対応後手に
河北新報 2011年10月27日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-34.html
「玄関の間口はわずか50センチだった。石巻市に建設された応急仮設住宅。荷物を持っていると、大人でも出入りに苦労する。
<車いすは通れず>
重い意識障害があり、全介助の必要な石巻支援学校中学部1年の新田綾女(あやめ)さん(13)は、7月末から家族4人でこの仮設住宅に暮らす。
綾女さんが使っている車いすの幅は58センチ。玄関は通れないので、車いすよりも2センチ広い居間の窓から出入りする。
9月下旬、私たちが仮設住宅を訪ねると、綾女さんが学校から帰宅したところだった。母親の理恵さん(41)が車いすを押す。9月中旬に居間の窓に取り付けられたスロープを登り、3回前後させて室内に入った。
玄関側にも、建物の完成当初に設置されたスロープがある。幅120センチ。玄関の間口と不釣り合いなほど広い。「スロープがあれば車いすを使うと考えるのが自然だと思うんですが...。役所も建設会社も玄関が狭いと思わなかったのでしょうか」。理恵さんが素直な疑問を口にした。
新田さん一家は震災で自宅が浸水し、親戚宅に身を寄せた。障害者や高齢者対象の優先枠で仮設住宅の入居を申請したが、抽選に10回漏れた。ようやく入居できた新居では、狭い玄関や段差のある風呂場など介護を阻む障壁が待ち受けていた。
<交流仲間が物資>
新田さん親子ら「石巻重症心身障害児(者)を守る会」は7月下旬、石巻市役所を訪れ、仮設住宅のバリアフリー化などを求める要望書を亀山紘市長あてに提出した。重い意識障害があり、石巻市湊小の避難所に身を寄せた伊勢知那子さん(14)と、母親の理加さん(44)も一緒に出向いた。
「復旧、復興作業が落ち着いてからになると思いますが...」。応対した市幹部の言葉は、障害者への支援は後回しになるとも受け取れた。
「もっと待たなければならないの?」。理恵さんは回答に落ち込んだ。居間の窓にようやくスロープが付いたのは、要望の1カ月半後だった。
守る会は、市の災害時のマニュアル作りに重度の障害児・障害者の意見を反映させることも求めた。「障害者の生活目線なら、必要な支援がどのようなものか、行政職員にも理解してもらえる」と考えた。
綾女さんら被災地の障害者には、携帯電話のつながり始めた震災1週間後から、経管栄養のパック、たんの吸引用のチューブ、子ども用のおむつなど、不足していた物資が次々と届いた。送り主は、日ごろから交流している保護者仲間、医療機関、障害者支援団体などだった。
一方、被災した自治体は一時、機能不全に陥った。落ち着きを取り戻した後も復旧対応に忙殺され、災害弱者に十分な公的支援の手を差し伸べることはできなかった。
今は石巻市内の借り上げ仮設住宅に住む伊勢理加さんが、震災後の生活を振り返って話す。
「避難後の支援や配慮が届かず、苦労を強いられたり、命を落としたりすることがあれば、それは人災です」
石巻市は現在、復興計画の策定を進めている。災害対策に絡み新田さんや伊勢さんの意見を聞きに訪れた職員はいない。」(全文)
>TOP
◆いのちの地平「植物状態」を超えて 第5部=震災(2)地域との絆/支えられ、避難2ヵ月
河北新報 2011年10月26日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-33.html
「最大で1300人が避難した石巻市の湊小。重い意識障害のある湊中3年伊勢知那子さん(14)の家族5人も約2カ月間、ここで生活した。
自宅は石巻港から約1キロの距離にある。3月11日、地震の揺れが落ち着くと、家族は車で300メートルほど山手にある湊小に向かった。父親の直弘さん(51)が車いすを校舎に運び入れた時だった。黒く濁った泥水が校舎1階の階段に押し寄せた。
知那子さんは、妊産婦や乳幼児がいる家族たち約30人とともに3階の相談室に身を寄せた。たんの吸引など医療的ケアが必要な重い意識障害者は知那子さんだけだった。「1人分のスペースは1畳もなかった。カーテンや大漁旗を掛けて寒さをしのぎました」。母親の理加さん(44)が避難当初を振り返る。
<同級生が見守る>
3月13日、自衛隊のヘリコプターで知那子さんを石巻赤十字病院(石巻市)に搬送してもらったが、翌日には避難所に戻された。病院は次々と運ばれる患者であふれ、治療を終えた患者が入院できる状況でなかった。
自宅は2階まで浸水した。「電気も水もない。道路も電話もだめ。これでは生きられない」。絶望感で心を締め付けられた家族を支えたのは、地域の人たちだった。
知那子さんは生後11カ月の時、離乳食をのどにつまらせ、低酸素脳症に陥った。直弘さん、理加さんは「同年代の子どもと接するのが最良の教育環境になる」と考え、特別支援学校ではなく地元の湊小、湊中に進学させた。知那子さんの表情は豊かになった。学校行事を通じて、多くの住民とも知り合った。
その経験が、避難所生活で生きた。知那子さんに付きっきりの家族に代わり、地域の人が食事の支給に並び、洗濯を手伝ってくれた。真夜中のたんの吸引も「気にしないで」と見守ってくれた。
「知那ちゃんは大丈夫?」と、いつも体調を気に掛ける同級生たちがいた。理加さんは「避難した子どもたちも不安でいっぱいだったと思うが、それでも一番危うい命だと知那子を気遣ってくれた」と感謝する。
<行き場失う家族>
障害児や障害者を抱える家族はどのような避難生活を送ったのか。私たちは、支援に奔走した宮城県拓桃医療療育センター(仙台市太白区)の小児科医、田中総一郎さん(47)を訪ねた。
「知那子さんのように避難所で生活できたのは極めてまれ。避難所の入所を断られる例もあったと聞いている」と、田中さんは話す。
多くの障害児、障害者は居住する地域とのつながりが薄く、孤立しがちだ。やむなく車中や子どもたちの状況をよく知る特別支援学校などで生活した人もいるという。「在宅介護する家族と地域の人たちが互いに存在を確認し合うことの重要性が、今回の震災で明らかになった」
震災から半年となった9月11日、湊小でピアノコンサートが開かれた。避難所を出て、今は市内の借り上げ仮設住宅で暮らす伊勢さん家族も、地域の人たちに誘われて久しぶりに訪れた。
お気に入りのアニメの合唱曲にほほ笑む知那子さん。「ここは、弱い命をつないでもらった人たちと過ごした大切な場所なんです」。理加さんの瞳から涙がこぼれた。」(全文)
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◆災害避難 障害者ら訓練 震災時の課題探る
讀賣新聞 2011年10月26日
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20111026-OYO1T00655.htm?from=top
「さまざまな障害を持つ人たちが、泊まり込みで行う災害避難訓練が28、29両日、大阪市内で開かれる。東日本大震災では、集団生活に適応しにくい知的障害者がやむなく避難所を出たり、聴覚障害者が炊き出し情報を得られなかったり、多様な問題が明らかになった。課題を洗い出し、どんなサポートが必要かを考える全国的にも珍しい試み。避難の難しさは高齢者にもあてはまる問題で、専門家は「訓練はぜひ、各地に広がってほしい」と期待する。
同市城東区の障害者団体など20団体でつくるNPO法人「地域自立支援推進協議会JOTO」が区役所の協力を受けて計画。知的障害者や車いすの人、視覚、聴覚障害者や施設の職員ら約100人が参加する。
参加団体の一つ、社会福祉法人「そうそうの杜もり」は、職員ら延べ約40人を被災地・宮城に派遣。避難所や仮設住宅の支援活動中、多くの困難を見聞きした。
▽知的障害を伴う自閉症の人が、環境の変化でパニック状態になって避難先で騒ぎ、他の避難者の苦情を受けて家族ぐるみで車中で過ごした▽家の中や街が一変し、視覚障害者が避難先まで移動できなかった――。
「日頃から自分ができること、できないことを想定し備えなければ」と、荒川輝男・そうそうの杜理事長は痛感したという。
訓練は、マグニチュード9の大地震が発生、電気、ガス、水道が途絶したとの想定。参加者は、市立城東小に避難、アルファ米など非常食を食べ、毛布だけで体育館や校舎の廊下で寝る。簡易トイレも使う。
参加者の一人で、車いすで生活するNPO職員間之口健市さん(32)は、「避難時に僕にはどんな手助けが必要なのか、どういうことなら人の役に立てるのか理解したい」と話す。
判明した問題や対策案を地域防災計画に反映するよう市などに働きかける。
新潟大学災害・復興科学研究所の田村圭子教授(災害福祉)の話「障害者は個人によって課題が異なるため、事前に問題を明らかにすることは画期的。結果は全国に発信し、取り組みを広めてほしい」」(全文)
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◆震災時、障害者どう支援 神戸と仙台の担当者議論
神戸新聞 2011年10月26日
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004574248.shtml
「大震災の発生時、障害者をどう支援するかを話し合う会合が25日、神戸市中央区雲井通5の市勤労会館で開かれ、仙台市障害者福祉協会と神戸市社会福祉協議会の職員らが、現場での経験や今後に向けた課題などを意見交換した。
地域でお年寄りや障害者らの生活支援などを続ける「KOBE在宅ケアボランティアグループ ほほえみ」などが主催。同グループの結成30周年の企画で、市民ら約70人が耳を傾けた。
東日本大震災の被害状況や神戸からの支援の取り組みが紹介された後、仙台市障害者福祉協会の渡辺純一さんが、震災時の障害者支援の実情について話した。
震災後、仙台の住民らは学校などに避難し、生活に特別な配慮が必要な障害者や高齢者は福祉施設などに「2次避難」した。渡辺さんは「本当に支援が必要な人を対象に、専門職員による健康管理ができた」とする一方、「普段は通所施設のため機能に限界がある」などの課題も指摘した。
「個人情報保護法があり、障害者全体を把握するのは困難」などの意見も出され、神戸市肢体障害者福祉協会の泥可久副理事長は「障害者自身も『自分の命は自分で守る』という意識を普段から持つべきでは」とした。
(安福直剛)」(全文)
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◆いのちの地平 「植物状態」を超えて 第5部=震災 (1)道半ば/回復途上、津波の悲劇
河北新報 2011年10月25日
http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-32.html
「松島湾に浮かぶ島々を望み、波音の聞こえる海岸沿いに施設はあった。3月11日。大津波が襲った。
東松島市の特別養護老人ホーム不老園。入所者と通所利用者計59人のうち、55人が死亡、1人が行方不明になった。
<文字盤で会話も>
東松島市の西ケ谷秀美さん(32)も、施設から避難中に命を落とした。意思疎通が難しく、全介助の必要な遷延性意識障害を脱却し、ショートステイを利用していた。
私たちが秀美さんの妻圭子さん(38)と最初に連絡を取ったのは、震災半年前の昨年9月だった。在宅介護の実情を聞こうとしたが、都合が合わず、秀美さんには会えなかった。
「地震と縁があったのでしょう。宮城県沖地震の日に生まれ、今回の地震で逝ってしまった」。1年ぶりに会った圭子さんは、静かに語った。
秀美さんは2000年12月、交通事故で意識不明の重体に陥った。結婚からわずか8カ月。新婚生活は一変した。
「意識を取り戻す見込みはない」と、搬送先の医師は宣告した。しかし、秀美さんは回復する。事故の2年後に転院した「東北療護センター」(仙台市太白区)でリハビリを続け、自分で食事をし、文字盤を使って会話ができるまでになった。
05年、今度は次男の翔君(11)が難病の潰瘍性大腸炎と診断される。圭子さんは一時、二つの病院を行き来する生活を続けた。
06年からは秀美さんの在宅介護を始めたが、その準備は全くの手探りだった。若い中途障害者を受け入れる施設を市役所に相談しても、担当者は「分かりません」と繰り返した。ようやくたどり着いたショートステイ先が、不老園だった。
「不老園一のイケメン」。30代の秀美さんはそう呼ばれ、施設の職員やお年寄りに愛された。
<遺体、車内で発見>
あの日、本震が収まると、職員は利用者の避難に取り掛かった。最後に秀美さんと会話したのは、施設に勤務する伯父の大泉照男さん(62)だった。秀美さんは防寒頭巾をかぶり、車いすでホールに待機していた。
「『これからドライブか?』と冗談を言うと、いつも通りにこっと笑った。それが最後になってしまった」と涙ぐむ。
不老園から指定避難所の野蒜小(東松島市)まで2キロ弱。職員は車10台以上で搬送した。しかし、全介助が必要な利用者の乗り降りに手間取ったり、渋滞で足止めされたりして、避難は遅々として進まない。
本震から約1時間後、3メートルの大津波が不老園も野蒜小も、のみ込んだ。
秀美さんは震災翌日、野蒜小の校門近くの車内で発見された。圭子さんは秀美さんの両親と遺体安置所を回り、5日後にようやく対面した。
「いつもの秀美君でした。交通事故の時はひどいけがだったけど、息をしていないのが不思議なくらい奇麗なままでした。それがせめてもの救いです」
遺体安置所を捜し回る車中。秀美さんの母親の恵美子さん(59)が掛けてくれた言葉が、圭子さんの胸に残る。
「『一生、植物状態』と言われた秀美を見捨てず、一緒にいてくれてありがとうね」
津波の襲来、大規模停電、物資不足、放射能汚染...。東日本大震災は、周りの支えがなければ生きていけない重い意識障害者とその家族を、さらなる苦境に追い込んだ。あの日、そして震災後の日々、家族や医療スタッフは現実とどう向き合ったのか。私たちは介護の現場を再び訪ねた。(「いのちの地平」取材班)=第5部は7回続き」(全文)
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◆障害者犠牲 震災は人災 「きょうされん」が全国大会
しんぶん赤旗 2011年10月23日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-23/2011102314_02_1.html
「「人が大切にされる社会・地域づくりをはじめよう」をテーマに障害者の共同作業所、グループホームでつくる全国組織「きょうされん」第34回全国大会が22日、大津市で開かれました。2日間の日程。北海道から沖縄まで2500人が参加しました。
きょうされん滋賀支部のなかまによるハンドベル演奏やテーマソング「夢のしずく」の合唱で、盛大に幕を開けました。
西村直理事長と実行委員長の蔭山孝夫氏(滋賀県中小企業家同友会代表理事)があいさつしました。
政府の障がい者制度改革推進会議議長代理の藤井克徳きょうされん常務理事が基調報告。東日本大震災で多くの障害者が犠牲になったことを指摘し、「天災ではなく人災であり、国の政策面の備えが必要です」とのべました。被災地の「復元」にとどまらず、誰もが住みやすい新しい地域へ新たな運動を広げようと訴えました。また、6月に改正された障害者基本法の前進面と問題点を報告しました。
大震災で被災した福島、宮城、岩手からの各代表が現地の状況を報告しました。
「生きながら生まれ変わる」と題して歌手の米良美一氏が講演しました。」(全文)
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◆津波の対策 「5分で避難」の実現を
信濃毎日新聞 2011年10月23日
http://www.shinmai.co.jp/news/20111023/KT111021ETI090009000.html
「地震が起きたら、5分で歩いて安全な場所へ逃げられること―。
東日本大震災を受け中央防災会議の専門調査会が掲げた、津波対策の目標だ。先ごろまとめた最終報告に盛り込まれた。
この目標は、全国共通である。東海・東南海・南海地震などでも早ければ5分ほどで、津波が押し寄せる可能性がある。
どうすれば数分で避難を終えられるのか。情報の伝達、避難の方法はもとより、日ごろのまちづくりから見直す必要がある。知恵を出し合いたい。
揺れを感じたら、人を気にせず一目散に高台に逃げて自分の命を守れ―。過去に大津波に遭ってきた三陸地方には「津波てんでんこ」の教えが伝わる。
だが今回の震災で、すぐに逃げた人は6割弱にとどまるとの調査結果がある。さまざまな事情から避難が遅れた人たちがいた。
警報が出ているなか、「高齢の母を置いていけない」と家に戻った人、足手まといになることを恐れ「もう年だから」と避難を拒んだお年寄り―。震災後に宮城県を訪ね取材するなかで、さまざまな事例を聞いた。
海に近い特別養護老人ホームでは、入所者を避難させようとして職員が津波にのまれた。住民の避難誘導にあたった警察官や、防潮堤の水門を閉めようとした消防団員。職務に忠実なゆえに命を落とした人たちがいる。こうした犠牲を繰り返してはいけない。
自力で動けない高齢者や障害のある人については、あらかじめ避難支援の方法を、綿密に決めておくことが大事になる。地域の協力が不可欠だ。
土地利用の規制にも踏み込む必要がある。福祉施設や病院を建てる際、海のすぐ近くはなるべく避けたい。高台への避難路や階段、津波のときに避難できるビルもきめ細かく整備したい。
津波が来るかもしれないときに海へ向かうのは危険すぎる。最終報告には、水門を遠隔操作で自動的に閉める方法などが提案された。ぜひ実現してほしい。
岩手県出身の平野達男復興対策担当相が、同級生が避難せずに津波で亡くなったことに言及した。乱暴な言い方が批判を受けたが、その前後の発言に心を留めたい。事例を全部一つひとつ検証し、次の震災に役立てることが課題―と述べている。政府は震災の避難行動の実態について、青森から千葉まで太平洋岸6県で大規模な調査に取り組む。丁寧に検証し、避難対策に生かしてもらいたい。」(全文)
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◆「多くの目に救われた」 視覚障害者、震災語る会
岩手日報 2011年10月22日
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20111022_7
「陸前高田市の朗読ボランティア「つばきの会」(滝本慶子会長)は21日、同市高田町の和野会館で、視覚障害者と震災の体験を語る会を開いた。押し寄せる波から逃げた体験や避難生活での苦労、不便な仮設住宅暮らしなど直面する問題が明らかになる一方、「生かされた命を大切に」「仕事を再開したい」と前向きな話も。迅速な避難態勢や仮設住宅での生活ケアなど災害弱者をめぐる課題への対応の必要性があらためて浮き彫りになった。
つばきの会メンバーと視覚障害者と家族約20人が参加。同市高田町ではり・きゅう、マッサージの治療院を営んでいた男性(71)は震災当日、妻(66)と近所の住民の誘導で高台に避難。がれきが引きずられる音や人の悲鳴が聞こえた。その場にも危険が迫り、さらに上を目指した。
すでに足首まで波が押し寄せる中、必死で逃げ、ロープで引き上げてもらい、フェンスを乗り越えた。男性は「周りにたくさんの人がいたからこそ、助けられた。多くの目に救われた。2人ではどうなっていたことか」と「あの日」を振り返った。
参加者からは「生かされた命なので頑張って生きようと思う」「避難所ではどんな情報でも欲しかった。ラジオが頼りだった」との声や、仮設住宅で暮らす人からは「玄関の段差が怖い。冬は特に心配だ」「誰に相談したらいいか分からない」との不安も聞かれた。
同会は視覚障害者向けに市広報を朗読したテープを送る活動を展開し、障害者と交流を深めてきた。震災で機材などを流失したが、6月に活動再開。滝本会長(75)は「有効な情報をもっと届けられるように行政とも連携し工夫したい」と今後を見据える。」(全文)
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◆2011/10/19
消防と共有2町だけ 仮設住宅のある県内14自治体
岩手日報 2011年10月19日
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20111019_5
「東日本大震災に伴う仮設住宅がある県内14市町村で、入居する要援護者の情報を消防署に伝えているのは山田、大槌の2町にとどまることが各市町村への取材で分かった。救急搬送に備え、部屋番号と世帯主名だけは提供したのが9市町村で、3市町村は全く情報を伝えていない。国の指針では情報共有が重要とされているが、個人情報保護の観点から消極的な自治体も。火災が起きやすい時期を迎え、現状では安否確認などで混乱が生じる恐れがある。専門家は積極的な情報提供の必要性を指摘する。
山田町は「緊急時などに役立てば」との理由から入居時に障害の程度や要介護度などを記入してもらった名簿を消防署に提供。大槌町は震災前から要援護者の情報を共有しており、どの仮設住宅に入居したかも伝えたという。
部屋番号と世帯主の情報を伝えているのは久慈、宮古、大船渡、陸前高田、遠野、一関、住田、岩泉、野田の9市町村。
情報を伝えていないのは釜石市と洋野町、田野畑村だった。
仮設住宅数が比較的少ない久慈市、洋野町、田野畑村などは「従来のつながりで状況を把握でき、緊急時も対応できる」などとする。
一方、住田町の鈴木玲総務課長は「消防団からも情報がなければどう動いていいか分からないと言われるが、どこまで出していいか難しい」と苦慮。釜石市の山田守防災課長も「緊急時でも個人情報を知られたくない方も多い。防災の枠組みの再構築は課題だが…」と頭を悩ませる。
【災害時の要援護者】 一人で避難するのが難しいなど、災害時の行動に支援を要する人。国の災害時要援護者の避難支援ガイドラインによると、要介護度者や障害者、一人暮らしの高齢者のほか、妊婦や乳幼児、外国人らが想定されている。」(全文)
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◆災害時「要援護者」の登録を開始 静岡市
静岡新聞 2011年10月18日
http://www.at-s.com/news/detail/100069513.html
「静岡市は17日、災害時に避難の手助けが必要になるとみられる「災害時要援護者」の登録の受け付けを始めた。対象者約12万人に対する調査を実施し、登録を希望した人を要援護者の台帳に記載し、地域の自主防災組織と民生委員に名簿と台帳を情報提供する。
登録は昨年策定した災害時要援護者避難支援プランに基づいて実施。高齢者や障害者らが安心して暮らせるよう、普段から地域が主体となって支援できる体制を目指す。登録を希望しない人は台帳に記載しない。
要援護者としてリストアップした12万人は、65歳以上の高齢者のみの世帯▽要介護認定を受けている人▽身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている人▽特定疾患の医療費助成認定を受けている患者▽乳幼児が3人以上いる世帯の世帯主―など。
高齢者世帯は来年4月から、民生委員の訪問による調査を行い、そのほかの対象者には申請書を送付などする。条件外でも不安を感じる希望者は市に申し出れば登録することができる。
希望者を載せる台帳には氏名や家族構成、自主防災組織名などを記入。地域の中で、普段の生活で見守ったり、災害時に支援したりする人を決めていく。
福祉総務課は「地震や台風など災害の種類に関係なく、日常的に支え合う体制をつくることが非常時の減災につながる」としている。問い合わせは福祉総務課<電054(221)1366>へ。」(全文)
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◆福祉避難所が県内で増加 39市町村267施設に
信濃毎日新聞 2011年10月18日
http://www.shinmai.co.jp/news/20111018/KT111017ATI090007000.html
「高齢者や障害者、妊産婦ら災害時に援護が必要な人たちのために設けられる「福祉避難所」の県内指定施設が、昨年末時点の28市町村180施設から、7月時点で39市町村267施設(予定含む)に増えたことが17日、県健康福祉政策課のまとめで分かった。3月の東日本大震災では、必要な支えを受けられなかった要援護者が体調を崩すといった事例があり、必要性が指摘されていることも増加の背景にあるようだ。
同課が7月、県内の全77市町村を対象に、指定状況や要援護者の把握状況などを調べた。受け入れ人数は「状況に応じて」とする施設もあるが、推計で計2万1864人が受け入れ可能とみられる。
県内4地区別では▽東信が上田、東御など5市町村40施設(昨年末比23施設増)▽北信が長野、千曲など6市町村61施設(同47施設増)▽中信が松本、塩尻、大町など8市町村58施設(同9施設増)▽南信が岡谷、諏訪、茅野、伊那、駒ケ根、飯田など20市町村108施設(同8施設増)。東海地震の防災対策強化地域に指定されている南信で多い傾向にある。
これまで福祉避難所を指定していなかった長野市は震災後、9月9日までに市有の44施設を指定。災害時要援護者の把握も進め、「今回の震災で被災した仙台市などを参考にしながら運営マニュアルを作っている」としている。
ただ、実際の受け入れに向けた各施設の整備状況は、多くの介護用品の備えが半数以下にとどまるなど十分ではない=グラフ。車いすは7割余、大人用おむつやポータブルトイレは半数ほどの施設で整備されていた一方、ストーマ(人工の肛門やぼうこう)用装具や子ども用おむつ、ベビーベッドを備えている施設は1割程度だった。
昨年末に完成した福祉施設2カ所を指定した南佐久郡南牧村は7月時点で介護用品の備蓄がなく、「備蓄を進めている状況」と説明。近隣自治体の施設とも協定を結んでいる駒ケ根市は、市の備蓄品から必要なものを福祉避難所に持っていくことを想定しているといい、「必要であればあらかじめ備えることも検討したい」としている。
県健康福祉政策課は福祉避難所について「単に指定しているだけでは実際の対応が難しい」と指摘。「要援護者の把握や設置した場合の人材・物資の確保の検討も必要」としている。」(全文)
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◆シンポジウム:人間の尊厳考えよう 震災と原発、日独の4氏議論−−高崎 /群馬
讀賣新聞 2011年10月14日 高知
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20111013-OYT8T01210.htm
「高崎市中室田町の社会福祉法人新生会(原慶子理事長)で13日、公開シンポジウム「東日本大震災と原発事故〜独日平和フォーラムとの対話」が開かれた。日独計4人の発言者からは東京電力福島第1原発事故による放射性物質の拡散について「私たちの生活が制限されるなど人権が侵されている。原発問題をエネルギーや経済問題として考えがちだが、人間の尊厳という点から考えていく必要がある」などの意見が出された。
シンポでは、福島県の社会福祉法人「牧人会」の山下勝弘理事長▽明治学院教会の岩井健作牧師▽独日平和フォーラムのオイゲン・アイヒホルン代表▽ドイツ放射線防護協会のセバスティアン・フルークバイル会長−−の4人が約100人の参加者を前に発言した。
福島、山形両県で知的障害児(者)施設などを運営する山下理事長は「今でも施設の窓は開けることができない。夏でも子どもたちは半袖を着ないで、マスクをしていた。放射性物質による汚染は、自分のすることを自分で選び、決めるという基本的人権を壊している」と報告。また「地震、津波、原発、風評の四つの被害がいわれているが、福島にとって風評が一番深刻。風評は人間の理性、連帯性を壊し、差別を生み出している」と指摘した。
岩井牧師は「原発問題は『人間のいのち、倫理』の問題で『エネルギー、経済、物的生活水準』の問題ではない」と強調し「大都市地域の住民は、原子力エネルギーを無意識のうちに消費してきた。原発事故で苦難を背負ったのは立地する過疎地の人たちであり、苦難を背負わせた罪責を深く自覚している」などと述べた。
アイヒホルン代表は「ドイツ政府や経済団体は(チェルノブイリ事故の影響について)国民に本当のことを知らせなかった。日本でも同じことが起きている。市民はただ待っているだけではいけない。自分たちで情報を探さないと、正しい情報が得られない」と指摘。「良い原子力(平和利用)、悪い原子力(兵器)という分け方をしてきたが、平和に使えるという考えは間違っていたと思う」と語った。
フルークバイル会長は「チェルノブイリ事故後西ヨーロッパの放射線量は低いといわれ、大きな影響はないだろうと思われていたが、非常に広い範囲で影響が出ている。それは、日本でも起こるだろう。今一番注意しなければならないのは食品だが、放射性物質を含まない食品だけを食べることは不可能だ。人類の将来を危険にさらす技術は使うべきでなかった」と話した。【増田勝彦】」(全文)
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◆城山に3津波避難所
讀賣新聞 2011年10月14日 高知
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20111013-OYT8T01210.htm
「須崎市は13日、南海地震発生に備え、市中心部に最も近い高台の城山(標高143メートル)に避難場所を3か所整備する方針を明らかにした。既存の城山公園を広げるほか新たに2か所を造成し、計約2300人を収容する構想。市は「5年以内の完成を目指したい」として今後財源の確保を検討するといい、18日午後7時からは、同市新町の市立市民文化会館で住民説明会を開く。(大舘司)
市、県職員や消防関係者らでつくる南海地震津波対策検討会の本部プロジェクト・チーム会議で市が明らかにした。市建設課によると、須崎総合公園整備事業の一環で、城山公園の広場を1490平方メートルに広げるほか、市立須崎小(東糺町)北側に「憩いの広場(仮称)」(1240平方メートル)、旧専売公社跡地(原町2)西側に「港のみえる広場(仮称)」(700平方メートル)を造成。それぞれ複数の登り口を整備、3か所をつなぐ連絡路も設ける。
さらに山の西側にはヘリポート(2025平方メートル)も整備する予定。市議会南海地震対策調査特別委員会には報告済みで、市民の意見を募って11月末までに基本構想をまとめ、国の補助金活用など財源確保について検討していくという。
◇
また、市は同会議で、指定避難場所の高さについて新たな基準も示した。〈1〉標高20メートル以上〈2〉標高15メートル以上で、さらに5メートル以上の高台や建物に避難可能〈3〉標高と建物の高さが合わせて20メートル以上――のいずれかを満たすことを条件とし、従来の避難場所56か所のうち33か所が該当しないという。市は11月下旬にも災害対策基本法に基づく防災会議を開き、指定解除や新たな避難場所を決定する見通し。
このほか市内86か所の避難候補地の調査結果も報告。ほとんどが、車椅子利用者が自力で上るには困難とされる傾斜12度を超える坂道を通る必要があることが分かり、市は今後、お年寄りや障害者ら要援護者の避難について、各地域の自主防災組織などと協議していく。」(全文)
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◆中村区でシンポ 震災被災者語る
朝日新聞 2011年10月08日 MY TOWN 愛知
n
http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000001110110005
「【「避難所、障害者に優しくない」】
東日本大震災の際に障害者がおかれた状況について語るシンポジウム(県重度障害者団体連絡協議会主催)が8日、名古屋市中村区の県産業労働センターであった。約100人の参加者を前に、福島県や宮城県で被災した障害者らが当時の状況を説明した。
脳性まひで車いす生活を送る仙台市太白区の井上朝子さん(26)は事務局長を務める障害者支援団体の事務所で被災。避難所の小学校体育館に出向いたものの、多くの人が押し寄せてきて車いすでは移動できない状態に。仕方なくほかの障害者らと倒壊の恐れもある事務所に戻り、各自が持ち寄った食糧を食べながら数日を過ごしたという。
後日、障害者の状況を調べようと避難所を回っても、ほとんど姿はなかった。多くは車中で過ごしたり、親戚の家を転々としたりしていたといい、井上さんは「避難所は障害者に全然優しくない。障害者はいつでも後回しになっている」と訴えた。 」(全文)
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◆震災関連死、審査会設置へ…宮城県と仙台市
讀賣新聞 2011年10月08日
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=48422
「因果関係証明が本格化
宮城県と仙台市は7日、震災後に持病が悪化したり、ストレスや疲労がたまったりして死亡した「震災関連死」の認定を行う審査会を設置する方針を明らかにした。
関連死と認定されると、災害弔慰金250万〜500万円が遺族に支給される。審査会が出来ることで、阪神大震災などで震災との因果関係を証明する難しさが問題になった関連死の審査が本格化する見通しだ。
n 県の審査会は、県内10市町から対象者の審査を受託する。今月下旬に設置し、来月から審査を始める。県震災援護室によると、南三陸町や利府町などが県に審査を委託する意向を示している。既に41件が審査待ちだという。
n 一方、仙台市は月内に「判定委員会」を設置し、開催する。同市は県には委託せず、独自に関連死を審査する。石巻市や気仙沼市など12市町も独自に審査会を設置する意向だ。また、すでに名取市、亘理町、柴田町、女川町の4市町(9月1日現在)では独自の審査、認定が始まっている。
県の審査会は、医師2人、弁護士、障害者団体代表、県保健福祉部長の5人で構成。実際の審査は11月初旬に始める見通しだ。同室によると、中越地震など過去の震災では〈1〉病院の機能停止で、初期治療ができなかった〈2〉避難所生活のストレスで体調を崩した――などで死亡したケースも関連死と認定されたという。
仙台市の委員会は、医師3人、弁護士1人、大学教授1人の5人で構成する。同市には6日現在、関連死に関する申請が152件寄せられている。委員会は月に2回程度開かれ、1回で約20件審査できる見込みだ。
7月から審査会を2度開催している亘理町では21件を審査し、約半数の10件を関連死と認定した。このうち、83歳の女性は震災当日にヘリで救助された後、避難所で体調を崩し、病院に運ばれたが、4月に入って死亡したという。
同町の審査会では、因果関係の判断がつかず「継続審査」となったケースや、因果関係が見つからず、申請取り下げとなったケースもあったという。同町担当者は「遺族には『震災さえなければ、こんなことにならなかった』いう心情もある。審査が困難なケースも多い」と話す。」(全文)
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◆避難の現場から:東日本大震災 福島の障害者施設入所者、「鴨川青年の家」で半年
毎日新聞 2011年10月06日 朝刊
http://mainichi.jp/life/health/fukushi/news/20111006ddm041040153000c.html
「◇250人、帰郷先なく 「これ以上迷惑は…」今月末退去
東京電力福島第1原発事故で、福島県から千葉県鴨川市の「県立鴨川青年の家」に集団避難している障害者施設の入所者約250人が帰郷先を見つけられず、窮地に立たされている。半年に及ぶ避難生活で入所者や職員の負担が膨らんでいるうえに、青年の家からの退去が約1カ月後に迫っている。施設を運営する福島県福祉事業協会は「落ち着き先がない。一体、どうしたらいいのか」と頭を抱える。
避難しているのは、協会が福島県内で運営する東洋学園(富岡町)など9施設に入所していた6〜68歳の知的障害者。いずれも警戒区域など原発周辺にある。震災後の避難生活で県内の小学校などを転々とし、4月上旬、鴨川に身を寄せた。
青年の家は、障害者向けの設備もなく、浴室は計2カ所。介助が必要で入浴に時間がかかる人が多く、週2、3回が限度だ。長引く大部屋での集団生活も負担になっている。
海に面した立地も危険が伴う。4月下旬には11歳の女児が水死する事故が発生。職員の人手不足でなかなか外には連れ出せず、屋内でテレビを見たり、工作をしたりして過ごす時間が増え、ストレスがたまりがちだ。重度の障害を抱える35人は千葉県内の福祉施設に受け入れてもらった。
職員約90人は、青年の家近くのアパートから通っている。支援員の林豊彦さん(45)は両親が東京、妻子が福島県二本松市で避難生活を送る。妻子に会えるのは月1回。震災直後から家族を置いて、入所者に同行している。「この人たちは放っておかれたら生きていけない。みんな使命感に支えられている」と言う。
入所者の家族はバスをチャーターするなどして泊まりがけで面会に来ている。家族は高齢者や被災者が多く、協会には「早く福島に戻ってほしい」との声が寄せられている。福島の家族に会うために休日、徹夜で車を運転し、疲れ切ってしまう職員も少なくない。
福島県は、県内で福祉型の仮設住宅が確保できると見込み、千葉県側には、10月末をめどに青年の家を退去する意向を伝えた。だが「立地のいい場所は既に健常者向けの仮設が建っている」(福島県障がい福祉課)などで用地選びが難航。結局、協会が自力で探した3施設分の用地を確保するのがやっと。建物の完成時期は未定だ。
千葉県は「行き先のないまま追い出すようなことはしない」と延長に前向きだ。だが避難者の受け入れで約2万8000人のキャンセルが生じ、12月以降は予約も入っていることから、協会の山田荘一郎理事長は「これ以上、千葉の皆さんに迷惑はかけられない」と代替施設を探す。一部の入所者は緊急時避難準備区域が解除された南相馬市内の施設に帰す方向で検討している。
そして国や福島県の鈍い対応に、山田理事長は、こう言って肩を落とす。「健常者だったら半年間も、こんな状態に置かれることはなかったでしょう」
厚生労働省障害福祉課は「福島県には適切に対応するよう要請したい」と話している。【竹内良和、金寿英】」(全文)
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◆「都会みたいな仮設住宅」…進まぬ災害弱者把握
讀賣新聞 2011年10月05日
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111004-OYT1T00001.htm?from=navr
「東日本大震災の被災地では火事が多発する冬を控えて、地元消防団などが仮設住宅に暮らす高齢者らの把握に手間取っている。
避難時の手助けが必要にもかかわらず、住民間のつながりが希薄で、公的機関からの情報提供が少ないためだ。
「震災前は家族構成はもちろん、台所や寝室の場所まで知っていた。今は誰がどこに入居しているのかさえわからない」。岩手県宮古市田老地区の仮設住宅に住む消防団員、田中和七さん(57)は話す。仮設住宅約400戸には複数の地区から移り住んだ住民が入り交じって暮らし、ご近所と離ればなれになった高齢者は「自分がすぐ避難できないことを知っている人がいない」と不安を訴える。
独り暮らしの山本能子さん(80)は、ひざが悪く、外出時にはカートが手放せない。「仮設は、どこに誰がいるか分からず都会みたい」。
災害弱者とされる人々については、「災害時要援護者」として各自治体の福祉部門が把握することになっている。
宮古市では、震災後の仮設入居者について全戸訪問して調べるなど情報収集中。必要があれば情報は消防団にも提供する方針だが、「個人情報の取り扱いについて協議できていない」として、現状では未提供のままだ。
そのため、避難訓練を通じて災害弱者を独自に把握しようとするなどの動きもある。今月2日、宮古市田老地区の約240世帯を対象に防火訓練が行われ、消防署員と消防団員が避難誘導をしながら、高齢者ら要援護者の人数や所在の把握に努めた。
岩手県大船渡市大船渡町の地ノ森仮設住宅では、全71戸190人が加入する自主防災組織が9月に発足。各棟の班長を中心に要援護者の把握に乗り出した。自主防災組織の副会長、西山謙一さん(74)は「密集した仮設では火事が一番怖い。津波で助かったのだから、これ以上犠牲を出さないためにも災害弱者の把握は重要」と話す。
仙台市では、保健師らが仮設住宅を訪ねて要援護者に関する情報も収集。民生委員にも伝えているが、個人情報保護の観点から自治会などとの情報共有は認められていないといい、緊急時への不安が残る。
◆災害時要援護者=災害時に一人で安全な場所に避難するのが難しく、支援が必要な高齢者、障害者、乳幼児、妊婦など。優先的に支援するため、政府は2005年にまとめた指針に基づき、全国市区町村に対し、対象者を把握して支援方針を定めるよう求めている。
写真:仮設住宅の防火訓練で車いすを押して避難する夫婦(2日、岩手県宮古市田老で)」(全文)
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◆東日本大震災:原発避難者の証言/中 自閉症の長男らと招待受け広島へ /広島
毎日新聞 2011年10月05日 地方版
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20111005ddlk34040577000c.html
「◇震災後、初めて笑顔 一人息子の翔太(16)が自閉症で人との関わりが苦手です。私は大熊町自閉症児親の会「スマイル」(11家族37人)の会長を務め、子どもたちの可能性を伸ばせるようにと、自然体験学習などを昨年度で83回行いました。
自閉症の人はある程度、自分のパターンが決まっていて、急な変化についていけません。震災があった3月11日は息子の中学の卒業式でした。夜は家族で焼き肉パーティーをすると決めていましたが、余震や停電でできませんでした。息子はそこでパニックを起こしました。
12日に避難をしましたが、なぜ避難するのか親も分からない、子どもにも教えられない。息子はかわいがっていた猫を連れて行きたがりましたが、できませんでした。私は2、3日で帰れると思っていましたが、甘かった。どれくらいで帰れるのか、町からは何も説明がありませんでした。猫を置いて来たことを息子は今でも言います。トラウマになっています。
12日に約40キロ離れた田村市の廃校に避難しましたが、そこには息子と同年代の子どもがいませんでした。中学では同級生126人がみんな息子と関わってくれました。避難所で息子は大きな声も出せないし、自由に走り回ることもできない。心の余裕がなくなり、パニックを起こしました。障害を理由に大人からいじめを受けました。
息子に対する行政からのフォローはありませんでした。会の別の子どもは震災が発生した時間帯になると、親にしがみついて泣いていたそうです。大熊町のような広い自由な空間を子どもに与えたいと思い、6月、会津若松市に古い一戸建てを借りました。今は失業手当で暮らしています。
8月、広島の市民ネットワーク「ボランデポひろしま」とNPO法人「ANT−Hiroshima」が、「スマイル」の親子を広島に招待してくれました。お好み焼きを食べたり、交流会に参加したりして、子どもたちは震災後、初めて笑いました。震災の年に広島に行ったことは、子どもたちは一生忘れないでしょう。お父さん、お母さんと広島に来て思いっきり遊んだことは、大きなプラスになると思います。【聞き手・樋口岳大】
□人物略歴
◇栃本正(とちもと・ただし)さん
59歳。震災前は福島第1原発の南西6.3キロの福島県大熊町に住み、同町の障害者作業所に勤務。現在は同県会津若松市に避難している。」(全文)
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◆県地震・津波対策委:「福祉避難所、設置を」 障害者ら支援で委員−−会合 /岡山
毎日新聞 2011年10月05日 地方版
http://mainichi.jp/area/okayama/news/20111005ddlk33040527000c.html
「県地震・津波対策専門委員会(委員長=河田惠昭・関西大教授)の第3回会合が4日、北区で開かれ、お年寄りや障害者ら災害時要援護者の支援や津波避難誘導計画について協議した。三徳和子委員(川崎医療福祉大教授)が「障害者や難病患者らを対象にした福祉避難所を設置すべきではないか」と県に提案した。
東日本大震災の避難所を例に、三徳委員は「避難所で精神障害者が環境の変化からパニックに陥り、避難所が混乱した」と報告し、「県、市町村、医療関係などが情報を共有し、災害時における障害者や難病患者、認知症患者らの安全な避難誘導、避難生活の支援が不可欠」と福祉避難所の必要性を訴えた。
県は09年3月に「市町村災害時要援護者避難支援マニュアル作成指針」を定め、支援対策を進めているが、「個人情報保護の問題から災害時要援護者の把握は困難。具体的な対応策は進んでいない」と説明した。
新潟県中越沖地震(07年7月)の際に、同県柏崎市に福祉避難所が設けられ例を河田委員長が紹介し、「(04年10月の)中越地震が教訓になり、泉田裕彦・新潟県知事が設置を決めた」と述べ、個人情報の問題を含めた同県の実例を研究する重要性を説いた。
津波避難誘導計画について、河田委員長は「あらゆる可能性を考慮した最大クラスの地震、津波を想定した最悪のシナリオで避難計画を立てることが重要」と強調した。【小園長治】」(全文)
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◆高齢者らの避難に岡山県積極関与を 地震・津波対策専門委
山陽新聞 2011年10月04日
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011100422520339/
「県の防災計画見直しに向け、専門家の意見を聞く「県地震・津波対策専門委員会」の第3回会合が4日、岡山市内であり、高齢者ら災害時要援護者の避難対策について県の積極関与を求める声が上がった。
今回は県地域防災計画の実施計画素案のうち、要援護者対策や堤防整備を中心に、大学教授や岡山、倉敷市の防災担当者らメンバー9人が協議した。
委員からは「要援護者は避難所でパニックに陥ったり衰弱するケースもある。障害に応じた避難所確保や、医療機関へのあっせんが必要だが、市町村だけでは対応に限界がある」と県の関与を要望する意見が出たほか、「(県が防災情報を携帯電話やパソコンに配信する)防災メールは高齢者に届きにくい。英国のように固定電話で登録者に音声を伝えるシステムを導入しては」との提案があった。」(全文)
*作成:
有松 玲
UP:20111108 REV:20111014,
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災害と障害者・病者:東日本大震災
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