バブルとは何だったのか
株が急落した1989年をバブル時代の崩壊と位置づければ、すでに四半世紀以上が経過した。過ぎ去ってしまえば「過去」だが、東京23区の土地の値段が全米全土に匹敵するような並外れた信用創造の破壊は凄まじく、日本は一過性の過去に終わらない「失われた20年」を経験する。
そのバブル時代を、我々は反省のうえで検証しきっていない――。そう断じて筆を取ったのが、日本経済新聞記者OBの永野健二氏である。
1949年生まれ。京都大学法学部を卒業して日経に入社し、証券部記者、編集委員、日経ビジネス、日経MJ各編集長などを務め、経営サイドに身を置いてからは、大阪本社代表、名古屋支社代表、BSジャパン代表などを歴任した。
その永野氏が著した『バブル 日本迷走の原点』。本人が「あとがき」で、「永野さんは、1987年から92年の5年間はいい記者でしたね」と、後輩から“大変失礼”な問いかけを受けたというエピソードを紹介しているように、確かにバブル期、「日経の永野」は、エスタブリッシュにもバブル紳士にも軸足を置きつつ、時代の流れを見逃さず、スクープも放てば、洞察力に優れた解説も書く事のできる辣腕記者として知られていた。
同じ時代に、フリーライターとしてバブル経済の取材を続けていた私は、後述するひょんなきっかけからその謦咳に接することができたのだが、その永野氏にとって、既存の「バブル検証本」は、物足りないものが多かったという。
<それは、銀行の救済策であったり、金融政策をめぐる成功・失敗の評価であったり、バブルを事務的に、あるいは事後的に、あるいは外側から見ているものが多いような気がしたからだ。隔靴掻痒なのである>
株や土地など特定の資産が、実態から掛け離れて上昇するバブル経済は、世界のいたるところで発生、同じような様相を呈するものの、その背景は、その国の文化・歴史と複雑にからみ合いながら生じるだけに、それぞれに異なるという。
では、80年代後半、日本に生じたバブルは何だったのか――。
永野氏は、それを戦後の復興と高度経済成長を支えた日本独自の経済システムを知ることなしには理解できないといい、そのシステムを「渋沢資本主義」という自らが作り出した造語で説明する。渋沢とは、日本の資本主義の父、渋沢栄一のことである。
<渋沢資本主義とは、資本主義の強欲さを日本的に抑制しつつ、海外からの激しい資本と文化の攻勢をさばく、日本独自のエリートシステムだった>
このシステムは、戦後復興を支え、高度経済成長期には、大蔵(省)、興銀(日本興業銀行)、新日鉄(新日本製鉄)のエリートたちが、日本経済の司令塔となって牽引、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌した。
だが、80年代後半、耐用年数を過ぎて機能しなくなり、エリートたちがグローバル化と金融自由化の波に乗り遅れ、構造改革に取り組まず、残された力を土地と株に振り向けた結果、生じたのがバブルだった。
永野氏は、バブル生成から崩壊までのドラマを、為すすべもなく指をくわえていた政界、見通しの甘さを晒した官民エコノミスト、無責任に終始して「いいとこ取り」だけは熱心だった官僚や金融エリート、といった各層に幅広く取材しつつ、そのバブルに踊った成り上がり者たちにも目を向け、実相を探った。