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リツエアクベバ

satomies’s diary

安全神話

子どもが小さい頃にね、子どもを連れてお散歩していて。建設中のおうちがあったりすると時々夫が言ったの、小さい声で「ああ、危ないなあ」って。
何が?って聞くと、アレは地震で危ないよって。建築設計の仕事をしている彼が、家の構造上こういう風に力が入るとこういう風に強い構造と、こういう風に力が加わったときにここがこう弱くなる構造があって、とか説明してくれる。あそこはあの骨組みがこう弱い構造のまま建設されていくだろうと、だから危ないよって。
そんなことを聞くとわたしはそわそわしてしまって、誰かにそれを言わなくてもいいの?って聞く。いや、あの構造でも商品としては成立するから仕方ないよ、でも自分はアレは地震に危ないと思うけどね、と。
その数年後に自分たちが家を建てることになった。夫は毎日家で自宅になる家の図面を引いてた。工務店と材料から相談してた。予算はぎりぎりだから、どこの材料をどう落とすか、安い材料は何かとか。
ふうん、とか言ってて。わたしはあんまりインテリアとか家とかなんだとかって興味が無いというか、言っちゃなんだがどーでもいい。だから彼が好きなようにやってくれればそれでよかった。ただひとつ、きちんと押さえてくれていれば。
「ねえ。このおうちは地震が来ても倒れないんだよね?」
それはわからないよ、と、夫が言う。え?なんで?だって倒れないように作ってあるんでしょう?と、わたしが聞く。
「計算上はね、倒れないようには作ってあるよ。計算上は要所要所で基準よりずっと太い柱を使ってるし、構造上も強く計算はしてある。でもね」
「自然に対しての計算っていうのは、過去のデータを材料にすることしかできないんだよ。自然はいつも新しい驚異をもってくるんだよ。計算ってのはそれを追いかけていくしかできないから、未来の危険に対しての計算には限界がある」
「だからわからないよ」
倒れないよね?と聞くわたしに、夫はいつも「わからないよ」と答える。倒れないよね倒れないよね倒れないよねとしつこく聞くと、「計算上はね、倒れないように作ってあるよ。でも過去のデータの計算でしかないからね」と繰り返し、絶対に「倒れないよ」とは言ってくれない。彼は「わからないよ」としか答えてくれない。
わたしは。子どもたちに言ってしまう「おとうさんが設計したこのおうちは地震では倒れない」。誰もそんなことは言ってないのに。
安全神話って誰が作るんだろう。少なくとも我が家に限ってだけ言えば、安全神話を作っているのはこのわたしだと思う。そしてそこに確固とした根拠なんて無いんだ。わたしがその安全神話が欲しいだけなんだ。そうなんだよね、わたしが欲しいんだ、その安全神話を。
安全神話ってのは、それが無くてはならない方の立場が作るもので、作った人間が用意するものじゃない。作った人間こそ本当は「計算上は」の枕詞を慎重に携えているものなのかもしれないと思った。