今年1月、ノルウェーで犬の福祉に関する画期的な判決が出た(*1)。オスロ地方裁判所は、同国内で行われているイングリッシュ・ブルドッグ(ブルドッグ)とキャバリア・キングチャールズ・スパニエル(キャバリア)の繁殖を違法と判断し、ブリーダーには繁殖の禁止が言い渡された。
先頃、この判決を不服とするノルウェー・ケネルクラブ(NKC)(*2)などが、オスロ高等裁判所に控訴した。第2審は9月に行われ、早ければ数週間後には判決が出るとみられている。
無秩序な繁殖がもたらす苦痛
同国の動物福祉法(*3)は、遺伝的に身体・精神面の問題を生じるリスクがある繁殖を禁じている。だが、現在行われている無秩序なブリーディングが、犬たちの健康を大きく損なっていると原告のノルウェー動物保護協会(NSPA)は主張する。
代表のエアシャイルド・ロールドセット獣医師は、「NKCとは20年以上にわたり、科学的根拠に基づいた健全な繁殖について話し合いを続けてきました」と語る。しかし事態は悪化を続けているという。
NSPA代表のエアシャイルド・ロールドセット獣医師極端な外見
極端な外見を創り出すための繁殖によって、健康に問題を抱える犬種があることは多くの国で指摘されている。特にブルドックなどの短頭犬種(鼻ぺちゃ犬)には、「短頭種気道症候群(BOAS)」と呼ぶ呼吸器系の疾患が多い。
そのほか、ブルドッグは「ほとんどの個体が(骨格など)整形外科的問題を抱えています。また約50%に皮膚疾患、40%には目のトラブルも報告されています」とNSPAは言う。
短頭種気道症候群については、英ケンブリッジ大学も啓発活動を行っているキャバリアでも、脳や心臓など7か所の病気が繁殖に由来するとしている。この犬種では、頭蓋骨が正常に成長しない疾患も問題とされている。英国BBCが過去に放送したドキュメンタリー(*4)でも、「靴に例えると、28.5cm(サイズ10)の足に24.5cm(サイズ6)の靴を履いているような状態」とされた。脳が極度に圧迫され、激痛や神経症状が出る。
キャバリアも遺伝性疾患で苦しむことの多い犬種と言われる(写真はイメージ)長年の話し合いから法廷へ
ノルウェーでは、特にこの2犬種のQOL(生活の質)低下が深刻だという。解決に向け、NSPAはブリーダーや単犬種クラブ、NKCとの話し合いを続けた。だが、「"健康に優れた動物を繁殖させなければならない"という法律の解釈に関する見解の相違」は解消しないとの結論に至り、判断を司法に委ねた。その結果が、1月の判決だった。
「純血種」という考え方と人間の責任
NSPAは現状を「遺伝上の危機(genetic crisis)」と呼ぶ。深刻な遺伝性疾患や極端な体形による苦痛を解決する唯一の方法として、それぞれの近縁種から健康な個体を選んで交配(クロスブリーディング)させることを提案している。だがNKC側は、純血種の「交雑」は認めない姿勢を崩さない。
第2審に向けて、NSPAは「もう一度立ち上がる」と決意を表明。すべての犬に健やかな一生を送る権利があり、それを守る責任は人間にあるとロールドセット氏は話す。
「この100年ほどで、犬たちは姿や内面が劇的に変えられました。近親交配が普通のことのように行われ、多くの犬種が様々な遺伝性疾患や極端な体形によって苦しんでいます。犬たちは、自然にこのような形や体質になったわけではありません。この状況を解決するのは私たち人間の責任です」
NSPAはほかにも改善に向けた努力を続けている。「ブリーディングはサイエンスであるべき」として、遺伝情報に関するデータベースの構築や、科学的な繁殖ガイドラインの作成を政府に提案。また、法律を明確にするため、附則の作成を求めるなど多角的に活動している。
日本の状況は? 遺伝子検査の課題
日本でも犬の健全な繁殖への意識が高まっているかに見える。ペットショップなどでは、 “遺伝子検査済み” の表示を見ることが増えた。遺伝性疾患のうち、一部の「単一遺伝子疾患」(*5)は、DNA検査で発症リスクが確認できる。トイプードルなどに多い「PRA(進行性網膜萎縮)」(*6)や、ウェルッシュ・コーギー・ペンブローク(コーギー)などの「DM(変性性脊髄症)」(*7)は耳にしたことがある愛犬家もいるだろう。
ペット保険のアニコムは、遺伝病対策に取り組んでいる。同社が行った2017年の調査では、コーギーの43%にDMに関連する遺伝子変異が認められた。遺伝子検査と適切なブリーディングの提案を行ったところ、これが2020年には16%に減少したという(*8)。
DNA検査に基づく繁殖の改善でDMが減少(2020年12月アニコム発表)しかし、依然として課題は多い。シ一ドニー大学(オーストラリア)が整備しているデータベース「OMIA」によると、犬に関しては現在400近い単一遺伝子疾患/遺伝子変異が報告されている。一方、検査が行われるのは、例えばトイプードルはPRA、コーギーはDMなど、ごくわずかな範囲に留まる。
あらゆる犬種に、現在可能な遺伝子検査をすべて行う必要はない。また、そこまでの対策は現実的ではないだろう。だが、現在ペットショップ等が行うものは犬種と検査の種類がかなり限定されている。補償に関する免責やマーケティング的な色合いも濃いと見られ、犬の健康のために、本当に充分で効果的かどうかには議論の余地がある。
まん延する多因子疾患
短頭犬種のBOASも含めた「多因子疾患」については、繁殖に由来すること自体があまり知られていない。多因子疾患も多くは遺伝によるものと考えられており、健康な親犬を繁殖に使うことで減らすことができる。だが、繁殖業者やペットショップに解消に向けた姿勢は見られない。
呼吸器系や目の疾患に苦しむことの多いブルドッグ(写真はイメージ)例えば理化学研究所らによる調査では、トイプードルの7頭に1頭が膝蓋骨脱臼(パテラ)を罹患していたそうだ。ペット保険の多くがこの病気を補償対象から外していることから、実際にはさらに罹患率が高いことが考えられる。
多くのペット保険がパテラを補償から除外膝の「お皿」がずれ、重症化すれば歩行困難や強い痛みを伴ってQOLは著しく低下する。そのほか、大腿骨や肩、首などの関節や心臓、肝臓、血管形成などのトラブルにも多因子疾患は多く、命に関わる病気も少なくない。
環境省は、繁殖に由来するペットの健康問題について「幅広い視点から議論を進めていく」と表明した。2020年に行われた動物愛護法に関する議論の場でのことだ。その後の動きに注目しているが、具体的なアクションはない。
声を上げ続ける大切さ
こうした状況に対し、NSPAのように声を上げ続けるのは重要な行為だろう。遺伝子検査に生体販売業界が意識を向けたきっかけの1つに、ある個人の活動があった。現在、多くのペットショップの柴犬に「“GM1ガングリオシドーシス”の遺伝子検査済」との表示が見られる。この病気は致死性の遺伝病で治療法はない。
「もみじ」ちゃんと「さくら」ちゃん姉妹は共にGM1ガングリオシドーシスを発症この病気と闘った柴犬の「さくら」ちゃんは、2019年に1歳3か月でこの世を去った。飼い主さんは“これ以上、同じ苦しみを経験する柴犬が生まれないように”との思いで、ペットショップ運営会社などに粘り強く訴えた。大手ペットショップで遺伝子検査への意識が高まったのは、さくらちゃんと飼い主さんの力によるところも大きいだろう。
きょうだいの「大福」くんも同じ病気とたたかったNSPAが言うように、現代のブリーディングは科学に基づく必要がある。秩序ある繁殖で、病気に苦しむ犬を少しずつ減らすことが可能なのだ。20年以上にわたって交渉を続けているNSPAや、さくらちゃんの飼い主さんのように、粘り強く声を上げることが大切ではないだろうか。
目的は動物の健康と幸せ
エアシャイルド氏は裁判を “This is not an attack.” 、つまりブリーダー等に対する攻撃ではないと強調する。
裁判を “This is not an attack.” と語るエアシャイルド氏科学的で健全な繁殖を行うことに同意すれば、訴えを喜んで取り下げると話す。改善のために必要なことを理論的かつ理性的に行うNSPAの姿勢からも、日本の動物愛護が学ぶことは多いだろう。目的はたたかうことではなく、動物たちの幸せの実現なのだ。
*1 REANIMAL 2021年11月29日および翌年2月3日記事参照*2 血統書の登録や発行などを行う畜犬団体
*3 Animal Welfare Act 2009
*4 "Pedigree Dog Exposed" (2008); "Pedigree Dog Exposed: Three Years On" (2012)
*5 遺伝性疾患には、DNA中の特定遺伝子に生じた変異が原因となる「単一遺伝子疾患」と複数の要素が複雑に関係して発症する「多因子疾患」などがある
*6 眼球の中にある、物を見るための組織「網膜」が次第に薄くなり失明に至る病気
*7 脊髄の病気で、後ろ脚から始まる麻痺が徐々に全身に及び、呼吸不全などを起こして死に至る
*8 「犬猫の遺伝病撲滅に向けた取り組み状況について」(2020年)アニコムホールディングス