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2017/03/14

電卓の日にちなんでカシオ取材の日

プレジデントオンラインの仕事でカシオに取材。
記事は電卓の日(20日)に公開されるそうです。
それまでにわたしがちゃんと書けば……ですが。
いったん帰宅してちょっと作業をして
夜は久しぶりに都内某大学の某教授のもとで
「くずし字勉強会」。
今回はわたしがテキストをリクエストしたので参加せねばなのである。
一度読んでみたかった「一休骸骨」。
室町時代の禅僧、一休宗純が書いた仮名法語。
がいこつさんの絵本になってるのが一休らしいところ。
多くの人が読んで理解できるように仮名で書かれているのだが
何しろ室町時代の仮名である。変体仮名どころかくずしまくってて
わけわかりません。
わははは。
国立国会図書館デジタルライブラリーにあるので興味ある方はどうぞ。
ほんとにがいこつさんだから。
国立国会図書館デジタルコレクション - 一休骸骨


ちなみにこの一休宗純禅師は、いわゆる「一休さん」のモデルになった人。

5歳の頃、政治的な都合で安国寺に預けられ「周健」という名になった。
でも、周健さんではわけわからんので「一休さん」ってことになってる。
もちろん実際に頓知まくったわけじゃなくて、
一休宗純人気にあやかって江戸時代に書かれた「一休頓知話」という創作まじりのお話が元。

16歳の時、寺を出て謙翁宗為の弟子になり、「宗純」という名を与えられる。
和尚が他界したあとは、琵琶湖のほとりにある堅田の華叟宗曇禅師に弟子入りし、
「一休」という禅号をもらう。これが一休宗純の誕生。

そののち、一休は寺には篭もらず、市井の人々とともに暮らし、
庶民から絶大な人気を得、真偽取り混ぜていろんな逸話ができあがっていったのだ。
まあこういう本を書く人だしな。

有名なところでは、大徳寺(っていう京都のデカい寺)の庵を与えられてそこに居住したのだが、ここは退屈だといって「わたしに会いたかったら、魚屋か酒屋か女郎屋を訪ねてくれ」的な書き置きを残していなくなったという話。
これは創作ではなく、当時の文献に書いてある話。

ちなみに一休骸骨のまえがきにある達磨大師の絵についている歌。

九年まで座禅するこそ地獄なれ
虚空の土となれるその身を

とある(くずし字勉強会でわからないとこは教えて貰いつつ読んだ)。
冒頭の「九年」は達磨大師は9年座禅を組んで悟りにいたったことからきた数字。

まあぶっちゃけちゃってるわけだが、これは当時の世相を知るとよくわかる。
寺が政治的権力を持ち、僧兵に代表される武装もし、金貸しもし、
武家とつるんで一大勢力になっていた。
今話題の「応仁の乱」を読むとよくわかる。
いやそういう世の中だったと頭にいれてから「応仁の乱」を読んだ方がいいか。

そして常に
小さな合戦が頻繁に起こり、応仁の乱がはじまり、
京都やその周辺の市井の人々はえらいめにあったんである。

一休はそういう世俗にまみれた仏教界から距離をおき、
どころか罵倒しつつ、
市井の人々の中で小さな庵を編んで暮らしていたのだ。

一休宗純については坂口尚の名作「あっかんべぇ一休」がいいんだけど、
絶版になっているっぽいのだよなあ。もったいない。
「応仁の乱」は今ベストセラーだそうだけど、
確かに応仁の乱以前から順をおってちゃんと説明してくれる本だけど、
特に平易に書いてあるわけでも読みやすいわけでもなく
キャラがさほど立ってない大名たちがややこしく絡むので
最低限の日本史の知識が無いと面白く読めないと思うわけで
なぜそこまで売れるのかよくわかりませんです。
「応仁の乱」はすごく面白くて興味深いのだけど、
なんとも、そこに登場するひとりひとりがやっぱ地味なのだよなあ。
あの頃の将軍の名前なんて覚えてる人そういないだろうし、
しかも将軍がしれっと暗殺されちゃうほどだし。



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