第062話 キャロルとミャロ 前編*
騎士院の道場は、今日も騒がしかった。
だが、ひとけは少なく、道場の周りにも人はいない。
外にはこがらしの風が吹いている。
ひとけが少ないのは、今日が休日だからであった。
他の新しい道場であれば、休日でも自主練習の学生が多いが、二人のいる道場は、どちらかというと古い道場で、使うメリットがない。
元々、休日にも訓練をするという学生は少ないのもあって、道場はふたりきりの貸し切りであった。
二人は、道場の真ん中で組手をしていた。
汗みずくになりながら、お互いに激しく組み合い、時には離れ、いっときも休むことなく動き続けている。
「ハッ!」
鋭く掛け声をあげながら、キャロルは相手を投げた。
投げられたミャロは、体勢を崩されながらも体を持ち上げられたが、不完全な投げであったために地面に叩き付けられることはなかった。
いっとき両足が浮き、膝を曲げて着地する。
「やあっ!」
投げられたミャロのほうは、投げられつつもキャロルの袖を取っていた。
バランスをすぐにたて直すと、袖を取って逆にキャロルを引き倒すように動く。
脇に腕をはさみながら、立ったまま関節を決める。
不覚にも投げで体の軸を崩してしまっていたキャロルは、それを防げなかった。
「参った」
キャロルはすぐに降参した。
ミャロがかけたのは、脇固めという立ち関節の技であった。
立ちながらであればさほど危険性はないが、決めた体勢から体重をかけて倒れこむ連携が可能であり、そうすると全体重が関節にかかり、簡単に腕が折れる。
キャロルは、技の危険を知っていたので、早めに降参をした。
体重をのせられて、腕を壊されることを恐れていたわけではない。
ミャロは絶対にそれをしないだろうし、この学院で自分にそんなことをする人間は誰一人としていないことを、キャロルは知っていた。
だが、それをいいことに、技を立位のまま振り解こうとするのは、それは戦場を意識しての立合いである以上は、勝ちに拘泥する卑怯な立ち居振る舞いだと心得ていた。
「はぁ、はぁ……ありがとうございました」
ミャロはぺこりと頭を下げた。
ミャロにとっては久々の勝ちであった。
「ありがとうございました」
キャロルのほうも礼を返す。
「ふう……」キャロルは袖で汗をぬぐう。「少し休むか」
「はぁ、はぁ……そうですね」
ミャロは肩で息をしながら答える。
キャロルは、てっとりばやくその場で腰を下ろし、あぐらをかいた。
床は板の間になっているので、冬場は足の裏が凍るほど冷える。
だが、今の季節は、まだそれほどでもなかった。
ミャロも腰を下ろした。
こちらは正座であった。
「そんなにかしこまらなくてもいいのに」
キャロルは苦笑いしながら言った。
「いえ、なんとなくこれでないと落ち着かなくて……」
「そうなのか……それならいいが」
キャロルはどちらかというと正座が苦手なので、正座のほうが落ち着くという感覚は、ちょっと理解できなかった。
楽にしてもらおうと思ったのだが、こっちのほうが楽らしい。
「それにしても、やっぱりミャロは器用だな。とっさに関節技にいくなんて」
「ボクはどうしても肉がつかないので……。ああいう技でしかやっていけないだけですよ」
確かに、ミャロは小柄だった。
筋肉がつかないというより、骨格が小さすぎるために、肉のつきようがないという感じだ。
そのため、武技の方面ではあらゆる面で不利になっている。
体格が小さければ、男がやるような、力を競うような戦い方では必ず敗けてしまう。
だから、良く研いだ短刀で鋭く刺すような戦法しかなく、そのための方法として、体重を乗せての関節技を磨いているのだろう。
キャロルも男に比べれば体格は小さく、どうしても力で劣るが、ミャロよりは大柄だった。
ミャロは、教養院の学生と比較してさえ小さい。
日夜体を鍛えていてこれなのだから、血筋なのだろう。
今までの組み合いでも、ミャロはキャロルに力負けしてしまい、振り回されっぱなしであった。
「ちょっと休んだら、今度は寝技をやらないか?」
ミャロはとても器用なので、寝技のほうは得意だ。
よく勉強させてもらおう。とキャロルは思った。
「そうですね。ボクも少し試したいことがあるので」
「そうなのか」
「はい。殿方相手だと少し抵抗のある恰好になってしまうので、試せなくて」
なるほど、とキャロルは思った。
練習で同級生の男にやるのは、どうしても抵抗がある、という寝技はたくさんある。
人気のない時間帯に、こうしてミャロと特訓しているのも、おおもとをたどればそのためだった。
武器を使った訓練ではなく、取っ組み合いの稽古というのは、男性とやるとどうしても問題がある場合が多い。
なので、キャロルとミャロは、暇を見つけてはこうして特訓をしているのだった。
***
「ふー……そろそろやめにするか」
キャロルは汗をぬぐいながら言った。
「はぁはぁ……そ、そうしましょう」
ミャロは若干顔色が青くなっている。
運動をし過ぎると、ミャロはいつもこうなってしまう。
キャロルのほうは、そういうことはなかった。
風邪を引いて悪寒でもするときに無茶をすれば、こうもなるのだろうが、いつもの体調ならば幾ら動いたところで、ふつうに疲れるだけで、青ざめるほど具合が悪くなってしまうということはない。
ユーリに言わせれば、ミャロは体を巡っている血の量が足らないのだ、ということらしいが、キャロルにはよく解らなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。少ししゃがんでいれば……ちょっと失礼しますね」
そう言うと、ミャロは足を揃え、ちょこんとしゃがみこんだ。
「すまないな、付きあわせてしまって……」
「いえ、そんな。こちらのほうがお礼を言いたいくらいですから……」
「そうか」
そうは言っても、青ざめてしゃがみこんでいるミャロを見ると、どうしても罪悪感が沸いてきた。
「本当に助かっているんです。それに、これはボクのほうの問題ですから」
「ミャロは休んでいてくれ。床を拭いておくよ」
「えっ、そんな」
ミャロは慌てて立ち上がろうとした。
「大丈夫だ、座っていてくれ」
キャロルは、ミャロの肩をぐっとおさえて、立たせなかった。
そのまま道場の外へゆくと、キャロルは井戸から水をくみ、バケツにどばっと移した。
そのバケツを持って戻ると、雑巾を浸して絞り、汗が落ちた床を拭いてゆく。
これは、自主訓練で道場を使った者は必ずやることになっていることだ。
授業での訓練のあとは、雇われた人間が道場を清掃するが、それ以外の場合は清掃の手は入らない。
そのままにしておけば、もし後に人が来れば、滴り落ちた汗を不快に思うし、一昼夜も放置してしまうと、床がいたんでしまう。
「よし、こんなものだろう」
キャロルはバケツで雑巾をゆすいで絞ると、元の場所へ戻した。
「すいません」
ミャロが申し訳なさそうにいった。
「このくらい、どうってことない。それより、早く風呂に行こう。風邪をひいてしまう」
「はい」
ミャロはすっくと立った。
もう体調は大丈夫そうだ。
二人は道場を出ると、林の中へ入った。
すぐ近くに、木々が開けた場所がある。
そこには天井以外が全て石で作られた、小さな建物が建っていた。
そこは一般生徒には、林管理の職員の住む小屋だとか、休憩室だとか思われ、気に留められていないが、実際は違う。
そこは騎士院の女子生徒用の水浴び場であり、小さめの浴場であった。
騎士院の女子生徒は、男子生徒用の浴場は使えないので、夕に身を清める時もこちらを使う。
湯沸かしを担当しているいつもの女性はいなかったが、まだ火がくすぶっているのだろう。煙突からうすく煙が出ているのが見えた。
ということは、事前に頼んであったとおり、湯は沸いているはずだ。
鍵を差し入れ、回すと、ガチャリと錠が開いた。
錠を取り外して外に置くと、中に入って内鍵となる棒をかけた。
錠を外に置いたのは、錠は鉄製のため、中に入れると水気で錆びてしまうからだ。
中は一室の構造で、湯けむりが充満していた。
浴槽も、人が三人も入ればいっぱいいっぱいになってしまうだろう。というサイズで、二人が足を伸ばして入れるような大きさではない。
それでも、キャロルとミャロにとっては、今や思い入れのある大事な憩いの場であった。
「脱ぐか」
キャロルはすぱっと服を脱ぐと、汗で濡れたそれを、自分の名前の書かれたカゴに入れた。
これは洗濯物入れも兼ねていて、ここにいれた服は後に回収され洗濯に回され、寮に届けられ、寮母の手を渡って部屋に届く。
少人数しかいない騎士院の女性だからこそ成り立つ贅沢な仕組みであった。
ミャロも服を脱ぎ、裸身を晒した。
キャロルはまじまじとミャロの体を見る。
「ミャロも成長してきたな」
キャロルはうんうんと頷きながら言った。
「もう……やめてください」
嫌がる素振りをしながら、ミャロは先に行ってしまった。
キャロルとミャロの付き合いはもう七年にもなるが、ミャロの痩せぎすの体は長いこと成長しなかった。
食が細いなりに、多少無理をしてでも食べているから、痩せていくということはないが、一向に骨が細いままで、華奢な印象は変わらない。
いつか枯れ木のように折れてしまうのではないか、と心配することさえあった。
だが、ここにきてミャロの体は少しづつ変化してきて、腰つきや胸のあたりに女性らしいふくよかさを蓄えはじめている。
いつまでも、痩せぎすな少年のような体ではないのだ。
「いい傾向だ」
キャロルはひとりごちながら、自分も湯船のほうに向かった。
湯の熱さを確かめてから、オケを使って頭から湯をかぶる。
その後、湯船に入った。
「ふう……」
「温まりますねぇ」
ミャロが肩まで湯につかりながら言った。
「うん」
キャロルにとっても至極同意であった。
運動で火照った体が冷めてくると、とたんに汗に熱を奪われて凍えるのが、この季節だ。
「こうしていると、男子の方々には申し訳なくなりますね」
「そうだな」
男子の場合は湯が沸いているのは夜だけで、四六時中望んだ時に沸かしてもらえるわけではない。
男子の浴場は十人以上が入れるようなものなので、湯沸かしに手間がかかるのだ。
「だが、連中のように頭から冷水をかぶったら、体が凍えてしまうからな」
男子たちがよくやるように、真夏のころと同じように頭から井戸水を被り、軽く髪を拭いただけで平気にしているというのは、キャロルには真似出来そうになかった。
そうしている連中は、強がっているのか、感覚が麻痺しているのか判らないが、氷が張る寸前のような水を頭からあびても、むしろ汗が引いて具合がいいといった様子で、平気で道具を担いで帰っていく。
キャロルであったらしばらく歯の根が鳴って動けなくなるだろう。
翌日体調を崩さない自信もない。
それ以前に、野外で堂々と裸になることがありえない。
「ふふ、そうですね。ボクにもちょっと真似できそうもありません」
真似というか、ミャロがそんなことをしたら、その場で心臓まで凍って、バッタリ逝ってそのまま帰ってこなさそうだ。
ちょっと想像したくなかった。
「でも、最近は冷水をかぶっているわけではないらしいですよ」
「? どういうことだ?」
「代わりばんこで休憩時間に抜け出して、寮の裏手で湯を作っているらしいですよ」
キャロルは顔をしかめた。
休憩時間というのは、休むための時間なので、その間に顔を洗ってきたりする人間は多い。
なので、抜けだそうと思えば、いくらでも抜け出せるわけだが、寮の裏手まで戻って、終わった時のために湯を沸かすとは。
湯といっても、風呂に入るための湯ではなく、水に足して浴びるための湯だろう。
ただの井戸水と比べれば、湯を多少なりとも足すことで、浴びた時の冷たさはかなり軽減されるはずだ。
しかし、そんなことがバレれば、教官から大目玉を食らうのは間違いない。
顔を洗うくらいならまだしも、本来は寮に戻るための時間ではない。
とはいえ、自分がこうして特別扱いを受けている以上、彼らを悪く言うことはできなかった。
「だが、全員分の湯を沸かすとなったら、水汲みも大変だろう。一人では休憩中に帰ってこれないのではないか?」
火だけならば、種火を竈に放り込んだあと放置しておけばよいだろうが、水くみは一苦労なはずであった。
「そこはユーリ君が井戸に機械を設置したおかげで、楽ちんらしいですよ。井戸桶をたぐらないでも、こう、棒をぐいぐいと上下に動かすだけでバシャバシャ井戸水が出てくるんです」
ミャロはすでにその装置を使ってみたあとらしい。
操作方法まで知っていた。
「なんだ、またやつの発明か……」
キャロルは、感心するような呆れるような、複雑な思いを抱いた。
「今は試用らしいですけど、壊れた様子はないですから、そのうち販売するでしょうね。そうしたら、また大きくなりますねえ」
ミャロが嬉しそうに言った。
また大きくなるというのは、言うまでもなくユーリのやっている副業のことであろう。
「まあよいのではないか。あそこまでやれば実益を兼ねた趣味というか……」
「おや、殿下はユーリくんの副業には反対だったのでは」
ミャロが人の悪そうな笑みを浮かべた。
「私もいつまでも子どもじゃない。やつの仕事が民草の雇用の受け皿になっているなら、よろこばしいことだ」
「うふふ」
ミャロは密やかに笑った。
「低賃金でこきつかっているわけでもないらしいしな」
「どちらかというと、やや高給といってもいいくらいですね。酷いところは本当に酷いですから」
キルヒナ難民が大量に流入してきているせいで、一時期と比べれば落ち着いてきたものの、やはり労働者の賃金は混乱し、平均として下がってしまっている。
ところによっては超低賃金で、半奴隷労働とも言える扱いを受けていることを、キャロルは知っていた。
「あっ……青あざができてしまいましたね」
ふいにミャロが言った。
「えっ、どこだ?」
「ふとももの外側です」
キャロルは身をよじって自分の腿を見た。
確かに、大きめの青あざができていた。
といっても、心当たりが多すぎるので、なにが原因なのか思い出せそうにない。
「ここならいい」
慣れたものなので、気にすることもなかった。
青あざなどは放っておけば跡形もなく消えるものだ。
ただ、額などに大きな青あざをつくると、当分社交の場に出られなくなるので、それが心配だった。
「うふふ、とても色っぽい仕草でしたよ」
「な、なにを言ってる」
キャロルは片膝を立ててお尻を上げた恰好になっていたので、みようによっては色っぽいポーズではあった。
「これはそのうちには殿方が放っておかなくなりますねえ」
ミャロはじろじろと胸のあたりを見ながら、他人事のように言った。
「そ、そんなことは……」
とっさに胸を隠す。
「ちょっと触ってもいいですか?」
と、胸に手を伸ばす。
「だ、だめだ!」
「ふふ、冗談ですよ」
「も、もう出るぞ」
キャロルは立ち上がり、湯船から出た。
温まって紅潮した肌に、ざばりと湯がすべりおちた。
「それじゃあボクも」
ミャロも追って湯から出たようだ。
キャロルは備え付けの布でゴシゴシと体を拭いてゆく。
今はもう手慣れたものだが、この学院に入るまで、キャロルは自分で体を拭いたことがなかった。
全て召使いがやってくれていたのだ。
「ミャロ、今日はこれから予定とか入っているか?」
「これからですか? 夕方まで勉強をするつもりでしたが……」
「今日は外に出かけようと思うのだ。よかったら付き合わないか」
「外へ?」
持ってきた服を着ようとしていたミャロは、訝しげに言った。
「もちろん、私は変装をしていく」
「変装? お忍びで外を歩くということですか?」
「初めてではないぞ。ユーリと一度歩いた」
「ああ、なるほど」ミャロは合点がいったように頷いた。「ユーリくんの見立てであれば問題はないでしょうね」
「あいつの見立てではないけど」
洋服についてはユーリの見立てであったが、今日はあの服を着る予定はなかった。
「そうなんですか。ボクでよろしければ喜んでお付き合いさせていただきます」
「よかった。一人では心細いところだった」