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Tyler Perry Commencement Speech at Emory University(全1記事)

「自分の夢のためであるなら、“ハードワーク”を恐れないで」 路上生活からスターダムへ、俳優人生を変えた「教授」の存在

エモリー大学の2022年卒業式に、俳優で劇作家のタイラー・ペリー氏が登壇し、卒業生へ向けてスピーチを行いました。2011年には「アメリカのエンターテインメント業界で最も稼いだ人」に選ばれるなど、まさにアメリカンドリームの成功者である同氏ですが、幼少期の虐待や自殺未遂、公演の失敗による路上生活など、壮絶な過去を乗り越えています。本スピーチでは、そんな人生を支えた「教授」の存在について語られました。

指先ひとつでなんでもできる時代の期待と心配

タイラー・ペリー氏:みなさん一人一人に感謝の気持ちを伝えたいと思います。フィンビス学長、ゴダード理事長、評議員のみなさん、事務局のみなさん、本当にありがとうございました。公式には「タイラー・ペリー博士」と呼んでください。学生ローンなしで博士号を取得できました……(笑)。ありがとう、エモリー。

私はいつもこの大学に感化されてきました。この大学が世界に送り出した最も素晴らしい人たちです。そのうちの何人かを知っていて、尊敬もしています。

でももしあなたが今日(2022年の卒業生として)ここにいるのなら、私は名前を呼ぶつもりはありません。なぜなら私のスピーチは「卒業生」についてであって、素晴らしい「2022年の卒業生」についてではありませんから。

おめでとうございます。本当におめでとうございます。あなたがたが成し遂げたことを誇りに思います。

驚くべきことに、あなたがたが生まれたこの時代は、本当に手早くモノを手に入れることができます。必要なものが「電話」の中にある時代です。

食べ物が欲しければボタンを何回か押すだけで現れます。道を知りたいならボタンを何回か押し、情報が欲しければボタンを何回か押し、デートがしたいなら……(笑)。エモリー大学ではそういうことはしないかもしれませんが、もしそうしたら、できますよね(笑)。

それはとても素晴らしいことです。だから私はみなさんに期待しています。何も待つ必要はないんです。指先ひとつでなんでもすぐにできます。とはいえ、正直なところ心配にもなりますし、少し悲しくもなります。今、ハッシュタグをつけて私を“キャンセル”する前に、少し待ってください。

アナログの時代に学んだ「何かを望むなら努力や時間が必要」

(なんでもスマートフォンでできるということは)つまり、「地図」と呼ばれているものを使って車でガソリンスタンドまで行くことが、どういう感じなのか知らない。それが悲しいのです。車に戻り、地図を読む、でも地図が大きすぎてボンネットに置いてみる。祖母の家まで指差しながら道をたどる。こういうことを知らないでしょう。

映画を見たいと思って車に乗ってドライブして、「ブロックバスター(ビデオ・DVDのレンタルチェーン店)」と呼ばれる場所まで行くことを知らないでしょう。テープを巻き戻さないと料金の追加徴収をされるんですよ。音楽が聴きたいときは、車に乗って「レコードストア」という場所でアルバムを買ったりカセットテープを買ったりします。まあ、この話は気にしないでください。

とにかく、新品のカセットテープを車に入れて、ジャムっている(テープが詰まっている)ことに気づいて、テープが全部出てきて、それを何時間もかけて指で戻そうとすることがどんなことか、わからないということです。クレイジーに聞こえるかもしれませんが、現実だったんです。

当時は会社を探すのに「イエローページ」を手にとって、目を通して指をこう動かしてたんです。

タイラーって何歳なんだろうって思ったかもしれません。それは本当に本当にひどかっただろうとも言ってくれるかもしれません。ただ、みなさんと比べたいわけじゃなくて、あれはただただ.......ひどかったというだけです。

(会場笑)

とは言っても、そういう経験の最大のアドバンテージは「何かを望むなら努力や時間が必要」ということです。あなたたちが育ったこの時間は、与えられたものです。現実感を誤ってしまいます。社会に出れることはうれしいでしょうけれど、スピーチする人間として望むのは、大学生活の先にあるものへの準備です。

夢を築くには時間がかかることを教えてくれた、人生の教授

成功は、多くのひとにとって、すぐには訪れません。たいていの夢は努力と苦労と犠牲なしに叶いません。とりわけインターネットで大金を稼ぐ人たちを見ていると、それを理解できてない人がいるように思います。突然、指の骨を削っただけで何百万もの閲覧数を獲得して、とんでもない額のお金を稼ぐようになります。

誤解しないでもらいたいのは、インターネットで素晴らしいビジネスをしている人もいるということです。非難よりも祝福しています。ただ、私は夢を「築く」には時間がかかると言いたいのです。

私自身は「教授」のおかげで夢を築くのに時間がかかることを知りました。残念ながら私は大学には行っていませんが、たくさんの「教授」がいました。みんな「学者」ではありませんでしたが、祖母のメイのような「教授」でした。

(祖母とは)私がまだ幼かった頃、ルイジアナの田舎で夏を一緒に過ごしました。古びた家の居間に鉄のベッド、そこに老人が横たわっていました。祖母のつくったキルトに覆われていたその人は祖母の父親で、名前はパパ・ロッドといって、解放奴隷でした。

朝早く太陽がのぼるより前、私がすごく小さかったので、祖母は私を起こして畑に連れて行ってくれました。祖母が穴を掘ってくれて、その穴に種を蒔いていくのが私の仕事でした。夏の間ずっとそこにいて、毎日一緒に畑仕事をしました。

明日になれば何かが育っていると思って、次の日畑に向かいました。私は「なにも成ってないじゃないか」と言いました。すると祖母は、「いいかい、私たちにできることは植えることだけ。あとは神が増やしてくれますからね」と言いました。この言葉を忘れたことはありません。

就職しようとするも、面接さえ受けさせてもらえなかった

ニューオーリンズの家庭で虐待を受けて育った私は、早く大人になってそこから逃げ出そうと思っていました。19歳の時、オプラ・ウィンフリー・ショー(トーク番組)を見ていて「書き留めることはカタルシスだ」と言っていて、学校でその言葉の意味を調べるために辞書を探しに行ったのを覚えています。それから「I Know I’ve Been Changed」という、初めての戯曲のようなものを書き始めました。

その時期、私はジップリクルーター(米国の求人・転職ウェブサイト運営企業)で仕事を探していました。覚える必要はないですが、「新聞」と呼ばれる白黒の大きなやつです。ルイジアナ州のメテリーという小さな町の販売店で、車のセールスマンの広告を見ていました。

祖母の教えのとおり早起きをして店に向かい、申し込み書を取りにきた最初の人になれました。書いている時に他にも男が何人か来ましたが、みな私とは違いました。

私は座って、出てきたディーラーのマネージャーを見ていました。彼は私以外の全員と面接して、ようやく私の番になりました。そうして私は座っている最後の人間になり、面接をしてもらえるわけではなく、採用権限のないセールスマンに引き継がれ、マネージャーはオフィスに戻ってしまいました。

セールスマンは私と履歴書を見て、目を見て「大学も行ってない、高校も出てない、なにもしてない。履歴書さえ書けない、何ひとつできていない」と言いました。

言うまでもなく就職はできませんでしたが、神に感謝しています。なぜなら、そのことがすぐに私の人生を変えてくれたからです。

アトランタで夢を築こうと奮起するも何も起こらず、路上生活に

アトランタに住んでいた2人の大学生の友人が、春休みに誘ってくれました。黒人のキッズから「フリークニク(Freaknik:ジョージア州アトランタで毎年開催される春休みのお祭り。主に歴史的黒人大学の学生が参加)」と呼ばれているもので、黒人にとって究極の春休みになりました。

白人はビーチに行くけれど、90年代の黒人はグリーンブライアーモールに行きます。どうしてかなんて知りませんが、そうだったんです。他の子がパーティーを楽しんでいるあいだ、私は人生を変える出来事に遭遇します。

ニューオーリンズの貧困地域出身の私は、生まれて初めて黒人がうまくいっているのを見ました。そのうち何人かは卒業までしていた記憶があります。私は感化され、アトランタに移り住み、アトランタを私のホームにしました。ここで夢を築こうと思ったのです。

仕事を見つけ、お金を貯め、14番街の芝居小屋を借りて、初めて芝居を上演するためのお金を貯めることができました。

週末になれば1200人ぐらいは人が来ると期待していましたが、6公演やって30人でした。ショックでした。ただその30人のうちに、投資をしたいと言ってくれる人がいました。祖母が言うように、“茂みの中に雄羊がいる”ような、藪から棒の話でした。

そのあとどうなったかというと、何も起きませんでした。次にも投資したい人が出てきて、やってみましたが、何も起こりませんでした。何度も何度もあちらこちらで、7年もやったのに。

結局、アトランタの路上でホームレスになり、“レポマン”(車の取り立て屋)から隠れて車のなかで寝ていました。自殺願望があって、諦めたかった。でも、何かが私のことを呼んでいるような気がしました。前へ前へ進むよう押しているのです。

それは私にとっては神と呼べるものです。神の話が気に入らなければ押し付けようとは思いませんが、ただ、これは私のストーリーです。気に障ってしまったら申し訳ないが、静かに私の物語を聞いてほしい。

夢を諦めた時に出会った「教授」

ホームレースになった。7年も同じ劇をやってみた。そして諦めることにしました。「サウスセントラルベルで働くように。遊びはもういい。週給300ドルか400ドル、福利厚生のあるところに就け」と母に言われ、言われた通りにしました。

その頃、私の「教授」のもうひとり、プリマス博士と会います。私にとってプロモーターでもありました。「もう1回芝居をやってほしい」と投資の話をしてくれました。最終的に私はやることにしました。

彼は広告費を払う金がありませんでしたが、町中の人に宣伝できていると聞かされていました。何が起こっているのか聞くと、「人の繋がりがある。私がお金を稼いだらいつか払ってくれるだろうと信じてもらえている」と説明してくれました。

私たちはショーを行って、1998年3月12日にタバナクルでチケット完売までいきました。ピーチツリーのフォックスシアターでは、2回も公演して完売しました。すべてを諦めていたときに、夢にたどり着きました。あの時、立ち去っていたらどうなっていただろうとよく考えます。

ただ、成功のなかで気づいたことがあります。私にいろいろなことを言ってくれる人たちは、私が何になれないか教えてくれます。でも私が何になれるのか教えてはくれませんでした。

その時、その場、この瞬間(のチャンスを)を掴もうと私は決心しました。何があってもやるつもりでした。

自分の夢のためのハードワークを恐れてはいけない

ツアーに出て、年間何百回もの公演を行って、ステージで自分自身を表現してきました。テレビや映画にも出ました。2000時間を超えるショーのカタログを持って、24本の映画に出演して、その多くが興行成績1位を記録しています。スタジオを経営して、毎日何千人もの人が働いてます。このビジネスで成功するチャンスを得られなかった人も多いでしょう。

私は、夢を築くためにどれだけ時間がかかるかを知っています。好きなことを仕事にすれば一日たりとも“働く”ことはないという言葉を聞いたことがあります。きっとあなたも聞いたことがあるでしょう。

でも、私は違うように思います。好きなことを仕事にすれば、今まで働いたことがないほど、一生懸命働くことができます。想像を絶するような努力をすることになります。夢は、そのようなコミットを求めるのです。

私がここまでくるには、「非常識な労働倫理」が必要でした。時間と、労力と、犠牲が必要でした。最近よく思い出します。たぶんこれは言うべきではないですね……。

最近、みなさんと同い年ぐらいの人と面談をしました。1日8時間勤務の仕事の内容に専念するように言いました。彼女は私を制止して「ごめんなさい、私には無理です」と言いました。なぜダメなのか聞き返すと、4時間だけ働きたいというのです。どうしてか聞くと、「ワークライフバランスを持ちたい、1日24時間働きたいのはあなただけです」と答えました。

彼女はカミソリを取り出し、指の関節の毛を剃り始めました。彼女は今でもとても元気で、私は心配はしていますが……というのは冗談だとして、でも聞いてください。自分の夢のためであるなら、ハードワークを恐れないでください。プレッシャーを恐れないでください。

人生に価値を与えてくれる「教授」を探すこと

今日のような「安全な場所」を離れても、「教授」を探してください。みなさんの「もう教授なんかこりごりだよ、タイラー」という顔が見えてきます。でも教授というのは一生モノです。52歳になった私も、教授に会ってます。あなたの人生に入ってきてくれる人なら誰だっていいです。なにかを教えてくれて、価値を与えてくれる人です。その教えは時にハードで辛いものですが、あなたを強くしてくれます。

そういう人を教授としてカウントしてしてください。たとえば、車の販売店のひどい男のような人もそうです。彼は「君は何ひとつできてない」と言ってくれました。あれは教授でした。何かを成し遂げるとき、彼の声を思い出しています。

アーサー・プリムスのような教授は、素晴らしい人間関係を築くこと、素晴らしい名前を持つことの大切さを教えてくれた人です。やると言いさえすれば信頼され、チャンスと信用を与えてくれる人がいることを教えてくれました。アーサーは教授でした。

祖母のメイは、種を植えても翌日に何も出ないこと、忍耐と理解を教えてくれました。種を植えたら、育つのを待たなければなりません。自分ではどうしようもないことです。雨や日照りをコントロールすることはできません。土の下で起こることもわかりません。メイは教授でした。

植物を植えるとき、人生を始めるとき、仕事を始めるとき、ビジネスをするとき、思い出してください。夢を築くには時間がかかるかもしれません。

どんなに暗くても悪くても、もっと良い日が待っている

数週間前、素晴らしい教授に会いました。彼女は99歳で、名前はレナ・デリック・キング。彼女のことを話しましょう。

私には印象に残っている体験があって、たとえばホワイトハウスのトルーマンバルコニーで、バラク・オバマ元大統領やミシェル夫人と一緒に座ったことがあります。それからネルソン・マンデラとも食事をしました。その中でも、このレナという女性はとても印象的でした。

私は彼女と一緒に座っていました。99歳で、第二次世界大戦のシックストリプル大隊のメンバーでした。他の黒人女性は、2年以上も滞留していた郵便物を整理するために戦地に赴きました。老兵は、2年以上故郷からの郵便を受け取れていなかったのです。800人の女性が戦地に行って、1600万通の滞留郵便を90日ほどで解消しました。彼女は教授でした。彼女は「労働倫理」について話してくれました。

もし私が、劇がうまくいかず諦めて自殺していたら、人生の最良の部分を逃していたでしょう。どんなに暗くても悪くても、もっと良い日が待っていたんです。私が諦めていたら、タイラーペリースタジオで働く何千人もの人が夢を見るチャンスを失っていたかもしれません。社会から疎外された人たちです。

スタジオのある土地に関する「詩的な正義 poetic justice」について語らせてください。この土地はかつて(アメリカ南北戦争期の)南部連合軍の基地でした。いまここではあらゆる人種が働いています。土地の所有者は、(現地住民を)奴隷とするために戦った人々の子孫です。

(会場、感極まるタイラーに拍手)

自分の道を進み、自分の足跡を残すことを恐れないで

最後にお伝えしたいことです。当時4歳ぐらいの息子と海辺を歩いていて、ビーチの端まで行こうとしていました。息子は私の後ろにいて、ジャンプしては倒れ、ジャンプしては倒れを繰り返していました。私は(飼い犬の)の主人のように「お座り、座ってくれ......」と言いました。

もうひとつ、黒人は日焼けするためにビーチに行かないという話もありましたね。だからみんなでグリーンバーマレットに行ったのかもしれませんが、この話はどうでもいいです。

(会場笑)

息子はずっとジャンプしていました。私は立ち止まって息子を見ました。顔にも足にも砂がついています。何をやっているんだと聞くと、息子は「パパの足跡を辿っているんだ」と答えました。

私は心動かされました。私の足跡についていこうとジャンプをしていたのです。この美しく無垢で小さな生き物は、父親の足跡を辿りたかったのです。

なので私は、手をつないで、一緒にビーチを歩こうと言いました。海辺まで歩いて端の方まで行くと、息子は振り返り、自分の足跡を見ました。私は「君は君の足跡、私は私の足跡を作ったね」と言いました。

みなさんに言いたいのは、この人生こそが「自分の人生」だということです。両親のものでも誰のものでもなく、自分のものです。自分の人生を生きてください。自分の道を進むことを恐れず、道を切り開くことを恐れないでください。自分の道を進み、自分の足跡を残すことを恐れないでください。

掘り下げてくれる人がいたら、それはあなたにとって特別な存在です。自分の足跡を残そうと掘り進んでいるのに、何も起きない人もいるでしょう。足跡を残そうとしているのに、何も起きないというのは、もしかしたら「空気を読もう」としてるからかもしれません。

そんなあなたには、素晴らしい労働倫理を身につけてほしいです。教授を探し、足跡を残すのです。卒業おめでとうございます。

(会場拍手)

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