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河野多恵子の謎

 戦後の売れた歌、モノ、本を並べた雑書を見ていたら、1971年のところに河野多恵子の『回転扉』があった。これは三島事件のころに、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」として濃紺色の箱入りで出た本だ。それで『河野多恵子全集 第六巻』を図書館で借りてきて読み始めた。

 真子(まさこ)という40代の人妻が主人公で、子供はなく、かつて長沢という夫以外の男と情事を持ったことがある。最後は、別の夫婦とスワッピングみたいなことをすることになる。そのあとが戯曲形式になり、夫婦は実は兄と妹だったといった話になる。いつもの河野多恵子で、大して面白くないが、情事とかスワッピングとかフェラチオとかいう性的な話が出てくるのでベストセラー・リストに入ったのだろう。

 描写は一貫して突き放した冷たい感じで、主人公に感情移入させないが、この全集本には当時の文藝時評が載っていて、佐伯彰一、秋山駿、日野啓三小島信夫加賀乙彦清水徹といった面々が書いている。そこに、ナタリー・サロートとかマルグリット・デュラスとかあるのを見て、ああそうか、この書き方は当時のヌーヴォー・ロマンのマネなのかとやっと気がついた。

 私はかねて河野多恵子が苦手で、なんで蓮實先生が『みいら採り猟奇譚』を激賞したり河野多恵子全集を大切にしたりしているのか分からなかったが、なるほど蓮實先生もあの年配のフランス文学者としてヌーヴォー・ロマンが好きだったのかといくらか腑に落ちた。もっとも少し年上のフランス文学者の篠沢秀夫ヌーヴォー・ロマンはものすごくつまらないと言っていた。

 河野多恵子谷崎潤一郎の崇拝者でもあるのだが、この小説の批評に「フィクション」という言葉が数回出てきた。どうも批評家たちは、こういう経験が河野自身のものではない、ということを強調しなければならないと考えているらしい。しかし谷崎自身は、『瘋癲老人日記』に書いてあることを実践している。『みいら採り猟奇譚』に書かれたことは実践されていないのか、河野が死んで十年もたつが、伝記は出ていないし、そこのところはまったく不明なままである。

 河野とともに女性で初めて芥川賞選考委員をやった大庭みな子は「河野多恵子は悪人ですよ、お気を付けあそばせ」と言ったという。私は実際河野について触れた文章を、典拠を示さずに引用して批判されたことがあるが、これは著作権法違反である(もちろん反論した)。芥川賞の選考委員としては、女の候補者となるとむやみに推す癖のある人だった。なんで文化勲章をとるほどの作家扱いされているのか私には分からないし、こういうことを言っても誰も「お前は河野多恵子の偉大さが分からないのか」とか言ってこないから張り合いがないし不気味でもある。

 あと存命中に谷沢永一の弟子の浦西和彦が編纂した書誌が出ているが、これは大阪びいきの谷沢の意向だろう。

小谷野敦

アメリカ合州国

本多勝一が、「アメリカ合衆国」ではなく「アメリカ合州国」という本を出したのは、1970年のことで、「ユナイテッド・ステーツ」だから合州国だとしたのである。

 しかしそれから十年以上たって、高島俊男先生が、これをバカバカしい語呂合わせとして、もともと「合衆国」というのは幕末明治に「共和国」の意味で作られた言葉で、それを「合州国」などとしてもくだらないことで、それなら「アメリカ連邦」とでもしたほうがいい、と『お言葉ですが・・・』で書いたのである。

 私は当時高島先生を尊敬していたし、本多勝一は嫌いだったから「お、おう・・・」という感じで「アメリカ連邦」などと書いたりしていたのだが、これなど南北戦争の時に南部が名のった名前と同じになって紛らわしい。

 時間がたってみると、「合州国」と書きたい人は書けばいいんじゃないかと思うが、かといって自分もそれをする気にはならない。私はだいたい「米国」と書いている。

小谷野敦

庄野潤三『クロッカスの花』(1970)

 庄野潤三の随筆集『クロッカスの花』をざっと読んだ。とにかくお坊ちゃん育ちの温厚な人だから、人を批判したりはしない。ところが実は、映画を観ても筋よりも細部が気になる、というようなことを書くと、筋を楽しみに映画を観る人は自分はいけないことをしているんだろうかというかすかな圧迫を感じる。佐藤春夫は新幹線に乗ると雑誌なんか読まないでずっと外の景色を見ていて、それで飽きない、とそのことが佐藤の偉さであるかのように書くと、新幹線ですぐ雑誌を開く人を圧迫する。誰も傷つけないようでも実は圧迫しているのだ、ということに気づいた。

 世間にはこういう書き方をする人はほかにもいる。攻撃的に書く人もいる。

トーナメントと宮澤賢治

「ミゼラブル・ハイスクール1978」に書かなかったのかなと思ったが、高校二年くらいの時、友人の大村と戯れに、近代日本の文学者で誰が一番偉いかトーナメント戦をやったことがある。文庫の後ろに載っている広告などを参考に人名をたくさん集めて、二人一組にして、私と大村で意見が一致したらそちらの勝ち、意見が割れたらそのへんにいる友達に、「どっちが偉いと思う?」と訊くという遊びだったが、「上田三四二」という名前を見て大笑いした高橋というやつが、それから二回くらい、訊くと「さん、よん、に!」などと叫んでいたから苦笑したものだ。

 結局、最終勝利者宮澤賢治だったのだが、賢治の最後の対戦相手が誰だったかも覚えていない。

43年目の「第三の男」

私がキャロル・リードの「第三の男」を観たのは、1982年7月11日の土曜日に、NHKでゴールデンタイムに、世紀の名画を放送という鳴り物入りで放送した時のことで、私は一浪して東大一年生になったばかりの19歳だった。見終わって、面白くないので憮然とした。しかし当時のことだから、世間で名画と言われている映画が分からなかったというので狼狽した。当時よく映画の話をした中学校の時からの友達は、オーソン・ウェルズが出てくるとたちまちジョゼフ・コットンを食っちゃうね、などと言っていたが、それも特に感じなかった。最後に、アリダ・ヴァリが道端で待っているジョゼフ・コットンを完全無視して行ってしまうところも、解説者の話を聞いて意味は分かり、こういうところでぐっと来るべきものなんだろうなと思った。

 さて、直井明という先ごろ死去したミステリー評論家の『本棚のスフィンクス』という本を読んでいたら「第三の男」を細かく分析した箇所があったので、アマゾンプライムを見たらあったので、43年ぶりに観てみた。結論から言うと、大して感想は変わらず、別に面白くはなかった。どちらかというと、これまた名曲とされているアントン・カラスの音楽がやたらうるさく感じられた。

 だいたい、この視点人物の西部劇作家は、ハリー・ライムと20年来の友達だと言っているが、どういう友達で、前はどういう男に見えていたのかというのがまるで分からない。ペニシリンを水で薄めて流していた犯罪者が、昔はまともな男だったのか。それに西部劇作家だから「意識の流れ」やジョイスが分からないというのも、ずいぶんへちゃこい「作家」だなと私には思える。アリダ・ヴァリにしても、映画がそう見せたがっているほど魅力的でもないし、だいたい犯罪者に愛情を感じる心理が理解できない。

 もっとも、これは若い頃から映画ファンに対して抱いている疑問で、なんで映画ファンというのは犯罪者とか殺人鬼とかが好きなのであろうか、といういつもの疑問を感じただけにとどまった。あと「スイス500年の平和が生み出したのは鳩時計だけだ」という、オーソン・ウェルズが入れたという有名なセリフも、今なら「ルソーを生んだだろう」と反論するところだ(ヴォルテールはダメ)。

小谷野敦

金素雲と川端康成

金素雲(1907-81)は韓国の詩人だが、日本の韓国領有中に日本の北原白秋に師事し、島田謹二とも親しくしたため、戦後、日帝協力詩人として韓国では評判が悪いが、日本では『朝鮮詩集』や『朝鮮民謡集』を岩波文庫から出している。息子の武井遵は北原綴の筆名で少女愛ロリコン)小説などを書いていたが、銃刀法違反などいくつかの犯罪で摘発されており、佐木隆三が『恩讐海峡』で武井の金素雲に対する愛憎を描いている。東大比較文学では金素雲の印税を授与されたことから金素雲賞を創設し、東アジアからの留学生に主として授与していた。

 その金素雲の『近く遙かな国から』(新潮社、1979)に、1943年8月ころの戦争中に鎌倉の川端康成を訪ねた時のことが書いてある。だが金は何の用事で訪ねたのかすっかり忘れていて、その時川端の部屋に碁盤があるのを見て、今度一局囲みましょうなどと話をして、川端・武田麟太郎・間宮茂輔編『日本小説代表作全集』の11巻(小山書店)がちょうど出たばかりなので「金素雲様」と署名してもらい、帰宅したら川端の「名人」が載っていたので読んでいたら、これはどうやら囲碁もかなり強いらしいと人に訊いたら実際強いらしいと分かって川端と囲碁をやるのはやめにした、と書いてある。

 金素雲という人は温厚な人のように見えて、いかにも韓国人らしい激しさがあるらしく、あとのほうで、角川書店の『短歌』が1961年ころに企画した木俣修との北原白秋についての対談がボツになった(というか、金素雲がボツにした)話などは恐ろしい。対談場所となった料亭に編集長が遅れてきて、その間に仲居が料理を持ってきて襖の外から声をかけるのだが、角川の女性記者二人は何も言わないから金が「どうぞ」と答えるということが繰り返されるうち金が癇癪を起こし、編集長がやってきてニコニコしながら中腰で「では始めてください」と言ったのも気に入らず、対談は終わったのだがゲラが来ても返送もせず、半年一年と放置していたという話で、これは日本人には何がそんなに問題なのかというのと、木俣に罪はないではないかという感想を持つだろうが、いかにも礼儀に厳しい韓国人という感じがしてぞうっと背筋が寒くなる。

小谷野敦

百川敬仁氏のこと

百川敬仁氏(1947-)が死去したらしい。まだ正確にいつのことか分からないが、昨年か一昨年くらいだろう。

 私は1990年6月に修士論文を補正した『八犬伝綺想』を刊行して、8月にはカナダのヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学へ留学したのだが、その翌年ほどなくだったか、日本文学協会という左翼的な学会が出している『日本文学』という月刊学術雑誌の近世特集に寄稿するよう百川氏から依頼されたような気がする。もちろんメールなどない当時だから手紙だったのか。それで書いたのが「江戸の二重王権」という『八犬伝』論で、すると91年の暮れに一時帰国した際、高田衛に呼ばれているというので、私と百川氏と、やはり寄稿した櫻井進氏とで、雑司ヶ谷の日文協事務所へ行ったのだが、風間誠史という、当時高校教師で、今は相模女子大の理事長になっている人が「高田側」の人物としていて、「今度の論文は面白かったです」などと言っていた。

 その時百川さんは色々話したが、「なんでそんなに暗いんですか」などと言われていた。百川氏は旧姓を桑野といい、東大国文科から大学院をへて東大助手となり、国文学研究資料館から明治大学教授になっていたが、夫人が長く病気だったらしい。87年に『内なる宣長』、90年に『物語としての異界』という論文集を出していて、あとから思えばポストモダン風の、文藝評論じみた書き方をする人だった。櫻井という人も当時『江戸の無意識』というバリバリのポモ新書を出しており、名古屋大助教授だったが、どういうわけかその後南山大教授になり、交通事故で死んでしまった。

 92年夏に私は日本へ帰ってきた。カナダではアメリカ人教員のポリコレな振る舞いと合わず、博士論文執筆資格もとれずに帰国したのだが、当時東大本郷で百川氏が非常勤で教えていたのでそこへ会いに行ったら、「俵万智なんてのは天皇制です」というような話をしていた。終わってから教壇へ数人の学生が寄ってきて、女子学生が、そうですよ俵万智なんて、天皇制ですよと言っているのを、直感で適当なことを言っているなと思った。その時私は無精ひげを生やしていたので、百川氏は私に気がつかず、少ししてから「あっ、小谷野さん!」と気づいてくれた。

 それから本郷の正門前の喫茶店の二階で話していたら、あとから上がってきた30代の男性に会釈して、「長島(弘明)」と言ったのが、今度東大国文科の近世の専任になった人であったのを覚えている。百川氏は私のヴァンクーヴァーでの師匠だった鶴田欣也先生のところへ研究員で行っていたことがあるが、鶴田先生に聞いたら、デリダなどを引用するので自分が禁止したら大変不幸だったということであった。

 その後も何かと相談をしたりしていたが、94年に私は大阪大学へ行き、その夏に「甘え」をめぐる会議で東京へ来た時、東大の大澤吉博という、以前百川氏と同時に駒場の助手をしていた人(この人も若くして死んだ)から、百川夫人が死んだという話を聞いた。

 99年に私は阪大を辞めて東京へ帰ってきた。2000年に百川氏はちくま新書から『日本のエロティシズム』を出したのだが、これを近世文学の板坂則子さんが激しく批判していたが、公にはならなかった。その翌年に明治大学公開講座「江戸文学の明暗」というのをやり、私と百川氏、三田村雅子などがそれぞれ講演をした。2004年に百川氏が岩波から出した『夢野久作』が最後の単著になったが、贈られて読んで私には何が何だか分からなかった。すでに私はポモに批判的になっていて、さほど百川氏の仕事を評価していなかったのである。 

 百川氏は、目が悪くなったと言うようになり、それは緑内障だったらしいのだが、次第に音沙汰もなくなったが、2009年ころ、妻が明大和泉校舎で事務の仕事を始めたので、無理に勧めて百川氏に会わせたが、全然違う顔になっていたと言っていた。娘さんがいたが、アメリカで音楽大学に行っているとかいう話だった。これより前だが、日本人には天皇は必要だ、というようなことを言うので驚いたことがあるが、最初に会った時も、ハイデッガーを深読みしていて、あそこまで考えたらナチスになるのも分かるというような不穏なことを言っていた。

 メールも読めなくなっていたようなので遠慮していたが、かといって電話をするほどに距離は近くなくなっていた。最後にメールしたのは2019年、妻が交通事故に遭い、私が入院して大腸ポリープを切ったあとのことだった。

 そういえばまだ桑野姓だったころ、大学紀要に論文を載せたのを、谷沢永一から藤井貞和とともに批判されたこともあったというが、当人は藤井「じょうわ」と音読みして言っていた。私はその時、つい「(藤井貞和と一緒なら)いいじゃないですか」と言ってしまい、いやこれはまずいことを言ったかな、と思ったのを覚えている。

 そういえば筑摩書房の社長だった山野浩一さんは『もてない男』の担当編集者だが、百川さんと一緒に針治療を受けたことがあると言っていた。

小谷野敦