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マカッサル海峡海戦/バリクパパン沖海戦

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マカッサル海峡海戦
(非公式名称)
バリクパパン沖海戦

戦闘参加戦力

大日本帝国連合国
第一護衛隊(司令:西村祥治少将)第59駆逐隊
・第四水雷戦隊 旗艦:軽巡洋艦【那珂】(指揮官:ポール・H・タルボット中佐)
 第二駆逐隊 駆逐艦【ジョン・D・フォード】
  駆逐艦【村雨】 駆逐艦【ポープ】
  駆逐艦【春雨】 駆逐艦【パロット】
  駆逐艦【五月雨】 駆逐艦【ポール・ジョーンズ】
  駆逐艦【夕立】 
 第九駆逐隊 
  駆逐艦【朝雲】 
  駆逐艦【峯雲】 
  駆逐艦【夏雲】 
 第二十四駆逐隊 
  駆逐艦【江風】 
  駆逐艦【海風】 
輸送船 15隻 
掃海艇 4隻 
駆潜艇 3隻 
哨戒艇 3隻 
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緒戦唯一とも言える完敗 しかし上陸を成し遂げ作戦は成功

太平洋戦争が勃発してから1ヵ月。
日本は陸海の攻略が順調に進み、特に南方諸島には次々と日の丸が掲げられていった。
この勢いに任せて、1942年も日本は進軍の手を緩めず、インドネシアのボルネオ島南東に位置するバリクパパン攻略をもくろむ。
すでに1月12日には北東のタラカンを占領し、海軍はここを拠点として製油所を要するバリクパパン攻略の戦力を整え始めた。

しかしタラカンには多数の機雷が敷設されており、この除去と飛行場整備に手間取ってしまう。
この影響で空挺作戦は断念され、また突入日も1月20日から24日へと変更された。
バリクパパン攻略は石油という国家の血を本国へ送ることにもつながるため、【那珂】を旗艦とした第四水雷戦隊や小型艦艇とともに、16隻もの輸送船によって構成された。

一方、連合軍も日本の次の目標が製油所のあるバリクパパンであるという予測を立てていた。
警戒を強めるために連合軍は潜水艦10隻弱をマカッサル海峡へ送り込み、また水上艦隊も若干ながら出撃していた。
しかし航空支援のない中での偵察は危険だったため、水上艦の行動はかなり制限されていた。

そんな中、1月21日に【PBY カタリナ】がタラカンからバリクパパン沖に向けて航行している日本の船団を発見する。
この偵察情報はABDA連合艦隊司令部を通じてすぐにチモール島にて補給を受けていた軽巡2隻、駆逐艦6隻を取りまとめるウィリアム・A・グラスフォード少将へ届けられ、至急出撃することになった。
しかし【米ブルックリン級軽巡洋艦 ボイシ】は座礁、【米オマハ級軽巡洋艦 マーブルヘッド】は機関故障でともに作戦遂行が困難となり、迎撃部隊は主戦力である軽巡2隻を退場させざるを得なかった。
さらにこの護衛として駆逐艦が1隻ずつ随伴したため、最終的に日本艦艇を迎え撃つのは【米クレムソン級駆逐艦 ジョン・D・フォード、ポープ、パロット、ポール・ジョーンズ】の4隻だけとなってしまった。
日本は軽巡1隻、駆逐艦9隻であり、数でみれば圧倒的不利な状況である。

一方日本も順調とは言えない航海が続くことになる。
22、23日は天候不良により航空支援が得られらず、23日未明には【米サーモン級潜水艦 スタージョン】の魚雷攻撃を受ける。
【スタージョン】は船団から先行していた【海風、江風、はばな丸、漢口丸】を発見し、魚雷4本を発射する。
しかしこの魚雷はいずれも命中せず、逆に【海風、江風】が2時間以上に渡り【スタージョン】へ向けて爆雷攻撃を繰り返した。
だがこちらもまた命中はなく、【スタージョン】は戦場を離脱した。

23日夕方には爆撃機による空襲を受けたうえ、ソナーには潜水艦の探もあり、空中と海中からの襲撃という苦しい戦いを強いられた。
この空襲によって【辰神丸】が被弾、また【南阿丸】の被害は被弾によるガソリン引火という大惨事となり、消火が間に合わずに船体放棄となった。
【南阿丸】の乗員は【峯雲】に移乗し、船団は23日夜にはバリクパパンに到着した。
早速4隻の駆逐艦による掃海活動が行われ、周囲には警戒陣が敷かれた。

その警戒陣に楔を打ち込んだのが、【蘭潜水艦 K-18】である。
1月24日に日付が変わってまもなく、【那珂】が漆黒の水に泡立つ雷跡を発見。
当時の【那珂】はかなりの低速もしくは停止状態で、魚雷回避の行動はとれなかったという証言がある。
ギリギリ魚雷は【那珂】の艦首をかすめたが、そのツケは1km先にいた【敦賀丸】が払うことになる。
魚雷の直撃を受けた【敦賀丸】はこの衝撃に耐え切れずに沈没。
【敦賀丸】沈没を受けて、船団の周囲では各艦艇が警戒網を広げた。
まだ上陸は終わっていない。

【敦賀丸】が沈没していく中、まだ炎上中の【南阿丸】の煙に包まれた艦影を眺める4隻の姿があった。
いうまでもなく連合軍の駆逐艦である。
月光の力を借りて、この4隻からは煙の中にある日本艦艇の影がよく見えたようである。
一方日本側はまさか水上部隊までがやってくるとは思っておらず、周囲は煙で視界不良、そして潜水艦の襲撃を受けたばかりだったので、海上への警戒は疎かになっていた。

4隻は高速で一気に泊地へ突入し、奇襲を仕掛けた。
最初に敵に気づいたのは【第15号掃海艇】だったが、この時も最初は【那珂】と誤解したようである。
【第15号掃海艇】には魚雷が放たれたが、これは命中しなかった。
命中するのは、これからである。

アメリカ駆逐艦は2隻ずつに分離し、思う存分暴れまわることになる。
【ジョン・D・フォード】【球磨川丸】から反撃を受けるものの10発の砲弾を撃ち込む。
さらに船団の合間を縫うように高速で移動しながら乱れ撃ちを行い、【朝日丸・藤影丸・呉竹丸】が立て続けに被弾した。
【呉竹丸】には魚雷も撃ち込み、【呉竹丸】はこの魚雷によって沈没した。

他の3隻も負けじと【特設急設網艦 須磨浦丸】に魚雷を命中させて屠り、続いて【パロット、ポール・ジョーンズ】【辰神丸】を雷撃によりこれもまた仕留める。
最後にまだ戦況を理解できずに右往左往している【第37号哨戒艇】にも魚雷を命中させてこれも大破させた。
この時も【第37号哨戒艇】は近づく艦影を【那珂】と勘違いしていた。
闇夜に浮かぶ特徴的な4本煙突は、敵艦が現れたことをまだ理解できていない日本にとって大きな混乱を招いた。
近くにいた【第36号哨戒艇】がこの時に「敵巡洋艦4隻発見」の報告を行っている。
しかし【那珂】からは「第二駆逐隊の見間違いではないのか」と聞き返しており、本当に敵水上艦の到来に気づいていなかったのである。
【第15号哨戒艇】とすれ違ってからこの間、わずかに20分。

4隻の駆逐艦にいいように暴れられている時、【那珂】はどこにいたのか。
【那珂】【朝雲、夏雲、峯雲】とともに泊地から10km以上離れたところで広域警戒を行っており、すでに懐に入り込んでいる敵艦に気づくことができなかったのである。
【第15号哨戒艇】がすれ違いざまに魚雷を撃たれた後に敵艦の襲来を報告していたが、周囲には潜水艦の脅威や警戒中の味方駆逐艦の存在があり、【那珂】からは潜水艦への警戒を怠らないようにという命令が下っただけだった。
ようやく【那珂】らが動き始めたのは、【第36号哨戒艇】への通信に対して「巡洋艦ではなく駆逐艦の誤り」という返信を受けたあとだったが、すべては後の祭りだった。
唯一戦果といえるのは、再び現れた【K-18】【第12号駆潜艇】が爆雷によって損傷させたぐらいであった。
【K-18】は最終的には3月に自沈処分となっている。

夜明けとともに被害状況が明らかになった。
輸送船3隻と【須磨浦丸】が沈没し、【朝日丸】【第37号駆潜艇】が大破。
「バリクパパン沖海戦」は太平洋戦争開戦後、一番多くの艦艇に被害が出た海戦となり、初めての完敗と言えた。

しかし輸送に関しては大きな影響がなく、24日は天候も回復したことから航空支援も受けれるようになる。
艦船被害は大きかったものの、輸送・揚陸という目的は達せられ、以降の妨害についても作戦に支障が出るような被害は出なかった。
作戦の成功によって大きな目標であったバリクパパンの油田は無事に確保され、日本の資源供給と以降の攻略に際しての拠点として、多大な恩恵をもたらした。

日本の戦略的勝利アメリカの戦術的勝利

両者損害

大日本帝国連合国
沈 没
輸送船【敦賀丸】 
輸送船【呉竹丸】 
特設急設網艦【須磨浦丸】 
輸送船【辰神丸】 
輸送船【南阿丸】 
大 破
【第三七号哨戒艇】 
輸送船【朝日山丸】 
小 破
 【ジョン・D・フォード】
喪 失・損 傷
戦死者 120人以上戦死者 不明
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