1962年の野球
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1962年の野球(1962ねんのやきゅう)では、1962年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
[編集]日本プロ野球
[編集]ペナントレース
[編集]
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日本シリーズ
[編集]日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 |
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10月13日(土) | 第1戦 | 東映フライヤーズ | 5 - 6x | 阪神タイガース | 阪神甲子園球場 |
10月14日(日) | 第2戦 | 東映フライヤーズ | 0 - 5 | 阪神タイガース | |
10月15日(月) | 移動日 | ||||
10月16日(火) | 第3戦 | 阪神タイガース | 2 - 2 | 東映フライヤーズ | 明治神宮野球場 |
10月17日(水) | 第4戦 | 阪神タイガース | 1 - 3 | 東映フライヤーズ | |
10月18日(木) | 第5戦 | 阪神タイガース | 4 - 6x | 東映フライヤーズ | 後楽園球場 |
10月19日(金) | 移動日 | ||||
10月20日(土) | 第6戦 | 東映フライヤーズ | 7 - 4 | 阪神タイガース | 阪神甲子園球場 |
10月21日(日) | 第7戦 | 東映フライヤーズ | 2 - 1 | 阪神タイガース | |
優勝:東映フライヤーズ(初優勝) |
個人タイトル
[編集]セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||||
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タイトル | 選手 | 球団 | 成績 | 選手 | 球団 | 成績 |
最優秀選手 | 村山実 | 阪神 | 張本勲 | 東映 | ||
最優秀新人 | 城之内邦雄 | 巨人 | 尾崎行雄 | 東映 | ||
首位打者 | 森永勝治 | 広島 | .307 | J.ブルーム | 近鉄 | .374 |
本塁打王 | 王貞治 | 巨人 | 38本 | 野村克也 | 南海 | 44本 |
打点王 | 王貞治 | 巨人 | 85点 | 野村克也 | 南海 | 104点 |
最多安打 | 長嶋茂雄 | 巨人 | 151本 | 榎本喜八 | 大毎 | 160本 |
盗塁王 | 河野旭輝 | 中日 | 26個 | 広瀬叔功 | 南海 | 50個 |
最優秀防御率 | 村山実 | 阪神 | 1.20 | 久保田治 | 東映 | 2.12 |
最多勝利 | 権藤博 | 中日 | 30勝 | 久保征弘 | 近鉄 | 28勝 |
最多奪三振 | 小山正明 | 阪神 | 270個 | 米田哲也 | 阪急 | 231個 |
最高勝率 | 小山正明 | 阪神 | .711 | 皆川睦男 | 南海 | .826 |
ベストナイン
[編集]セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |||
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守備位置 | 選手 | 球団 | 選手 | 球団 |
投手 | 村山実 | 阪神 | 稲尾和久 | 西鉄 |
捕手 | 森昌彦 | 巨人 | 野村克也 | 南海 |
一塁手 | 王貞治 | 巨人 | 榎本喜八 | 大毎 |
二塁手 | 小坂佳隆 | 広島 | J.ブルーム | 近鉄 |
三塁手 | 長嶋茂雄 | 巨人 | 小玉明利 | 近鉄 |
遊撃手 | 吉田義男 | 阪神 | 豊田泰光 | 西鉄 |
外野手 | 近藤和彦 | 大洋 | 張本勲 | 東映 |
並木輝男 | 阪神 | 山内一弘 | 大毎 | |
森永勝治 | 広島 | 吉田勝豊 | 東映 |
オールスターゲーム
[編集]→詳細は「1962年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
高校野球
[編集]- 第34回選抜高等学校野球大会優勝:作新学院(栃木県)
- 第44回全国高等学校野球選手権大会優勝:作新学院(栃木県)
- 作新学院が史上初の春夏連覇
大学野球
[編集]- 第11回全日本大学野球選手権大会優勝:法政大
社会人野球
[編集]メジャーリーグ
[編集]→詳細は「1962年のメジャーリーグベースボール」を参照
- ワールドシリーズ
- ニューヨーク・ヤンキース(ア・リーグ) (4勝3敗) サンフランシスコ・ジャイアンツ(ナ・リーグ)
できごと
[編集]1月
[編集]3月
[編集]- 3月30日 - 内村祐之コミッショナーが、1939年のヴィクトル・スタルヒンの勝利数を40勝から以前の42勝に戻す公式見解を発表。前年の稲尾和久の42勝はプロ野球タイ記録となる。
4月
[編集]- 4月7日
- 第34回選抜高等学校野球大会の決勝戦が行われ、作新学院高校が日大三を1対0で破り、初優勝を達成[2]。
- プロ野球のセントラル、パシフィック両リーグの公式戦が開幕[3]。
- 4月8日 - 阪急の杉山光平が大阪球場での対南海2回戦の4回表に安打を打ち、プロ通算1000安打を達成[4]。
- 4月19日 - 東映の毒島章一が後楽園球場での対阪急3回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[5]。
- 4月22日 - 阪神の三宅秀史が甲子園球場での対中日ダブルヘッダー第二試合の3回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[6]。
- 4月28日 - 東映の土橋正幸が平和台球場での対西鉄4回戦に先発して5勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[7]。
5月
[編集]- 5月1日 - 正午より丸の内の東京会館にて新コミッショナーの内村祐之の就任式が行われる[8]。
- 5月5日 -【MLB】ロサンゼルス・エンゼルスのボー・ベリンスキーが対ボルチモア・オリオールズ戦においてノーヒットノーランを達成、スコアは2対0。
- 5月25日 - 阪急の足立光宏が西宮球場での対南海8回戦に先発して17奪三振を記録し、1試合奪三振の新記録を達成[9]。
- 5月26日 - 南海は監督の鶴岡一人が休養し守備コーチの蔭山和夫が監督代行を務めると発表[10]。
- 5月27日 - 読売ジャイアンツの山崎正之がイースタン・リーグの対大洋ホエールズ戦において完全試合を達成。ウェスタン・リーグを含め、二軍公式戦ではノーヒットノーランを含めて初の無安打無得点記録となった[11]。
6月
[編集]- 6月2日 - 東京スタジアムの開場式が午後4時より行われ、パ・リーグ全6球団の選手が参加[12]。
- 6月17日 - 広島の長谷川良平が広島球場でのダブルヘッダー第1試合の対大洋11回戦の9回表に登板し、島田源太郎から三振を奪い、プロ通算1500奪三振を達成[13]。
- 6月30日 - 西鉄の高倉照幸が後楽園球場での対東映10回戦に出場しプロ通算1000試合出場を達成[14]。
7月
[編集]- 7月1日
- 7月12日
- 7月14日 - 近鉄の関根潤三が平和台球場での対西鉄9回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[18]。
- 7月19日
- 7月21日 - 大洋の森徹が広島市民球場での対広島16回戦で12号本塁打を打ち、プロ通算100本塁打を達成[21]。
- 7月22日 - 近鉄が東京スタジアムでの対大毎ダブルヘッダーの第1試合18回戦の1回表に、1番の矢ノ浦国満から8番の吉沢岳男まで8者連続得点を記録、パ・リーグ4度目の記録[22]。この試合で近鉄は1回表に8点を挙げ、第2試合の1回表にも8点を挙げる[23]。
- 7月29日 - 南海の島原輝夫が大阪球場での対西鉄20回戦の5回表に代打で出場し、プロ通算1000試合出場を達成[24]。
8月
[編集]- 8月1日 -【MLB】レッドソックスのビル・モンボークエットが対シカゴ・ホワイトソックス戦においてノーヒットノーランを達成、スコアは1対0[25]。
- 8月2日 - 川崎球場は有料入場者数を発表。この日の大洋対広島20回戦は2500人[26]。
- 8月3日 - フジテレビは午後3時からホテルオークラにて記者会見し、国鉄スワローズの経営に参加すると正式に発表[27]。
- 8月5日 - 第33回都市対抗野球大会の決勝戦が行われ、日本石油が日本通運名古屋を12対0で破り、2年連続4度目の優勝を達成。
- 8月7日 - 南海の岡本伊三美が大阪球場での対阪急20回戦でプロ通算1000安打を達成[28]。
- 8月8日 - 去る5月26日より休養していた南海の鶴岡一人が監督に復帰[29]。
- 8月12日 - 西鉄の仰木彬が平和台球場での対東映20回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[30]。
- 8月19日
- 第44回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が行われ、作新学院高校が久留米商を1対0で破り、 史上初の春夏甲子園連覇となる初優勝を達成。
- 阪急の米田哲也が西宮球場での対東映16回戦の六回表に安藤順三から三振を奪い、プロ通算1000奪三振を達成[31]。
- 8月25日 - 西鉄の稲尾和久が東京球場での対大毎16回戦で勝利投手となり、プロ通算200勝を達成[32]。
- 8月30日 - 国鉄の金田正一が後楽園球場での対大洋ダブルヘッダー第1試合の25回戦の十二回表に桑田武から三振を奪い、プロ通算3500奪三振を達成[33]。
9月
[編集]- 9月2日 - 国鉄の金田正一が後楽園球場での対巨人25回戦の九回裏に藤尾茂から三振を奪い、ウォルター・ジョンソンの持つメジャー・リーグの記録と並ぶ通算3508奪三振を記録[34]。
- 9月5日
- 9月6日 - 阪神の三宅秀史が川崎球場にて試合前、外野にてキャッチボール中に小山正明の投げた球が左眼に直接ぶつかり、球場近くの川崎市民病院にて診察を受け「最低1週間の入院が必要。失明の恐れはない」との診断をうけ、同球場での対大洋24回戦を欠場。全イニング連続試合出場のプロ野球記録が700で止まる[37]。
- 9月7日 - 阪急はラリー・レインズとの契約を9月1日付で解除したと発表。レインズからの「家庭の事情により退団したい」との申し出を認める[38]。
- 9月11日 - 東映が神宮球場での対大毎23回戦の二回から六回まで5イニング連続併殺のパ・リーグ新記録[39]。
- 9月12日 - 阪神のマイク・ソロムコが1甲子園球場での対大洋24回戦にて2三振を喫し、1957年に巨人・宮本敏雄が記録したシーズン最多三振108のセ・リーグ記録を更新するシーズン109三振となる[40]。
- 9月15日
- 9月18日 - 大毎の葛城隆雄が東京球場での対南海23回戦の四回裏に二塁打を打ち、プロ通算1000安打を達成[43]。
- 9月22日 - 大洋は川崎球場での対中日24回戦において、大洋の三原修監督による「ルールのスキをついた」とされる スタメンに偵察メンバーを7人使用。試合は3対2で大洋が勝利[44]。
- 9月30日
10月
[編集]- 10月3日 - 阪神タイガースが甲子園球場での対広島26回戦で6対0と勝利し、1947年以来15年ぶり、2リーグ制となってからは初のリーグ優勝を達成[49]。先発の小山正明が完封勝利を挙げ、セ・リーグ新記録となる一シーズン最多の13完封勝利[50]{。
- 10月5日 - プロ野球の1962年度の最高殊勲選手、最優秀新人、ベストナインを決める記者投票の開票が行われ、セ・リーグは阪神の村山実、パ・リーグは張本勲。最優秀新人にセ・リーグは城之内邦雄、パ・リーグは尾崎行雄が選出される。城之内は満票[51]。
- 10月6日
- 10月7日 - 中日の権藤博が川崎球場での対大洋26回戦に先発して完封で30勝目を挙げ、セ・リーグ新記録の2年連続30勝を達成[55]。
- 10月8日 - 沢村栄治賞の選考が東京運動記者クラブ部長会によって午後零時半から銀座西のホテル日航にて行われ、阪神の小山正明が選出される[56]。
- 10月15日 - 中日は午前10時より東京観光ホテルにて記者会見し、元ピッツバーグ・パイレーツのジム・マーシャルの入団を正式に発表[57]。
- 10月16日 - 【MLB】ワールドシリーズ第7戦が行われ、ニューヨーク・ヤンキースがサンフランシスコ・ジャイアンツを1対0で破り、4勝3敗で2年連続20度目の優勝を達成。
- 10月21日 - プロ野球日本シリーズ第7戦が午後1時1分から甲子園球場で行われ、東映が阪神に延長12回2-1で勝利し、初の日本一を達成[58]。
- 10月27日 - 大毎のオーナーの永田雅一は監督の宇野光雄について「宇野君には一軍の監督をやめてもらう」と言明。夜、松浦晋球団代表も「宇野君にはとうにいいわたしてあった」と認める[59]。
11月
[編集]- 11月5日 - 大毎は午前11時より東京・京橋の大映本社にて幹部会議を開き、来年の新監督として二軍監督の本堂保弥の昇格を決定[60]。
- 11月7日 - 阪急は午後5時から大阪市梅田区の航空ビル内「シルバー」にて記者会見し、監督の戸倉勝城を解任し、後任にコーチの西本幸雄が新監督に就任すると正式に発表[61]。
- 11月15日 - 大毎は来年の一軍コーチ陣を正式に発表。一軍監督本堂保弥、打撃コーチ藤井勇、投手コーチ植村義信、内野コーチ坂本文次郎、二軍監督田中義雄[62]。
- 11月26日 - 西鉄の球団社長の西亦次郎は午後6時半から球団事務所にて会見し、豊田泰光を国鉄へ金銭トレードすると発表[63]。
- 11月27日 - 広島は広島市のグランドホテルにて緊急の役員会を開き、球団社長の伊藤信之の辞任を了承し後任に東洋工業社長の松田恒次が就任し、また新監督に白石勝巳が就任すると決定[64]。
12月
[編集]- 12月1日 - 大洋は午後、東京・銀座の球団事務所にて来年の首脳陣を発表。秋山登が一軍投手コーチ兼任、二軍監督に前一軍打撃コーチの宮崎要、スカウト部長に前二軍監督の保井浩一が就任[65]。
- 12月10日 - 中部日本新聞社は午後3時から球団担当の役員会議を開き、中部日本放送の野球解説者で球団OBの杉浦清を新監督に招聘し、監督の濃人渉を二軍監督とする人事を決定[66]。
- 12月17日 - 中日の一軍前監督の濃人渉が中日本社にてオーナーの大島一郎と会見し、球団から要請された二軍監督の就任を固辞し、技術顧問として球団に残ることを決定[67]。
- 12月23日 - 広島の斎藤達雄と大毎の佐々木勝利の交換トレードが成立したと広島が発表[68]。
- 12月25日 - 巨人は午後、読売新聞社特別会議室にて株主総会を開き、取締役の宇野庄司の退任、読売新聞社取締役の正力亨の副社長就任を承認[69]。
誕生
[編集]1月
[編集]2月
[編集]3月
[編集]4月
[編集]- 4月2日 - 小川博
- 4月3日 - 刀根剛
- 4月6日 - 秋山幸二
- 4月10日 - 広澤克実
- 4月12日 - 中条善伸
- 4月17日 - 吉村元富
- 4月20日 - 金城博和
- 4月26日 - 中西清起
- 4月28日 - 河野博文
5月
[編集]- 5月4日 - 川村一明
- 5月8日 - オレステス・デストラーデ
- 5月10日 - ジョーイ・マイヤー
- 5月15日 - 本西厚博
- 5月16日 - 渡部勝美
- 5月19日 - 宮下正彦(+ 2008年)
- 5月23日 - 小川宗直
- 5月26日 - 長谷川国利
- 5月27日 - 白幡隆宗
6月
[編集]- 6月2日 - ダネル・コールズ
- 6月2日 - 森忠仁
- 6月6日 - 高仁秀治
- 6月9日 - 佐藤洋
- 6月16日 - 宮城弘明
- 6月17日 - 青木秀夫
- 6月19日 - 西本和人
- 6月22日 - ブライアン・プライス
- 6月28日 - 松林和雄
- 6月30日 - トニー・フェルナンデス
7月
[編集]8月
[編集]- 8月1日 - スコット・アンダーソン
- 8月3日 - 上田和明
- 8月4日 - ロジャー・クレメンス
- 8月8日 - 大津一洋
- 8月9日 - 竹田光訓
- 8月12日 - デビット・パブラス
- 8月13日 - 佐藤文彦
- 8月15日 - 愛甲猛
- 8月19日 - 小野和幸
- 8月22日 - ダリン・ジャクソン
- 8月23日 - 渡真利克則
- 8月29日 - 伊東勤
9月
[編集]- 9月1日 - 飯塚富司
- 9月1日 - 大久保哲也
- 9月2日 - 和田豊
- 9月2日 - ジョニー・パリデス(+ 2020年)
- 9月3日 - 榊原聡一郎
- 9月8日 - 高山郁夫
- 9月14日 - 駒田徳広
- 9月27日 - ドン・シュルジー
10月
[編集]- 10月7日 - タイラー・バン・バークレオ
- 10月9日 - 佐々木修
- 10月13日 - 山脇光治
- 10月17日 - グレン・ブラッグス
- 10月21日 - リチャード・ウィッグス
- 10月26日 - 古谷盛人
- 10月30日 - 中馬賢治
11月
[編集]12月
[編集]死去
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 読売新聞1962年1月13日6面「広島、新首脳陣を発表」
- ^ 毎日新聞1962年4月7日夕刊1面「作新学院が初優勝 センバツ 日大三を完封」毎日新聞縮刷版1962年4月p141
- ^ 毎日新聞1962年4月7日夕刊7面「プロ野球も一斉に 東映・大映は神宮を舞台」毎日新聞縮刷版1962年4月p147
- ^ 読売新聞1962年4月9日6面「杉山が千本安打」読売新聞縮刷版1962年4月p186
- ^ 毎日新聞1962年4月20日9面「毒島、千試合出場」毎日新聞縮刷版1962年4月p413
- ^ 毎日新聞1962年4月23日6面「阪神三宅選手が千試合出場」毎日新聞縮刷版1962年4月p476
- ^ 毎日新聞1962年4月29日7面「土橋がプロ入り百勝」毎日新聞縮刷版1962年4月p603
- ^ 読売新聞1962年5月2日7面「新コミッショナーが誕生 きのう内村就任式」読売新聞縮刷版1962年5月p29
- ^ 毎日新聞1962年5月25日9面「足立(阪急)奪三振17の新記録 カーブでなで切り 南海打線、全く無気力」毎日新聞縮刷版1962年5月p505
- ^ 読売新聞1962年5月27日7面「鶴岡監督、第一線退く 気分一新に 蔭山コーチが代行」
- ^ 『ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2012年11月、72頁。
- ^ 読売新聞1962年6月3日7面「東京スタジアム 花やかに開場式」読売新聞縮刷版1962年6月p51
- ^ 読売新聞1962年6月18日7面「広島の長谷川 奪三振千五百」読売新聞縮刷版1962年6月p393
- ^ 読売新聞1962年7月1日7面「高倉(西鉄)が千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p7
- ^ 読売新聞1962年7月2日7面「大毎、近鉄も1勝1敗 葛城通算百ホーマー」読売新聞縮刷版1962年7月p35
- ^ 読売新聞1962年7月13日7面「村田(国鉄)無念の一投 九回二死、完全試合逃す」読売新聞縮刷版1962年7月p289
- ^ 読売新聞1962年7月13日7面「秋山、千五百三振奪う」読売新聞縮刷版1962年7月p289
- ^ 読売新聞1962年7月14日7面「関根(近鉄)千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p335
- ^ 読売新聞1962年7月20日7面「小山が通算百五十勝 4試合連続完封で飾る」読売新聞縮刷版1962年7月p443
- ^ 読売新聞1962年7月20日7面「鈴木武、千試合出場」読売新聞縮刷版1962年7月p443
- ^ 読売新聞1962年7月22日7面「森、通算百号ホーマー」読売新聞縮刷版1962年7月p485
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「パ、4回目の珍記録」読売新聞縮刷版1962年7月p509
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「二試合とも初回に8点 近鉄、大毎投手陣を粉砕」読売新聞縮刷版1962年7月p509
- ^ 読売新聞1962年7月23日7面「島原、千試合出場記録」読売新聞縮刷版1962年7月p655
- ^ 読売新聞1962年8月3日7面「ノーヒット・ノーラン レッドソックスのモ投手」読売新聞縮刷版1962年8月p49
- ^ 読売新聞1962年8月3日7面「川崎で観客数公表」読売新聞縮刷版1962年8月p49
- ^ 読売新聞1962年8月4日6面「資金面で経営強化 経営の実態は変わらず フジテレビの国鉄参加」読売新聞縮刷版1962年8月p70
- ^ 読売新聞1962年8月8日6面「岡本千本安打を記録」読売新聞縮刷版1962年8月p154
- ^ 読売新聞1962年8月9日7面「南海監督が復帰 まず阪急と星分ける」
- ^ 読売新聞1962年8月13日7面「仰木が千試合出場」読売新聞縮刷版1962年8月p263
- ^ 読売新聞1962年8月20日7面「米田、通算千五百奪三振」読売新聞縮刷版1962年8月p411
- ^ 読売新聞1962年8月26日7面「稲尾(西鉄)通算二百勝を達成 自ら2ランで飾る 大毎は榎本の14号だけ」読売新聞縮刷版1962年8月p537
- ^ 読売新聞1962年8月31日7面「金田、奪三振三千五百」読売新聞縮刷版1962年8月p649
- ^ 読売新聞1962年9月3日7面「金田投手(国鉄)奪三振世界タイ 十三年で三千五百八」読売新聞縮刷版1962年9月p53
- ^ 読売新聞1962年9月6日7面「金田奪三振の世界新 3509個目は坂崎から 対巨人最終戦飾り18勝」読売新聞縮刷版1962年9月p119
- ^ 読売新聞1962年9月6日7面「バルボン千試合出場」読売新聞縮刷版1962年9月p119
- ^ 読売新聞1962年9月7日6面「三宅選手(阪神)がケガ」読売新聞縮刷版1962年9月p140
- ^ 読売新聞1962年9月8日6面「阪急、レインズの契約を解除」読売新聞縮刷版1962年9月p162
- ^ 読売新聞1962年9月12日7面「パ新の5回連続併殺」読売新聞縮刷版1962年9月p253
- ^ 読売新聞1962年9月13日7面「ソロムコ三振新記録」読売新聞縮刷版1962年9月p275
- ^ 読売新聞1962年9月16日7面「金田、12年連続の20勝 阪神を抑え、自ら決勝打」読売新聞縮刷版1962年9月p341
- ^ 読売新聞1962年9月16日7面「藤田プロ入り100勝 広島を完封、巨人3位へ」読売新聞縮刷版1962年9月p341
- ^ 読売新聞1962年9月19日7面「葛城が千本安打」読売新聞縮刷版1962年9月p411
- ^ “【9月22日】1962年(昭37) 三原監督、ルール守ってアテ馬7人 エースも三塁守らせる”. スポーツニッポン (2012年9月22日). 2015年11月22日閲覧。
- ^ 読売新聞1962年9月30日夕刊1面「東映初優勝決まる パ・リーグ」読売新聞縮刷版1962年9月p647
- ^ “㊷ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」 第7節「躍進 東映フライヤーズ日本一!」”. 創立70周年特別寄稿『東映行進曲』. note (2022年5月31日). 2024年11月17日閲覧。
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- ^ 読売新聞1962年11月7日7面「阪急監督に西本 戸倉は退陣」読売新聞縮刷版1962年11月p141
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- ^ 読売新聞1962年11月27日7面「豊田(西鉄)国鉄へ移籍」読売新聞縮刷版1962年11月p597
- ^ 読売新聞1962年11月28日6面「広島監督に白石氏復帰」読売新聞縮刷版1962年11月p620
- ^ 読売新聞1962年12月2日7面「秋山がコーチ兼任 大洋、来年の陣容きまる」読売新聞縮刷版1962年12月p31
- ^ 読売新聞1962年12月11日7面「中日監督に杉浦復帰」読売新聞縮刷版1962年12月p245
- ^ 読売新聞1962年12月18日7面「農人(中日)技術顧問に」読売新聞縮刷版1962年12月p413
- ^ 読売新聞1962年12月23日7面「斎藤(広島)佐々木(大毎)交換」読売新聞縮刷版1962年12月p523
- ^ 読売新聞1962年12月26日6面「読売巨人軍 正力亨氏が副社長」読売新聞縮刷版1962年12月p592