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松井光介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松井 光介
2012年8月17日、明治神宮野球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道札幌市豊平区
生年月日 (1978-08-24) 1978年8月24日(46歳)
身長
体重
170 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2005年 大学生・社会人ドラフト3巡目
初出場 2006年4月5日
最終出場 2013年7月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

松井 光介(まつい こうすけ、1978年8月24日 - )は、北海道札幌市豊平区出身[1]の元プロ野球選手投手)。右投右打。

現在は、東京ヤクルトスワローズのスコアラーを務めている。

経歴

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プロ入り前

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中学2年時に父の転勤で東京都江戸川区に転居。江戸川南シニアを経て、1994年横浜高校に入学。シニアリーグ、高校を通じて松坂大輔の2年先輩にあたる。

シニア時代は投手だったが、同期に丹波慎也[2]がいたため投手としては同学年内では2番手という存在だった[3]が2年次より外野手としてプレーしている。同年の第76回全国高等学校野球選手権大会に横浜高は5年振りの出場を果たすが、那覇商に初戦で敗れている。翌1995年春夏も甲子園出場を目指したが、叶わなかった。

夏の神奈川予選敗退後、エースで4番の丹波を中心とする新チームを結成、翌年の甲子園を目指しての猛練習が始まった。ところがその直後の1995年8月17日の朝、その丹波が就寝中に先天性肥大型心筋症による心臓発作を起こし急逝してしまう(満17歳没)[4][5]。当時の横浜高校ナインを初め、渡辺元智監督達も悲しみに暮れたが、この悲劇をきっかけに松井は急遽横浜高校のエースの座を引き継ぎ、チームを引っ張っていくことになる。その横浜高校は、1996年に念願の甲子園春夏連続出場を果たした。1996年春第68回選抜高等学校野球大会では1回戦で大阪学院大高にわずか1点差で敗れた。しかし同年夏の第78回全国高等学校野球選手権大会は初戦で山田秋親がいた北嵯峨に、8回表まで0-1とリードされていたが、8回裏に逆転で下して勝利を飾る。次の試合では福井商に8回裏までに4-2とリードしながらも、勝利寸前の9回表に自らの悪送球をきっかけに、逆転で敗れてしまった。奇しくも福井商に敗れたその日は前年亡くなった丹波慎也の命日であった。

横浜高校のチームメートには阿部真宏幕田賢治らがいる。

1997年に高校卒業後、亜細亜大学に進学し同大学硬式野球部所属。日米大学野球の代表選手にも選ばれる。大学の同期に後にチームメイトとなる吉川昌宏投手、1年上に佐藤宏志投手、2年上に赤星憲広らがいた。東都大学リーグ通算25試合登板、10勝6敗、防御率2.56、114奪三振。4年時の2000年春のリーグでは5勝2敗の活躍で優勝に貢献し、最高殊勲選手と最優秀投手に選ばれた。大学選手権でも2年下木佐貫洋との両輪で投げ、高校の2年後輩小山良男(社会人でも組む)とのバッテリーで優勝。

2001年に大学卒業後、社会人のJR東日本へ入社。社会人ではJR東日本硬式野球部のエースとして都市対抗野球大会にも出場するが、プロからの指名は長らくなかった。

2005年大学生・社会人ドラフトヤクルトスワローズに3巡目指名され、27歳にしてようやくプロ入りを果たす。

プロ入り後

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2006年5月14日の対オリックス・バファローズ戦で先発し、5回を2失点に抑えて初勝利を挙げた。先発は2試合のみで中継ぎとしてさまざまな場面で登板し、最終的には40試合で64回を投げて3勝5敗防御率4.08という成績を残した。

2007年は前年に引き続き、主に中継ぎと先発がいなくなった際の先発登板をこなした。4月29日の対巨人戦で、プロ入り後自身最長の6回を2失点に抑えると、6回裏に打線が逆転し勝利投手になった。しかしこれ以降はパッとせず、成績を大きく下げてしまった。

2008年、ロングリリーフや先発の谷間としての役割を担い、27試合に登板し、1勝2敗という成績を残した。

2009年、序盤は2軍で過ごすことになったが、後半戦から前年に引き続きロングリリーフとしての役割を担い、17試合に登板した。

2010年2011年は共に精彩を欠いた投球が多く残ったものの、11年のシーズン後半は故障者が続出する中ロングリリーフとして貢献し投球内容も安定したものを残した。

2013年10月8日に球団から戦力外通告を受ける[6]。その後、現役引退を表明した。

現役引退後

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10月31日に、球団スタッフとしてチームに残ることが発表され、スコアラー兼打撃投手に就任した。

選手としての特徴・人物

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最速147km/hの速球と鋭いフォークボールなど多彩な変化球を駆使する右腕[7]

江戸川南シニアおよび横浜高校時代の2学年後輩・松坂大輔が尊敬する投手として知られる[8]。松井は「僕が(松坂を)尊敬してる。僕の方が憧れがあります。だって、すごいピッチャーじゃないですか」と語っている[8]

ヤクルト時代の登場曲は遊助(上地雄輔)の「ひまわり」を使用していた。これは松井と上地が横浜高校野球部の先輩・後輩の関係であったことから選んでいる[9]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2006 ヤクルト 40 2 0 0 0 3 5 0 3 .375 272 64.0 62 8 18 2 3 53 2 0 33 29 4.08 1.25
2007 18 5 0 0 0 1 3 0 0 .250 207 45.1 59 7 15 5 2 26 2 1 32 29 5.76 1.63
2008 27 3 0 0 0 1 2 0 4 .333 183 41.1 41 2 17 1 2 33 0 0 16 15 3.27 1.40
2009 17 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 110 26.1 25 1 10 1 1 12 1 0 9 9 3.08 1.33
2010 21 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 129 30.0 30 5 11 0 1 25 1 0 17 16 4.80 1.37
2011 27 0 0 0 0 3 0 0 2 1.000 135 30.1 35 4 10 0 3 19 3 0 12 12 3.56 1.49
2012 20 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 77 18.0 17 1 6 0 1 12 2 0 9 9 4.50 1.28
2013 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 11 1.0 7 1 1 0 0 1 1 0 8 8 72.00 8.00
通算:8年 172 11 0 0 0 9 11 0 11 .450 1124 256.1 276 29 88 9 13 181 12 1 136 127 4.46 1.42

記録

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背番号

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  • 44(2006年 - 2013年)
  • 103(2014年 - 2021年) ※打撃投手

登場曲

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・「ひまわり遊助[9]

注釈

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  1. ^ 「12球団全選手カラー百科名鑑2008」 (廣済堂ベストムック)
  2. ^ 丹波 慎也(たんば しんや)。元・ヤクルトスワローズ投手である丹波幹雄の実弟。
  3. ^ 一学年上に横山道哉、二学年上に矢野英司がいたため丹波自身も2年夏まではエースではなかった。
  4. ^ 17歳で急死した横浜高伝説の投手 渡辺前監督「総合的に松坂より上だった」”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2018年11月18日). 2018年11月19日閲覧。
  5. ^ 上地雄輔の大事な思い出。上地雄輔オフィシャルブログ 神児遊助 2007年8月30日 2018年11月18日閲覧
  6. ^ 戦力外通告のお知らせ Archived 2013年10月14日, at the Wayback Machine.ヤクルト球団公式サイト
  7. ^ 「東京ヤクルトスワローズ松井光介投手・川本良平捕手が来豪」cheersインタビュー”. 2021年9月19日閲覧。
  8. ^ a b 【球界ここだけの話(2383)】「平成の怪物」が尊敬したヤクルト・松井光介氏、松坂へ惜別の思い - サンスポ”. www-sanspo-com.cdn.ampproject.org. 2021年9月19日閲覧。
  9. ^ a b 康彦, 菊田. “この曲を聞けばあの選手を思い出す…スワローズを支える移籍組が神宮を彩った「登場曲BEST10」”. 文春オンライン. 2021年9月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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