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日野茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日野 茂
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県松本市
生年月日 (1945-01-11) 1945年1月11日(79歳)
身長
体重
171 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 1967年 ドラフト外
初出場 1968年4月6日
最終出場 1973年9月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 太平洋クラブライオンズ
    クラウンライターライオンズ
    西武ライオンズ (1974 - 1977, 1981 - 1992)
  • 横浜ベイスターズ (1998 - 2003)

日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野県松本市出身(中国旅順生まれ)の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

来歴

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プロ入り前

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教師であった両親の下で旅順に生まれ、父は生死不明のまま母と日本に引き上げる[1]

千葉に移り住むと、県立船橋高校卒業後の1963年中央大学へ進学し、東都大学リーグでは2度の優勝を経験。2年次の1964年からレギュラーとなり、同年の春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出される。2年先輩の武上四郎と二遊間、1年上の川島勝司と三遊間を組むこともあり、同期の高橋善正高畠導宏と共に中大の黄金期を支えた。リーグ通算86試合出場、308打数81安打、打率.263、5本塁打、33打点。

大学卒業後は1967年松下電器へ入社し、同年の都市対抗に出場。

中日時代

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1968年2月に遊撃手を求める中日ドラゴンズから春季キャンプ中に誘われ[1]ドラフト外で入団。1年目の同年は松山春季キャンプの紅白戦で若生和也から二塁打、その後の打席で走者を置いて左へ特大の2ラン本塁打を放った。開幕後は主に一枝修平の控え遊撃手として43試合に出場するが、その後はあまり出番が無かった。

1971年はシーズン僅か1安打であったが、その1安打は7月4日阪神戦ダブルヘッダー第1試合(甲子園)で江夏豊から放ったプロ初本塁打である。この時の試合は、2-3でリードされた7回表に代打の一枝が適時打で同点、8回表には木俣達彦のソロ本塁打で勝ち越した[2]。さらに9回表には一枝の代走後、遊撃手に入った日野にソロ本塁打が飛び出し先発江夏をKO[2]。2番手伊藤幸男からジョン・ミラーがダメ押し3ラン本塁打を放ち、投げては6回途中から2番手川内八洲男が阪神打線を無安打に抑える好投で8-3と大勝、第2試合でも3-2と阪神を破ってダブルで連勝した[2]

西鉄・太平洋時代

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1972年開幕前の3月23日解説者権藤博稲尾和久監督に推薦したこともあり、黒い霧事件で戦力不足となった西鉄ライオンズへ移籍。同年は菊川昭二郎の控えではあるが、遊撃手として25試合に先発出場。移籍後初先発となった4月13日南海戦(平和台)で村上雅則から先制3ラン本塁打を放つが、これが移籍後初安打・初本塁打となった。この時は2回裏に日野が先制の3ラン本塁打で先制するが、南海に4回表、7回表にそれぞれ1点ずつ加えられ1点差に迫られる[2]。それでも7回裏一死満塁から榎本喜八が押し出しの死球、東田正義が2点適時打で追加点をあげ、9回表1点を取られなおも二死満塁となったが、ここで登板した3番手高橋明がこのピンチを切り抜け、6-4で逃げ切った[2]

球団名が「太平洋クラブ」となった1973年は菊川が三塁手に回り、4月14日ロッテとの開幕戦(平和台)から遊撃手に抜擢される。同29日日拓戦(後楽園)で高橋直樹から現役最後の本塁打を放つが、5月には打撃不振もあって梅田邦三に定位置を譲る。その後は内野のユーティリティプレイヤーとして起用された。

1974年二軍守備コーチ兼任となるが、一軍出場ゼロでほぼコーチ専任となったため、同年限りで現役を引退。

現役引退後

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引退後は太平洋→クラウン→西武で一軍守備・走塁コーチ(1975年, 1977年, 1981年)、二軍守備・走塁コーチ(1976年, 1982年 - 1984年, 1987年 - 1991年)、二軍監督(1985年 - 1986年)、三軍守備・走塁コーチ(1992年)、スカウト(1978年 - 1980年)、編成部門担当(1993年 - 1997年)を歴任。

太平洋→クラウン時代には真弓明信を育て、西武一軍コーチ時代は練習でも試合でも、常に選手の先頭に立って大声を張り上げて引っ張って[3]いき、二軍監督時代は岡田悦哉前監督から引き継いだチームをイースタン・リーグ3連覇(1985年)に導く。広瀬宰二軍守備・走塁コーチと共に田邊徳雄を厳しく鍛え、昼の試合後に特守を行って夕食後も夜間練習をするほどであった[4]

1989年からは支配下外の練習生が西武第二球場で練習していたが、日野が責任者として実質的な三軍の面倒を見た[5]

西武退団後は横浜ベイスターズ二軍ヘッドコーチ(1998年)→二軍監督(1999年 - 2003年7月6日)→一軍ヘッドコーチ(翌7日 - シーズン終了)を歴任し、二軍監督時代には金城龍彦石井義人[6]を育てた。2000年は二軍の球団名を「湘南シーレックス」に変更したが、この時に誕生したシーレックスのマスコットキャラクターのうち、監督役のシーノンのモデルになったとされている。なお、シーノンの背番号は当時の日野と同じ「71」であった。一軍ヘッドコーチは江藤省三と配置転換される形でに就任し、シーズン終了まで務めた。

横浜退団後の2004年には新規プロ野球参入を目指して結成された球団「仙台ライブドアフェニックス」に参加し、スカウティングディレクターを務めた[7]

2005年からはZEROベースボールアカデミー顧問[8]、ヒーローズベースボールアカデミー特別顧問[9]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1968 中日 43 64 59 2 8 0 0 0 8 1 0 3 3 0 2 0 0 15 1 .136 .164 .136 .300
1969 12 8 7 5 3 0 0 0 3 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 .429 .500 .429 .929
1970 24 21 18 2 2 1 0 0 3 0 0 0 1 0 1 0 1 4 1 .111 .200 .167 .367
1971 24 7 7 5 1 0 0 1 4 1 2 2 0 0 0 0 0 3 0 .143 .143 .571 .714
1972 西鉄
太平洋
50 91 86 10 22 5 0 2 33 11 4 5 1 1 3 0 0 21 1 .256 .278 .384 .661
1973 62 89 80 8 15 2 0 1 20 5 3 0 2 0 6 0 1 15 4 .188 .253 .250 .503
通算:6年 215 280 257 32 51 8 0 4 71 18 9 11 7 1 13 0 2 59 7 .198 .242 .276 .518
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更

背番号

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  • 6 (1968年 - 1970年)
  • 5 (1971年 - 1972年途中)
  • 8 (1972年途中 - 1974年)
  • 75 (1975年 - 1977年、1981年)
  • 89 (1982年 - 1992年)
  • 71 (1998年 - 2003年)

脚注

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  1. ^ a b 神宮球場ガイドブック2005年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
  2. ^ a b c d e クラシックSTATS鑑賞 日野茂、全本塁打一覧|本塁打大全
  3. ^ 1981年西武ライオンズファンブックより。
  4. ^ 週刊ベースボール、2000年12月25日号、P.109
  5. ^ 三軍の歴史-下-
  6. ^ 楢崎豊 (2021年3月15日). “「やりがいはある、でも…」運送業者となった交流戦初代“首位打者”が届けたいもの”. Full-Count. 2022年2月10日閲覧。
  7. ^ スポーツ報知【あの時・幻の新球団ライブドア】(4)お金なかった…漫喫で資料作成」、2016年1月25日付
  8. ^ 小中学生のための野球塾 ゼロベースボールアカデミー
  9. ^ 監督・コーチ陣 | 野球教室・野球塾「ヒーローズベースボールアカデミー」 - 所沢市

関連項目

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外部リンク

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