第43回教団総会をリモートで傍聴して(その2)(鶴巻通信33)
議案第17号「2022年度教団歳入歳出決算承認に関する件」の審議の中で、「カナダ合同教会からの日本基督教団への献金」についての報告がありました。「カナダ合同教会が、日本に保有する資産(特に不動産等)を売却して得た資金を、日本国内の教会のために用いるため日本基督教団に献金をしてくださっています」と議案書に記されています。
カナダ合同教会は、ご存じのように聖餐式は洗礼を受けた者だけが与ることができる聖餐式ではありません。私の支援会通信№22に、当時農伝の校長をしていたロバート・ウイットマー宣教師が2018年の教団総会会期中に開催した支援会の全国交流集会で講演して下さった「カナダ合同教会の歴史と現在」という講演が掲載されています。その中にもはっきりとカナダ合同教会の聖餐式についてこのように記されています。
【カナダ合同教会は全ての教会、100%と言っていいと思いますが、受洗者のみの聖餐式をやる教会は一つもないと思います。聖餐式そのものは教会のものじゃない。招くのは教会じゃない。キリストなのです。キリストは全ての人を招く。その招きに応える、応えないは、その人が決めるべきです。それを押し付けることはしない。】
ウイットマー宣教師は、そのように述べた後に、
【これは私の姉の教会で使われていた式文です。全ての教会がこれを使っているわけではないのですが、一つの例として参考になればと思います。】
と言って、以下の聖餐式の式文を紹介しています。
【《必要とされている人にパンは用意されています。希望される者のためにぶどう酒は用意されています。生まれ変わりたい者に主の食卓は呼びかけています。全ての者が招かれています。それは信じるからではなく、信じたいからです。それは理解出来るからではなく、希望を持ちたいからです。神を知っているからではなく、神に愛されているからです。健全だからではなく、必要だと分かっているからです。私たちが裂くこのパンによってキリストの命を分かち合います。私たちが祝福する杯によってキリストの愛を分かち合います。主の食卓は皆さんを待っています。神さまは私たちを招きます。どうぞこの食卓へ、すべてが準備されています》。】
このようなカナダ合同教会からの献金を日本基督教団は受けているということです。洗礼を受けていなくても、希望すれば誰でも受けることの出来る聖餐式を執行したということで私は日本基督教団から戒規免職処分を受けました。また、今回の第43回日本基督教団総会では、議場から一人の方が発言して、「洗礼を受けていない人にも授ける聖餐式は止めて下さい」と訴えていました。私は、日本基督教団は1960年代後半ごろから自覚的に洗礼を受けている人だけではなく、希望すれば誰にもが与ることの出来る聖餐式をするようになった教会が相当数出て来ていて、現在の教団は全ての教会で統一された聖餐式が行なわれているのではなく、聖餐式も多様性があるのが現実だと思っています。現在のように聖餐式は洗礼を受けた者だけが与るという考え方の教団総会の多数派がいくら自分たちの考え方で統一しようとしても、それは不可能です。また、もし日本基督教団は洗礼を受けた者だけが聖餐に与ることが出来るというのであれば、その聖餐についての考え方の違うカナダ合同教会からの献金は、信仰の中心的な考え方において日本基督教団とカナダ合同教会は違いますので、お受けすることはできませんと、丁寧にお断りすべきではないでしょうか。それを献金だけは受けて、献金して下さったカナダ合同教会の聖餐論を否定するような日本基督教団の在り方はいかがなものでしょうか。ここにも常議員選挙と同じように、現在の教団のダブルスタンダードがあるのではないでしょうか。
第43回教団総会については、まだいろいろ言いたいことはありますが、ここまでにしておきたいと思います。
以下は直接今回の教団総会をリモートで傍聴していて感じたわけではありませんが、私は、合同教会として日本基督教団は、同じ合同教会としての歴史の長いカナダ合同教会に学ぶべきだと思っています。聖餐はもちろんですが、他にもいろいろ学ぶことがあるように思います。例えば、
- 教師制度について
教師制度についてもカナダ合同教会は日本基督教団よりも遥か歴史の先端を行っているように思われます。これも上記のウイットマー宣教師の講演で話されたことですが、その講演のカナダ合同教会の教師制度についての部分を下記に引用します。
【カナダ合同教会の場合は牧師になる制度は、日本基督教団の場合とは全然違っていて、正教師と補教師の制度もないし、最初から按手礼を受ける牧師もいれば、最初から按手礼を受けない牧師もいるんです。牧師にはなるけど、教会の牧師にはなろうと思っていない。刑務所で働くとか、病院の治療チームとして働くとか、そういう働きをするから、按手礼は受ける必要がない。勉強の期間は同じですよ。だけど按手礼は受けない。按手礼を受けるために教師検定試験とか、そういうものは一切ないんです。教区の面接で決まります。教区が按手礼を授ける。またカナダ合同教会の場合、按手を受けている牧師や受けていない牧師だけでなくて、任命された信徒牧師もたくさんいます。カナダ合同教会の『牧師』は2016年12月31日現在、按手礼を受けている牧師3,428人(男性2,070人、女性1,358人)、按手礼を受けない牧師289人(男性26人、女性263人)、任命された信徒牧師132人、信徒牧師も主任牧師になれる。もちろん洗礼式も聖餐式もできます。礼拝指導をするライセンスのある信徒もいる。これは教区が決めるので、人数がその年その年で変わります。彼らがどういう時に礼拝を指導するかと言うと、それは牧師が入院しているとか、或いは休みでいないという、そういう時に代わりに行くのですね。説教も出来るし、或いは聖礼典も出来る。信徒牧師も、按手礼を受けた牧師も、ライセンスのある信徒もいない場合があるから、教会が本当に何百キロも千キロくらい離れている場合もあるから、必要があれば聖礼典を執り行うことが出来る長老、役員もいます。でも、これも事情によって教区が決めることですから、何人いるか数えられないです。その時その時決めますから。このような制度がカナダ合同教会でどうして生まれたかと言うと、特に信徒牧師とライセンスのある信徒ですね。その背景に何があるかと言うと、カナダ合同教会の総会をいろんなところで開くんですよ。私は教団の総会に5,6回出ていますが、東京か箱根にしか行ったことがないですね。カナダ合同教会は毎回違うんですよ。全教区で開いているんです。そうすることによって、その教区の事情を学ぶことが出来る。学ぶことによって、例えば信徒牧師の制度が必要だとか、そういうことを知ることが出来ます。】
カナダ合同教会の教師制度についてのこのウイット―マー宣教師の報告を読みますと、教師を生み出すところは教区です。またこのカナダ合同教会の教師についての考え方は機能論的です。教師と信徒の区別はその働きであって、教師に権威主義的なものは感じられません。このことも日本基督教団はカナダ合同教会から見習う必要があるのではないでしょうか。
- 「信仰告白(信条)」について
「信仰告白(信条)」についても、合同教会としての信仰告白(信条)の位置づけについてカナダ合同教会に学ぶことができます。カナダ合同教会の信条について述べているウイットマー宣教の講演部分を下記に引用します。
【カナダ合同教会の信条については、組合教会のこだわりがあって信仰告白を持ってはいけないから、合同した時に、1935年にArticles of Doctrine(教義の条項20条3ページ)を作りました。それから1950年にA Statement of Faith(信仰の声明12条4ページ)を作りました。Aですね。Theではないです。それから、1968年に、ちょうど50年ですね。A New Creed(新しい信条)を作りました。これもAです。これが一番人気があるんですね。これは1980年、1955年と2回改訂されています。2006年にA Song of Faith(信仰の歌)という7頁の信仰告白も作りました。基本的にどれを使ってもいいです。でもさっきから言っているように、A New Creed(新しい信条)が一番人気があります。これはカナダ合同教会の神学なのです。・・・・
以下人気のあるA New Creed(新しい信条)の日本訳です。
「カナダ合同教会 新しい信条 1968年(1980年、1995年改訂)」
わたしたちは ひとりでは ありません。
わたしたちは 神の世界に生きています。
わたしたちは神を信じます。
神は世界を創造され、その創造のみ業は今も続いています。
神は、この世と和解し、世を新たにするために、肉となられた言、イエスを通して、世に来られました。
神は、聖霊によって、わたしたちや他の人々の内に働かれています。
わたしたちは神を信頼します。
わたしたちは教会となるように、招かれています。
神が共にいてくださることを喜ぶために。
被造世界を大切にして生きるために。
他の人々を愛し、仕えるために。正義を求め、悪を退けるために。
十字架につけられ、復活され、わたしたちの審判と希望となられたイエスを宣べ伝えるために。
生きるときにも、死ぬときにも、死を超えた生にあっても、神はわたしたちと共におられます。
わたしたちは ひとりでは ありません。
神に感謝をささげます。】
現在の教団の多数派は「信仰告白と教憲教規における一致」を主張していますが、合同教会における信仰告白(信条)はカナダ合同教会のようにAであって、Theではありません。ですから、信仰告白による一致ではなく多様な立場を認め合うことによって一つをめざしていくことにおける一致が合同教会のおける一致ではないでしょうか。
最後に合同教会としての日本基督教団は、「教団は教区に仕え、教区は各個教会に仕える」ことが基本理念に従って運営されるべきではないでしょうか。この基本理念からしても、教区を中心にして宣教活動を進めていくべきだと思います。かつて教区の教会性ということが言われましたが、現在のようにかつての教派性をもった多数を占めるグループが自らの考え方で教団全体を統制しようとしている限り、教区はある程度沖縄教区のように教団との間に距離を置き、本来の合同教会を形成するための教区連合を通して、教団内にあって、カナダ合同教会やその他の世界の合同教会に学びながら、合同教会としての日本基督教団のめざすべき方向性を、神学的にも教会実践的にも発信していくことによって、現在の多数派との対話を継続していくことが必要ではないかと思うのです。
今回の教団総会をリモートで傍聴していて、また私に関係する議案の取り扱いを見ていて、教団総会に議案を出して私の免職撤回(日本基督教団の教職復帰)を求めていくことは諦めないで続けていくとしても、もしそれが可能であっても、私はとっくに帰天していると思いました。支援会として今までのアクションは続けていくとしても、現在の教団主流派に合同教会としての日本基督教団の多様性と豊かさを具体的に提示していくことによって、特に主流派の信徒の方々にそれを示し、理解してもらう努力を積み重ねていくことが重要ではないかと思いました。
2014年11月6日記