5月17(日)復活節第6主日礼拝(通常10:30開始)
(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から
解き放つ神」。 (詩編68:20-21)
③ 讃 美 歌 11(感謝に満ちて)を歌いましょう(各自歌う)。
讃美歌 11((感謝に満ちて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm
⓸ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書16章1-12節(新約31頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 227(主の真理は)
讃美歌21 227(主の真理は」
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-227.htm
説教 「真偽を見分ける」 北村慈郎牧師
祈祷
- 真偽を見分けるという説教題を掲げましたが、真偽を見分けることが私たち人間に出来るのだろうかという疑問を、この題をつけてから、改めて思わされています。
- 実際マタイによる福音書16章の1節から4節に登場する「ファリサイ派とサドカイ派の人々」も、5節から12節までに出てくるイエスの弟子たちも、とても真偽を見分けることができているとは思えません。
- まずファリサイ派とサドカイ派の人々ですが、彼らは実際にこれ以前にもイエスに出会っていたと思われます。けれども、彼らはイエスのことをちっとも理解していません。そもそも理解しようとは最初から思わなかったのかも知れません。彼らは、ここで、イエスを試そうとしているのです。そして「天からのしるしを見せてほしいと願った」というのです。
- 「天からのしるし」をイエスに求めたということは、それまでにイエスが語られたこと、なさったことは、彼らには何も見えていないということを意味します。イエスは、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、神の国は近づいた、悔い改めて、つまり自分の生き方を180度方向転換して、神を信じて歩みなさいと、町や村を巡回して宣べ伝えていました。そのことが実は「天からのしるし」そのものだったのではないでしょうか。
- でも、ファリサイ派とサドカイ派の人々は、そういうイエスを認めて、イエスにおいて「神我らと共にいたもう」という現実を受け入れようとしなかったのです。彼らにとっては、「律法の遵守」が大切であり(ファリサイ派の人々)、「エルサレム神殿の祭儀(礼拝)」(サドカイ派の人々)が大切だったのです。
- 彼らには、自分たちが大切にしていた律法の遵守や神殿祭儀に優る「天からのしるし」がイエスにあるとは、思えませんでした。ですから、イエスに彼らは「天からのしるし」を見せてほしいと迫りました。彼らは、どうせイエスには「天からのしるし」、つまり誰の目にもこの人は神から遣わされたメシア(救い主)だという納得できるしるしなど見せられるはずがないからと、心の中で思っていたのでしょう。イエスを試すためにです。
- 人を試す。何て思いあがった行為でしょうか。
- そのようなファリサイ派とサドカイ派の人々にイエスは答えて、こうおっしゃいました。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるし(時の徴)は見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えらない」(2-4節)と。
- 自然のしるしは見分けられても、時代や時、歴史のしるしは見分けられないのかと。
- 5節から12節までのイエスと弟子たちとの問答の中にも、「分かる、分からない」ということが問題になっています。イエスは弟子たちに、「まだ、分からないのか」(9節)、「どうして分からないのか」(11節)と繰り返し言っています。
- イエスと弟子たちの問答を振り返ってみたいと思います。15章39節に、5,000人の供食と4,000人の供食の出来事の後、≪イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた≫と記されています。それを受けて16章5節では、≪弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持ってくるのを忘れていた≫と記されているのです。
- マタイ福音書では、イエスは弟子たちが自分の所にやってくる前に「天からのしるし」を巡ってファリサイ派とサドカイ派の人々と論争していましたので、自分の所にやって来た弟子たちに、イエスは≪ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた≫のです。
- ところが、イエスの所にやって来た弟子たちは、彼らが来る前にイエスがファリサイ派とサドカイ派の人々と論争していたことを知らなかったのでしょう。弟子たちは、イエスから≪「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われ≫て、何を勘違いしたのか、≪「これは、(自分たちが)パンを持ってこなかったからだ」と論じ合っていた≫(7節)と言うのです。
- それに気づいたイエスは、弟子たちに≪「信仰の薄い者たちよ、なぜパンを持っていないことで論じ合っているのか。・・・」≫(8節)と言い、5,000人と4,000人の供食で皆が満腹して、≪残りを幾籠に集めたか≫を想い起させて、≪パンについて言っているのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」≫(11節)と言われたというのです。
- ≪そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。≫(12節)と言うのです。
- この物語に記されています無理解な弟子たちのことを、マタイは「信仰の薄い者たちよ」と言っています。「信仰の薄い者たち」は「信仰の小さい者たち」です。
- この「信仰の薄い者たちよ」は並行記事のマルコによる福音書8章17節にはありません。マタイによる福音書の16章9節の「まだ、分からないのか。覚えていないのか。」もマルコによる福音書では、「まだわからないのか、悟らないのか、心が頑なになっているのか。目があっても見えないのか。耳がっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17,18節)となっています。マルコは弟子たちが「信仰(ないしは信頼)がない」と、ずばっと言い切って批判しています。マタイは信仰がないとは言わず、薄い(小さい)と言って、弟子たちの体面を救おうとしています(田川)。
- ルツによれば、このマタイの記事でのファリサイ派とサドカイ派の人々は、後の教会の歴史の中で、自分たちとは違った考え方に立つ他党派の人々の類型になったと言います。つまり自分たちとは考え方を異にする他党派の人々を、イエスが「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種を警戒しなさい」と言ったように、異端者として警告攻撃したというのです。場合によっては火あぶりにして、葬ったという、恐ろしい異端審問が行われたわけです。
- ルツはこのように述べています。「聖書テクストのそのような作用は悲しい気持ちにさせる。たとえその作用が『類型』として濫用されたファリサイ人たちやサドカイ人たちに対してであれ、あるいは折々にそれでもって適格性を奪われた、人がその『悪魔の教え』から身を守ろうとした異端的な兄弟たちに対してであれ、そうである。・・・・・われわれのテクストにおいてこの影響史とは反対方向の肯定的な意味の潜在的な力を人が探すとするなら、そうすると多分、マタイにとって弟子たることは、絶えず繰り返しイエスのもとに新たに『弟子入り』することにある、ということを想起させることができるであろう。今日、イエスに弟子入りすることは、イエスから、伝承や教会の誤った道について客観的な批判を行うことを意味しているかもしれない。しかしマタイでは、そのようなイエスの学校は、・・・イエスが弟子たちを『投げ出すことはしないで』、むしろ、弟子たちはイエスによって支えられたままに留まるということをも、それゆえ赦しをも、意味するのである」と。
- 少しわかりにくいかもしれませんが、私がこのようにルツの言っていることを理解しています。イエスを信じて、イエスの弟子としてイエスに従って生きる者は、人を偽りに導く、誤った教えや道を批判しなければならない。けれども、批判はしても、そのような誤った偽りの教えや道を語る人のためにもイエスは十字架にかかって死なれたのだから、その誤った偽りの教えを語る人を断罪し、異端審問にかけて抹殺していいということではない。マタイにとって弟子たることは、絶えず繰り返しイエスのもとに新たに『弟子入り』することにある。マタイでは、そのようなイエスの学校は、・・・イエスが弟子たちを『投げ出すことはしないで』、むしろ、弟子たちはイエスによって支えられたままに留まるということをも、それゆえ赦しをも、意味するのである、と。
- イエスを信じるということは、私たちがイエスの弟子になることですが、それは私たちとイエスとの関係が、何ものによっても断ち切ることのできない絶対的なものであることを意味します。関係の絶対性(吉本隆明)です。イエスの弟子たちは、たとえイエスに対して無理解であっても、イエスの弟子なのです。イエスとの関係は断ち切られないのです。弟子たちは、たとえイエスに対して無理解であっても、イエスによって支えられたまま留まっているのであり、赦されてイエスの弟子であり続けているのです。
- マタイ福音書のイエスはファリサイ派とサドカイ派の人々に、≪よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない≫(マタイ16:4)語っています。ヨナのしるしとは、苦しみ、つまりイエスの受難と十字架を意味します。
- 「イエスは、ご自身が愛しておられる都エルサレムの滅亡を見通されたばかりでなく、残酷さと暴力、争いに満ちた世をも見通しておられました。イエスにとって、この世にはハッピーエンドなどありません。イエスの課題は、時の終わりが来る前に世のすべての問題を解決することではなく、どんな犠牲を払ってでも(神と神の国の到来を)信じ続けるということなのです」(ヘイリー・ナウエン)。
- 自分の思いや期待の実現が信仰ではなく、神を自分の中心に据えて生き抜くことが信仰なのです。イエスはその信を貫いて、十字架の死に至るまで歩まれました。信仰とは、そのイエスの信に私たちも与って、私たちの芯に神を迎えて歩みを起こすことではないでしょうか。
祈ります。
神さま、コロナ禍の中、今日も各自自宅で礼拝することができましたことを感謝いたします。
現在私たち日本の国では、新型コロナウイリスの感染拡大が治まりつつあり、39の県で緊急事態宣言が解除されました。けれども、北海道、首都圏、関西圏では、一部解除されつつありますが、緊急事態宣言が継続しています。ヨーロッパやアメリカでも、感染のピークは過ぎつつありますが、これからアフリカや南米をはじめ発展途上国の人々の感染拡大が懸念されています。また、ワクチンや特効薬が開発されるまでは、これからも私たちは新型コロナウイリスとの共存を強いられています。世界中がコロナ禍に翻弄され、経済活動の停滞を余儀なくされ、会社やお店の倒産、解雇による失業者の増大も加速しています。どうかこの苦境に対して、各国の政府をはじめ、私たちが分かち合うことによって乗り越えて行くことが出来ますように導いてください。
コロナ感染者をはじめ、今病気で苦しんでいる方々、医療関係者の方々、またスーパーの店員の方々をはじめ、日用品の販売に携わっていて、人との接触を余儀なくされている方々を支えてください。
み心ならば、このコロナ禍という災いを通して、すべての人の命と生活を守ることのできる、人間の尊厳を大切にする社会の形成につなげていくことが出来ますように導いて下さい。
今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 521(とらえたまえ、わえらを)
讃美歌21 521(とらえたまえ、わえらを)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-521.htm
⑪ 献 金
(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷
主イエスの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。