紙の教科書とデジタル教科書を選ぶことができる制度が始まるかもしれない。先日、そんなニュースを読みました。
www.sankei.com
結論から言いましょう。
「私は、デジタル教科書を今以上に活用することは、楽(ラク)だけれど反対」
デジタル教科書の話になると次のような意見をよく聞きます。
「デジタルでの教育を進めてきたスウェーデンは脱デジタルに舵を切った」
「デジタル教科書やタブレットでの読書は読解力が落ちる」
「オーストラリアは16歳未満のSNS利用を規制し始めた」
逆に
「デジタル反対派は時代遅れ。紙の時代に石板を信奉していた人と一緒だ」
「紙媒体を大事にしたい新聞社が反対しているだけ」
「スウェーデンがアナログ回帰をしようとしているのは、スウェーデン国内の政権交代による目新しい政策のため」
などなど。
まあ、それはそうかもしれませんが、ここではもっと現場の視点から述べます。
まず私の主張の「デジタル教科書は楽(ラク)」について。
教える側からしてみると、一人一台端末(子供がタブレットを持つこと)は楽ちんです。
プリントの印刷の手間が省けますし、回収も採点も本当に簡単です。さらに紙の教科書がなくなれば、机の中の整理整頓もかなり楽になるでしょう。授業冒頭によく見かける「子供が机の中から教科書を一生懸命に探す&忘れたことに気付く」手間がなくなります。教師の指導がひとつ減るわけです。
タブレット1つですべてが完結していく。手間が減ってとってもラクチンです。子供も同じでしょうね。紙の教科書は重いですし、どこかへいってしまうかもしれませんし。
でもね。
教師や子供にとってラクチンであることは、子供のために良いことと同義ではないと思います。
これは現場の教師ならば分かることだと思いますし、逆に教師以外は気づきにくい視点だと思うのですが、子供たちが授業でタブレットを使い始めた結果、「授業に集中しない子」が増えました。
授業中、タブレット(というかパソコンのように)を開いている子供たち。一見、タブレット上の画面を見て課題を解決したり、教師の話を聞いたりしているかもしれませんが、実はタブレット画面上で別のことをしている…。
大人でもそういうことありませんか?
端から見ると、パソコンを開いていて仕事をしたり人の話を聞いたりしているように見えても、実は画面上では違うページが開かれている。
教室の場合、教師の立ち位置から子供の画面は見えません。教師は基本的に前にいますからね。たしかに教師の画面に子供の現在の画面が一目で分かるシステムもありますが、常時チェックするわけではありません。
紙オンリーの時代ならば、誰が何をしているかは一目瞭然でした。ときどき「内職」をする子がいても、不自然なんですよね、前から見ると。ずっと机の下を見ているので、一発でばれます。
でもデジタル化すると、内職が簡単にできるようになります。小学生の場合、内職はしませんが、別のページを開いてぼーっとしています。それを教師が確かめる術があまりないのです。タブレットを開いていると、なんとなく「やっている風」になります。
子供によっては、そんなタブレットの誘惑に惑わされずに、きちんと課題にむかってデジタル機器を上手に使いこなします。ですが、全ての小学生がそんなことできるでしょうか?
小学生ですよ。ほとんどの子が、誘惑があればあっという間に流されます。低位の子であればあるほど、です。
デジタル教科書がメインの教科書になった場合、1日中子供の机の上にはタブレットが開かれた状態になります。子供は下手をすれば、1日中「内職」をし続けます。
紙オンリーの時代は誘惑などありません。仕方がないと思いながら授業を受けるしかありませんでした。
これからの時代はデジタルがメインなのだから、学校ももっとタブレットを使うべきだ!という意見も分かります。ですが、子供はタブレットを使いこなす前に、タブレットのもつ誘惑に惑わされます。アナログの不便さの方が、子供にとっては窮屈でしんどいけれど、結果的には子供のためになると思います。
特に、自分を律することができないような子ほど、アナログの方がいいでしょう。優秀な子供は極論、デジタルだろうがアナログだろうが、勝手に伸びていきます。問題は中間層と低位層です。このボリュームゾーンの子供たちに何が最適かを考えるべきです。
デジタル教科書の推進は、上位層はそのままに、中間層と低位層を下げる二極化をもたらす気がします。まあ、ラクチンだから、それはそれでいいですけれど、本当にいいの?と言いたくなります。