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小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

デジタル教科書で、さらに子供はさぼる

紙の教科書とデジタル教科書を選ぶことができる制度が始まるかもしれない。先日、そんなニュースを読みました。
www.sankei.com

 

結論から言いましょう。

 

「私は、デジタル教科書を今以上に活用することは、楽(ラク)だけれど反対」

 

デジタル教科書の話になると次のような意見をよく聞きます。

 

「デジタルでの教育を進めてきたスウェーデンは脱デジタルに舵を切った」

「デジタル教科書やタブレットでの読書は読解力が落ちる」

「オーストラリアは16歳未満のSNS利用を規制し始めた」

逆に

「デジタル反対派は時代遅れ。紙の時代に石板を信奉していた人と一緒だ」

「紙媒体を大事にしたい新聞社が反対しているだけ」

スウェーデンがアナログ回帰をしようとしているのは、スウェーデン国内の政権交代による目新しい政策のため」

 

などなど。

 

まあ、それはそうかもしれませんが、ここではもっと現場の視点から述べます。

 

まず私の主張の「デジタル教科書は楽(ラク)」について。

 

教える側からしてみると、一人一台端末(子供がタブレットを持つこと)は楽ちんです。

 

プリントの印刷の手間が省けますし、回収も採点も本当に簡単です。さらに紙の教科書がなくなれば、机の中の整理整頓もかなり楽になるでしょう。授業冒頭によく見かける「子供が机の中から教科書を一生懸命に探す&忘れたことに気付く」手間がなくなります。教師の指導がひとつ減るわけです。

 

タブレット1つですべてが完結していく。手間が減ってとってもラクチンです。子供も同じでしょうね。紙の教科書は重いですし、どこかへいってしまうかもしれませんし。

 

でもね。

 

教師や子供にとってラクチンであることは、子供のために良いことと同義ではないと思います。

 

これは現場の教師ならば分かることだと思いますし、逆に教師以外は気づきにくい視点だと思うのですが、子供たちが授業でタブレットを使い始めた結果、「授業に集中しない子」が増えました。

 

授業中、タブレット(というかパソコンのように)を開いている子供たち。一見、タブレット上の画面を見て課題を解決したり、教師の話を聞いたりしているかもしれませんが、実はタブレット画面上で別のことをしている…。

 

大人でもそういうことありませんか?

 

端から見ると、パソコンを開いていて仕事をしたり人の話を聞いたりしているように見えても、実は画面上では違うページが開かれている。

 

教室の場合、教師の立ち位置から子供の画面は見えません。教師は基本的に前にいますからね。たしかに教師の画面に子供の現在の画面が一目で分かるシステムもありますが、常時チェックするわけではありません。

 

紙オンリーの時代ならば、誰が何をしているかは一目瞭然でした。ときどき「内職」をする子がいても、不自然なんですよね、前から見ると。ずっと机の下を見ているので、一発でばれます。

 

でもデジタル化すると、内職が簡単にできるようになります。小学生の場合、内職はしませんが、別のページを開いてぼーっとしています。それを教師が確かめる術があまりないのです。タブレットを開いていると、なんとなく「やっている風」になります。

 

子供によっては、そんなタブレットの誘惑に惑わされずに、きちんと課題にむかってデジタル機器を上手に使いこなします。ですが、全ての小学生がそんなことできるでしょうか?

 

小学生ですよ。ほとんどの子が、誘惑があればあっという間に流されます。低位の子であればあるほど、です。

 

デジタル教科書がメインの教科書になった場合、1日中子供の机の上にはタブレットが開かれた状態になります。子供は下手をすれば、1日中「内職」をし続けます。

 

紙オンリーの時代は誘惑などありません。仕方がないと思いながら授業を受けるしかありませんでした。

 

これからの時代はデジタルがメインなのだから、学校ももっとタブレットを使うべきだ!という意見も分かります。ですが、子供はタブレットを使いこなす前に、タブレットのもつ誘惑に惑わされます。アナログの不便さの方が、子供にとっては窮屈でしんどいけれど、結果的には子供のためになると思います。

 

特に、自分を律することができないような子ほど、アナログの方がいいでしょう。優秀な子供は極論、デジタルだろうがアナログだろうが、勝手に伸びていきます。問題は中間層と低位層です。このボリュームゾーンの子供たちに何が最適かを考えるべきです。

 

デジタル教科書の推進は、上位層はそのままに、中間層と低位層を下げる二極化をもたらす気がします。まあ、ラクチンだから、それはそれでいいですけれど、本当にいいの?と言いたくなります。

園小接続は大変

小中連携であったり小中一貫であったり。つまり小学校と中学校の連携(公立)はどの地区でもそれなりに進んできたように思います。

 

最近、よく言われるようになったのは「園小接続」です。

 

かねてより小1プロブレムは問題になっていました。癇癪を起こす子、離席を繰り返す子、友達とトラブルを繰り返す子、泣きだす子。1年生の先生は大変です。

 

解決のための手段として「園小接続」が叫ばれるようになりました。

 

でも小中連携以上に園小接続は難しいなと思います。

 

小中連携がなぜそこまで大変ではないかというと、小学校も中学校も、公立であればそこまで母数が多くないからです。1つの中学校区に小学校はせいぜい3~4校でした(私の在籍してきた学区の話)。しかも小中の管轄は同じ教育委員会の中にありますし(運営は市)、教員同士の異動もあります。互いにある程度知り合っているわけです。

 

一方で、園小は結構違います。

 

例えば、1つの小学校に入学する園の数が10以上あることもざらです。これは住んでいる地区によりそうですね。幼稚園保育園の数自体が少ない地域では園小の接続はやりやすいでしょう。一方で都会に行けば行くほど、様々な園の出身が小学校に集まります。

 

様々な園から子供が入学してくるというのが非常にやっかいです。小中連携の場合、中学校側としては、「○○小学校出身者ね。あそこの小学校は…」と前情報があることが多いです。何より公立小学校は教員の教え方、学校のきまりなどにそう大差がありません。しかし幼稚園保育園は私立も多く、園ごとに特色がまるで違います。そのすべてを把握することなど、とうてい不可能です。

 

園ごとに特色が違うということは、育ちもまるで違うということです。のんびりゆったり育てることを良しとする園出身者と、学校のようにカリキュラムを組んで勉強を大事にした園出身者とは、小学校入学の時点でかなり違うことが分かるでしょう。それらをひとまとめにして、なんとか「小学生」にしていくのが1年生担任の腕の見せ所なわけです。

セミナー運営者として思うこと

この記事の結論を一言で伝えるならば

 

セミナーのドタキャンは本当にやめてほしい」

 

です。

 

これまで何回も、教員向けのセミナー(研修会)の運営に携わってきました。いわゆる事務局ですね。誰を講師として呼ぶか、会場をどこにするか、日時はどうするかなど、主催者の一員として関わることもあれば、事務局スタッフとして会場づくりやビデオ撮影などの完全な裏方として関わることもありました。事務局長として働くこともありました。

 

主催者側になったとき、一番気にするのが参加者の人数です。

 

例えば申し込みが30人いたとして、本当に30人が来るのかどうか。

 

たいてい1割ぐらいはドタキャンをされます。連絡をくれるならまだしも、連絡すらないパターンもときどきあります。本当に困るのです。資料は用意していますし、会場の駐車場の台数もおさえています。講師の謝礼金もそこから捻出するのに、計算があわなくなります。もちろん、1割ぐらいのドタキャンは見越した上で、いろいろと設定をしますが、それでも内心は穏やかではありません。

 

金銭面について言えば、先払い制の方が精神的に楽です。2~3日前からキャンセル料金が発生するような、宿泊施設の予約システムと同じにすると、ドタキャンが減りますし、あったとしても痛手が少なくてすみます。ただ、Peatixなどの徴収サイトを経由すると、当たり前ですが手数料が発生します。手数料を我慢して先払い制にするか、ドタキャンを我慢して当日回収にするか。Peatixの手数料がだいたい1割と考えているので(本当は4.9%+売れた枚数1枚につき99円。2千円のセミナーで30人来た場合、参加費は合計で6万円だが、手数料で約6000円とられる。やはり約1割。)、30人のセミナーがあったとき、3人ドタキャンがいるのならPeatixの方が良いというわけ。微妙なところですね。だいたいどのセミナーも1割がドタキャンと先に述べた通りですので。

 

しかし最も困ることがあります。

 

それは

 

「事務局スタッフのドタキャン」

 

です。

 

事務局はただの参加者ではなく、運営側の人間です。セミナーを一緒に受けることはできますが、受付をしたり、会場設営を手伝ったりする存在です。その事務局スタッフがドタキャンしたときはもう…本当に…。

かつてあるセミナーの事務局長のときのこと。事務局スタッフからセミナーの2日前に電話で「用事ができて、行けなくなった」という報告を受けました。

 

教員のセミナーの事務局スタッフなんて、全員教員です。それほど人数がいるわけではありません。一人一人が貴重なのに、いきなり休まれると、かなりきついなと思った記憶があります。用事も様々ありますから、深くは尋ねられませんし、怒りをぶつけることもできません。ただ「分かりました」と言って電話を切りました。

 

でもねえ!!

 

参加者がドタキャンをすると、主催者側としては、「もう次は企画をするのをやめようかな」という気持ちになったり、「この地域でセミナーを開くのは難しい」と思ったりします。ドタキャンは長い目で見れば、自分たちの首を絞めることにつながります。勉強の場を失うことになるのですから。

 

事務局スタッフに対しては、単純に「この人は信用できないな」と思うようになります。

私は次の時からスタッフに誘わなくなりました。

 

セミナー運営者として思うこと。それは「ドタキャンは極力やめてほしい」ということでした。

クレームを言うと、神様みたいな扱いを受ける

より正確に言えば

 

「保護者が学校に、自分の子供の対応についてクレームを言うと、自分の子供は担任から神様みたいに扱われる」

 

です。

 

どういうことかを説明します。

 

例えば自分の子供Aが他の子供Bとけんかをしたとしましょう。

 

自分の子AがBと休み時間に追いかけっこをしていたとしましょう。

AがBをタッチしました。

AがBに「お前足、遅いなあ。」と言ったとします。

Bはカチンときます。

Bは「うるせー、バカ」と言ったとします。

Aもカチンときます。

Aは「黙れ、バカ」と言ったとします。

Bが怒り、Aを叩きます。

Aも怒り、Bを蹴ります。

けんかになりましたね。

 

その後、見ていた子が担任に伝え、担任が仲裁に入り、一件落着…。

 

しかし、その日の夕方、Aの親から学校に電話があります。

 

「うちの子がBに叩かれたと言っている。いじめだ!」

 

担任は事情を説明し、時には家庭訪問をします。この場合、学校側の落ち度としては、「トラブルを保護者に報告しなかったこと」があるでしょう。

 

報告をしなかったと言えども、普通、上記のけんか程度では保護者には報告をしません。けがをするレベルでないからです。幼稚園・保育園ならば、子供の引き取りの際に話すことができますが、小学校ではできません。電話をするほどのレベルではないのです。

 

学校側は対策を考えます。

 

おそらく次の手は

 

「(その子と保護者については)何かトラブルがあれば、逐次保護者に連絡をする」

 

になります。

 

翌日から担任は休み時間が終わると

 

「大丈夫だった?」

 

とその子に聞くようになります。

 

担任の行動の変化は終わりません。担任はさらにどう考えるか?

 

「毎回、トラブルが起こるたびに保護者に報告をするなんて大変だな。精神的に疲れてしまう。もしもトラブルの報告をして『相手の子にどういう指導しているんだ!』と怒ってきたらどうしよう…。」

 

「そもそもトラブルが起こらないようにしよう…。」

 

保護者からのクレームが1回だけならまだしも、2回あった場合、心労は相当なものになります。その子がトラブルに巻き込まれないよう、巻き込まれないように厳重に周りを指導します。その子には腫れ物を扱うかのように接します。

 

腫れ物のように…の表現が不適切ならば、「神様のように」がいいかもしれませんね。

 

絶対にその子が不快な気持ちにならないよう、その子への言葉遣いを気を付けたり、授業中に手を挙げていたらすぐに指名して褒めたりします。叱るなんてもってのほかです。

 

その子も、保護者も幸せかもしれませんね。

 

では代償は? 

 

周りの子供と、その子の将来…でしょうか。

 

神様のように「大切に」育てられた子供は、将来どのようになるのか、私はよく分かりません。ただ、自分の子供を神様のように育てたくは決してありません。辛いことがあっても、しなやかに、時にはしたたかうに生きていける人になってほしいと思います。

 

そのための第一歩として、学校に安易にクレームを入れないことがあります。

 

クレームを入れたら、超目立ちますからね。その子の学年をあがっても、クレームを言ってきた親としてずっと引き継がれます。

 

変な横やりで、子供の教育がゆがめられてしまうというわけです。

 

学力に関する残酷な事実

この記事では、学力とは単純にテストの点数とします。

 

その学力について。

 

塾に行ったり、放課後勉強したり…学力を上げるための努力は大切です。授業中だけでは分からなかったところを、参考書片手にうなりながら考え、最後に理解する。そうして得られた力はかけがえのないものです。

 

しかし。

 

教師を十数年やってきて感じること。

 

それは

 

「どんなに頑張ったとしても、もともとの能力には勝てない」

 

という残酷な事実です。

 

もともとの能力とは何か。簡単に言えばIQです。

 

実は学校では、IQをはかるときがあります。保護者の希望を受けてだったり、学年全体で検査をしたりして測定します。結果は必ずしも開示されるとは限りませんが。

 

一般によく知られているものは、WISCですね。WISCの目的は単純にIQをはかるためではなく、その子が何を得意とし、何を苦手としているのか明らかにして、対策をたてるためです。

 

ただ、もちろんIQ(フルスコアIQ)も見ます。IQは100が平均で、それ以上ならば平均以上とみなされます。例えば有名なMENSAはIQ130以上でないと入れないようです。

 

最近、よく聞くようになった「境界知能」とは、IQ70~85くらいまでを指します。見かけも雰囲気も態度も、IQ100くらいの人と区別がつかないのに、大変な苦労をして毎日を生活する境界知能の人。日本だけで1000万人以上いるといわれます。

 

MENSAに入れるような子も、境界知能の子も、一緒の教室にいるのが今の公立学校です。

 

彼ら彼女らを比べてみると、おそらくMENSA級の子供たちは授業を一度聞けば(あるいは聞かなくても)内容を十分に理解するでしょう。逆にこれまでに受け持った境界知能の子は、どれだけ一生懸命に授業を受け、家に帰って勉強をしたとしても、日々授業に追いついていくことはやっとか、どんどん分からないことが雪だるま式に増えていきました。

 

つまり、IQがわずか数ポイントしか差がないのであれば、努力で埋められるかもしれませんが、圧倒的な差がある場合、埋めようにもいかんともし難い大きな差なのです。

 

では、学力の格差は何歳くらいからあらわれるのでしょうか。

 

私は小学校で全学年の担任をしました。その経験から言って、学力の高低の差は、小学校入学の時点で明確に存在する…と言えます。1年生のテストですから、満点が当たり前なのに、40~50点を連発する…。そんな子が学級にはいます。彼ら彼女らがどんなに努力をしても、小学校6年間で、他の子と学力の差を埋めることは極めて難しいのです。

 

かつて高校の担任が私に尋ねました。

 

「このテストの結果や順位を見れば、大学入試の結果も予測できる。そんなテストがあるんだが、何か分かるか?」

 

「それは当然、模試じゃないですか?いや、意外と学校の期末テストかも。良問ぞろいっておっしゃっていましたよね。」

 

先生は首を振りながら

 

「違う。大学入試の結果を最もよく予測するのは、高校入試の結果だ。」

 

衝撃を受けた思いがあります。

 

そう。出口の結果は、入り口の段階で予測がついているのです。言い換えれば、どんなに高校3年間に努力をしても、その差は簡単には縮まらないということです。

 

高校の担任の話を拡張してみると、「高校入試の結果は、中学入学の時点で分かる」になりますし、「中学入学の学力は、小学校入学で分かる」となります。

 

IQというのは、そもそも生まれ持った能力とも言われます。そう考えると、IQが厳しい子に、やたらめったに勉強を強いるようなことは、正直言ってコスパが悪いと思いませんか。

 

しかしたいていの保護者は、「うちの子ができないのはやる気の問題だ」や「もっと勉強をする時間を増やせばできるようになる。みんなに追いつけるはずだ」と考えます。

 

ここまで伝えてきたとおり、もともとの能力に差がはっきりとある場合、そういった保護者の追い込みは子供を不幸にするケースが多いでしょう。例えば、相撲選手になりたくても体が大きくならないのであれば、その夢の実現は極めて厳しいことは分かるはずです。いくら相撲選手になる夢をもっていても、です。スポーツの世界ならばイメージがしやすいのに、勉強になると話が変わってくるのが不思議なことですね。

 

しかも相撲選手の例のように子供自身が夢の実現に向けて努力をするのならまだしも、保護者の思いを優先させた場合は、子供はついてこられません。「どんなに頑張っても勉強ができるようにならない」という辛い体験が子供に残るだけです。

 

では、IQが低い子は勉強をしなくていい・諦めろというのか? 

 

長くなってきたので、それはまた別の機会に。

好かれる子供とは

席替えをくじ引きでしたことがあります。新しい席に移動するまで誰が隣になるか、誰が一緒の班になるか分からない、そんなくじ引きでした。

 

新しい席に移動すると、歓声があがります。

 

「○○ちゃんと一緒に班だ!」

「よっしょー、○○君と2回連続同じ班!」

 

などなど。

 

その中で、ある男の子が言いました。

 

「この班のメンバーめっちゃいいじゃん!」

 

彼は学級でもリーダーになるような子で、友達が多く、明るい性格でした。人の嫌がることは決してしない、保護者の方もとてもいい方…そんな絵に描いたような優等生でした。

 

その彼が「めっちゃいいじゃん」と言ったメンバーは私からも見ても、「確かに自分が子供だったら嬉しいだろうな」と思うメンバーでした。どの子も真面目で、人が嫌なことを言わない・しないたちでした。

 

そう、これが本記事の結論です。

 

子供から好かれる子供とは、結局のところ、友達に対して嫌なことを言わないし、嫌なことをしない子供なのです。

 

当たり前かもしれませんが、実はその当たり前ができる子供はそう多くいません。

 

逆に常に人が嫌な気持ちになるような言葉をつかったり、人が嫌がるようなことを繰り返したりする子供は、席替えのときにどんなことになるのでしょうか。

 

あるとき、学級でそんな子供がいました。くじ引きをし、移動をした直後のことです。その子の横になった女の子が、渋い顔をしたのです。席替え後、「えー」や「最悪」、「この席嫌だ」などと言うと、一緒の班になった子はどう思うか?と問い掛けた直後でしたので、女の子は何も言いませんでした。そもそも彼女は、普段からも物静かで、真面目な子だったので、私が先のような問いかけをしなくても、変なことは言わなかったと思います。

 

しかし、そんな彼女のふとした表情から読み取ったこと。それはやはり子供といえでも、見ている子は見ているということです。

 

この究極の形が、修学旅行の班決めだと思います。

 

毎年のようにどこかの学級で揉める修学旅行の班決め。「○○さんと同じ班が良かった」ぐらいならまだしも、「○○さんと同じ班なんて最悪…」となったら大変です。席替え程度ならまだしも、修学旅行の班決めとなると保護者が乗り出してくることがあるからです。

 

もちろん、特定の誰かを排除したり、嫌ったりする行為は決して褒められるものではありません。

 

ただ、そうしたときに嫌われがちな子供というのは、やはりそれまでの過程に問題があるケースも多いのです。嫌なことを日常的に言ったり、嫌なことを友達に繰り返したり…。そして席替えや修学旅行の班決めなどで、「ああ、自分は嫌われているのだな…」と分かるのです。(そして「嫌われているから学校に行きたくない」となることもある。いじめ事態に発展して学校が大変なことになる。)

 

でも、席替え、あるいは修学旅行の班決めで「自分は嫌われている」と初めて分かるなんて、切ないことだなーと思いませんか。

 

しかしこれは難しい問題です。自分が好かれているか嫌われているかは、分かる人は感覚で分かりますし、分からない人は永遠に分からないものです。大人だってそうですね。組織の中で、「あの人はちょっと…」と避けられている人を思い浮かべてください。そんな方は、あまり周りの評価を気にしていないか、そもそも気にする気もないかのどちらかでしょう。

 

子供も同じです。自分がどう思われているのかについて、適度にセンサーを発揮できない子は、やはり周りへの配慮が足りていないのです。ゆえに嫌なことを言ったりしたりするのです。

 

教師は折に触れて、「そのような言い方はよくないよ。周りが嫌な気持ちになるからやめてね。」などと話します。ですが彼ら彼女らは決してやめません。自己責任? まあ、そうかもしれませんね。素直でないから? 素直な子はそもそも人が嫌がる言動はしないでしょう。親のしつけの責任? 究極的にはそうでしょう。親ガチャかもしれませんね。

映画ドラえもん「雲の王国」

ドラえもんの映画が公開されて45周年とのことで、記念特集が組まれています。

doraeiga.com

 

投票で過去の映画を再上映するイベント。先週まで「雲の王国」を公開していました。

 

家内はその翌週の「銀河超特急」を見に行きたいと言っていたので、私は「雲の王国」を鑑賞。(その間、もう一方が子守をする)

 

その「雲の王国」について。(以下、ネタバレあり)

 

私はドラえもんの旧作(つまり大山のぶ代ドラえもん)は全て視聴済み。原作も読了しています。とはいえ、全て子供のころの思い出です。久しぶりなので、見ながら「ああ、そうだった、そうだった」と思い返しました。

 

映画を見ながら、正直「なぜこれが選ばれたのだろう?」と思いました。

 

まず、旧作の前期の作品(「竜の騎士」ぐらいまで)はリメイク済みが多く、票が分散したのかなと思いました。そうすると後期の作品となりますが、「雲の王国」は少しクセがある作品なんですね。理由は2つ。

 

1つは、テーマ性が強いこと。

「雲の王国」のテーマはずばり明確で、「環境問題」です。子供向けにこのようなテーマ性はどうなんだろう…と思ってしまいます。

 

もう1つは、原作(テレビ版)とのつながりがあること。ドンジャラ村のホイ君やら、ドードーやら、果てはキー坊まで。映画が初見の人は「?」になってしまいます。確かに映画祭だからいいかなーとは思いました。しかし一方で子連れの人もいました。子供は訳が分からなかったでしょう。少しかわいそうでした。

 

「雲の王国」が駄作かと言われると、そんなことはないでしょう。

 

まず、昔のアニメ映画は、本当にテンポが良いですね。だれることがありません。

 

次に、適度に伏線を張って、回収しているところもいいです。例えば普通、「迷子探し機ごはんだよー」が、物語後半にきいてくるとは思いませんよね。

 

また、小学生ぐらいが視聴者ということを意識している点も良いです。例えば大洪水を目の当たりにしたドラえもんのび太が、「誰がこんなことを!」「たぶん、天上人だと思う」という会話をして、互いに納得している点です。大人から見れば、「いやいや、ドラえもんのび太はノア計画も何も知らないだろ」となります。しかし小学生ぐらいからすれば、しずかやスネ夫ジャイアンなどにも感情移入しているから、あまり不自然と感じない、、むしろ、すっと受け入れられる展開でしょう。

 

個人的に素晴らしいなと思ったのは次の2点。

 

1つ目は、のび太ネッシーに乗るシーン。青い湖のシーンともいえますが、本当に美しかった。「アラビアのロレンス」のようでした(意識していたのかな)。これは映画館で見られて大正解でしたね。家内はiPadで見たようですが、タブレットであの感動は味わえません。映画館ならではです

 

もう1つは、後半の核兵器を彷彿とさせる展開です。他の雲を消滅させる大砲をドラえもんが準備します。ドラえもんは「使うつもりはない。脅しのため。そうでもしないと対等に話し合うこともできないから」(要約)と述べます。まさに核兵器の考え方ですね。映画では、大砲を悪用する人が出て、実際に打ち放し、天上世界の1つの州を崩壊させました。(この崩壊した州も、あえてソーラーパネルばかりの州で、ほぼ人間が住んでいなかったという点も、子供向けとして考えてありますね)そのときのスネ夫のセリフ、「使うつもりのないものを出すなよ!」は、至言ですね。核兵器についての風刺は、きっと小学生には分からない、大人だからこそ楽しめるもので、良かったと思います。

 

というわけで、「雲の王国」の感想でした。大人になって見ると、また違った感想をもつことができて面白いですね。

 

 

言ってもどうせ変わらない

前任校のときのこと。職員がたびたび口にしていました。

 

「言ってもどうせ変わらない。」

 

誰に対してか。管理職に対してです。

 

例えば次のような悩みことが学校ではよくあります。

 

・暴力行為をやめない子供の対応の仕方

・クレーマーの保護者への関わり方

・いじわるをしてくる同僚教師との接し方

 

上記のような悩み事に対して、教職員が誰に相談するか。家族や友人、学年の先生たちに相談することはもちろんありますが、究極的には管理職に相談をします。管理職に相談をするメリットは、解決ができるだけの権限が管理職にあると、我々教員は考えているからです。

 

 

しかし。

 

事なかれ主義・現状維持の、火中の栗を拾おうとしない管理職は、職員の訴えに耳を傾ける程度はしますが、「でもなかなか難しいんだよね」などとお茶を濁します。そして何も対応しないか、焼け石に水程度の対応で終わらせます。

 

前任校で、職員室で同僚の悪口をずっと繰り返し言い続ける職員がいました。

 

見かねたある職員が、管理職に言いました。

 

「いくら何でも悪口をずっと聞いているのは気分が悪い。職員室の雰囲気も悪くなる。何とかしてほしい。」

 

管理職はどう答えたか。

 

「確かにそうですね。ずっと気になっていました。でもこちらが強く指導すると、逆切れをしてこないかなと思うんですよ。そうすると次は犯人探しが始まって、誰がちくったんだとなります。だから厳しい指導はしないで、今度会ったときに、つらいことがあったら校長室で話を聞きますからねと伝えてみますよ。」

 

訴えた教員は絶句したそうです。

 

その程度のぼやっとした曖昧な対応で、何かが変わるとは思えないからです。事実、その後も悪口は続きました。今も続いているかもしれませんが、私は異動してしまったので分かりません。

 

これは一例です。働き方改革を推進しようとしても、「どの行事も子供の成長には大切だから」と言われて何もできなかったり、子供に暴力を振られたことを伝えても「衝動性が強い子だから」と返されて終わりになったりしました。組織は個人を守らないのです。

 

ゆえに多くの職員が言うのです。

 

「どうせ上に言っても、何も変わらない。」

 

結局のところ、管理職が腹をくくって、問題を解決しようとしないことが問題なのです。無論、各教員が対応すべき事柄もあります。しかし保護者からのクレームや同僚同士のいさかいなど、一教員ではどうしようもないときは管理職が入るしかありません。

 

その際にリーダーシップを発揮して問題を解決することができるかどうか。たとえできなかったとしても、できる限りの手立てを打っているかどうか。

 

前任校にいて学んだことの1つは、管理職の言動で教員の意欲は削がれていくということでした。

(とすると教室における担任教師の立ち位置も同じでしょうね)

教師の仕事の本丸は学校種によって変わる

教師の仕事の本丸は何か。よく考えます。

 

究極的に言えば、働き方改革とは教師の仕事の本丸以外の業務をできるだけ軽くすることです。働き方改革を進めるには、そもそもの「教師の仕事の本丸」を知っておかなくてはいけません。

 

私は、教師の仕事の本丸は学校種によって異なると思います。

小学校と中学&高校で違うのです。

 

小学校の教師の仕事の本丸は、何と言っても授業です。

 

授業を通して、日本人として最低限理解や習得しておくべき事柄を得ることを子供に求めなければなりません。また、授業を通して、望ましい学習習慣(鉛筆の持ち方、話の聴き方、姿勢、ノートの取り方、音読の仕方などなど)を身に付けることも重要です。

 

言い換えれば、学習の土台を作ることが小学校の最重要課題というわけです。

 

中学校以降は変わってきます。

私は中学校以降の教師の仕事の本丸は、サポートだと思っています。

 

中学生ともなると学習の仕方がだんだんと身に付いてきます。そうでない子ももちろんいますが、一斉指導で何とかする問題ではありません。それこそ個に応じたサポートが必要になってきます。

 

授業はどうするのか? 授業はオンデマンドで良いと思います。N高のイメージですね。分からないところがあれば、それを教師がサポートする形をとればいいでしょう。

 

一斉指導は近年否定されがちですが、小学校においては、全員で何かに取り組んでいった方が効率的だと思います。小学生特有の、わちゃわちゃ感に対して、個で対応したら収集がつきませんからね。集団の力を借りて、個々の力を伸ばしていった方がいいでしょう。反対に中学校以降は、集団の力が同調圧力になりがちですので、個に応じた支援を大事にしていきたいものです。

 

なぜ私が教師という仕事に意欲をもてなくなったのか

教師になって10数年が経ちました。

 

最初の数年は非常に意欲的な教師でした。毎日朝早く学校に行き(7時前)、夜は20時過ぎまで仕事をするのが基本。学級通信は毎日発行し、土日は研修会に足繁く通う日々。この姿は「意欲的」というよりも、「仕事中毒」と言った方が正しいかもしれません。仕事が嫌で、早く帰りたい…などと思うことはありませんでした。

 

それから数年。今の自分は真反対です。

 

正直言って、できることならば早く仕事を辞めたいという思いです。学校に行っても楽しくない日々なのです。

 

今日の記事は、「なぜ私が仕事に意欲をもてなくなったのか」です。

 

理由をいくつか考えてみました。

 

①家庭が人生の中心になったから

 

最大の理由かもしれません。

 

最初の数年間、自分が仕事に邁進できたのは、「仕事の勉強をする→仕事をして成果を出す→成果を出せたのが嬉しくて、さらに勉強する」というサイクルを回していたからだと思います。研修会に行ったり、教材研究をしたりすれば、効果が出るのは当然です。仕事への投資時間が多いのですから、結果も出やすいだけです。

 

ひるがえって現在を見てみると、結婚し、子供がいるとなると、上記のような生活はできません。定時退勤が基本になりますし、土日に研修会に行けることなど、年に1~2回あればいいかなという感じです。

 

勤務時間中に教材研究をする余裕などありませんので、授業や学級経営も、以前ほどには成果が出にくくなりました。経験を積めば、授業も学級経営も上手になると言われたこともありますが、そんなことはありません。経験を積んだ上で、日々の準備を丹念に行えば、授業や学級経営が変わるのです。

 

②生徒指導上の課題に多くぶつかったから

 

生徒指導主任を数年間しています。この間、自分の学級だけでなく他の学級・学年の問題にも数多く関わってきました。問題行動を繰り返す子供・モンスターペアレント不登校・虐待児童などなど、本当に数多くの課題が学校にはあるのだと痛感しました。どれも一筋縄ではいかないものばかりで、うまく解決ができたということの方が圧倒的に少なかったです。

 

こうして生徒指導主任として、問題に関わっていると、毎日の生活が暗くなってきます。「一寸先は闇」「明日は我が身」という言葉がありますが、本当にその通りだなと思います。これらの問題にかかわった先生方は皆、一生懸命に仕事をなさっていました。それでも生徒指導上の諸課題に向き合わざるを得ないというのは、辛いことです。授業や学級経営だけでなく、これからの学校は生徒指導上の諸課題にどう付き合っていくかが重要になっていくでしょう。しかし私はそんな「諸課題」をどうにかするために教師になったわけではありません。まして自分が学級担任として向き合わなければいけない(こともありましたが)日々なんて、耐えられないなと思います。

 

教員のもつ権限は多くありません。大変な子がクラスにいても、何とかなだめ、すかし、同時に周りの子をケアしていかなければなりません。後述しますが、威圧的な指導ができない今、慢性的な人手不足の中で、何とかかんとか、毎日を凌いでいる状況です。このような状況で意欲的になる方が難しいと思います。

 

③制限が増えてきたから

最近、チーム担任制を始める学校が増えてきました。チーム担任制とは、例えば3学級あった場合、3人の教員で3つの学級の担任をするというものです。A学級の今週の担任はA先生だけれど、来週になるとA学級の担任はB先生に変わるシステムです。変わる頻度や教員の数は学校によってまちまちでしょう。子供としては、「担任ガチャ」が外れになる可能性が低くなるメリットがあります。今週は苦手なA先生だけれど、来週になれば変わるから…と思える点は、なかなかいいですよね。

 

教師としても、自分の学級の大変な子・保護者に一人で相対する必要がなくなる点が魅力です。時代の流れとして、チーム担任制はあって当然だと思います。

 

しかし一方で、学級担任としての魅力は減ると思います。言い換えれば、制限が増えるのです。給食当番をひとつ決めるにしても、給食当番のシステムを学年で統一する必要が出てきます。さらに、教員として見れば、学級担任制だからこそ生じていた「自分の学級をもっと良くするために頑張ろう!」という気持ちが薄らいでしまうかもしれません。そうすると「まあ、学年で揃えてやるものだから…」と新たな実践に後ろ向きになる恐れが出ます。

 

制限が増えてきたのは、他にもあります。

 

何と言っても、教師の指導が制限されてきている点です。例えば私の市では、体罰アンケートや暴言アンケートがあります。教師が体罰や暴言をしていないかを、子供と保護者に聞くというものです。毎年、それらのアンケートの時期になると憂鬱な気持ちになります。ちょっとした指導で、子供や保護者に「暴言だ」「不適切な指導だ」と言われる恐れが急激に増えているからです。

 

教師の指導の幅が狭くなっていて、問題行動をする子に対する厳しい手立ては取ることができない…という時代です。どうすればいいのよ…と思います。

 

④仕事への慣れ

単純な理由ですが、仕事への慣れもあります。

 

かつて大村はまが、「教師の仕事はこれまでの経験で何とかこなすことができる仕事」というようなことを仰っていたように思います(出典忘却)。

 

確かにそうなんです。教師は「昔取った杵柄」で何とかなりがちな仕事なのです。なぜなら教師という職は、年単位でそこまで大きな変化をしないからです。数十年前と同じように黒板を使いますし、教える内容も大きくは変わりません。

「慣れ」と同様に「限界」も感じるようになります。20代に、自分のありったけの努力の結果、素晴らしい授業や学級経営などの実践ができたとしても、30代、40代では若いころのような無茶苦茶な働き方はできません。ゆえに努力の仕方を工夫したり、生産性の高い仕事をしたりします。しかし「どんなに頑張ってもあの頃の実践が頂点なんだよな。その頂点の実践でさえ、うまくいかない子はいたし、うまくいかない授業もいくつもあったよな」と考えると、自分の限界を知ってしまった「諦め」が出てきます。

 

この「限界を知った」状態というのはなかなか厄介です。自分一人で勝手に限界を知っている分ならまだしも、周りに「どうせ無理だよ」や「いくら頑張っても無駄」のような発言をしてしまいがちです。そうすると途端に「老害」となってしまいます。

 

以上、いくつかの理由を考えてみました。

 

最近周りを見ていて思うのは、自分のようなタイプの教員、つまりかつては意欲があって、だんだんと意欲が下がってくるタイプの教員は結構少数派ということです。

 

むしろ、意欲は多少下がってもある程度一定に保っているか、もともと教職と言う仕事を割り切ってされているかのどちらかのように思います。若い先生は後者が多いですね。「仕事だから」とよく仰っている印象があります。

 

ですから学校で管理職に、私の「意欲が最近なくなってきた…」という悩みを打ち明けても、たいして受け止められないことが多いです。

 

追加

もう1つ理由を考えました。

それは「今の公立学校に希望がない」があります。

 

給料は増えず、働き方改革が全く進まないのに、業務は変わらず増える一方。子供、保護者は大変になる一方です。管理職は何もしない。文科省はもっと何もしない。そんな組織に嫌気がさしてきているのも理由に挙げられますね。