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小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

圧をかける

子供が言うことを聞かず、学級が崩壊する。そんな姿を数多く見てきました。自分も経験しました。

 

その原因は様々ですが、ひとつに「圧をかけなかったこと」があると思います。

 

「圧をかける」とは、例えば宿題を出さない子供がいたときに「なぜ出さないの?」と問い掛けたり、「休み時間に宿題をやりましょう」と促したりすることです。簡単に言えば、「圧をかける」とは、子供の不備不足を見逃さず、子供の変容を促すことです。

 

「圧をかける」には段階があります。先ほどの宿題の例で言えば、宿題を出さない子に対して、何も言わないのは「圧をかけない」と言えます。段階を1つ上げると、「なぜ出さないの?」と子供に声を掛けます。さらに段階を上げると、「明日、出してね」と言って、出したかどうかを翌日確認することがあるでしょう。ここぐらいまでは多くの先生方がされているでしょう。もっと段階を上げると、「休み時間にやりなさい」になったり、「宿題を終わってから給食を食べなさい」となったりします。場合によっては、「最近、○○さんが宿題を出していません」と保護者に連絡をします。

 

ただ、宿題については、最近、あまり厳しく言わない学校が増えてきました。そもそも私の学年では宿題を完全な自主学習と位置づけ、提出を求めないところもあります。

 

他の例を挙げてみます。

 

音読です。

 

国語の時間に、小学校であれば、どの学級でも音読をするでしょう。その声はどうでしょうか?

 

何も指導をしないと、たとえ低学年であっても、ぼそぼそ声になります。そこを見逃さず、指導を入れるかどうか。

 

「圧」のかけ方は様々です。「もっと背筋を伸ばして」や「みんな、声が出ていないよ」と発破をかける場合もあるでしょう。班ごとに音読をさせて競わせることもあるかもしれません。あるいは、きちんと声を出せている子やグループを褒める場合もあります。褒める場合は、あまり「圧をかける」感じがしないかもしれませんが、子供の変容を促すという点では同じですね。

 

このような「圧をかける」指導をどの程度行うかどうか。それは教師によっても違いますし、経験年数や子供の実態、もっと言えば、時代によっても変わります。

 

圧をかけない教師のもとでは、子供は怠けます。当たり前ですね。すべて見逃されれば、安きに流れるのが子供です。その結果、学級崩壊が起こります。若い先生に多いパターンです。私もそうでした。

 

圧をとにかくがんがんかける先生はどうでしょうか。子供からは嫌われることが多いです。高学年は特に難しいですね。褒めるのならいいじゃないかと言う人がいますが、高学年ともなると「あの子は褒められたいからやっているだけ」や「あまり目立つと名指しで褒められてしまうから嫌だ」など、子供の心境は一人一人複雑になります。褒めることもリスクになるのです。

 

最近は「圧をかける」ことを時代が求めなくなってきていると思います。「圧をかける」、すなわち子供を正しい方向に変化させる…教師の仕事の基本じゃないか!と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし今は厳しい指導ができない時代です。むしろ「本人の思い」を何よりも尊重する世の中ですので、「圧をかける」ことは難しくなっています。場合によっては、保護者から「宿題が大変だから減らしてください(逆もある。増やしてほしいという意見)」や「本人がよりよく理解するために音読をするのですよね。だったら大きな声で音読することを子供に求めないでください。声の大きさに意味はありません」などの意見が出てくる時代です。

 

周りを見ていて思うのは、「圧のかけ方がうまい先生は、学級がうまくいく」ということです。当たり前かもしれませんが、言う易き、行うは難しです。圧をかけること自体が、最近は難しくなっている中、子供の状態を見ながら、適切に圧をかけていくのは本当に大変です。

それならば圧をかけるのをやめようという考え方も、私はよく分かります(実際、自分は最近、圧をかけることをやめました)。

 

ですが、圧をかけなさすぎると、学級が崩れていくので、ここだけは譲れないというラインを作り、あの手この手で圧をかけていきます。

 

全体に対して、毎日家で勉強に取り組むことのメリットを伝えたり、イチローの言葉を紹介してやる気にさせたり、個別に子供を呼んで自宅に帰ってからの流れを確認したりします。もちろん、こんな細かい指導をするよりも、全体に対して宿題をやってくるように一喝する方がはるかに簡単です。しかしそれは時代が許さなくなってきています。もしも一喝することで、あの子が明日、学校に来ることを渋ったら…と考えるようになってきている時代です。手間はかかりますが、細かい指導をしていく他ないのです。

 

「圧をかけるけれど、フォローがうまい」という先生もいらっしゃいます。一昔前のように、子供を鍛えようという考え方をもちつつも、後で厳しい指導をした子供を呼んで「あなたには期待をしているから厳しく言ったのよ。ごめんね」と声を掛けている先生を見たことがあります。すごいなあと思ったものです。

 

あなたの圧のかけ方はどうですか?

新学期が始まる前にした方がいいこと

新学期が始まります。

 

子供も教師も憂鬱な長期休みの終わり。気分を少し上げることができる方法を教えます。

 

それは

 

「新しい物を買う」

 

です。

 

学校に持っていくものが良いです。

できれば毎日のように持っていくもの、目につくものがいいです。

 

例えば

・靴

・服

・筆箱

・湯のみ

・水筒

などがいいでしょう。

 

特に靴と服はおすすめです。気分が一新されるだけでなく、目ざとい人はしっかりと見ていますから承認欲求も満たされます。

 

変わり種として、笛を新調している先生もいました。笛は百均にも売っていますが、良いものは本当に響きますのでおすすめします。

 

気を付けた方がいいのは、あまり安い物を買わないということです。ペンを新調するのなら、えいやっと値の張るものがいいでしょう。ノート類もよさそうですが、あまり値段に差がないので気分の刷新には向きません。でもファイルならばありかもしれません。

 

というわけで、今日は新学期を迎えるに当たっての、おすすめ行動でした。

2024年お金・時間の使い方ベスト

毎年恒例、お金と時間の使い方ベストを思い出す企画。

 

よく今年のベストバイは何だったか?をまとめている記事はみかけます。しかしお金は物を買うためだけに使うわけではありません。様々なお金の使い方から、これは良かったというものを紹介します。さらに、人生の資源はお金だけでなく、それ以上に大事なものとして時間があります。というわけで、お金と時間の使い方ベストを紹介します。

 

☆お金の使い方ベスト

 

3位 伊豆旅行

 

静岡県伊豆半島に旅行に行ってきました。

 

親戚がおすすめしていた「ウェルカムベビー」のお宿に泊まりました。部屋がアウトドアスタイルで、息子は大喜びでした。しかし一番素晴らしかったのは夕食。ここ数年泊まった宿の中でベスト。こちらの姉妹ホテルにも泊まったことがありますが、個人的には「ルーシーキキ」の方が好きです。

www.izu-lucykiki.com

 

翌日は伊豆のぐらんぱる公園に行きました。まあそれなりの遊ぶ場所があって良かったですが、このあたり一帯がやや観光地価格で高かったですね。

 

2位 動物園年間パスポート

 

私の住んでいる市では、キリンが有名な動物園があります。そちらの年間パスポートは買って正解でした。結構高額なんですが、家が近いため毎週のように息子と通いました。幸い、息子が動物好きなため、元は取れたかなと思います。

 

1位 NHKオンデマンド

 

UーNEXT経由で申し込みました。私自身はNHKを契約していません(テレビがないため)が、NHKには良質な番組が多いので、長期休みのたびにNHKオンデマンドを1か月だけ契約します。1か月で約1000円。NHKスペシャル映像の世紀、ねほんんぱほりんなどを楽しく視聴しました。

 

https://plus.nhk.jp/

www.nhk-ondemand.jp

 

時間の使い方はまた次回。

スーパーティーチャーはいらない

どの学校にも1人ぐらい、いるかもしれません。

 

スーパーティーチャー。

 

その人が担任をすると、どんな子供も更生される。保護者からも管理職からも評判が良く、前年度まで崩壊していた学級を立て直す。授業はピカイチ。そんな素晴らしい先生がときどきいます。そうした全体の中のトップ上位数%の教師を「スーパーティーチャー」と呼ぶことにしましょう。「ああ、あの先生はスーパーティーチャーだなと考える人が、誰にもいると思います。

 

そんなスーパーティーチャー。私もかつては目指していましたし、スーパーティーチャーのような先生が学校に何人もいればいいのにと思っていました。

 

ただ、最近は全く逆の考え方をするようになってきました。

 

結論から言えば、「スーパーティーチャーはいらない」です。

 

その理由を端的に言えば、

 

「持続可能ではないから」

 

です。

 

その瞬間、その学級はいいのです。

 

スーパーティーチャーが受け持つことで、大変な子供が落ち着くこともあるでしょうし、クレーマーがおとなしくなることもあるでしょう。しかし、たった1年かそこいらで、全てがひっくり返ることはありえません。人はそう簡単には変わりません。変わるのだとしたら、しょせんその程度の大変さだったということです。

 

翌年違う先生が担任をしたとき、きっとまた問題が噴出するでしょう。そればかりか「昨年度の素晴らしい○○先生だったらうまくいっていたのに!」と保護者が言ってきて、むしろ被害が広がる恐れも出てきます。

 

麹町中学校の元校長の工藤勇一氏は、この状況に苦慮し、最終的に学級担任制を辞めたそうですが、慧眼だったと思います。

 

特定の先生だけがとびぬけた成果を出す授業や、学級経営をしても、周りがついていけないようでは、その人がいなくなったときに元の木阿弥です。そうではなく組織全体として、どの人がしても、一定の成果を出せるような仕組みづくりこそが大事です。

 

同じ学年にスーパーティーチャーがいたら、超大変です。何かにつけ、比べられるわけですから。子供たち(保護者も)も「○○先生のクラスが良かったー」と言い出す始末。やりにくいこと、この上なし。スーパーティーチャー自身が、自分のせいで周りが困っていることに気付いていればいいのですが、たいていの場合は「みんなも頑張ればいいのに!」と言い出しかねないので、大変です。

 

スーパーティーチャーをちやほやする現場ではなく、多くの凡庸な教師でも一定の成果を出せるような組織にしないといけないと思います。

 

そういえば次のような言葉がありますね。

 

「早く行きたいのなら一人で行け。遠くに行きたいのなら全員で行け。」

 

小中連携はやめましょう

「本年度から、本市は小中一貫教育を進めます」

 

これが今年はじめに教育長から発せられたメッセージでした。

 

私の市では、4月の勤務初日に教育長から訓示があります。コロナ禍前までは紙面上でしたが、コロナを経てzoomを使えることが分かったせいか、ここ数年間はリアル配信で全職員が職員室で見ます。

 

その中で教育長が言った言葉が、先のフレーズ「本市は小中一貫教育を進めます」です。

 

さて、今年1年間、本校がしたことは何か。

 

まず、小中の教員がそれぞれの学校に行き(本校は道路を挟んで隣同士なのです)、授業を参観しました。年に3回、各専門部会(研修部・体育部・保健部)に分かれて会議をしました。さらにその後特別活動推進部をつくり、小学校6年生の児童会役員と中学校の生徒会が交流をしました。

 

このあたりの活動はどの学校でもしていることでしょうし、実際、これまでにもしてきました。

 

そして12月になり、そろそろ今年度の振り返りの時期…というわけで、先日本校の教頭が言ったわけです。

 

「皆さん、4月に教育長が仰ったことを覚えていますか? 今年度、各専門部会で小中連携を取り組んだと思いますが、いかがでしたでしょうか。ぜひ学校アンケートにも小中連携についてどうだったのかを書いてください。」

 

本校では教員がこの時期に、本校の教育活動を振り返るアンケートに回答するのです。

 

その回答結果が、先週公開されました。

 

驚くべきことに、小中連携をすることに肯定的な回答をした教員が3割に満たなかったのです。他の項目(例えば今年度の研修部の取組や生徒指導について)は軒並み8割を超える肯定的評価があったのにも関わらず、です。

 

それだけ(特に)小学校の教員から、小中連携については否定的な思いをもっているというわけです。

 

なぜでしょうか。

 

簡単なことです。小学校の教員にとって小中連携をする必要感などないからです。逆に中学校の教員にしてみれば、価値があるかもしれません。自分たちが受け持つ子供が、小学校の時、どのような指導を受けていたのかを知ることができるからです。どのような声掛けをすれば効果的だったのかを知ることもできるでしょう。その意味では、小学校と幼稚園・保育園の接続は、小学校の教員にとって値打ちのあるものだと思います。

 

小学校の教員にとっては小中一貫教育をするメリットが感じられないのです。

 

そんな中で、なぜ小中一貫教育を推し進めなければいけないのかが全く理解できません。いやいや、小中一貫教育をすることで子供たちが中学に行ったときにメリットがあるから…中一ギャップが解消されやすくなるから…。確かにそうかもしれません。しかし問題は、「他の様々な教育課題を横においてまですることなのか?」なのです。他の市と同様に、本市でも人手不足は深刻です。子供たちの問題行動や不登校も増える一方です。その中で、なぜ小中一貫教育なのか。

 

きっと行政(教育委員会)としては、自分たちが市全体で取り組んでいることを議会や市民にアピールしやすいからでしょう。園と小の接続は、市の課が違うからやりにくいのですが、小中ならば義務教育課と、市役所の中でも部署が一緒だからやりやすいわけです。

 

ですが、何度も述べる通り、小学校の教員にとって小中一貫教育のメリットなどありません。即刻やめましょう。

保護者をお客様と思えない自分

私が教師になってばかりの頃、

 

「あなたは保護者に電話しすぎ。」

 

と先輩の先生に注意されました。

 

何でもかんでも保護者におもねっている様子を見て…のことだと思います。

 

あれから数年。当時と比べて、先生方が保護者をお客様のように接している姿をよく見かけます。それは電話や面談でよくあらわれます。

 

キーワードは「すみません」「申し訳ございません。」「いつもありがとうございます。」です。

 

これらの言葉を呼吸をするように使っている先生方の多いこと、多いこと。かくいう自分も、わりと使っていますが。

 

これはひとえに、教師の「保護者からクレームを受けたくない」という思いから来ています。多くの教師は、クレームそのものも疲弊しますが、同時に「あの先生はクレームを受けるほど、問題のある人なんだ」と同僚から思われることにも恐怖しています。ゆえに保護者にへりくだる教師が多いわけです。まあ、これは私の推測ですが。

 

 

保護者がお客様化することで、一部の勘違いをした保護者は、「もっとサービスをしろ」と要求してきます。運動会の日程や授業参観の回数、授業の仕方などなど、学校に口出しをしてくることが増えます。困ったものです。多くの常識ある保護者は、そんなことは決してないのですが。

 

私はここ数年、保護者はお客様ではないという意識を強くもって仕事をしてします。考えてみれば当たり前の話で、別に何かしらの金銭的な報酬を保護者から直接もらっているわけではないからです。税金は?と思われるかもしれませんが、それを言うなら自分もまた税金を納めています。立場的には、教師が下に出る必要はないわけです。

 

無論、保護者への敬意は表します。それは人として当然のことです。なかなか大変な子供であっても、「先生、いつもすみません」と言ってくださる保護者に横柄な態度をとることは絶対にありませんし、してはならないと思います。

 

このように書きましたが、周りの先生方はみな、保護者を大事に大事にされていらっしゃいます。そこまでする必要あるかな?…民間だったら追加料金もらうレベルじゃないかな…と思うこともたびたびです。

 

たしかに保護者とのトラブルは減るのでしょうが、本当にそれでいいのかは分かりません。

北風と太陽

イソップ物語の有名な寓話ですね。

 

子供対応でも同じだなと感じます。

 

かつての学校で一番大変な子にどう対応するかが職員室で話題になりました。友達に対して暴言暴力をする。しかし親はあまり頓着しない。授業に参加をせず、廊下をうろうろ徘徊する。通学路で下級生に手を出す。通学路で人の家の庭に勝手に出入りする等々。

 

登下校とはひとまず置いておいて、まず学校での過ごし方を職員で考えました。

 

そのとき北風派と太陽派に職員が割れました。

 

北風派が言うことはこうです。

 

友達に対する暴言暴力はあってはならないこと。授業を受けようとせず、廊下を徘徊しているが、彼一人を見る人的余裕など全くない。今一度、保護者に状況を伝え、「友達への暴言暴力」あるいは「授業放棄」が見られる場合は、その都度、迎えにきてもらうべきだ。

 

太陽派は次のように言います。

 

北風派の考え方では、子供や保護者の学校への不信感はさらに高まる。彼に必要なことは、構ってもらえるという安心感だ。人員が少なくて大変だが、廊下に彼がいる場合は、空いている教員が対応するべきだ。

 

割れた…と言っても、ほぼ全員が北風派で、太陽派は校長先生ぐらいでした。どっちつかずもそれなりにいましたが。

 

結局、校長先生の意向通り、「太陽政策」が取られました。とはいえ人員がいなかったので、支援員が彼に対応したり、ときには校長室で校長先生が彼に教科内容を教えたりしていました。

 

小学校生活最後の半年間は、それなりに担任の先生ともうまくやっていたように思います。

 

風のうわさで、彼は中学では結構楽しく過ごしていると聞きました。

 

太陽派の言わんとしていることは、彼の自尊感情を下げないこと・学校に味方がいることを伝えることだったのだと思います。

 

どちらが正解だったかは今も分かりません。

 

管理職は太陽派になりがちですね。保護者とトラブルになりたくないのだから。逆に職員(特にあまりその子と関わりのない職員)は野党的な考えをもちがちで、勢いのいいことを言います。責任がないからです。ゆえに北風派になる場合が多いと思います。

それでも通常学級にこだわる親たち

知的に明らかに大変な子が、私の学級にいます。特別支援学校ほどではありませんが、特別支援学級相当です。軽度知的障害の診断がおりてもおかしくないIQです。

 

勉強は当然、何も分かりません。今、小学校5年生ですが、毎日私が用意した2年生の内容のプリントを宿題で取り組んでいます。

 

授業中、友達が話していること、教師が説明していることが分からないのですから、退屈になります。鉛筆で机を叩いて音を出したり、近くの友達にちょっかいを出したりします。大声を出すこともよくあります。教師は注意をします。友達は「やめて」と言います。しかしおさまりません。その子にとっては、それしかすることがないのですから。

 

休み時間になると、いろいろな友達のところに行きます。ですが、話の内容がかみ合いません。最初のうちは、様々な友達も優しく接しますが、だんだんと距離を取り始めます。すると構ってほしいのでしょうか、その子は卑猥な言葉を言ったり、相手を小ばかにするような言葉を投げかけたりします。あるいは肩をちょんと触って逃げたり、友達のやっているタブレットをいじったりします。ますます友達が遠ざかります。

 

負のループです。

 

このような現状を保護者に伝えても、あまり頓着しません。謝る保護者ならばまだいいですが、「うちでも言っているんですがね。」や「やっぱり構ってほしいんですね。」、ひどい場合には「ちゃんとうちの子に関わってくださいよ。」や「支援員はつけられないんですか?」と言ってきます。そして大抵の場合、学校に参観をしに来るようにお願いしても「忙しいから無理です」と言われて終了です。

 

もちろん学校は、保護者に通常学級にいることの難しさを伝え、個別支援学級(特別支援学級)の良さを伝えます。さりげなく支援学級をすすめていきます。(無理強いは決してできない) 

 

最終的に学校が(というより担任が)、大変な子を何とかかんとか、対応していくのです。他に30人の子供がいるにもかかわらず。

 

こうした状況は別に珍しくありません。どの学校にも、どの学年にもこうした子供と保護者がいます。その子のために、支援員を配置できるほどの財政的な余裕が、今、私の所属する市にはありません。

 

私はインクルーシブ教育自体を否定するつもりはありません。しかし人に迷惑をかけ続ける子に関しては別です。他の、真面目に頑張る子供たちを守る義務もあるからです。

 

特別支援学級への偏見が保護者の中に根強い場合、学校に打つ手はありません。上記のような保護者は、いかに自分の子供が周りに被害を及ぼしているかについては関心はないのです。ただただ、「周りの子にも我が子の特性を理解してほしい」という思いを持ち続けています。そして「学校側は何も分かってくれない!」と怒りを爆発させ、モンペと化すのです。(先日も市の教育委員会にクレームを入れていたようです)

 

このような「大変な子」の親には、たくさんの悩みや困り感があるのだから、もっと寄り添わないとだめだという意見も分かります。しかしそれに対応するだけの人的余裕が学校にあるわけはありません。そもそも小学校高学年になっても、我が子の現実に向き合えていないというのは、やはり保護者にも何らかの課題があるのだと言わざるを得ません。

 

さて、この問題において、幸せな人は誰なのでしょうか。

 

保護者だけです。学校も、子供も、周りの子供も、周りの子供の保護者も被害者です。

 

私はもっと市や国側が通常学級か否かの判定について、権力を強く持っていくしかないと思います。今の「保護者ファースト」では、誰の幸せにもならず、ただただ現場で働く教員の負担だけが増していきます。

 

苛酷になり続ける現場からの訴えでした。

国語の物語文の主人公は男が多い?

私は学級で毎日読み聞かせをしています。読む本は、1日で終わるような絵本もあれば、数日、ときには数十日かけて終わるような児童書もあります。どんな本を選んでいるかについては、いずれまた紹介したいと思います。

 

ある日、「さて、次の本は何にしようかな」と考えて児童書を探していたときのことです。ふと気付きました。

 

「昨日まで読んでいた本は、男の子が主人公だったな。そういえばその前も、そのまた前もそうだった…。あれ、女の子が主人公の本を読んだことは…あったかな。」

 

そうやって児童書を探してみると、男の子が主人公の本が圧倒的に多いように思いました。

 

私が毎年のように読み聞かせをしている「エルマーの冒険」も「龍の子太郎」も「ルドルフとイッパイアッテナ」も、全て男の子(最後だけオス)が主人公です。ひょっとすると私が男だから、自然とそういう児童書を選んでいるのかもしれません。ただ、女の子に比べて男の子の方が突拍子もないことをしたり、冒険を好んだりするから、物語にしやすいのかもしれません。

 

さらに考えを進めていきまして、「では小学校の国語の教科書の作品はどうだろう?」と思いました。

 

①主人公が生物的に「オス」と考えられる作品としては、例えば以下のものがあります。

 

スイミー

・お手紙

・モチモチの木

・海の命

・おおききなかぶ(おじいさんが主人公と考えた場合)

・やまなし

・大造じいさんとガン

・木龍うるし

・いつか、大切なところ

・おにたのぼうし

・世界でいちばんやかましい音

・サーカスのライオン

・三年とうげ

・わにのおじいさんのたからもの

・ごんぎつね

・白いぼうし

・世界一うつくしいぼくの村

スーホの白い馬

・帰り道

 

②主人公が生物的に「メス」と考えられる作品としては、以下のものがあります。

 

・ちいちゃんのかげおくり

・わらぐつの中の神様(今回の教科書からは掲載されなくなりました)

・サラダでげんき

・走れ

・たずねびと

 

③どちらか判別が難しいものもあります。(主人公がそもそもいない?)

 

・けんかした山

・くじらぐも

・たぬきの糸車

・ふきのとう

・一つの花

(『一つの花』は視点人物がいない作品として有名です。いわゆる三人称客観視点で書かれているため、主人公が誰と明確に言えません。が、子供たちはゆみ子が主人公と考えるケースが多いように思います。そうすると、②に該当します。③は低学年の作品が多いですね。)

 

こうしてみると、やはり男の子(男性)が主人公の作品は多いなと感じます。

 

これは良いことなのでしょうか?

 

私は「あまり良くないと思う」という意見です。

 

なぜなら、ひょっとすると、上記の作品群に出合う女の子たちの中には、「世の中は男性が中心に進めているのかもしれない…」と考える子がいるかもしれません。そこまでの違和感はもたなくても、「なぜ歴史上の有名人物も男が多く、物語文も男の子が主人公が多いのかな」と考える子もいるかもしれません。あるいは、小学校段階だからこそ、無意識的に、そのようなことを心の中にためていく子もいるかもしれません。

 

それが次第に、「世の中は男性が中心になって進めていくものだ」という誤った価値観を子供たちに(知らず知らずのうちに)植え付けていってしまうように思います。考えすぎかもしれませんが。ただ、このようなバイアスはできる限り公教育では排除すべきだと思います。理系の女性が少ないことがよく日本では話題になりますが、北欧ではテストをするとむしろ女性の方が理系の得点は高く、女性研究者もたくさんいます。しかしそうなっていないのは、「理系は男性の方が強い」という無意識的な風潮が世の中にあるからだと聞いたことがあります。

 

さて、ではなぜ小学校の国語教科書に、女の子が主人公の作品が少ないのか。そもそも児童書というジャンルに男の子が主人公の作品が多いかもしれない、その理由は上に記しました。では、なぜ小学校の作品も男の子が主人公が中心なのか?

 

「児童書自体が、男の子が主人公の場合が多い。ゆえに自然と、小学校の物語文教材も男の子が主人公の作品になってしまう。」のでしょうか。これはつまり、教科書編集委員が、あまり性差について考えていないからです。あるいは「児童書にも女の子が主人公の本もたくさんある。だが、小学校の教科書には、女の子が主人公の作品をあえてあまり登場させていない」。のか。どちらなのだろうか? あるいは別の理由なのだろうか?とも考えました。

 

これは完全な私見ですが、やはり「主人公が男の子の作品の方が、小学校の国語の学習をする上で効果的だから」だと思います。

 

小学校の国語では「変化」について学習をすることが多いです。「登場人物の気持ちの変化」や「最初と最後の場面の変化」などです。そのとき、やはり男の子の方が行動的で、冒険をしがちなので、変化が見えやすいのでしょう。行動描写から気持ちを読み取ることも、男の子が主人公の方がしやすいと思います。逆に女の子の場合は、内面の変化が見えやすいですね。例えば「たずねびと」は、主人公の見方・考え方が変わっていますから。

 

繰り返しになりますが、「国語の学習をする上で効果的」とはいえ、やはりここまで主人公の男女の数の差が激しいのは気になります。

 

以上、国語の教科書の作品を男女の観点から考えてみました。

 

(なお、ブログでは分かりやすく「主人公」としていますが、「中心人物」や「主役」と同義でとらえています。よく言われるのは、「その作品で最も変化をした人物」が「主人公」の定義です。国語教育界では、「中心人物」と言う場合が多いように感じます。)

 

 

公立学校を選ばない人たち

私が勤務している学校は、小学校と中学校が隣にあります。各学年5学級の、比較的大きい学校です。小学生が中学に上がるとき、他の小学校と合わさることはありません。つまり私が勤務する小学校の子供たちのみが、隣の中学校にいくわけです。田舎ですので、私学の数は少ないため、ほぼ全員が地元の中学に行きます。

 

良いところは、互いに気心の知れたメンバーで中学まで過ごせることです。そのせいか、他の中学に比べると落ち着いている印象を受けます。

 

ただ、他の子供と中学入学時点で混ざらないため、高校入学のときに大きなカルチャーショックを受ける恐れがあります。何かデータがあるわけではないのですが、小中が混ざらない学校に通っていた生徒は、高校中退の割合が高いと聞いたことがあります。本当かなあ?と思いつつも、肌感覚としては納得してしまいます。たしかに中退者は多い…。

 

そのため最近、本校ではあえて隣の中学に入学するのではなく、私学に入る子が増えているようです。落ち着いているのだからそのまま進めばいいのにーと思うんですがね。

 

さて、ここで私の前任校の話をします。こちらも最近、中学で私学に入る子が増えてきました。理由は、私の今いる学校とは打って変わって、「小学校も中学校も落ち着いていないから」です。落ち着いていないのは、そういう地域だからです。生活保護を受けている家庭が他の地区よりも圧倒的に多かった学校でした。そのため学習に意識が向くどころか、基本的な生活習慣や社会性も身に付いていない子供が多数いました。親も親なので、「○○さんが、はさみで人を刺してしまったんですよ。だからコンパスやのこぎりを使う授業をするときは、危険ですので学校に来て、見ていてくださいませんか?」とお願いをしても「仕事があるから無理です。」で終了です。

 

このような学校にいるメリットは何でしょうか?

 

私は「世の中にはいろいろな人がいるな。」と知り、「いろいろな人」との付き合い方を学べることだと思っていました。過去形にしたのはわけがあります。なぜなら「人に迷惑をかけまくるような子と一緒にいるのは、せいぜい1年が限界」だと思ってきたからです。

 

考えてみてもください。授業中、ずっと大声を出したり、机をばんばん叩いたりするような子が学級にいる教室に、我が子を預けたいですか? 我が子の学習は阻害されるわけです。まあ、せいぜい1年間は我慢できるかもしれませんが、2年、3年も続いたら、さすがに困ります。

 

必要最小限のルール、つまり「人に迷惑をかけない」ことができない子が一定数以上いる学校からは、やはり人は離れていくでしょう。それも、しっかりとした家庭の子供から離れていきます。かくしてその地元の中学校は、ますます荒れていくわけです。