証し
私を生かした聖句。 フィリピ 4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
今回の「私を生かした聖句」はロマ書14章8節です。 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」。
空しさを覚えていた私にピッタリの聖書の言葉、それがロマ書12章1節の言葉でした。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。
老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。
youtube で賛美を聞きながら作業をしていると、ある曲が始まるやその歌詞に心が引っ張られました。心が乗っ取られたかのようにその曲に心を向けました。
歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。
昨日は教会の祈祷会。ヨハネ福音書15章1~17節を共に読み、しばらく思いめぐらし、各自が心にとまった聖句を紹介し合いました。
「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさい」とのロマ書の言葉の黙想です。
昨日の日曜日、人生で最初で最後になるかもしれませんが、妹と一緒に礼拝に出席しました。
私の愛唱聖句の商会です。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。 それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。
先日讃美歌392番を歌ったとき心が震えました。 神のみ声は 昔のごと 今なお人を 召したもう 囚われし民 悩む者を 救う使いの 世にはなきか
私たちがイエス・キリストを信じ、神の子とされ、神との交わりに生きるようにされるとき、限界のある自分という存在は、神から賜物を与えられた存在となります。
聖書を読む生活。人がどのように聖書を読むのか、それはその人の自由です。私は生きるために聖書を読みます。
「わたしバカよね、おバカさんよね」。細川たかしさんが歌った曲の出だしです。「自分ってバカなんだよね」。これは心を解放する言葉です。
キリストをもっと身近に感じたい、キリストと私が結ばれている、ひとつであることを実感できたらという思いがあります。
老いの生活は達成を目指すのではなく、日々の生活を感謝をもって終えることに目標をおけばよいと知ります。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロはどんな気持ちでこの告白をしたのでしょうか。
聖書の中で親しみを感じる第一の人は使徒パウロです。パウロとの関わりを振り返ってみたいと思いました。
Yさんを通して、信仰に導かれ、人生の伴侶と出会いました。Yさんとの出会いを神さまの導きと感謝します。
神さまは私の成長を見守り、私は気がつきませんでしたが、少しずつ導き始めて下さいました。
クリスチャンへの100の質問への答えです。
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。驚く言葉です。使徒パウロの言葉。
ヨハネ福音書には神から遣わされたヨハネは光について証しするために来た、と書かれています。私もキリストの証し人として語ってみたいと思います。
生きるのに疲れたという思い、自分は何のために生きているのかという思いで目覚めるのは一種の老人病と考えてよいのではないかと考えました。
キリストの十字架を私が誇る理由。それは私がキリストとひとつにされて歩むことができるようになったからです。
今まで内に秘めていて言葉にしていなかった思いがありました。今それを言葉に出して言います。
超教派の集会で納得のできる聖書の読み方を知りました。この方法で私は今日まで聖書を読んでいます。
私の聖書の読み方についての変遷について紹介です。信仰を持ち、牧師になってしばらくの頃まで。
福音は力と聖書にあります。この力は私にどのように働きかけたのか、振り返りました。