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クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私を生かした聖句 フィリピの信徒への手紙 4章19節

フィリピ 4:19
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

 私はある時、超教派の集会でディボーションを学びました。聖書の読み方を学びました。聖書を読む時、意識して読むのです。神はいかなる方と書かれていたのか。神はどのような生きかたを私たちに望んでいるのか。

 生きかたについて言えば、神の約束に生きる、神の命令に従う。神の警告に気をつける、罪の指摘を受けたら悔い改める、模範に従うなど、このような視点から今自分は御言葉によってどのように生きるかを思いめぐらします。そして示されたのならそれに従います。聖書の言葉に生きるための読み方です。

 神の約束に生きるという点で、忘れられないのが、フィリピ4章19節の言葉です。この聖句には神の約束があります。神は私たちの必要を満たしてくださる方であると約束されています。約束を満たしてくださいとの祈りが始まります。

 私は子どもを4人授かりました。ある時、三人の子どもが大学生でした。彼らの授業料や生活費などに不足が生じました。妻はボランティアをしていましたので、ボランティアは続けることとし、なお必要を満たすことができる仕事を与えてくださいと祈りました。すると3日目に電話が鳴り、働いてもらえないかとの要件で、祈りがかなえられました。妻は保健師の資格を持っており、以前時々、アルバイトで働いていたところから、人手が足りないので是非働いて欲しいとの電話が来たのです。私たち夫婦にとっては、神は祈りを聞き、必要を満たしてくださる方であると心に受けとめた忘れられない出来事でした。

 聖書から神の約束を聞き、その実現を求めることは大切であると知った経験でした。聖書には神の約束が沢山あります。たとえば、キリストを信じる人を神は義としてくださる、これも神の約束です。

ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

 聖書にはこのような約束もあります。

コリント一 10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 神は絶えられない試練は与えない、また逃れる道を備えてくださっている、これらもまた約束です。神の約束を信じることは信仰生活を豊かにしてくれます。

マユミの実 萬葉植物園



 

 

 

 

 

私を生かした聖句 ローマの信徒への手紙14章8節

ローマ 14:8
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 若い時に出会って心惹かれた聖句です。私は大学生の頃から空しさに捕らわれていました。また死を恐れる心がありました。そこで「そのためなら死んでも命が惜しくないような」ことをしてみたいと思う心がありました。死に打ち勝つことができるかも知れないし、空しさを克服できるにちがいないと思ったのです。

 私は導かれてキリスト者になり、聖書を通読しました。また聖書に親しみました。そんな中で、心に留まった聖句のひとつが上記の聖句です。

 「主のために生きる」というはっきりとした目的が示されています。そこに生きる意味のあることが示されています。自分のために生き、どんなに生き甲斐を感じたとしても、所詮、それは自己満足に過ぎないと思っていましたから、「主のために生きる」はとても新鮮な感じがしました。そして「その通りだ」との思いを持ちました。

 前回書いたロマ書の12章の1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」とありました。

12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 14章8節も12章1節も、神のために生きることを教えています。自分の生きる方向が定まったように思います。神さまの導きです。

 「死ぬとすれば主のために死ぬ」ともあります。パウロ自身はキリストを宣べ伝えるために、さまざまな困難試練に遭っています。

コリント二 11:23~27
わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 使徒パウロは死と隣り合わせの状態でキリストを宣べ伝えていました。仮に命を落としたとしても、それは「主のために死ぬ」ことであり、彼にとっては本望と言えます。パウロは、たとえ死ぬことがあってもキリストを宣べ伝えることをやめませんでした。その思いが「死ぬとすれば主のために死ぬ」との言葉に表れています。

 現代の私は、キリストを宣べ伝えることに身の危険も感じないし、迫害もありません。このパウロの言葉をどう受けとめたらよいのか、と思案します。過労死を恐れず主のために働くことを意味しているとは思いません。

 老いの中で、どうすれば「主のために死ぬ」のかよく分かりません。ただ私はこんなことを考えます。私は信仰者としてキリストに倣うことを大切に考えています。

コリント一 11:1
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

 自分が死ぬということは、神の召しによることと受けとめますが、キリストは死にました。そこで私もキリストに倣って死ぬ、と考えるのです。キリストに倣う生涯の最後として、キリストが死んだように私も死ぬ、と考え、自分の死を受容できるのではないかと考えています。

奈良公園飛火野

 

肉親を天に送って

 昨日は東京で行われた二つ年下の妹の葬儀に参列しました。私が牧師だったので、キリスト教式で葬儀を行いました。場所は葬儀会館で、集ったのはほぼ親族だけです。式後火葬に付し骨揚げを行い葬儀は終了しました。夜9時半過ぎに帰宅しました。今年の4月には妻の長兄の葬儀にも参列しました。

 今朝、朝食の用意をしながら、あらためて思ったことがありました。一日一日を妻と共に大切に生きようということです。若い時は、自分は永遠に生きるようなつもりで生きていました。自分の死は、遠い遠い将来の出来事でした。しかし年をとった今、自分の生涯に限りがあることを思い、一日一日を大切にするのは老いの恵みと思いました。

 一日一日を大切にするってどうしたらいいのでしょうか。まず一日の始めと終わりに感謝を献げることは大切です。生きるべき一日を与えられたことを感謝し、寝る前に今日の一日を感謝します。

 私には、残りの人生でこれだけはしておきたいということが一つあります。今もしていますが、聖書を学ぶということです。聖書は学び尽くすことはできないので、許される限り学びたいと思います。そして信仰生活を送ることができたことを感謝し、神さまをたたえたいと思いっています。

 主イエスは神の国を宣べ伝えました。それ故、少しでもこの世が神の国に近づくように祈り続けたいと思っています。

憎みあらそい あとを絶ちて
愛と平和は 四方にあふれ
みむねの成るは いずれの日ぞ
きたらせたまえ 主よ、み国を (讃美歌228番)

 大きな試練に遭わないように祈ることも必要です。平穏な日々を送りたいと願いますから。ただ夫婦の内どちらかが先に天に召され、残された方がひとりの生活をしなければならないので、それについての覚悟も必要だと思いますが、これはその時が来るまで考えないことにします。

散歩道



 

 

 

JR奈良駅でのクリスマス

 昨日、夕方5時過ぎから奈良高畑教会では、JR奈良駅前でクリスマスソングを歌いました。コロナ前ではキャロリングを行い、信徒宅を訪れクリスマスの讃美歌を歌っていました。コロナ以後初めてのキャロリングでしたが、今回はJR奈良駅の広場でクリスマスの讃美歌で賛美しました。教会の聖歌隊を中心に教会員の方も参加しての賛美でした。私も思いっきり歌いました。

・あわてんぼうのサンタクロース
・讃美歌103(牧人ひつじを)
・讃美歌111(神の御子は)
・讃美歌第二篇129(ひいらぎかざろう)
・讃美歌112(もろびとこぞりて)
・讃美歌106(荒野の果てに)
・讃美歌109(きよしこの夜)

 立ち止まって聞いてくださる方もいて、うれしく楽しかったです。教会としては初めての試みでしたが、新しいことにチャレンジするのはすばらしいです。

旧奈良駅舎

 

私を生かした聖句 ローマの信徒への手紙 12章1節

12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 空しさが心を支配している中で、私は社会に出てサラリーマンとして働くようになりました。空しさを克服するために、何をしたらよいのか、何を所有したらよいのか、あがきました。あまり思い出せませんが、絵を描いてみたり、楽器を習ったり、レコードを集めたり、自分のできる範囲で取り組んでみましたが、空しさから解放されることはありませんでした。仕事をする中で出世することにも興味を持てませんでした。

 信仰者になって通勤用のカバンに聖書をいつも入れておいたことを思い出します。一番大事な物はいつも自分のそばに置いておきたいと思いました。聖書を通読しました。そして心に残ったのが、ロマ書12章1節の言葉です。自分のために生きるのではなく神のために生きるという生きかたを知りました。そして聖書のことをもっと知りたいと考え神学校に行きたいと思いました。入学願書の他に、「召命観」についての文書の提出が求められました。神さまによって伝道者になるように導かれた次第を書くのです。伝道者になるよう召しを受けたわけではないので、苦労しました。両親からは反対されました。自分の道は進むしかありません。

 神学校入学前にお見合いをしました。その日の別れ際、「僕は将来牧師になるかも知れない。経済的に豊かな生活は保証できません」と彼女に言いました。彼女は受け入れてくれ結婚しました。

 神学校を卒業する時は、牧師になるのが当たり前の感覚になって、神学校4年の7月に会社を退職し、半年後、三重県の教会に遣わされました。神さまに生涯を捧げる歩みが始まりました。今、隠退後の生活を送っていますが、求められれば、説教奉仕をしています。

散歩道

 

 

 

 

 

 

 

私を生かした聖句 ペトロの手紙一 1章24~25節

 老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。神さまの導きを感謝し、神さまをたたえることができるなら、振り返りは有意義だと思いました。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。今回は、ペトロの手紙一にある聖句です。

ペトロ一1:24~25
「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 私が信仰を求めたひとつ理由に死の恐れから解放されたいとの願いがありました。死の恐れは、私に生きることの空しさを覚えさせました。どうせ死ぬ、それなら何をしても空しいという思いです。面白いこと、楽しいこと、生き甲斐を感じるようなことを求めても、それは一時の満足、喜びでしかないと感じていました。

 私自身は伝道礼拝に誘われ、それがきっかけで教会に行くようになり、紆余曲折ありましたが洗礼を受け、永遠の命の希望、神の国に迎えられるとの希望を与えられました。知識としての希望です。キリスト教はこういう希望を教えているという知識としての希望です。これで問題が解決したかというとしませんでした。恐れの感情は、消えませんでした。知識としての希望は、真の希望ではありません。

 そんな私が導かれたのは、世の中で最も確かなものは何かという問いでした。死は絶対の支配者で私を恐れをもって支配する、これは真理なのか。聖書には次のような言葉があります。

ヘブライ人への手紙 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 聖書は、イエスは死の恐怖に捕らわれた人を解放する方であると告げます。聖書によれば私は死の恐怖からキリストによって解放される、これは真理なのか。私が生きていくうえで、何が真理なのか、その真理に立って生きていきたいと思いました。その時私は聖書を真理にしようと決めました。

 それ以降、私は聖書を審理とする信仰に生きる努力を始めました。聖書が真理であるとの信仰が身についてこそ、真理は力を発揮します。おかげで恐れから解放され、平安を与えられました。

 聖書が真理、主の言葉こそ永遠に変わることがない真理、この真理に立って生きればよいと教えられ、私は平和を得ました。ペトロ一の言葉は、私にとって、真理となった最初の言葉です。

ツワブキ 散歩道

 

自分の死に備える

 先日タレントの中山美穂さんが亡くなったとニュースで知りました。また今朝は、元アナウンサーの小倉智昭さんが亡くなったとの知らせを聞きました。享年77歳。私は今77歳。年を重ね、いつ来るかわからない自分の死を意識せざるをえない状態になりました。

 いつその時が来てもいいように自分の思いを整えることが大切だと私は考えています。キリスト教では人は死後復活し、最後の審判を経て神の国に迎えられると教えられているので、自分の死に備えることは憂うつなことではありません。むしろ死という扉の向こうに神の国があるのですから、輝かしい世界が待っているということができます。

 死に備えるって何をすればいいのか。これは人それぞれだと思います。「自分が死ぬなんて考えたことがない」と語るお年寄りの方もいました。

 聖書にこんな言葉があります。

ヘブライ人への手紙11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 私にとっては、望んでいる事柄とは、神の国に迎えられることです。見えない事実も同じです。信じるとは確信することだというのです。この確信すること、それが私の課題です。信じるとは確信することだと言いますが、信じることと確信することの差はあると思います。現実には、信じていても疑いが伴うことがあります。「本当かな」という思いが湧いてくることもあります

 疑いがあるけど信じるというのが私の現実の信仰のありようなので、確信に至ることが課題です。

 自分が死んだあとのことは、聖書の教えることにゆだねるほかありません。そこで聖書の教えることに自分をゆだねて大丈夫なんだという確信を得るために、若い頃から、これまでの人生、聖書を真理とし、この真理に身をゆだねて生きてきました。聖書の真理に身をゆだねてこの世の生を終わる時がいつ来てもよい、そんな人生を歩みたいです。

 そして今思うことは、自分の生きる目的は、神をたたえることにあると。そして神の御国に迎えられた時、最高の形で神をたたえることができるということ、それを楽しみに生きる時、神の国を確信できるのではないかと思うようになりました。

サザンカ 散歩道