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2024.12.31

高齢者たちの悲惨な「後悔と絶望」…メディアが絶対に報じない「老い」と「死」の不愉快な真実

だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。

私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。

望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。

*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

ウソは報じないけれど、都合の悪いことは伝えない

不愉快な事実はだれも知りたがりません。臭いものにはフタ、知らぬが仏、見ぬもの清し、世間知らずの高枕などという言葉もあります。

心地よい話はメディアにあふれています。長寿社会の礼賛、医療の進歩、活き活きシルバーライフ、絆、つながり、助け合い。そのせいで準備を怠り、いざというときになって慌て、迷い、選択を誤る人が多いのは、いかんともしがたいことです。

私はこれまでの小説や新書でも、だいたい世間のイヤがるようなことを書いてきましたが、それは何も人を不愉快にさせようとしているのではなく、現場を知る者として、言わずにおれない気持ちになるからです。テレビや新聞で前向きな、あるいは希望に満ちたことを発信する人を見て、そういう人も必要だろうけれど、そればかりでいいのかと、いつも疑問に思っています。

これは老いや死に関することばかりではありません。犯罪の報道でも、凶悪な犯罪では被害者の側に立った視点で、犯人の悪辣なことばかりが報じられます。犯人の側に立つ報道は、まず皆無です。犯行に関して致し方ない事情や、被害者にも落ち度があった場合もあるだろうに、それらが報じられることはまずない。

犠牲者が多い場合は特にそうです。少々古い話ですが、連合赤軍事件やオウム真理教の事件でも、加害者側の善なる側面はまずメディアに現れません。断罪された犯人は、私利私欲や個人的な恨みで犯行に至ったのではなく、むしろ理想を抱いたがために犯行に手を染めた側面もあったはずなのに。

メディアはウソは報じませんが、都合のいいことしか伝えません。世間の共感を得て、メディアとしての信頼を高め、最終的には収益につなげることが目的だからです。

世間が不愉快な事実を知りたがらないのは、文字通り不愉快だからでしょう。被害者のことを考えれば、加害者の言い分など聞きたくもない。それより、犯人の悪辣な情報を得て、勧善懲悪の気分に浸っているほうが気持ちがいい。だから、メディアもそのニーズに応えて、仮に加害者側に致し方ない事情があっても闇に葬る。報じられないことは、受け手からすればないも同然です。その偏った情報をもとに、判断を下すことは危険なことではないでしょうか。

老いと死に話をもどせば、気持ちのいい情報ばかりで安心するのは危険です。不愉快なことでも知っておいたほうがいいこともあるし、より成熟した人間としては、イヤなことにこそ目を向け、しっかりと心の準備をしておくべきでしょう。実際、それは起こり得るのですから。