狐憑きにコックリさん……不可思議なる現象を解明せよ!
哲学館開館の前年、円了は同窓生をさそって不思議研究会を発足させた。時代遅れの迷信の徹底破壊をめざす集まりが誕生した。そのとき名をつらねた同志の筆頭は哲学科出身の三宅雄二郎、のちに雪嶺(せつれい)と号した人である。政治科を卒業した坪内雄蔵の名もある。のちに逍遙(しょうよう)と号した人である。
これより先、医学部に精神医学講座が新設され、エルヴィン・フォン・ベルツが教授に就任した。蒙古斑の命名や草津温泉の開拓で名高い御雇外国人である。ちまたでは御一新の世でさえ狐憑(きつねつ)きが多発していた。政府はこれを憂慮し、ベルツに調査を依頼した。
明治十八年(一八八五)に『官報』所載の論考「狐憑病説」が完成する。それによれば、憑依するのは狐に限らない。ある土地では狐憑きと言うが、別の土地では犬神と言う。だが憑依された人の病症はみな同一であり、それが発現する際には他者(たとえば祈禱師)の暗示が効力を発揮する。そこでは共同体の内部に伝わる俗信が重大な役割をはたしていた。そのことがまず明らかにされる。そのうえで、直接の原因は憑依されたと信じている人の大脳の変調に求められる。脳内におけるエネルギー分布の均衡がくずれたとき、知覚や運動に異常が生じて精神活動に支障をきたすという。
ベルツは不可解な現象を解明していくにあたり、今日の分類で言えば民俗学から神経病理学まで、幅広い領域を横断してアプローチを試みた。その姿勢と具体的な方法を円了は範と仰いだ。
不思議研究の最初の取り組みは、当時ちまたで流行していたコックリさんの実態解明だった。円了は全国各地から情報を収集した。それをもとに伝播の経路をたどっていくと、伊豆の下田に行き着いた。西洋人の船員たちが持ち込んだものらしい。そのころ欧米ではテーブル・ターニングという名の擬似降霊術が花盛りだった。コックリさんはその日本版にほかならない(具体的なメカニズムについては、本書所収の「妖怪談」ならびに『妖怪学講義録』を参照されたい)。