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2024-12-13

⚫︎マネの「アトリエでの昼食」(1868年)の特徴は、まず、遠近法的に空間を表現するパースを感じさせるものがほぼ存在しないということ。唯一、テーブルの角がちよっとだけのぞいていて、奥に向かって傾いているが、テーブルクロスの色と、その後ろに立っている女性の着ている服の色がとても近いためにあまり目立たない(手前の青年、後ろの女性、鉢植えという、画面向かって左側にある三つのモノが、徐々に小さくなっていくことで横倒しの三角形を作っていて、それが疑似的な遠近法的効果を作ってはいるが、それは「正しい遠近法」ではない)。さらに、この絵のフレームの中には地面(床)が存在せず、描かれているすべて、3人の人物、兜や剣が置かれた椅子、テーブル、壁際にある鉢植えの置かれた台の、どれもが床との接地面が描かれない(後ろの女性の足元はフレーム内に収まりそうな感じだが、意図的に隠されている)。ゆえに人や物たちの存在する空間がはっきりしないで(計測可能な三次元空間ではない)、ふわふわしたままだ。

空間は主に、モノとモノとの「重なり」によって「前後関係」として示され、「深さ」の感覚が希薄だ。

「アトリエでの昼食」というタイトルだが、この絵には、アトリエ感も昼食感も希薄だ。確かに、テーブルの上には食べ物が並んでいるが、どの人物も食べ物(食べる行為)に関心を持っているようには見えない。というか、この絵に描かれているものは、人も物も、それぞれの関係が希薄で、「一つの場面」を作っているようには思われない。食卓の椅子の上に兜や剣が置かれているのも不自然だ。別の場所から切り取られてきた写真を貼り合わせたみたいな無関係さを感じる。3人の人物は皆無表情だが、それぞれが異なる表情で無表情であるように見える。

空間表現としても、場面的(物語的)表現としても、それぞれの関係が希薄で、すべてを統べる共通性(基底座標)が見当たらない。

さらに特徴的なのが、手前の青年の着ているジャケットが、真っ黒のほぼ平面的なベタ塗りで、それが画面の中心部で大きな面積を占めている。マネ以前の画家でも、肖像画などで、黒い服がほぼベタ塗りの黒で表され、画面を引き締める効果を作っていることはあるが、ここまで大胆にベタの黒塗りが前面にあることはないだろう。また、手前の青年のジャケットと、中間にいる髭とたばこの男の描写が主に平面的に処理されているのに対し、後ろの女性は陰影によって膨らみを強調する描写になっている。

(女性の膨らみと、椅子の座面、テーブルの幅が、この画面に、かろうじて薄い「深さ」を出現させている。平面的な重なりの中に、何層かのズレた「薄い深さ」が無理に差し込まれることで空間化されている感じ。)

画面中で最も明るく見えるのは、最も後ろにあるように見える鉢の白で、この明るさが手前の黒いベタ塗りの強さと拮抗している(青年の襟元の白も効いている)。

後ろに立つ女性の着ている服と、テーブルにかかるテーブルクロスは、明度は高いが彩度が低いグレーであり、その燻みに対してきっぱりしたベタ塗りの黒の強さが対比的に際立つことで、後ろのグレーよりもむしろ「黒」の方が明るい色であるかのように見えてくる。この明るい黒が、後ろにはあ鉢や、襟元の白と拮抗する。

このようなマネの空間表現と、その下に示したマティスの空間表現とは、見かけほどには遠くない(マティスの画像はMOMAのウェブサイトから)。

 

 

2024-12-12

⚫︎まったく今更という感じだが、最近ますます、マネの偉大さを感じている。あくまで、サロンに入選する伝統的な画家であることを望み、自分は革命家になりたいわけではないと発言しながらも、ルネサンス以降の絵画を強く規定していた「遠近法」と「陰影法による肉付け」によって事物や空間を表象するやり方を、徹底して廃棄して絵を成立させることのできた最初の画家であり、一つのフレームの中に統合された一つの場を作り出すという価値観をも廃棄し、主題的にも、伝統的・歴史的主題と、社会的、政治的主題と、日常的だったり卑近だったりスキャンダラスだったりする主題とを同列に扱うということを大胆に行なった。マネは、セザンヌと並んで近代絵画で最も革新的・革命的な画家たと言っていいと思う。マネの中には、少なくとも20世紀半ばくらいまで絵画の展開の可能性のほとんどがすでに内包されているし、マネ(+セザンヌ)の存在が、19世紀から20世紀中頃までの絵画の方向性を決定してしまったとさえ言えるだろう。

もちろんそこには、ベラスケスやゴヤ、あるいは浮世絵などからの影響も見られるだろう。だが、それらの影響を別の次元にまで発展させた。

(たとえば、マティスセザンヌをしきりに礼賛するが、実はマティスは、セザンヌから得たものよりも、マネから得たものの方が大きいのではないかと、最近では思う。)

(セザンヌは、マネとはまったく違った在り方で、西洋近代絵画の中の異様な特異点で、ぼく個人としては、マネ派であるよりはずっとセザンヌ派なのだが。)

とはいえ、マネの実現した視覚芸術における革新的なものは、現在ではほとんど(それとは意識されないままで)共有財産となっていて、たとえばマンガやイラストを描く人ようなにも普通に使われている。だからこそ凄いのだが、しかし、だからこそその凄さは、現時点ではなかなか見えにくい。マネの絵について、「サロン」がなぜそんなにも強い拒否反応を示したのかという理由(感覚)も、今からだとなかなか見えにくい。

(ぼく自身、マネの凄さを感じられるようになるまでずいぶん時間がかかった。)

マネにおいては、絵画を構成する様々な要素は皆等価であり(たとえば、手法と主題という次元の異なるものでさえも等価であり)、それらはどのようにも組み合わせ可能で、しかもその構築にこれといった統一性は求められない。だからマネの絵には「これこそがマネだ」というわかりやすいスタイルはない。マネの絵には、根からの切断があり、そこからくる軽やかな自由度がある。それは同時に、軽薄さでもあり、シリアスさの無さ、でもある(対してセザンヌは、耐え難いほど重たすぎるしシリアスすぎる)。しかし、だからこそ「批評性」というようなものを積極的に含ませることも可能になる。

マネの絵を形作っている、諸要素の構成のあり方には、今もなお新鮮で刺激的であり続けるものが多くある。

(下の絵は、1868年の「アトリエでの昼食」。画像はWikipediaから。こんな奇妙な絵があるのか、と思う。)

https://en.wikipedia.org/wiki/Luncheon_in_the_Studio

 

 

2024-12-11

⚫︎見ることが足りないと、雑になるし、甘くなる。だけど、見すぎると見えなくなる。細かく執拗に繊細に見ればいいということでもない。どの程度見るのか、というか、そこから「何を」見るのが適当か、ということが、まず大きな問題である。というか、それこそが問題である。「分子の運動」と「熱」、「解像度」と「粗視化」という問題。

⚫︎そこで、適当な解像度を決める基準点というか、照準点の一つとして、「わたしの生」「わたしの身体」が浮上する(ベルクソン的な縮減)。でもそのとき、たとえば「わたしの身体」というときの「わたし」をどのような構成物として考えるのか、が問題となる。「わたしという形式」からして、それは全然自明のものではない。

⚫︎「わたし」ってなんのこと ? 、なにを「わたし」と呼んでいるのか ? 、「わたしという形式」について考えることと「このわたし」について考えることとは、どの程度重なってどの程度ずれているのか ?  、「ある身体」あるいは「ある生」が「わたしのもの」であるというのは、どういう意味なのか ? 、わたしが問題にしている「わたしの問題」が、あなたが問題としている「わたしの問題」に貢献できるとしたらどんな形でなのか ? 、など。

⚫︎「わたし」は絶対的な限定であり、しかし同時に底が抜けている。ゆえに再び、なにを、どの程度見ればいいのかわからなくなる(根拠がなくなる)。

2024-12-10

⚫︎いまどきではさすがに、笑いの持つ加害性については、多くの人が敏感になっていると思うが、一方で、笑いの持つ「権力性」については、十分に意識されていないように感じられる。笑いとはまず、排除の笑いであり、愛想笑いであり、同調笑いである。笑いは、その場に強い同調を作り出す。

例えば立花孝志が気持ちよさそうにクソみたいな下品で攻撃的なことを言い、その周りで信者たちが笑ったり、手を叩いたりするおぞましい動画を見て、これこそが「笑いの本質」なのではないかと感じる。聴衆が笑い、笑いに包まれるともうその場が支持の空気一色になって、批判者は孤立させられる。

このような「笑いの作る同調性」が、「おもろい」権力主義(「おもろい」至上主義的な権力)のようなものにつながる。笑いを取れる「おもろい」オレサマが、「おもろない」お前らを下に見るのは同然だ、というような。「おもろない」お前らに、「おもろい」オレサマを批判する権利などない。オレサマへの批判は「おもろなって」から出直してこい、というような。また、「おもろい」を「おもろない」お前らが分節化、言語化できるはずはない、「おもろい」を分節化する権利は「おもろい」オレサマにしかない、と。

自分は貧乏なのに、お金持ちの経営者の思考を内面化してしまっている人がいるように、自分が「おもろい」わけでもない「お笑い好き」の人が、「おもろい」権力主義を内面化してしまっている。「おもろい」人を信仰し、「おもろない」人をバカにする。しかもそこでは「笑い」がすべてを肯定し、「おもろい」が成立する基盤への批判的考察はない(「おもろい」自体への考察はあっても、「おもろい」権力主義の成立基盤への考察がない)。このような傾向が、例えば松本人志を権力モンスターに仕立て上げてしまうのだと思う。そして、このような指向性は、笑いの持つ強い「同調性」によって支えられていると思われる。

松本人志が「優れたお笑い作家・プレイヤー」だとして(この点について異論はない)、だからといって無制限に権力を行使して良いことにはならない。優れた作家(優れたプレイヤー)が、一定以上の発言力を持つのは当然だとしても、そこには制限があるべきだろう。しかし「おもろない」奴が「おもろい」人に文句をつけることができないのならば(そして、その「おもろい」権力主義の成立基盤が批判的に検討されないならば)、いったん「一番おもろい」と確定された人には、無批判に無制限の権力が与えられる。少なくとも、必要以上に権力が拡大するのを誰も止めることができなくなる。これは、プレイヤーの問題である以上に支持者(お笑い好きの人)の指向性の問題であるように思う。お笑い好きは、敏感にその場の権力関係を察知し、権力に靡く。「おもろい」人の威を借りて、「おもろい」を(批判的に)分析しようとする「おもろない」人に対して強く当たる。

そして、このような「おもろい」権力主義が、実際の社会の中での吉本興業の権力の拡大と重なって見えてしまって、「お笑い」に他する強い忌避感が、ぼくにはある。そこに引っかかって、「お笑い」を好意的に見ることができない。

(もちろん、それが「笑い」のすべてだとは言わないが、看過できない勢力であることは確かだと思う。)

2024-12-09

⚫︎広瀬愛菜の「天国にいちばん近い島」が絶妙で素晴らしい。聴いているだけでなんか泣きそうだ。あくまでオリジナルの路線を踏襲しつつ、精度と繊細さにおいてオリジナルを超えていると思う。というか、今までずっと、原田知世のオリジナルを聴いている時も、脳内補正して「この状態」を聴いていたのではなかったのか、という、恐ろしく倒錯した錯覚をしてしまう感じだ。

(だからこの感覚は、もちろんオリジナルがあってこそのことなのだが。)

天国にいちばん近い島 広瀬愛菜

https://www.youtube.com/watch?v=onJzpx0uwSo

原田知世 - 天国にいちばん近い島 (FAN MV)

(坂道でトラックの荷台から多量のヤシの実が転がり落ちてそれに足を取られて原田知世が転んでしまうという、このベタな上にもベタな茶番劇の、ベタな素晴らしさ。)

https://www.youtube.com/watch?v=G6PoULYxrdg

⚫︎電影と少年CQ菊地成孔とのコラボ。とても良いのではないか。

・電影と少年CQ - BLOOD PITT

https://www.youtube.com/watch?v=qTBsXoiSaQo

2024-12-09

⚫︎TVer野木亜紀子のデビュー作が配信されていた。2010年放送のヤングシナリオ対象受賞作『さよならロビンソンクルーソー』。野木亜紀子が後に一緒に仕事をすることになる、菊地凛子田中圭綾野剛が、このデビュー作にすでに出ている。この時点ではキャスティングに口を出すことなどできないだろうから、脚本家と俳優の出会いには、このような偶然も大きく作用するのだな、と思った。

ドラマ自体は、野木亜紀子でもデビュー作ではこの程度なのか、という感じのものだった。演出がぜんぜん良くないということもあるが。ただ、この時点でもう、細部からではなく、形(構造)から作っていく作風だったのだな、ということは感じた。

蓮佛美沙子田中圭菊地凛子綾野剛という二組のカップルの話で、ただ、恋愛の話というより、社会派というか(いわゆる「意識高い系」ではなく)社会的な意識が高い人系的要素のウェイトが重く、それは今に通じるのだけど、恋愛要素と社会派要素のバランスにしても、社会的意識高い人系的な主題の切り込みの深さにしても、どちらも中途半端だと感じた。今の野木亜紀子から遡行的に見れば確かに作家性の萌芽は感じられるが、このドラマだけを観て面白いとはなかなか思えない。

(Wikipediaを見ると、野木亜紀子による受賞作のシナリオを「原作とした」と書かれているので、かなり改変されてしまっているのかもしれない。ただし、クレジットは「原作・脚本 野木亜紀子」となっているので、改変版も本人によるのか…。)

さよならロビンソンクルーソー』は45分なのでサラッと観られたが、バタバタして余裕がなく、今やっている『海に眠るダイヤモンド』の方は1話から先に進めていない(『ダンダダン』も1話で止まっている)。

2024-12-08

⚫︎広瀬愛菜が新しいアルバムを出したの知らなかった。「17」から四年ぶりで「21」なのか。

・広瀬愛菜「21」ミックスリスト。

https://www.youtube.com/watch?v=InMfmQEcno4&list=OLAK5uy_mO-KyX3a3QSG3UhezuFncyeVL4v1_eXIs

それとは別に、やっぱりこの曲が好きすぎる。

・kiki vivi lily - Blue in green @ Creema YAMABIKO FES 2022

https://www.youtube.com/watch?v=7zK4_6_JU2s