ピュロン(古希:Πύρρων、ラテン語:Pyrrhon、英:Pyrrho、紀元前360年頃~紀元前270年頃)とは、古代ギリシアの哲学者である。懐疑論で知られる。
エリス(現イリア)に生まれる。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、元々画家であったそうである。デモクリトスの著書を読むことを通じて、哲学を志すようになったという。
アレクサンドロス3世の東征に従った際、インドではヨーガ行者に、ペルシアではマギに出会ったという。
ピュロンの死については伝説が残っている。彼が目隠しをしながら弟子に講義をしていたところ、目の前に崖があることに気がつかなかった。彼の弟子は、崖があることを注意したが、彼はその注意を懐疑した末に、崖から落ちて死亡したという。
ピュロンの著作は現存しないが、後世のピュロン主義者であるセクストス・エンペイリコスの『ピュロン主義哲学の概要』から、彼の思想を窺うことができる。
彼は、物事の真偽を判断することは不可能であるので、人間は「判断中止(エポケー)」しなくてはならない、と主張した。「判断中止」とは、あるものが正しいとか誤りだとかいった判断をすべてやめようという考え方である。
これはプロタゴラスの相対主義に似ているが、プロタゴラスと違って、普遍的真理の存在を否定しているわけではない。あるものが真理であるといったことは判断できないのだという一種の不可知論である。
セクストスによれば、こうした「ピュロン的懐疑論」は、プラトンの創立したアカデメイア末期に見られた懐疑論とは異なるという。アカデメイアの懐疑論が真理の存在を否定するのに対し、ピュロン的懐疑論は、真理の存在について判断することを否定しているからである。
さらに、彼はこう主張する。真偽の判断が不可能である以上、あれこれ議論するのは不毛なことである。それを判断中止することによって、「静穏(アタラクシア)」の境地に至ることができる。
ピュロンの懐疑論は、アイネシデモスによってピュロン主義として提唱され、セクストスをはじめとする多くのピュロン主義者を生んだ。
1562年にセクストスの著書がラテン語に翻訳されたことにより、ピュロンの懐疑論が再発見された。モンテーニュやヒュームの懐疑論、デカルトの方法的懐疑などに影響を与えた。
近代では、フッサールが現象学において「エポケー」という単語を用いている。
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最終更新:2025/02/17(月) 10:00
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