関税(tariff)とは、物品の輸入または輸出に際して課される税金の一種である。
概要
物品の輸入時に課される「輸入関税」と、物品の輸出時に課される「輸出関税」があるが、輸入関税のほうが一般的である。(以下、単に「関税」と書く場合は輸入関税のことを指す。)
なお、日本の場合、「関税法」(昭和29年法律第61号)、「関税定率法」(明治43年法律第54号)および「関税暫定措置法」(昭和35年法律第36号)の規定が適用されるので、詳細に興味がある者は、これらの法律の解説を読んでいただきたい。
輸入関税
外国から物品を輸入する際に、輸入国が課する税金が「輸入関税」である。例えば、米国産の農産物や機械類を日本に輸入しようとする場合、所定の法令に基づいて輸入業者は日本政府に必要な関税を納めなければならない。
関税があまりにも高いと外国の物品を輸入することが困難ないし無意味になってしまう。逆にそれを狙って高い関税を課する場合もある。だが、各国が関税を高くし合うようになると、貿易が停滞してしまい、ひいては世界全体の経済成長が阻害されてしまう。そこで、第二次世界大戦後に「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)が結ばれ、国際的に関税を下げていくための枠組が作られた。1995年にはこれを発展させた「世界貿易機関」(WTO)が新設された。
GATTないしWTOでは、各国の関税率を引き下げるための「ラウンド」と呼ばれる多国間交渉が繰り返されてきた。従来は工業製品の関税交渉が中心だったが、1980年代から1990年代にかけて開かれた「ウルグァイ・ラウンド」では、農産物などの関税までもが対象に加えられた。21世紀に入り、新たに「ドーハ開発アジェンダ」と呼ばれるラウンド交渉が開始されたが、さまざまな立場の国がさまざまな意見をぶつけ合ったため、もはや交渉を進めることすら困難という状況に陥っている。
日本の場合、戦後の高度経済成長期にどんどん関税を下げていったため、現在の関税率は世界的に見ても低い部類に入っている。その点、一部の農産物に対する関税率が高いことで知られている。
輸出関税
一方、国内の物品を輸出する場合に輸出国側が課するのが「輸出関税」である。日本では殆ど用いられていないが、レアメタルや農産物を輸出している国では活用されることが多い。自国の資源が無秩序に輸出されてしまうと、計画的な資源活用が困難になったり、自国の農産物が際限なく輸出されてしまうと、自国民が食べる分すらなくなってしまったりするからである。
日本のように、資源や農産物を輸入している側からすると、輸出関税は迷惑以外の何物でもない。とはいえ、WTOなどによる規制があるわけではなく、輸出国側と交渉するくらいしか手立てがないのが現状である。
関税をめぐる歴史と思想
自由貿易と保護貿易
前近代においては、支配者にとって手っ取り早い収入源として重視されていた。他領との境になっている街道や河川に関所を作り、行き来する商人たちから関税を徴収することで利益を上げた。中世の記録を読むと、この関税設置の権利が質入りしたり質流れしたりした例も確認できる。
近代に入ると、国内産業を保護するための手段として認識されるようになった。この点で有名なのはドイツの政治経済学者フリードリヒ・リストである。彼は「英国の最先端の工業製品がドイツにどんどん流れ込んでくると、いつまで経ってもドイツの工業は成長できない。一時的に英国の工業製品に高い関税を課すことによって、ドイツの幼稚な工業の国内での競争力を高めることが先決である。」という、いわゆる「幼稚産業保護論」を提唱した。
一方の英国はアダム・スミス以来の「自由貿易論」を世界に訴えていた。特に、同国のデイビッド・リカードが唱えた「比較優位説」は「お互いに関税を廃止して自由貿易をすると、お互いが利益を得ることができる」という考え方で、関税のない自由貿易を主張する大きな理論的根拠を与えるものとなった。
19世紀においては、(かなり大雑把に括ると)自由貿易論の守護者は英国、対する保護貿易論の守護者はドイツおよび米国という構図であったが、20世紀前半に米国経済が伸張すると、むしろ米国が自由貿易論の旗手として活躍するようになった。
なお、発展途上国の中には、現在でも関税を国家の収入源として重視している所もある。日本を含む先進国の場合、他の税収が大きいため、関税は収入源というよりも国内産業の保護といった目的で多用されている。
関税圏の拡大と関税同盟
上述のとおり、前近代においては時の支配者が都合のよい関所を設け、必要に応じて関税を徴収していた。しかし、関税が高くなればなるほど物の取引が難しくなっていくため、経済発展のため「国内関税の廃止」が進められるようになった。日本でも、江戸時代には藩ごとに関所を設けていたが、明治維新によってそのような関所は廃止された。これは、国を大きな経済圏とみなし、その中での物の取引を円滑にすることによって、国全体の経済を成長させようという戦略の現れである。
ところで、19世紀前半のドイツには「プロイセン王国」やら「ザクセン王国」やら「バイエルン王国」やらの独立国家が多数存在しており、国境を跨ぐたびに関税を徴収されるという状態にあった。しかし、それらを統一して「ドイツ」という国を作りたいと考えていた人たちもいた。そのための有力な手段として考えられたものの一つに「関税同盟」というものがあった。これは、ドイツ全体を一つの関税圏として統一し、関税圏の内部にある関所を廃止してしまおうというものであり、これが実現すればドイツ内部の物の取引が容易になり、経済成長が見込まれるというのである。さらに、経済圏が一つになることで一体感が高まり、政治的なドイツ統一が容易になるのではないかという打算もあった。上述のフリードリヒ・リストはこの関税同盟の必要性を説いて回ったことでも知られている。なお、「ドイツ関税同盟」は1834年に実現し、その37年後の1871年に統一ドイツたる「ドイツ帝国」が誕生した。
関税同盟による域内経済成長と一体感の創出という考え方は、更に大きな規模で活用されることになった。それは20世紀後半の欧州である。フランスやドイツといった国は、それぞれが独自の関税体系を持っており、例えばフランスの製品をドイツに輸出する場合にはドイツ政府に関税を払わなければならなかった。しかし、独仏を含む欧州諸国による関税同盟を実現させることで経済成長を図るとともに、独仏の緊張関係を緩和し、共存共栄による一体感を創出したいという考えを持つ政治家たちによって、1958年に欧州経済共同体(EEC)が設立された(現在の欧州連合(EU)の土台に当たる)。これは域内の関税同盟化などを目指すもので、実際に1960年代までに関税同盟が実現した。
こうした一連の流れは、「関税圏の拡大」として括ることができる。
国の主権と関税
関税は国税の一種であり、その税率を決めるのは独立国にとって主権の行使に当たる。逆にいえば、従属国などの非独立国は(宗主国との関係から)自国の関税率を自由に設定することができない場合が多い。
日本の場合、江戸時代末期の通称修好条約によって「関税自主権の放棄」を強いられたことが知られている。これは、治外法権(領事裁判権)の附与と並んで、こうした条約が「不平等条約」であったことの証左とされている。明治政府は関税自主権の回復のために努力を重ね、日露戦争に勝利した後に関税自主権を回復することができた。
関連項目
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