1について
國體とも表記される。国家の在り方。国の根幹、国制(なお戦後の日本の学会では国体の語の使用は大変避けられており、この単語でしばしば代用されるが、意味合いとしては本記事の国体と同じものと思ってもらって差し支えない)、憲法(Constitution)とも同じ概念とされる。政体(政治体制)や、憲法学でいう「実質的意味の憲法」とも一部重なるが、日本やイギリスのように君主を戴く国における君主制、共和政ローマ(SPQR)やアメリカ合衆国のように非世襲の元首を戴く共和制はまさに国の根幹をなすものであり、日英の君主制、米国の共和制は国体と不可分である。一方日本の歴史を見てみると、皇親政治→摂関政治→幕府政治→議会政治・内閣政治と政治体制は変遷しているが、天皇を戴く国であるという原則は一度として破られたことはない、日本の議院内閣制と国体は可分である。長い歴史を経て政体が変遷している国では政体と国体が可分である事が多い。上で例にあげたローマ帝国(SPQR)はカエサルの独裁やアウグストゥスの帝政開始で共和制が形骸化し、ディオクレティアヌスが専制君主となって事実上共和政体としてのローマは終焉した。「実質的意味の憲法」の内、変革することがおよそ認められないものが国体と言えよう。国体が変更されることを革命という。憲法の語は成分化された憲法典(Constitutional Code)という意味合いが強いが、国体は文字に記さずとも国民ならみんながそう思うことを指して使われる。
日本の国体
日本においては天皇制のことを差すことも多い。その意味においては英語でもJapanese Constitutionを指して"Kokutai"と表記される。戦前、大日本帝国憲法制定当初は明文で国体を変革してはならない、つまり天皇制を廃止してはいけないと定めた法は存在しなかったが、大逆事件やその後の社会主義運動の高まりを受けて、治安維持法などによってその変革が禁じられた。その中身は、「建国」以来の大日本帝国の「統治体制原理」としての「万世一系の天皇」の永遠の支配を指し、天皇制と国体とはほとんど同義として使用された。戦後、日本国憲法は主権在民を定め、天皇主権としての「国体」は否定された。天皇制はその後も残存し、治安維持法が廃止されたため、戦後は再び国体を変更することは法的には何ら規制されていない状態に戻った(破防法は政府を暴力で転覆してはならないという趣旨の法であり、天皇制を特別に保障していない)。
天皇制
神武天皇が即位した紀元前660年以来、万世一系の皇統が続いている。天皇制の始期は諸説あるが、常識的に考えて律令制が整備され、古事記・日本書紀が編纂され、碁盤の目状の整然とした首都が整備された奈良時代には既に天皇制が日本に定着していたとするのが妥当だろう。それでも1300年以上続く長い伝統がある。戦後は日本国憲法第1条で日本国民統合の象徴と規定されたため、象徴天皇制と呼ばれている。
女性天皇は歴代8人10代存在したが、女系天皇は一例も存在しない。十七条憲法や五箇条の御誓文に記されているように、臣下の話し合いを重視し、天皇が独断専行で物事を決めてはならない(君臣共治)、といったところだろうか。日本史において天皇が親政していた時期は短く、藤原氏の台頭と承久の乱によって皇室は徐々に政治権力を失い、権威者として存続することとなった。
長い歴史の中で幾度となく皇室の危機が訪れたことがある、奈良時代には称徳天皇が道鏡を寵愛し禅譲を企てた事件が起こっている。道鏡は天皇の子孫ではなく、仮に天皇となればそれは全くの別王朝となる、また仮に道鏡と女帝との間に子ができてその子が即位すれば女系天皇になっていた可能性がある。1889年に旧皇室典範が制定され女性・女系天皇が禁止された。
平安時代には平将門が東国で独立政権を打ち立て新皇を名乗った(承平の乱)。平将門は桓武天皇の男系5世孫であり、その意味では皇位継承者として相応しいはずだが彼は天皇ではなく新皇を名乗った。
後の時代の実力者の平清盛や源頼朝も天皇の男系子孫(清盛:桓武天皇の11世孫、頼朝:清和天皇の11世孫)であるが、あくまで平氏・源氏の棟梁として務め、皇位を狙うことはなかった。室町幕府第3代将軍の足利義満は最も皇位簒奪に近づいたと評されることがある。足利義満もまた清和天皇の男系17世孫である(女系を含めると順徳天皇の5世孫)ので現代で例えるなら竹田恒泰氏(崇高天皇の19世孫、女系を含めると明治天皇の玄孫(4世孫))よりは皇統に近しい血縁関係だが、彼がもし天皇に即位したらそれは簒奪とされるのである。れっきとした男系男子であっても全員が皇位継承者ではないのである。どこで線引きをすべきなのか、法的には確定していないものの、歴史を見ると応神天皇の男系5世孫の継体天皇が最も遠縁から皇位を継承している(そもそもそれ以前の皇室となんの血縁もないのではという意見もある)。
現行の皇室典範では男系男子が皇位継承者とであり(1条)、天皇が崩御した際は皇嗣(跡継ぎ)が直ちに即位するとされ(4条)、非嫡出子は皇位継承の資格がなく(側室の否定)(6条)、皇籍離脱者は皇族に復しない(15条)と規定されている。
光格天皇(第119代、在位1780年 - 1817年)以後は、すべて皇統直系の男系男子により皇位継承が行われて現在に至っている。
天皇機関説
天皇機関説とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立する。この語の使用も含めてこの説を肯定するか否かに関わらず、明治以降の日本は実務上一貫して天皇機関説に基づいている。一方で以下のような批判にさらされた。
ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治と憲政の常道に理論的に支えた。しかし昭和期に入り、政党政治家より軍部の発言力が増大する中で美濃部の天皇機関説が攻撃され、時の岡田内閣は天皇機関説は国体の本義に反するとした。これによって、戦前の議会制民主主義や憲政の常道は否定されることとなった。昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていたという。
もっとも、この排撃を通じて日本が天皇主権になったわけではなく(真面目に天皇親政に邁進した陸軍皇道派の青年将校は悲惨な結末を迎えた)、あくまで軍部や官僚が政党政治家を排斥して、天皇を立てて自分たちの思いのままにできる、いわゆる官主主義を完成させたわけである。
日本国憲法下における国体
国体とは「実質的意味の憲法」の中でも改変してはならないものであるが、現代日本の「実質的意味の憲法」の内、何がおよそ改変してはならないもの、即ち国体に該当するのかは識者の中でも争いがある。
「実質的意味の憲法」は憲法典である日本国憲法のほか、附属法の皇室典範、自衛隊法、警察法、刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、教育基本法、労働基準法、国会法、公職選挙法、内閣法、裁判所法、会計検査院法、財政法、地方自治法、日銀法、国民投票法や日米安保条約、日米地位協定、核拡散防止条約などの重要な条約、非核三原則や河野談話村山談話などの政府首脳の発言、軍事費をGDPの1%以内とする方針などが含まれる。また、日本国憲法は改正手続きを経て改正ができるわけだが、学説上は、改正に限界があるという説と限界がないという説に分かれている。限界説では国民主権や平和主義などの基本原則を改正手続きで改変することは認められないとしている。限界説とはつまり国体は合法的に改変出来ないということであるが、限界があるのか否か、またいかなる条項がそれに該当するのかは諸説あって、学説の段階に留まっており、最高裁判所や内閣法制局が限界説を肯定したことは2018年現在ない。詳しくは憲法改正を参照。
大日本帝国は敗戦でGHQの支配を受け入れGHQ主導で大幅な改革が行われたわけだが、この中に戦前の価値観では決して変えてはならないものがあり、それが変えられてしまった(八月革命説)という考えと、天皇制や議院内閣制などの国体部分は護持されたという考えがある(そもそも国体護持を条件に米英支ソに降伏している)。前者はまた変革後の戦後体制を良しとする考え(戦後民主主義)と、戦前の体制に回帰すべき(反動論、日本会議、自由民主党憲法改正草案)とする考えとに分かれる。
国体とはまさに国の根幹であるわけだが、現代日本では識者の間でも何が国の根幹かを巡っての対立があり、結果として国民の総意がなければ改正できない日本国憲法は制定して以来、誤植(7条4号など)も含めて一言一句改正されない状況が続いている。一方で2015年の戦争法案のように解釈でなし崩しに改正してしまう(これは集団的自衛権が日本国憲法の定める平和主義に反するという立場からの悪意のある表現である)事態も起きている。
アメリカ合衆国の国体
アメリカはヨーロッパからの移民・植民が自由な信仰生活を送るため作った共同体を元に成立した国であるため、自由な信仰生活を送る権利が保障されている。ただ、あくまでヨーロッパからの移民が作った国なので、インディアンや黒人奴隷には土地の所有権を認めてこなかった。南北戦争の最中にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を発して、その後北軍が勝利、黒人は奴隷ではなくなった。しかし公民権を得るのは1960年代まで待たねばならなかった。
ジョージ3世時代のイギリスは北米植民地に対して苛烈な税を取り立てていた(本国でも大ピット首相やエドマンド・バーク下院議員、経済学者アダム・スミスらから異論が出るほどである)。ついに植民地人の怒りが爆発し、トマス・ペインの扇動やラ・ファイエット将軍の援助もあってイギリスからの独立を勝ち取った。市民が武器をとって暴君の支配を脱した点に価値を見出しているため、市民が武装する権利も憲法上保障されている。また大統領が暴君にならないために、厳格な三権分立制度を採っており、また大統領は連続2期までしか務められないとしている(明文化されたのはフランクリン・ルーズベルトが4選したことへの反省から)。
成立当初のアメリカ合衆国はあくまで州の連合体でさながら今の欧州連合 (EU) のようなものであった。欧州連合からイギリスが離脱したように、アメリカの南部諸州も連邦から離脱してアメリカ連合国(南軍)を作った。これを認めない合衆国(北軍)側との戦争が南北戦争である。最終的には物量に勝る北軍が勝つわけだが、この戦争結果として各州の連邦離脱権は剥奪され、名実ともに一つの主権国家となった。それでも連邦制であり、中央政府の内政への指導力は諸外国と比べると低い。
厳格な三権分立
典型的な大統領制の国であり、立法府の議会は重大な犯罪を弾劾するという形式でなければ大統領を失職させることはできない。一方大統領も議会を解散することは出来ず、また教書演説を除いて議会に立ち入ることも出来ない。また大統領は連邦最高裁判所の裁判官を任命するが、任期はなく終身であるため、裁判官は時の政権に忖度することなく自己の責任のもと積極的に時の議会制定法や大統領の行為を違憲と断ずる傾向にある。日本と同じ付随的違憲審査制を採っているが司法権と行政権の力関係は真逆である。
連邦議会選は2年毎に行われ、下院は全員、上院は3分の1が入れ替わる。大統領選は4年毎に行われるが、予備選も含めれば1年がかりの大イベントである。大統領選と議会選が重なる年は一般的に大統領の所属政党が議会でも多数を取りやすいが、そうでないいわゆる中間選挙の時は大統領の所属政党と議会多数派がねじれて分割政府(divided government)になりやすいとされる。
超大国として
第5代モンロー大統領は欧州諸国に我が国は欧州事情に干渉しないので、お前ら(英仏普墺露)もアメリカ大陸の事情に干渉するなよ(震え声)との教書を発した。これが世にいうモンロー宣言である。こうして19世紀のアメリカは自国の開拓に専念する代わりに外国との積極的な関わり合いを持たなかったが、1890年代の「フロンティア消滅」の頃から対外野心を見せ始め、米西戦争でキューバを保護国に、フィリピンを獲得、ハワイ王国併合など覇権国として歩んでいくこととなる。この頃にGDPでイギリスを抜いたとされる。第一次大戦は欧州事情のため当初中立の立場だったが、ルシタニア号事件を機に英仏側で参戦し、戦勝国となる。戦争で荒廃した欧州を尻目にアメリカは超大国として歩み始める。その最中、当時のウィルソン大統領の肝いりで国際連盟を設立するも上院の賛成が得られずアメリカは加盟しないという珍事件が起きた。
1929年にはアメリカ発の大不況が世界中に飛び火し、ドイツではナチスの台頭を招いた。それがやがて第二次大戦を生み出すわけだが、アメリカはここでも戦勝国となり、名実ともに超大国となった。国際連合の本部はニューヨークに置かれ、世界の貿易は米ドルで決済されるようになった。ソ連との冷戦は朝鮮戦争・キューバ危機・ベトナム戦争と幾度となく厳しい場面に出くわしたが、最終的には冷戦に勝利した。
21世紀に入りイスラム過激派との対テロ戦争や中国やロシアとの覇権争いで終わりの見えない対立が続いているが、当面はアメリカの覇権は崩れないとされる。
2016年大統領選で世界の警察官の役割を降りると宣言したドナルド・トランプが大統領に選出された。今後アメリカが世界の警察官の座から降りた場合、多極体制となり、国際情勢が不安定化することが懸念される。
ドイツ連邦共和国の国体
当時世界で最も民主的と言われたヴァイマール共和国からナチスが台頭してきたことへの反省から、自由民主主義を破壊する思想を持つ団体、憲法秩序を破壊する思想を持つ団体を非合法化して政治の場から締め出している。また憲法典の改正も憲法秩序を壊す改変は禁止されている(堅固に保護された条項)。これを戦う民主主義という。ドイツは日米とは異なり特別の憲法裁判所を設置しており(抽象的違憲審査制)、具体的な争訟が発生していなくてもある事象が憲法に適合するかを判断しており、ナチスは当然として共産党もドサクサに紛れて非合法化された。こうして極論が予め排斥されることもあって、ドイツの事実上の憲法典であるボン基本法は制定以来2年に1度のペースで改正されている(改正要件は上下両院それぞれ3分の2以上の賛成)。
フランス共和国の国体
1789年の大革命以来、立憲王政→第一共和政→第一帝政→ブルボン復古王政→七月王政→第二共和政→第二帝政→第三共和政→ヴィシー政権→第四共和政→第五共和政、と目まぐるしく政体が変遷している。現在のフランス共和国の標語に「自由、平等、友愛:Liberté, Égalité, Fraternité」がある。これはフランス革命期に一般に流布したが、革命の波が収束すると見捨てられていった。1848年革命で第二共和政が成立すると正式な標語として復活した。
フランスはライシテ(laïcité)という厳格な政教分離を敷いている。元々の大革命の目的が貴族・聖職者が特権を独占しているアンシャン・レジームを排撃することにあった。大革命期に採択された人権宣言には信教の自由が明記された。一連の国家の非宗教化政策の結果。1905年の政教分離法、1946年憲法(第四共和政憲法)、1958年の現行憲法(第五共和国憲法)のいの一番にライシテが規定されている。
フランスはブルボン朝の絶対王政の頃より中央集権が進んでおり、国家主義が徹底している。ヴィレル・コトレ勅令でヨーロッパに先駆けて公用語をラテン語からフランス語に替え、フランス語の規範はアカデミー・フランセーズが一元的に管理している。ライシテは国民の多数がカトリックであるフランスにおいて、バチカンのローマ教皇(外国勢力)の干渉を受けないための制度的保障でもある(わが国が江戸時代に行った禁教令もキリスト教全体というよりはカトリックを対象としたもので、カトリック宣教師の背後にあるポルトガル・スペインが当時世界中を植民地化している最中で、日本がその両国の政策に巻き込まれることを嫌ったのである。)。
2について
国民体育大会(The National Sports Festival of Japan)、略して「国体」とは、47都道府県が持ち回りで開催しているスポーツ大会の事である。本大会と冬季大会があり、47都道府県対抗である事から、日本国内版のオリンピックのようなものである。
初開催は1946年。
毎年開催されており、全ての都道府県で開催実績がある。地域によっては「国体道路」と称するような道路があるなどインフラ整備のきっかけとなる事もある。
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