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ズレていたのは「私」だった。圧倒的ぼっちな高校生活を送った男が「大学で学んだこと」

DANROで先月、<中途半端な友達はいらない!「圧倒的ぼっち」だった私が、最高の学生生活を送れた理由>という記事を書いた際、多くの方からさまざまな反響をいただきました。

賛否両論ありましたが、「偏差値で人を見ているように感じる」「ひとりのいい面が強調されすぎ」という批判的な意見も寄せられました。それを見て「やはりそう感じる人がいるのか」と思いました。

というのも、否定的な意見の対象となったのは「高校生の私が思っていたこと」そのままだったから。しかし、いまは大学での経験を経て、ずいぶん考え方が変わりました。

そこで、今回は「高校時代の記事」の続編として「圧倒的ぼっちな高校生活を終えた私が、大学生活で学んだこと」を書いていきます。

「普通の大学生」になれると思っていた

私は高校を卒業したのち、上智大学に入学しました。当時は上智での学生生活にかなり期待していましたし、自信も持っていました。

そのときの私は、自分が浮いていたのは“低偏差値の閉鎖的な高校”にいたことが原因だったと思っており、「高偏差値で多様な学生が集まる大学なら、自分と価値観の合う人もいるはずだ」と考えていたからです。

また、「高校でぼっちになったのはそれを自主的に選択したからで、本気を出せば『普通の人たち』と同じように振る舞い、同じように楽しめる」とも思っていました。

東京・四谷にある上智大学のキャンパス

こうして、大学では野球サークルに入り、アルバイトは塾講師を選び、「普通の大学生」と同じような生活を始めたのです。もちろん、ぼっちではなく、それなりの数の友人に囲まれながら。

大学の人間にも不信感を抱くように

ところが、しばらく「普通の大学生」らしい学生生活を送っていた私ですが、すでに大学1年の秋ごろには「普通」への違和感が芽生えはじめました。

まず、私はこの時期に早くも、塾講師を辞めています。その理由は、「予定の拘束」に耐えられなかったから。

思えば、高校時代の私は、ホームルームの時間が数分伸び、放課後の自由な時間が少しでも減ることに、耐えがたいストレスを感じていました。そんな人間が、シフト制のアルバイトなどできるはずもなかったのです。

実際、2年後の就活でも同様の問題に直面することになり、就職を断念して「新卒フリーライター」の道を選んでいます。

また、野球サークルでも上級生との間に不穏な空気が。上級生たちは会計や試合の手配、諸連絡などの“仕事”がテキパキできるほうではなかったのですが、私がそれを公然と批判したことで、上級生との関係もギクシャクするようになりました。結局、1年足らずで野球サークルを辞めています。

しまいには、入学前にあれほど期待をかけていた大学の学生たちにも、不信感を抱くようになりました。私の価値観と合う友人は誰一人いません。彼らは、当時の私の目には「低偏差値高校の残念な学生たち」と同じような存在にしか映りませんでした。

もちろん、当時の友人が悪かったわけではありません。私のような自他ともに認める「極端な合理主義者」と同じ価値観を持つ人間などいるはずもなかったのです。むしろ彼らは「理解不能」とさじを投げつつも、興味深い価値観として受容してくれていました。いま思えば、良き理解者だったのでしょう。

ただ、当時はそんなこととも知らず、やがて授業外では大学の友人たちと顔を合わせないようになりました。その代わり、小、中学校地代の同級生に誘われてハンドボールサークルの立ち上げに参画し、以後はそのサークルの運営に注力していくことになります。

また環境を変えても、うまくはいかなかった

新しくサークルの立ち上げにかかわった背景には、「先輩のいない場所で自分の思うようにサークルを運営すれば、上手く回ることを証明したかった」「インカレサークルだったので、上智にはいない価値観の合う学生に会えると思った」という理由がありました。 

結果的に、このサークルは組織として大成功を収めます。SNSを駆使した新入生勧誘で会員数は100人を超え、都内でも有数のハンドボールサークルになりました。

ハンドボールサークルの立ち上げに尽力したが・・・

しかし、今度は後輩たちと対立しました。

私はサークルを大きく、安定した組織にするべく、全身全霊をかけて仕事をしていました。しかし、後輩たちは、私が過去に見てきた先輩たちのように、真摯に仕事と向き合わなかったのです。

私はそれが不思議でなりませんでした。彼らは「ハンドボールが好き、でもハンドボールをプレーできるサークルがない」という一心でこのサークルに入ったメンバーです。自分たちが少し手間をかければ、理想的な環境で競技ができるはずなのに、なぜ仕事をしないのだろう、と。

このような実態があったために、私が苛立ちを覚えたのは事実です。だが、いま思えば、前の野球サークルのときと同じような問題が、私の側にありました。

私には「自分の考える理想的なやり方に沿わない人間が許せない」という一面があるのです。我ながら仕事はできるほうだと思いますが、これでは集団でうまくやっていけるはずがありません。

結局、この溝が最後まで埋まらなかったことや、自分の価値観に合う友人に出会えなかったことにより、自分が立ち上げたサークルをわずか1年程度で辞めることになりました。

決定的だったのは「女の子にモテなかった」こと

上記の出来事を客観的に見れば、「悪いのは環境でなく、私自身だ」とよくわかります。しかし、当時の私は「ズレているのは自分だ」と自覚できずにいました。

そんな偏狭な私の考え方が、大きく変わるきっかけがありました。、それは「女の子に振られつづけた」ことです。

私は大学入学時「彼女いない歴=年齢」だったので、彼女をつくりたいと強く思っていました。

そこで、毎年気になる子を見つけては自分からアプローチをかけていたのですが、箸にも棒にもかかりません。

ただ、我ながら顔は可もなく不可もなくといった感じで、コミュニケーションも得意なほう。彼女の出来ない理由が自分自身にあるとは、なかなか思えませんでした。

そのため、「選んだ女の子に問題があるのでは?」と思い、毎年タイプの違う子に挑戦しては失敗を繰り返しました。しかし、大学3年で熱心にアプローチした女の子に振られたとき、「もしかして悪いのは環境ではなく、自分自身かも……」とはじめて真剣に考えました。

あくまで私の周りに限った話ですが、「彼女をつくりたくて行動しているのに彼女ができたことがない」という知人を見ていると人格に難のある場合が多く、「あ、客観的に見れば、自分もこちら側なんだ」と腑に落ちたのです。

誰にも選ばれないというのは、つまりそういうことなのだと。

ズレを自覚してから、生きやすくなった

大学生活を通じて、ようやく私は気づきました。自分と価値観が似ている人はどこにもいないうえ、自分は「普通の大学生」が当たり前にやっていることができないのだ、と。そんな性質を改善して「普通になろう」としたこともありますが、うまくはいきませんでした。

そこで、私は考えを改めました。むしろ逆にそれを受け入れて、自分の「個性」として活用していこう、と。

たしかに、私は、先輩や後輩と仲良くサークルで活動し、シフト制のバイトをして、普通に就職することができませんでした。ただ、その一方で、先輩や後輩に素直な意見をぶつけ、合わないバイトをすぐ辞め、新卒でフリーライターになる決断をすることはできました。

そして何よりも重要なのは、そんな自分と同じ価値観で動いている人は他に誰もいなかったということです。

つまり、このような「ズレ」を自覚して、自分に合った生き方をしていけばいい。そうすれば、「社会からズレている人」から「社会で目立つ人」になれるのではないかと考えました。

私は大学で、自分を理解し、自分に合った生き方をすることの大切さを学んだのです。

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齊藤颯人 (さいとう・はやと)

フリーライター/編集者。上智大学文学部史学科在学中に学生ライターになり、大学卒業後は新卒フリーライターとして活動中。歴史やフリーランス、旅行記事などを中心に執筆し、フリーランスメディアで編集業も経験。ひたすらぼっちの人生を過ごしてきたので、「ひとりを楽しむ」ことには自信あり。

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