古墳時代から飛鳥時代にかけての有力豪族。
武内宿禰を祖とするが、具体的な活動が記録に残っているのは稲目(いなめ)からである。稲目の子・馬子(うまこ)が対抗勢力の物部氏を滅ぼして政権を掌握し、馬子・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の三代に渡って権力を恣にする。
645年、中大兄皇子、中臣鎌足らによる乙巳の変により入鹿が暗殺され、蝦夷が自殺すると、蘇我氏の勢力は大幅に減少した。入鹿のいとこである蘇我倉山田石川麻呂が乙巳の変に協力しており、その後右大臣に任じられるが、冤罪で自害する。その弟の蘇我赤兄が左大臣に任じられていたが、壬申の乱で敗れて流罪になった。その甥の蘇我安麻呂が蘇我氏の跡を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。石川氏は、8世紀後半までは有力貴族として活躍していたが、藤原氏の擡頭により次第に地位を低下させていった。