物部氏
天饒石國饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト 神武天皇の祖)よりに先がけて降臨したとされる天照國照彦火明櫛玉饒速日尊(いわゆるニギハヤヒノミコト)とその子宇摩志麻治命を祖とし、代々大連(おほむらじ)として活躍した古代の名門。先代旧事本紀によると、尾張氏と同じく皇孫の血統を持つ由緒正しき氏族。
マナを貴人へつけるシャーマン的な存在だったらしい。
天照大神─┬天照國照彦火明櫛玉饒速日尊─┬天香語山命→尾張氏
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│ └宇摩志麻治命→物部氏
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└天饒石國饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊─┬火明命
├火進命
├火折命
└彦火火出見尊─彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊→天皇家
崇峻天皇の御世、排仏派の物部弓削守屋大連が皇統を守る為に、蘇我氏と戦うことになり、崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子等に負け、一族が沒落した。後の物部麻呂から、石上氏の名を称する事がある。
物部守屋公は、建国の功臣・饒速日命の裔にして、代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ、往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。
我国に始めて仏教渡来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公・尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り、一族を挙り此の地に干戈を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられぬ。
嗚呼、然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。
当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは、遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ、大正九年より吾等先輩祀職、年毎に墓所を修め来りて愈々懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り、茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。
昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之
物部守屋公顕彰碑より
古神道の関係は、物部氏の滅亡を書籍の散逸に関する言い訳にする。
守屋、朴樹の上に坐して射る。家衆皆、死闘す。皇子、進で兵を圍み攻む。
守屋、迹見赤檮の射殺する所と爲る。妻・子、咸、害に遭う。餘衆、潰散す。
世に傅う。大連が家、多く本邦の古典籍を藏す。是の時散亡殆ど盡くと。後學嘆惜す。日本國史略より