世の中には とんでもない代物が存在するものです。
アメリカ空軍の超音速戦略偵察機 ローッキード SR-71・・・・通称 ブラックバードは、実用航空機としては マッハ3.32の速度を誇ります。
マッハ3.32とは、時速にすると3,529kmの速度です。
もともとマッハ3の速度が出せる戦闘機として開発された機体でしたが、あまりにも高価なため、戦闘機としては採用されず、速度を活かした戦略偵察機として25機の生産に終わりました。
アメリカで、この SR-71 が開発されていた1950年代後半、同じくアメリカでは、超音速大型戦略爆撃機の開発が進められておりました。
それが ノースアメリカン XB-70 バルキリー です。
三角形の主翼(デルタ翼)、機体後部に超強力なジェットエンジンを6基も並べて、スタイルは、まさにSF映画に登場する様な スマート&カッコいい超未来的な機体。
パイロットは2名で、速度はマッハ3.08(時速3,300km)
この超音速大型戦略爆撃機の開発を強力に推し進めていたのは、第2次世界大戦中、B-29で日本を焼け野原にしたカーチス・ルメイ将軍でした。
当時、アメリカ空軍爆撃機隊の主力であった亜音速大型ジェット戦略爆撃機 ボーイング B-52 の後継機に、この XB-70 バルキリー を配備させたかったのです。
ところが、この XB-70も とんでもない高価な機体でした。
何とか予算を獲得して、試作1号機は、1964年9月21日に、見事 初飛行に成功しますが、1号機は、些細なトラブルに悩まされます。
続いて7月17日に、試作2号機が、初飛行に成功し、順調な飛行を続けマッハ3.08の速度を記録します。
ですが、あまりに高額な機体故に、なかなか正式採用の話は進みませんでした。
開発目的の超音速戦略爆撃機としての採用は難しくても 速度を利用した偵察機としての採用もあり得るかもしれないなどと言われながら、2機の試作バルキリーは、テスト飛行を繰り返したのでした。
そして、運命の日がやってきます。
1966年6月18日、初飛行以来 万事調子が良かったバルキリー2号機は、合計5機でのV字編隊飛行をおこないます。
T-38タロン練習機、F-4ファントムⅡ戦闘機、F-104スターファイター戦闘機、F-5タイガー戦闘機 の4機を従えて、V字編隊の先頭を飛んだのです。
これは宣伝用の撮影のためでした。
この機種が違う5機ですが、すべてジェネラル・エレクトリック社のジェットエンジンを搭載していたのです。
(その時の写真が、画像の上です)
そして、この直後に悲劇が訪れます。
バルキリー2号機の右翼側を飛行していた F-104スターファイター戦闘機が、バルキリー2号機が作り出す乱流に巻き込まれて、2号機と接触。
F-104スターファイター戦闘機は爆発、 火の玉となり墜落、パイロットは死亡。
接触されたバルキリー2号機は、垂直尾翼を大破破損。
それでも数十秒は、何事もなかった様に飛行していたそうですが、徐々に始まった機体の異常振動で、ついにバルキリー2号機は 操縦不能に陥り 墜落したのでした。
パイロット2名のうち、1名は重症ながら奇跡の生還をはたしています。
この事故により3号機の試作は中止。
残ったバルキリー1号機は、NASAの実験用テスト機として使用はされたものの、結局 爆撃機としても偵察機としても採用は現実にはなりませんでした。
1969年2月、バルキリー1号機は、82回目の飛行をおこない、これが最後となりました。
飛行の目的地は、アメリカ空軍ライト・パターソン基地。
ここには、航空博物館があります。
そして、バルキリー1号機は、最後の飛行以来、ここで余生を過ごしています。
現在の日本円に換算すると5兆円くらいの予算をつぎ込んだ XB-70 バルキリー の開発は、ツワモノの夢と消えたのでした。
追記。。。。
この超音速戦略爆撃機バルキリーに対抗すべくソビエトが開発したのが、あのマッハ3の速度が出せる Mig-25戦闘機でした。
アメリカ空軍の超音速戦略偵察機 ローッキード SR-71・・・・通称 ブラックバードは、実用航空機としては マッハ3.32の速度を誇ります。
マッハ3.32とは、時速にすると3,529kmの速度です。
もともとマッハ3の速度が出せる戦闘機として開発された機体でしたが、あまりにも高価なため、戦闘機としては採用されず、速度を活かした戦略偵察機として25機の生産に終わりました。
アメリカで、この SR-71 が開発されていた1950年代後半、同じくアメリカでは、超音速大型戦略爆撃機の開発が進められておりました。
それが ノースアメリカン XB-70 バルキリー です。
三角形の主翼(デルタ翼)、機体後部に超強力なジェットエンジンを6基も並べて、スタイルは、まさにSF映画に登場する様な スマート&カッコいい超未来的な機体。
パイロットは2名で、速度はマッハ3.08(時速3,300km)
この超音速大型戦略爆撃機の開発を強力に推し進めていたのは、第2次世界大戦中、B-29で日本を焼け野原にしたカーチス・ルメイ将軍でした。
当時、アメリカ空軍爆撃機隊の主力であった亜音速大型ジェット戦略爆撃機 ボーイング B-52 の後継機に、この XB-70 バルキリー を配備させたかったのです。
ところが、この XB-70も とんでもない高価な機体でした。
何とか予算を獲得して、試作1号機は、1964年9月21日に、見事 初飛行に成功しますが、1号機は、些細なトラブルに悩まされます。
続いて7月17日に、試作2号機が、初飛行に成功し、順調な飛行を続けマッハ3.08の速度を記録します。
ですが、あまりに高額な機体故に、なかなか正式採用の話は進みませんでした。
開発目的の超音速戦略爆撃機としての採用は難しくても 速度を利用した偵察機としての採用もあり得るかもしれないなどと言われながら、2機の試作バルキリーは、テスト飛行を繰り返したのでした。
そして、運命の日がやってきます。
1966年6月18日、初飛行以来 万事調子が良かったバルキリー2号機は、合計5機でのV字編隊飛行をおこないます。
T-38タロン練習機、F-4ファントムⅡ戦闘機、F-104スターファイター戦闘機、F-5タイガー戦闘機 の4機を従えて、V字編隊の先頭を飛んだのです。
これは宣伝用の撮影のためでした。
この機種が違う5機ですが、すべてジェネラル・エレクトリック社のジェットエンジンを搭載していたのです。
(その時の写真が、画像の上です)
そして、この直後に悲劇が訪れます。
バルキリー2号機の右翼側を飛行していた F-104スターファイター戦闘機が、バルキリー2号機が作り出す乱流に巻き込まれて、2号機と接触。
F-104スターファイター戦闘機は爆発、 火の玉となり墜落、パイロットは死亡。
接触されたバルキリー2号機は、垂直尾翼を大破破損。
それでも数十秒は、何事もなかった様に飛行していたそうですが、徐々に始まった機体の異常振動で、ついにバルキリー2号機は 操縦不能に陥り 墜落したのでした。
パイロット2名のうち、1名は重症ながら奇跡の生還をはたしています。
この事故により3号機の試作は中止。
残ったバルキリー1号機は、NASAの実験用テスト機として使用はされたものの、結局 爆撃機としても偵察機としても採用は現実にはなりませんでした。
1969年2月、バルキリー1号機は、82回目の飛行をおこない、これが最後となりました。
飛行の目的地は、アメリカ空軍ライト・パターソン基地。
ここには、航空博物館があります。
そして、バルキリー1号機は、最後の飛行以来、ここで余生を過ごしています。
現在の日本円に換算すると5兆円くらいの予算をつぎ込んだ XB-70 バルキリー の開発は、ツワモノの夢と消えたのでした。
追記。。。。
この超音速戦略爆撃機バルキリーに対抗すべくソビエトが開発したのが、あのマッハ3の速度が出せる Mig-25戦闘機でした。