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跳舞猫日録

Life goes on brah!

2025/01/01 BGM: Galaxy 2 Galaxy - Hi-Tech Jazz

今日は遅番だった。今朝、英語関係のZoomミーティングに参加してそこで新年のあいさつを交わす。その後はおせちの朝食を食べて、入浴や洗濯などを済ませて(ぼくは洗濯物をついつい溜め込む性分なので、お正月といえども毎日毎日洗濯機を回してしまうのだった)そして部屋を出て、イオンに行きそこでしばらく英語でメモを書いたり読書にふけったりとこれまたいつもの「朝活」にいそしむ。理由はうまく言えないのだけれど、今日はなぜか20年ぶりくらいに奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』を再読したくなったのでカバンの中に入れて、それを持ってきた。これは言うまでもなく、泣く子も黙る夏目漱石の不朽の名作『吾輩は猫である』の本歌取りというかパスティーシュで、昔読んだ時に実に巧妙に・精緻に作られていることに唸らされ舌を巻いた記憶があったのだけど、いま読んでも古典的な深みと渋みがいまどき風のキャッチーなエンターテイメント性と融合していて色褪せていない。ぼくは実を言うと、別に敬遠しているわけではないのだけれどなぜかミステリに関してはそんなに熱心に掘り下げてはこなかった(法月綸太郎京極夏彦なんかにハマったこともあったのは思い出せる。あるいは安部公房ポール・オースターのミステリ的な作品にも惹かれたっけ)。だが、この奥泉の作品は実に漱石ワールドを忠実に・微細にページの上に文体まで再現しており実に典雅で、「雅」の「旨味」を感じさせる。

少なくともかくじつに言えることとして、ここ何年かこうして本格的にミステリと銘打った本(密室殺人事件や推理合戦といった仕掛けが凝らされた本)とはほんとうにご無沙汰だったので、「そうなんだよこれなんだよ」と忘れていたなにかを思い出させられ、思えばヘタをすると「小説」「フィクション」とさえご無沙汰だったかもしれない(つまりノンフィクションというか、哲学書や理論書・指南書といったものばかり読む悪癖がついていたかもしれない)とも思った。とまあ、そんなくだらないぼくのゴタクはともかくとして、くどいがこの奥泉の作品は興味深くこれから先しばらくミステリをもっと掘り下げていくのもいいかなあとか思ってしまう。あるいはそれこそ(この本が終わってからということになるか)本家本元の漱石の世界(それこそ『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』など)を探っていくのもいいかなとか思ったりもした。そして、調子に乗ってしまいまた今年の初めに予定されている木曜日のミーティングでプレゼンをする際に、奥泉光のこの作品や漱石について思い出話・よもやま話をするのもいいかなと思ったりもしたのだった。

大学生の頃だったか(あるいは、卒業して大学を出てしばらくしてからだったか)、作家になりたいとか小説で食っていきたいとかたわけたことを夢見ていた時期がある。そのころにこの奥泉の『「吾輩は猫である」殺人事件』なんかを読み込み、そこからミステリに手を伸ばしてあれこれ探検・冒険したりもしたことを思い出す。浅知恵というのは恐ろしいもので、ぼく自身オリジナルなミステリを書かんとあれこれ考えたりもしたことがある(殺人事件なんか起こらない、たんなる痴話喧嘩的なことが起こって終わる実にしょぼいものだった)。当時、そんな感じで奥泉や漱石を羨望の眼でにらみつつ、結局弱虫だったのでなにも書けなかったのだった。実際に書く勇気をもらい、そしてこんなふうに日記を書くようになったのは40の歳のこと。いまの友だちとの出会い、そして自助グループの結成あってのことだ。

ぼくの文学観はゆがんでいていびつなので恥ずかしいが、でも書くとするならぼくにとって奥泉のこの作品では上海という場所(作品の舞台。『吾輩は猫である』のあと、なぜか主人公は上海にいてそれもまた作品における魅力的な謎となっている)がインターナショナルな交通空間となっていてそこで一癖も二癖もある登場人物……もとい登場猫たちが見解を闘わせ、推理合戦にいそしみユニークさを見せつける。漱石の世界はどうだっただろう。いや、まだぼくは全作品を読み通したわけでもないのでエラそうなことは言うべきではないが、でも彼が一種当時にあって知識人であり英語も堪能で、コスモポリタン的な人でもあったかなとは思ってしまう。いや、これにかんしてはぼくはまったくもってド素人でしかない。だから読者諸賢のお叱り・ご教示を待つしかない。それにしても、実に我ながらヘンな年始である。もっと書きたいことはあれど、本の話だけで終わってしまった。

2025/01/01 English

BGM: Galaxy 2 Galaxy - Hi-Tech Jazz

I worked late today. I joined the daily English Zoom meeting this morning, and after that, I went to AEON to spend my time doing a morning activity. I chose Hikaru Okuizumi's mystery book "The 'I am a Cat' Murder Case [奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』]", which is a sort of parody based on a legendary Japanese novelist Souseki Natsume's work "I am a Cat". Even though I rarely read this kind of mystery book, I could enter this novel's elegant style of trying to "copy" or "realize" Souseki's world onto its pages.

Definitely, I have forgotten THIS taste any mystery book can have... Recently, I just enjoyed theoretical/logical nonfiction books (especially philosophical books), so I can enjoy this Okuizumi's provoking novel world very well. How about I would try to enjoy mystery books more and more? Or, after enjoying this Okuizumi's book, I would be able to choose Souseki's evergreen masterpieces. Also, I thought that I could have a new presentation on the coming Thursday about these novels, especially Souseki's ones.

Once, as a college student (or a little bit later after graduation), I wished to become a pro-author. I enjoyed this Okuizumi's marvelous mystery novel, and also explored other Japanese mystery novels. I even tried to write my original short mystery novel, even though in there no murder, no tragedy happens actually (only, a miscommunication happens. What a silly one!). At that time, even though I could have adored Souseki and Okuizumi because of their cleverness or brainy talents, I could write nothing actually because I had been too cowardly. I had to wait for the time I would be able to meet my current friends who gave me the courage to start mine.

Although my point of literature view can be distorted, I choose to write: For me, this Okuizumi's mystery novel shows how the situation of this novel Shanghai was literally an international place where various unique "cats (yes, in this novel the characters are not human beings but cats)" try to exchange their opinions and also appeal their uniqueness. How about Souseki's world? He must have been also a cosmopolitan who could be fluent in English, and therefore could see this world clearly? Oh, what a strange beginning of the new year!

2024/12/31 BGM: The Beatles - Let It Be

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

今日は早番だった。今朝、英語関係のZoomミーティングに参加して英語でのディスカッションんにいそしむ。大晦日であってもこのミーティングは開かれていて、英語を学びたい有志が集い英語学習に切磋琢磨する。今日のテーマは電子タバコをどうやったら卒煙・禁煙できるかで、その流れでぼくは他のメンバーの方々にぼく自身がかれこれ数十年続いた飲酒の悪習をどうやって断ち切り、そこからこの町にある断酒会とつながらせてもらいそして完全断酒にいそしむことになったかひとくさり語らせてもらった(ちなみに、ぼくの父はタバコをまったく吸わない人で家に灰皿を置くこともなかったので、ぼく自身タバコを吸うことはまったくもってなかった。吸わされた記憶もない)。その経験から語るに、ぼくはなんらかの依存を断ち切るには自助グループにつながり、そこから信頼して弱みを見せられる他人とのつながりを経ることではないかと深く信じている。意志の力でなんとかしようとしてもうまくいかないのではないかと。

明日、お正月になってもそのZoomミーティングは開かれる。もちろん実にありがたいことでこの会を実現されている方々の努力の賜物だ。ランチタイムに明日のテーマをちょっとばかり予習すべくウェブを開く。テーマとなる記事は三番目の言語の取得が第二外国語の取得より往々にしてスムースに行く理由について解説された記事の英語版と日本語版で、実を言うとぼくはいまもってなおフランス語を学ぼうと悪戦苦闘してまったく身につかずムダな時間を費やすしかなかった苦い記憶を持つのでこれにかんしては半信半疑なのだが、でも興味深い記事と唸る。突然、来年(つまり明日から)のとりあえずの抱負としてすっかり錆びてしまったそのぼく自身のフランス語の語学力を磨きなおすのはどうかと思ってしまったりもしたのだった。ただ、いまからさかのぼること数十年前、大学に居た頃大江健三郎松浦寿輝にあこがれたりフランスの現代思想を(デリダドゥルーズラカンなど)を少しばかり・ちらりとめくれたらと思いフランス語を選んだりしたものの、語学のセンスというのは恐ろしいもので授業でコテンパンにやっつけられた記憶があるので、やっかいなことになるかなとも思う。

仕事を始め、今年のことやあるいはガラにもなくこれまでの人生のことをあれこれ振り返る。この人生……ぼくから見ればまったくもって奇々怪々・不可解極まりない人生としか言いようがないのだった。とはいえワンダフルな人生でもあることに変わりはない。たとえば、この今日の日記を書き上げてしまえば2024年を通してぼくは毎日毎日・まったくサボることなく日記を書きつづけられたということになる。しかし、実を言うと年始に(いや、いつにおいてだっていいのだが)「1年間サボらず日記を書くのだ」と誓った覚えなんてこれっぽっちもない。毎日毎日、いやそれこそいついかなる時においても「もう止めようか」「1日くらいサボってもいいだろう」と怠け心が目を出すことは書いておいてもバチは当たるまい。いや、なんら自虐をかますわけではなく本音である。しかし、毎日毎日こうして英語と日本語で書き書きすることがルーティンになってしまっているようで書かないとおしりがムズムズすることもまた確かなのだった。

そもそも、なんでこんな日記なんて書こうと思ってしまったりしたのか。わからない。ぼくが若かった頃、いまのようなブログやSNSが定着する前に「ウェブ日記」をそれぞれのユーザーが自前のサイトで描くトレンドというのがあった。ぼくもネットの片隅で、自分なりにウェブ日記を書いてみたりしたりもしたっけ。でも、当時は根気もなかったのですぐメゲてしまいやめた。時は流れ……思えば(また繰り返すが)ぼくは抱負として「早稲田に入ろう」と思ったことなんて断言するが一度たりともない。早稲田にかんする赤本などの資料を揃えて真面目に勉強した覚えなんてこれっぽっちもないのだった。日記にしたって上に書いたとおりで、書きつづけて1年コンプリートしようと思ったことなんてない。英語についても、まさかここまで(かれこれ9年か)続くとは思ったりしなかった。逆に、どうしてもやりたいと思って何度も何度も壁にぶち当たる思いをして、ついに苦い挫折を味わうしかなかったことだってある。プロの小説家になることやさっき書いたフランス語のこと、ガルシア=マルケスやバルガス=リョサの小説を読むことなどだ。まあ、そういう人生もあるのかなあと思う。

今年1年、ありがとうございました。2025年もよろしくお願いします。

2024/12/31 English

BGM: The Beatles - Let It Be

I worked early today. This morning, I joined the daily English meeting as usual (even at the end of the year). Today's theme was how to quit vaping electric cigarettes, and I talked about how I could have quit my drinking habit and tried to connect myself with the self-help group (the "danshu" meeting) in this city (BTW, I have never tried to enjoy smoking at all). According to that experience, I deeply believe that one of the ways to separate yourself from addiction can be to connect you to any self-help group, instead of trying to do it by yourself alone.

Even tomorrow (the 1st day of the new year), we will have the daily meeting. So, this lunchtime I read the text of tomorrow's theme which is the reason why we can learn a third language is easier than a second language (I can't believe it, because even now I can never learn my third language, French, so easily!). Suddenly, as my resolution for the next year, I thought I would try to learn French again, even though it must be so "tough" because I once had tried to learn French at a university, but I could have never mastered it at all.

During my working time, I thought that my life must be very, ultimately strange but wonderful. For example, I am now writing about the ending day of 2024 and it means I have never quit writing my journals during the 2024 literally every day. However, TBH I have never had any ambition as "I must keep writing this serial journal every day, until the end of this year!". Instead, I have to confess that every time I wish I could quit this journal anymore. However, it seems THIS habit of writing it every day has already become a part of my routine.

Why have I started writing the journals? I can't tell certainly. I remember that when I was young, there seemed a sort of "trend" of writing each user's web journal (before the blog era). At that time, I tried to write my one at the corner of the Internet. However, it hadn't gotten so long. And, time has flown... I have never had any resolutions such as I could join Waseda, I could keep writing my journals a year, or I could get so fluent in English, etc. Yes, absolutely, I have never done that. But anyway, that can be a life.

2024/12/30 BGM: Prefab Sprout - Carnival 2000

今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに参加してそこで英語でやり取りを試みる。こんかいのテーマはこのクリスマスや年末年始のシーズンで使えるあいさつの言葉を学び(「メリークリスマス」のみならず、「ハッピーホリデーズ」といった言葉も学んだ)、そこからこの年末年始のそれぞれのメンバーの予定などを話し合う。その後、朝食を済ませイオンに行く。よくよく考えてみればわざわざ寒い思いをしてイオンまで行かずとも部屋でくつろいでいてもいいのだけど、自室で本の山の中にかこまれていてもやることと言えばDiscordかTwitterくらいで、そんな過ごし方をしているとかくじつに正気を失って取り乱すのがオチなので、けっきょく出ることに決めた。

しかし、今朝はけっきょくなにも手につかなかった。その代わり、巨大な不安というか恐れが襲ってきてそれを払いのけるのが精一杯だった。英語メモも書くこともできず、建設的な考えがぜんぜん思い浮かばない。理由はわからない。年末年始のプレッシャーだろうか。頭を抱えうずくまって、固まって時間が無為に過ぎていくがままに任せる。だが、そうこうしているととつぜんこんなことを思い出した。どういうシチュエーションにおいてそんなことが起きたかはもういまとなっては思い出せないのだが、ある友だちがこんなことを言っていたのが鮮明によみがえったのだった。「言いたいことがあるのなら言えばいいんだ。言わないと伝わらないよ」。いや、こうして言葉にしてしまうとそんなにたいした・たいそうな真実というわけではなくありふれた一般論だ。でも、今朝のぼくにとってはそれこそ目の前にあらわれた大事な手がかりに思えた。その言葉に導かれ、勇気を以て友だちにメッセージをあれこれしたためて午前を過ごした。

今日は遅番で1時から9時まで仕事で、5時から予定どおり1時間休憩時間をもらった。休憩中、この2024年にあったことをあれこれ思い出そうとする。どんな年だっただろうかと……だが、こうして日記を毎日書きつづっているにもかかわらずぼくは(日記のバックナンバーも、なんだかんだでめったに読み返すこともないので)今年あったことをさっそく・きれいさっぱり忘れていることに思い至る。いやおかしい、いろんなことをしたというのに……あれこれ時間をかけて、2度にわたって親知らずの抜歯をしにとなり町まで行ったこと(その後、目まいに襲われたりしてたいへんな目に遭ったこと)を思い出した。とても暑い夏の盛りのことだった……そして、思い出してしまえば忘れていたことが不思議ですらあるのだけど、たしかに思い出せたのは近所のブックカフェのオーナーの先生に薦められて絵を描いて、それを公に見せたことだった。そんな1年だった。なんだかのっぺりしていたようなそうでもないような。来年はもっとたくさんのことにチャレンジできたらいいなと思った。

ぼくがお世話になっているLINEのオープンチャットのグループにて、面白いメッセージが投稿されているのを読む。大阪での体験談で、ある方(外国滞在の体験の長い方)が、日本語が流暢だと言うのにその方が日本語であれこれほかの方に話しかけたところ相手の方々から「英語で」返事が返ってきたという話だった。もちろんこれは、外国人ならグローバル・ランゲージ(世界言語)たる英語が流暢であるはずだという思い込みによるものだろう。いや、これはぼくも「同じ穴のムジナ」でいまだに外国から来られた方を見ると「英語で話しかけた方がいいのかなあ」と思ってしまう。もちろん世界にはあまたと言語があり文化がある。彼らの文化や言語を断片的にでも覚えて、なんとかお迎え・おもてなしする努力をしないと行けないなとも思ったりもした(いや、なんだか話がズレた気もするが)。

2024/12/30 English

BGM: Prefab Sprout - Carnival 2000

I worked late today. This morning, I joined the daily English Zoom meeting. There, we talked about some greeting words used during this Christmas and Happy New Year season, such as "Happy Holidays." After that, I had breakfast and went to AEON. Although I could stay in my room this morning, I would lose my sanity with plenty of books. So, I decided to go.

However, this morning time I could do nothing instead I had to fight against a huge, serious fear or anxiety. What is disturbing me to do something? I couldn't find out the reason why... I just held my head with my hands and stayed frozen. But, suddenly I remembered this: Once, even though I had forgotten the exact situation, a friend of mine said to us "If you have anything, just say it out loud. If not so, anything wouldn't be able to be delivered". That was the only clue for me. So, following that word, I started sending messages to my friends with courage.

I started working at 1 p.m. and 5 p.m. I had a break time. During that time, I tried to remember what had happened in the year 2024. However, even though I have been writing my journals every day, I rarely read these back numbers again so I couldn't remember anything. Certainly, I must have done many activities... Taking a certain time, I remembered that I had my two wisdom teeth pulled in the next town. Also, I even painted a large pic of mine and showed it in public (Oh my! Why could I have forgotten such big events?).

On a LINE group, I read an interesting message posted there. It was someone episode in Osaka, who was already fluent in Japanese but when people talked to them, people didn't use the Japanese language to that person, instead English. This must come from a bias which means foreigners tend to use English as a "global" language. Yes, even I tend to try to see whether they can speak English when I see foreigners outside. So, I have to try to learn the fact that there must be so many languages except English, and also have to prepare for them by learning their cultures or pieces of their languages (as sincerely as possible).

2024/12/29 BGM: Scritti Politti - Boom! There She Was

今日は年内最後の休日である。今朝、例によって英語でのZoomミーティングに興じる。その後、せっかくのお休みなので「寝正月」ならぬ「寝年末」を満喫すべく部屋でまったりして、本も開かずにあわよくば二度寝にいそしもうかと考えたりもしたのだけど、部屋にいても悲しきかなADHD的な性分が邪魔してしまいまったくもって落ち着かない。頭の中の腐った気分を一新させるべく、いったん外出する腹づもりを整えた。いつもどおりイオンに行き、そこでグループホームの管理者の方にLINEをお送りして年末年始期間の生活費を受け取る段取りについて確認する。すると、いまその方が都合がいいので来られるかどうかとのことだった。なのでさっそく本家に行き、そこで年末年始のグループホームのスケジュールや睡眠習慣について(いつもぼくは5時間から6時間眠っている)、薬を飲むタイミングについてなどを話し合った。

そんなこんなで本家を出て部屋にいったん戻って、ふとスマートフォンを眺めたら日本人のぼくの友だちがMessengerのグループにて面白いブログ記事を紹介されているのを知る。アン・クレシーニさんの記事で、昔ながらの日本語における年末年始・お正月にひんぱんに使われる言葉を英語でどう言い表せるかといったものだった(実に読みごたえある、力の入った記事と唸ってしまった)。すると、英語の達人の方がこれにかんしておっしゃった。餅を表す「mochi」はそのまま英語での日常会話でカジュアルに・ひんぱんに使われている、というのだった。このやり取りにも「打たれて」しまい、過去「izakaya」や「takoyaki」といった言葉が英語圏で流通しつつあるというはどこかで学んだかなと思い出した。ただもちろん、その達人の方がおっしゃるようにまだまだそれらが「mochi」ほどひんぱんに使われているとは言えないとも思う。これについて掘り下げればもっと面白い話になると思った。

その達人の方が結論として、英語で何事かを表現する際のコツとしてぼくたちにおっしゃったのは英語でいざなにかを表現する際はその言葉の「概念」の要素をつかむ努力をすることだという。つまり、言い換えれば細部にとらわれすぎず言いたいことを(ぼくなりの解釈、たぶんに我田引水な受け取り方になるが)時に「捨てる」「取捨選択する」努力も必要だということだと。そう言えば昔、『ずるいえいご』という本を読んだりして英語でなにかを言う際は「捨てる」ことが大事だということも学んだりしたっけ。ただ、それについては文字どおり「本能」「条件反射」で「これは伝えたい/これは捨てていい」と判断する能力が必要となってくる。いやもちろん慎重に吟味すべき場合もあるが、気楽な日常会話の席で話す際は相手にわかりやすくなるようにそうした「反射神経」も日々鍛えておかないといけないとも思う。それがたぶん、英語などの外国語を学んで相手に話す際の大事な骨子の部分なんだろうと思ったりした。

近所にある農協で弁当を買い、その後昼寝をした後に歯医者に行きそこで治療を受ける。その後、とくにやるべきこともなくなり部屋に戻ってぼんやり過ごす。それこそ、やるべきことはあったにせよアルヴァ・ノトの、とりわけ彼が坂本龍一とコラボした作品を楽しんだりしつつしばしくつろぐ(英語関係のミーティングがFacebookで宣伝されていて、面白そうだったが結局気乗りせず参加しなかった)。性格的にぼくはほんとうにおしりが重くて、なのに部屋でじっとしてもいられず血が騒ぐのだから剣呑な話だ。阿部昭の『緑の年の日記』を読んだりしつつ……年末年始とはいえ、ぼくは明日からも仕事なのだった。それがぼくが選んだ人生なのだから、そんな人生に殉じたいとも思っている。自分なりに忠実に。
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