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大そうじへの備え
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数年前と比べて、恋活はずいぶんポピュラーなものになったように思う。マッチングアプリや街コン、あるいは相席屋などで恋活をすることも、以前よりずっと一般的になったのではないだろうか。これは、私がかつて、自分のセクシュアリティに悩んでいた頃の恋活体験の記録である。 バイセクシュアルかレズビアンか、「性的指向迷子」になっていた学生時代 片想いしかできず、性的指向に迷っていた頃 学生時代、私は自分の性的指向がよくわからないまま、ただただ片想いを繰り返していた。 あるときは、一学年上の同性の先輩に。 またあるときは、同学年の異性に。 「もしかしたら好きかもしれない!」と思うと、その感情を一人で大事に育て、どんどん膨らませていくことが何度もあった。きっと、「恋愛をすること」それ自体に強い憧れがあったのだと思う。 片想いの感情は、ただ心の中で育てていただけで、自分から誰かに告白した経験はそれほど多くない。
私はタカラヅカが好きだ。学生時代に友人から借りた舞台の映像を観てからというもの、豪華絢爛な舞台と他に類を見ない芸術の形に魅せられてきた。しかし、この頃疑問に思うことがある。タカラヅカの男役とLGBTのイメージを重ねるようなフィクションの表現について、モヤモヤとした思いが残るようになってきたのだ。 タカラヅカの男役と「LGBT」のイメージ 唯一無二の存在である、タカラヅカの「男役」とは タカラヅカ、もとい宝塚歌劇団の魅力のひとつとして、「男役/娘役」という文化の存在が挙げられる。 所属しているスターは全員女優であり、身長などの条件や本人の意思によって「男役」か「娘役」を選び、舞台の上で演じる。そして、舞台を降りてもそのイメージを崩さないよう、「男役」スターは「男役」らしく、「娘役」スターは「娘役」らしく、ふるまいやファッションに気を使う場合も多い。 私はかれこれ10年以上タカラヅカの舞台を観
複数の人と同時に、それぞれが合意の上で性愛関係を築くライフスタイル「ポリアモリー」。その当事者である私のもとには、日々さまざまな質問や悩みが届く。今回は「彼氏がポリアモリーのようだけど、他にも相手がいるのか言いたくないみたいでモヤモヤしてしまう。きのコさんは複数人と付き合っていることをはっきり伝えるのでしょうか?」という質問に答えていく。 何をどこまで? ポリアモリーの情報共有 ポリアモリーで、何をどこまで情報共有するのか? 今回は質問に答えつつ「カップル内で、何をどこまで情報共有するのか?」という問題について、考えていきたい。 先日、以下のようなご相談をいただいた。 彼氏がポリアモリーぽくて私はそれに対して否定はしていません。 ただ私は、他に付き合ってる人がいるなら教えてほしいとおもっていますが、彼氏は言いたくないみたいです。 しかし、私は言ってもらうことで自分の中で納得できてすっきりで
01自分を守ってくれる人はいない 第一子・長男として感じる、家庭の窮屈さ 5人家族の長男として生まれる。 男尊女卑の固定観念が強い家庭環境のなかで、自分が男性という “枠” のなかにいることへの後ろめたさを感じながら育った。 「お正月に親戚が集まると、男性陣がテーブルで宴会を開いてるなか、キッチンの近くには女性が集まって給仕係をやってるんですよね・・・・・」 子どもだった私はその間を自由に行き来することができた。でも、そのころからすでに心の上では女性だった。 「自分は男性のスペースのなかにいてもいいんだろうか? ずるくないか? って思ってましたね。でも、そんなこと怖くて言えなかったですけど」 男尊女卑を感じたのは、親族で集まったときだけではなかった。 「それぞれ2つずつ離れてるきょうだいがいて、妹は親からぶたれてました。それがどんな場面かは記憶から消えてますけど」 「私は、父からはぶたれた
バレンタインデーは、一般的には女性が男性にチョコレートを贈る日だとされています。日本では、という話ですが。私はそのバレンタインに関して、とあるツイートを見ました。あるメーカーが売り出しているバレンタインチョコを販売店で「ホモチョコ」にいかがですか、とポップをつけて売っている写真です。そのツイートを見た私の考えたことを書いていきます。 ホモって呼んでいいのは当事者だけじゃないですか ホモは差別用語と言われていますが、その意味を知らない人はこの国では少ないでしょう。そう、男性同性愛者、もしくはそのカップルを指すのです。かつては私もホモと連呼する無神経な人の一人でした。 バレンタインが苦しかったのは私もです では、私がバレンタインを純粋に楽しめたのか、と問われればそれは違います。バレンタインデーに、女性が男性にチョコレートをはじめとしたお菓子を贈るというこの国の習慣は、真綿で首を絞められるような
毎年2月のカレンダーをめくると反射的に苦虫を噛み潰したような顔をしてしまうのは、きっと日本中でぼくだけではないんだろう。バレンタインが近づくこの季節だけは、大好きなゴディバの看板さえ目を逸らしてしまう。 バレンタインで傷つけられたノンバイナリーのぼくの自尊心 「女の子が好きな男の子へチョコレートを贈る日」とされているバレンタインデー。製菓会社の戦略といえど、浮かれたイベントに乗っからない理由など特にない。もっともそれは、男女二元論を疑いすらしたことのない人たちに限る話ではあるが。 バレンタインで毎年「女の子」を突きつけられていた 2月に入ると、教室がわずかに浮き足立つ。「誰にあげるの?」の言葉たちは、実際の音声よりもむしろ手紙でひそひそと交わされていたような気がする。気付かぬふりを決め込みながらも、耳をダンボみたいにでっかくしてる男子たち。その狭間で、頬杖をついて所在なく教科書の図説なんか
SNSで目にした、『クィアフェムによる恋愛ZINE(ジン)』というタイトル。その言葉の並びと、個人でその冊子を制作したという人たちの切実な紹介文が心に引っ掛かっていた。そして先日、電子書籍でその本を読む機会に恵まれた。 「クィアフェム」という言葉との距離感 これまでよく知らなかった「クィアフェム」という存在 『クィアフェムによる恋愛ZINE』という個人冊子と出会って、まず私が感じたのは、「クィアフェムという言葉の意味を、私はよく知らない」ということ。 レズビアンを自認している私にとって、「クィア」も「フェム」も聞いたことのある言葉ではあったのだけど、「クィアフェム」というひとつながりの単語を、自分の言葉として口にしたことは一度もない。 調べたところ、ここでいう「フェム」は「フェミニン(女性的な)」とはまったく異なる意味であることがわかった。 「フェム」とは、社会や他者から強要されるような「
「バイセクシュアルはどうせ異性と結婚する」という話を耳にした経験はありませんか? バイセクシュアルは、LGBT当事者間での差別や偏見、パートナーへのカミングアウトなど、恋愛や結婚に関する悩みがつきものです。その悩みは、他のセクシュアルとはまた少し異なるため、相談ができる場や機会が少ないのが実情です。ここでは、私の経験も織り交ぜながら、バイセクシュアルが直面する悩みについて説明していきます。 LGBT内でのバイセクシュアルに対する差別や偏見 バイセクシュアルへの差別は、LGBTが主張する「平等な社会」と矛盾するのではないでしょうか? ここでは、LGBTの中で差別されるバイセクシュアルの悩みについて考えていきましょう。 「どうせ異性と結婚する」と言われるバイセクシュアル LGBTの中では、「バイセクシュアルはどうせ異性と結婚する」と言われることがあります。私はこれを聞いたとき、正直に言って腹が
01寂しさを感じなかった生活 二人暮らし 幼少期は、北海道・札幌で母親と一緒に暮らす。 「母親が若いころに離婚して、そのあとにお付き合いした人との間に26歳のときにできたのが自分だそうです。でも母親はその人と結婚しなかったので、母親は自分のことを『バツイチ・未婚の母』だと言ってます」 「父親のことは名前も顔も何も知らないですけど、185cmのメガネをかけたサラリーマンの人だった、ということだけは聞いてます」 母親は歓楽街・すすきののバーで働きながら、自分を育ててくれた。 「ある日、保育園に母親が迎えに来たと思ったら、膝から血を流してた光景が衝撃的で、今でもよく覚えてます(笑)」 「酔っぱらって歩いてる途中に雪道でこけたらしいんですけど、それでも子どもを迎えに行かなきゃ! って、膝を真っ赤にした状態で来てくれたみたいです」 母親は昼夜問わず働くだけでなく、仕事が休みの日にはいろんな場所に連れ
05新たに目指し始めた夢 志望した外科 高校を卒業し、看護師として総合病院に就職した。 「自分の性格を考えると、じっくり話を聞く内科より、治療やオペがある外科が合うと思って、志望したんです」 「外科や整形外科だと患者さんとの出会いもある、って話もよく聞いてたので(笑)」 しかし、実際に配属となったのは脳外科だった。 「脳外科は、60~70代の高齢の患者さんが多いんですよね。まだ若かったので、落ち込みました(苦笑)」 その病院に2年間勤務した後、当時の恋人の地元に引っ越して、新たな病院で働き始める。その病院では、整形外科に配属された。 「念願の整形外科で半年働いた頃、産婦人科の人員が足りないということで、異動の辞令が出たんです」 「産婦人科は忙しいイメージがあって、最初は消極的だったんです」 産婦人科の看護師 あまり気がのらない異動だったが、働いている間に、産婦人科の魅力に気づき始める。 「
01 「性」と「生」の話を届ける仕事 命の授業 現在の私は、フリーランスの助産師として働きながら、子どもたちやその保護者に「性」の話を届けている。 「私は、第一子を出産した後に助産師会に入り、地域のママの訪問や母親学級などを行ってきました」 「その中で、助産師会に『保育園で命について話す授業をしてほしい』という依頼が来たんです」 すでに性教育の授業を担当していた先輩が、「田川さんもやってみる?」と誘ってくれた。 性教育の経験はなかったが、先輩についていき、授業を見学させてもらった。 「その時の先輩の授業に感銘を受けて、私の子どもにも聞かせたい、って思ったんです」 「『産まれてきたこと、生きていることはすごいことなんだよ』って、子どもに伝えられる大人が増えたらいいな、って感じました」 そこから先輩の授業に同行して回り、幼稚園や小中学校の授業で経験を積んでいった。 「独り立ちしてみなさい」と言
06高校に通いながらホルモン治療を開始 父「思い込みじゃないか?」 トランスジェンダーの同級生に出会ったことをきっかけに、性同一性障害(性別違和/性別不合)とその治療などについて独自に調べた。 17歳のとき、家族に相談することもなく、ひとりでジェンダークリニックの診察を受ける。 「自分がトランスジェンダーだと自覚してから、ネットでいろんな情報を見たんですが、ネガティブな内容が多くて」 「自分の将来はやばいかもって不安が募っちゃって、割と時間がかからないうちに限界まできてしまって・・・・・・。もう自分はダメなのかなあって」 考えれば考えるほど孤独になっていく気がした。 「このまま考えていてもなにも始まらない。まずはクリニックで診断書をとらないと、とネットで見つけた近所のクリニックに行きました」 そして18歳のとき、性同一性障害の診断が出た。 「診断書をもらうまで1年かかってしまったので、早く
01ちょっと変わった家の子 画家である祖母と叔母の影響で 生まれは埼玉県浦和市。 一卵性双生児の妹と両親の4人家族だった。 「父方の祖母と叔母が画家なので、その影響で私たち双子も祖母の絵画教室で絵を習うようになって、子どもの頃は画家を目指す感じでしたね」 「絵を描くことは好きでした」 夢中になって、気がつくと日が暮れていることもあるほどだった。 絵画コンクールにも積極的に応募し、始業式ではいつも壇上に上がって、全校生徒の前で賞状を受け取っていた。 「家で絵を描いてばっかりだったので、友だちと遊ぶこともなかったし、流行っていたテレビ番組を観ることもなかったですね」 「周りともコミュニケーションがとれてなかったので、たぶん “ちょっと変わった家の子” だと思われてたと思います」 「学校に友だちはいませんでした」 しかし12歳のとき、両親の離婚をきっかけに絵画教室には行かなくなる。 「私と妹は、
06ありのままの自分で 一人暮らしと自由な時間 退院後、心身が整ってきたタイミングで大きな決断をした。 「実家を出さえすれば、もう自分の好きなことができるなと思って。30歳を過ぎたら絶対に一人暮らしをしようと、はっきりと決めました」 おもうがままの装いで初めて出かけたのは、大阪・難波だ。 メイクをしてお気に入りのスカートをはいて、街へ繰り出した。 「Facebookで繋がった友だちに声をかけてもらって、一緒に出かけました。とにかく楽しかったですね」 一人暮らしをしてから、ありのままの自分に向き合える時間が増えた。 それまでずっと気持ちに蓋をして、我慢を重ねていたものが、少しずつほどけていくようだった。 ゆずれなかった髪型 一人暮らしを始めてからは、公私ともに順調だった。 転職した病院での仕事は安定し、6、7年ほど勤めた。 透析を必要とする患者さんを、家から病院まで送迎する仕事だ。 「そこで
01 幼い頃から芽生えていた「自分らしさ」 秘密の時間 幼い頃は、両親と3歳年下の妹と団地で過ごした。 「人見知りで、みんなで遊ぶよりも、どちらかというとおとなしい子どもでしたね」 「男の子、女の子関係なく遊び、ゴム飛びやかくれんぼをして遊んでました」 小学校は、地元・大阪の小学校へ入学。 「友だちと喧嘩することが多かったので、手を焼く生徒だったんじゃないかなと思います(笑)。結構、注目を集めるようなことが多かったです」 「自分からふっかけるというよりは、からかわれて、『うるさい!』って言い返すような感じでした」 からかわれても屈することなく、自分の意思を主張していた。 「一番強く残っている幼少期の思い出は、3歳下の妹とこっそりと楽しんでいたネイルです」 「ちょっとネイルをして、学校へ行ったこともありました。こっそり親の見まねで塗って落として、みたいなことをしてましたね。きれいで憧れました
06レズビアンよりもトランスジェンダー 男性よりも女性に惹かれている自分 自分が、男性よりも女性に惹かれることを自覚したのは21歳のとき。 看護学校の友人たち10数名でキャンプに出かけたときのことだった。 「みんなで夜、しゃべってたら、たまたまゲイの人とレズビアンの人がいて、恋愛の話をしてたんです。レズビアンの人が『自分にとって女性に惹かれるのはふつうのことだし』って言ったときに、あ、わかると思って」 「自分も女性に惹かれたことがあるし、と思い当たるところがありました」 高校でお世話になったふたりの先生のことと、当時気になっていた女の子のことを思い出した。 「同級生に『真実ちゃんって、あの子のこと好きだよね』って言われたんですけど、そのときは自覚がなかったんですよ。でも、そういえば好きだったのかもしれないって、あとになって思いました」 男性よりも女性に惹かれている自分に、なんとなく気づいて
01母と子ども4人で暴力から逃れて 夫婦喧嘩の末、父が家に火を 「子どもの頃のことって、あんまり覚えてないんです」 「唯一、覚えているのは家の床が黒焦げになったこと。自分が小学1年生のとき、両親が喧嘩をして、父が家に火をつけようとしたんです」 「ショックすぎて、細かいことは覚えてないんですけど・・・・・・」 真っ黒になった床のことだけは覚えている。 その喧嘩のあと、両親は離婚した。 原因は父の借金とDVだった。 離婚後は生まれ育った三重県を離れ、母の故郷である岐阜県へと引っ越した。 「自分は4人きょうだいの2番目。姉が1歳上で3番目が2歳下、4番目が4歳下です。些細なことで、よく取っ組み合いの喧嘩をしてました(苦笑)」 女性ひとりで子ども4人を育てていくのは大変なことだ。 母は、実家から少しは援助があるのではと考えていたのかもしれない。 「時代のせいですかね・・・・・・。祖父と祖母には離婚
01 高齢の両親とテレビっ子の僕 02 小学1年生で気づいたゲイの自分 03 学業で抑え込んだ感情 04 海外に出て知ったLGBTQのオープンな生活 05 隠さなくていい「ゲイであること」 ==================(後編)======================== 06 初めてのカミングアウト 07 大切な人に告げないという選択 08 親に本当の自分を伝える理由 09 今の自分だからできるLGBTQの活動 10 “人生” を映像に残す仕事 06初めてのカミングアウト 友だちへの隠しごと 初めてカミングアウトしたのは、大学3年生の時。相手は、仲のいい男友だち。 その友だちとは、当時放送していたドラマ『ラスト・フレンズ』の話をよくしていた。登場人物の一人に、クィアなキャラクターが登場する作品だ。 「その中のエピソードで『誰しも隠しごとを抱えている』という話が出てきた時に、その
ゲイの僕がドキュメンタリーを撮るのは、誰かに “希望” を届けたいから【前編】 ほのぼのとした雰囲気を放つ松岡弘明さんは、ドキュメンタリー映画の監督も務める映像クリエイター。カメラを向けるとユニークな表情やポーズで笑わせてくれる松岡さんだが、大切な人に本当の自分を打ち明けられなかった過去を抱えていた。悔いを残した経験があるからこそ、今を生きる人たちとの関係を大切にできる。 2024/07/17/Wed 松岡 弘明 / Hiroaki Matsuoka 1986年、奈良県生まれ。小学1年生で自身のセクシュアリティを自覚。大学院を卒業し、IT企業や映像制作会社に勤めた後、フリーランスで映像制作を開始。2020年にカミハグプロダクションを設立し、LGBTQ関連団体の映像制作やカミングアウトをテーマにした映像作品の制作を中心に行っている。 01高齢の両親とテレビっ子の僕 意外すぎる両親の出会い 僕
01 喧嘩して父に飛び蹴りを 02 ももちゃんのパンツが見えてしまって 03 女同士なんておかしい 04 性行為は取っ組み合い 05 結婚→ 妊娠・出産・子育て→ 闘病、そして ==================(後編)======================== 06 子がダウン症なのは誰のせいか 07 病床で夫が言った「今日、死んでもいい」 08 自分がトランスジェンダーだなんて 09 更衣室は男性女性どちらも入りづらい 10 自分らしくあれ! 06子がダウン症なのは誰のせいか 「障がいのある子どもが生まれる気がする」 第四子となる長男を妊娠したのは34歳。 乳癌の抗癌剤治療を終えて1年以上経っていたが、不安はあった。 「妊娠したことについて主治医に相談しました。そしたら、抗癌剤治療の妊娠への影響は0パーセントに等しい、と言ってくださったんです」 「それじゃあ産もう、ってなったん
01 喧嘩して父に飛び蹴りを 02 ももちゃんのパンツが見えてしまって 03 女同士なんておかしい 04 性行為は取っ組み合い 05 結婚→ 妊娠・出産・子育て→ 闘病、そして ==================(後編)======================== 06 子がダウン症なのは誰のせいか 07 病床で夫が言った「今日、死んでもいい」 08 自分がトランスジェンダーだなんて 09 更衣室は男性女性どちらも入りづらい 10 自分らしくあれ! 01喧嘩して父に飛び蹴りを 長距離トラックの運転手になりたい 生まれも育ちも山形県鶴岡市。しかし1年前の2023年に酒田市へ居を移した。 「一番下の子が、酒田市の特別支援学校に通うことになったので引っ越したんですよ。いまは一番上が29歳、二番目が25歳、三番目が21歳で、みんな山形を離れていて、家には私と長男だけなので身軽です(笑)」 結
西羅 実和 / Miwa Nishira 1972年、徳島県生まれ。幼少期にソウルに住んだあと、東京・渋谷で育つ。小学生のうちから女子にときめきを感じる。大学卒業後、就職浪人をきっかけにフランスへ留学。男性との2度の友情結婚を経て、現在は100年以上続く日本企業でLGBTQ理解促進に尽力している。 06子どもがほしい 日本に彼女がいたけれど 日本でアルバイトをしてお金を貯めて、フランスに戻って勉学に励む生活サイクルを繰り返して6年目のころだった。 日本でシングルマザーの女性と出会い、遠距離恋愛をすることになる。 「日本に帰って来てる間はウチに泊っていいよ、って言ってもらってました」 自分自身も20代後半になり、母の実家のある徳島で親戚と顔を合わせると、結婚はいつするのか? と聞かれる。 シングルマザーの彼女を見ているうちに、子どもがいる生活に漠然とうらやましさを感じるように。 一方、フラン
西羅 実和 / Miwa Nishira 1972年、徳島県生まれ。幼少期にソウルに住んだあと、東京・渋谷で育つ。小学生のうちから女子にときめきを感じる。大学卒業後、就職浪人をきっかけにフランスへ留学。男性との2度の友情結婚を経て、現在は100年以上続く日本企業でLGBTQ理解促進に尽力している。 01 一気に暗い子に 徳島生まれ、東京育ち 両親、2つ下の弟の4人家族。 「父は韓国人で、日本の大学に留学してたときに、サークル活動を通して母と出会ったそうです」 徳島出身の母は、父と出会ったころは東京で大学生活を送っていた。でも、時代もあり、家族から大学進学には反対されていたという。 「母は、かなり気が強い人だと思います。結婚したときは父がまだ学生だったので、母が外で働いて家計を支えてました」 父が韓国人だった関係で、わずか生後1か月で韓国に引っ越す。 「韓国で暮らしたのは赤ちゃんのころの1、
八木 幸恵 / Yukie Yagi 1995年、東京都生まれ。小学生のうちから性別への違和感があったものの、中学校の制服をきっかけに女性の身体や社会的に割り当てられた性別を受け入れる。一時は音楽の世界で働くことを志したが、業界の厳しさに直面して方向転換し、2020年にジェンダーフリー脱毛サロン『こやぎ』を開業。 06音楽業界を目指して 音響の裏方になろう 高校卒業後は、舞台音響の国家資格を取得できる専門職の大学に進学した。 「本当は専門学校に行ってすぐに音楽業界で働きたかったんですけど、親がどうしても4年制の大学に行ってくれって言うので、妥協してその大学にしました」 音楽業界に身を置きたいとは考えつつも、ギタリストとして生計を立てるつもりはなかった。 「自分より上手い人がたくさんいることはもうわかってたので、じゃあ裏方をやろうと思ったんです」 大学で軽音サークルに所属することは諦めた。
八木 幸恵 / Yukie Yagi 1995年、東京都生まれ。小学生のうちから性別への違和感があったものの、中学校の制服をきっかけに女性の身体や社会的に割り当てられた性別を受け入れる。一時は音楽の世界で働くことを志したが、業界の厳しさに直面して方向転換し、2020年にジェンダーフリー脱毛サロン『こやぎ』を開業。 01子どもながらに感じる理不尽さ 母がいないところで怒鳴る父 東京都の多摩地域で生まれ育った。両親と、兄、姉の5人家族。 「兄弟もみんな一度は家を出たんですけど、いろいろあって今は実家に再集合してます(笑)」 飛行機の整備士の父は、私が学生のころ、よく癇癪を起しては子どもに当たっていたことを強烈に覚えている。 「たとえば、父は物を探すのが苦手だったんですけど、探し物をしていて部屋を散らかしたあとに、お前らが片付けろ! って私たちに怒ったり・・・・・・」 「そのせいで私たち子どもの
01 友だちのような母娘関係にはならなかった 02 演劇部の男役でモテモテ 03 「わしのカノジョ」に囲まれた中学時代 04 同人誌を作り、漫画制作に注力 05 幹に複数の枝が生える恋愛観 ==================(後編)======================== 06 婚約破棄。そして、別の相手と結婚 07 週末にしか会えない結婚生活 08 大阪の女性とときめく出会い 09 家族へのカミングアウト 10 ポリアモリーというライフスタイルとこれからの未来 06婚約破棄。そして、別の相手と結婚 農協から転職、婚約 結局、伯父さんの紹介で清水市農協に入ることになった。 24歳のときに、「まだ結婚しないのか」と、上司に嫌味をいわれるような保守的な職場だった。 「事務職で、お茶汲み、コピー取りもしてました。緑色のタイトスカートの制服がありました。静岡だから、緑はお茶の色ですね」
01 友だちのような母娘関係にはならなかった 02 演劇部の男役でモテモテ 03 「わしのカノジョ」に囲まれた中学時代 04 同人誌を作り、漫画制作に注力 05 幹に複数の枝が生える恋愛観 ==================(後編)======================== 06 婚約破棄。そして、別の相手と結婚 07 週末にしか会えない結婚生活 08 大阪の女性とときめく出会い 09 家族へのカミングアウト 10 ポリアモリーというライフスタイルとこれからの未来 01友だちのような母娘関係にはならなかった 軽い気持ちでカウンセリング 「病院でカウンセリングを受けたのは、2年前の2022年です。長く勤めた会社を辞めることになって、ついでに性別も変えようかなって(笑)」 「ちょっと占いでも受けてみようか、みたいな、本当にそんな軽い感じだったんですよ。自分にとって、もともと診断を受ける
01 キラキラしたものよりも 「プーマ」 02 人がやらないことをやりたい 03 “忍耐” こそカッコいい! 04 女性としての自覚も1割ある 05 トランスジェンダーFTMでは、ない? ==================(後編)======================== 06 友だちの悪口を聞いて過呼吸に 07 特別支援学校の教員を目指して 08 Xジェンダーだと両親にカミングアウト 09 レインボーパレードで 「自分だけじゃない」 10 一人ひとりに寄り添える先生になりたい 06友だちの悪口を聞いて過呼吸に 好きな人はドラえもん 小学4年生までは活発な子だった。 小学5〜6年生のときはいじめにあい、友だちはいなかった。 「中学からは友だちもできましたけど、話すのは必要なことだけ」 その頃の友だちがよく話していた恋愛話や悪口に参加したくなかった。 友だちのあいだでは、自分は “ド
01 キラキラしたものよりも 「プーマ」 02 人がやらないことをやりたい 03 “忍耐” こそカッコいい! 04 女性としての自覚も1割ある 05 トランスジェンダーFTMでは、ない? ==================(後編)======================== 06 友だちの悪口を聞いて過呼吸に 07 特別支援学校の教員を目指して 08 Xジェンダーだと両親にカミングアウト 09 レインボーパレードで 「自分だけじゃない」 10 一人ひとりに寄り添える先生になりたい 01キラキラしたものよりも 「プーマ」 親は「女性らしくしなさい」と 「岡山県倉敷市で生まれて、小学校は地元の学校に歩いて通学していたんですが、中学からは岡山市内の学校まで電車で通ってました」 「地元が好きかと聞かれると・・・・・・まぁ、そこそこ好きですね(笑)。自然が多いし、なにより住み慣れてる街ですし」
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