#8です。 お返事ありがとうございました。 脳出血は、数年立ってからMRI検査を受けたときに、脳出血のあとがあると指摘されました。運もよかったと思いますが、今はまったく問題ない健康体です。 >今の特にやるべき物事が多くない状態での「とても充実した毎日」というのはどのようなものでしょうか。 これはですね、言葉で言うと「自分自身と違和感がない」ということだと思います。 私の例が必ずしも質問者さまと同じとは限りませんが、参考になるかと思うので書きます。 私がかつて頑張りすぎて生きていたのは、「自己不全感」というものがあったからです。(これは病名ではないのですが、強迫の一種です) 自己不全感とは、自分自身のあるがままの姿を認められず、もっと高い理想を求めて、常に現実の自分を叱咤激励しながら生きることで、いつか理想像の方が自分だと錯覚を起こし、その高い位置から現実の自分を見下ろしてしまう状態のことで
現在、夫婦喧嘩中。といっても、激しく怒鳴りあうのではなく、基本は無視。夫は完璧主義で、何でもちゃんとしていなくては気に入りません。一方の私は、適当で大雑把。細かいことは気にしません。だから、夫は私のことに苛立ち、私は夫の細かさにストレスを溜めています。 そもそもこの二人の組み合わせが悪かったわけで、お互いを自分の思い通りにするのは無理、と私は諦めていますが、夫はそうはいきません。元々夫の強引さで結婚に至ったこともありますが、夫は自分の目標は達成する、妥協はしない、というタイプ。私は何でも「どうにかなる」と考えてしまう方で、夫からみたら本当に許せないいい加減さを持っています。私自身も、昔は完璧主義の面がありましたが、精神的に参ってしまって、若い頃に大雑把に変わりました。結婚してからは、なぜか夫と一緒にいる反動なのか、ますます大雑把になりました。 よく考えてみると、夫と過ごしている時間は、常に
(´・ω・`)ノ やあ俺も完璧主義者だよ。 完璧主義は疲れるよね。 他人に厳しくなりがちだし、自分の能力に失望することもある。 たとえば俺は、 ネイティブのような発音になりたくてNHKを聴いてるんだけど、 日本人英語講師の糞発音にはイライラさせられるし、 自分の進歩が遅いのにも腹が立つ。 でもね、完璧主義が俺を助けてくれている面もあるんだ。 たとえば、同じことをやってる人に比べて発音がいいだろうし、 上手な発音のこつに気づくこともある。 完璧主義という性格は、上手に利用すれば得することも多いね。 たぶんね、完璧主義というのは短所ではないんだよ。 そうじゃなく、俺らの態度がそれを短所にしてしまうんだろうね。 完璧主義者が完璧主義なのは当たり前だし、治せないよ。 俺らにできるのは完璧主義の奴隷になることではなく、 その主人になることだと思うよ。
「デキる男は、彼女も持ち物もすべて“一流品”を」 「仕事も家庭も、すべてを理想を手に入れたカリスマ主婦に学ぶ」 こうした「カンペキな成功」「カンペキな幸せ」の記事にグッとくることが多くありませんか? そんなあなたは、完璧主義者的傾向が強い人かもしれません。 完璧主義者は、まじめで努力家であるため、一見とても有能に見えます。しかし、その有能さが遺憾なく発揮されるのは、あくまでも「短期的な局面」でのこと。長い人生のなかでは、この性向が自分自身の能力を阻み、苦しくしていることも少なくありません。 なぜなら完璧主義者は、思わぬ失敗や挫折に合ったときにストレスをためやすく、極端な「○×思考」に走りやすくなるからです。 たとえば、がらっと職種を変えて一から出直してみたくなったり、恋人との関係をご破算にしたくなったり、周りにいる「できない人」を徹底的に否定したり・・・・・・。このように、完璧主義に偏りす
沖縄の歴史に関する大きな情報が飛び込んできました。琉球国王家である尚家の遺産が国宝に指定されたというニュースです。沖縄での国宝指定は戦後初めてのことになります。指定された尚家の遺産は1251点にのぼる膨大な数の美術品や古文書です。国王の王冠や衣裳、王家が所蔵していた王国時代の記録類など、第一級の資料ばかりです。 この尚家の遺産、「首里城の謎(3)消えた王家の財宝」で取り上げた、戦前に中城御殿(尚侯爵邸)にあった宝物が一部東京へ移されて戦災をまぬがれたものです。本来はこの倍以上の遺産があったのですが、それらは戦争で焼失したり、米軍の略奪にあって現在伝えられていません。 琉球王国の滅亡後、尚王家は東京移住を強制され、千代田区九段北に邸宅をかまえることとなりました(現在は九段高校になっています)。尚家は華族(侯爵)となり、以来東京を拠点に生活し“江戸っ子”となったのです。しかし尚家の人々は沖縄の
明氏亀谷家(みんしかめやけ)は、照屋親雲上長太を元祖とする長男の明氏安次冨家と次男の亀谷家から成る琉球の首里士族である。琉球王国、第一尚氏王統第七代国王・尚徳王の三男・屋比久大屋子の末裔である。 尚徳王の世子・佐敷王子、次男・浦添王子は第二尚氏の尚円王への世替り(クーデターという説もある)の折、殺害された。三男はこのとき三歳、乳母に抱かれ先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切・屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称する。明氏はその後裔である。一世長太は第二尚氏王朝・尚清王に仕える。二世長孫は長太の次男で、明氏の直系は、兄・上江洲親雲上長均の家系である明氏安次富家で、長孫は分家独立し、先祖の遺領、奄美阿鉄の地頭になり(阿手津親雲上)、かつ第一尚氏王朝以前(屋蔵大主、鮫川大主時代)の地である伊平屋島の按司掟に任じられた。また四世長頼(亀谷親雲上)の時、王孫の由緒をもって王府より王城の地
王族は「尚」家と言うのですが、明治以降沖縄が県に組み入れられてから侯爵に列せられました。戦後はよくわかりませんが十年くらい前に沖縄県の副知事をしていた尚弘子さんは尚家の末裔で琉球大学の名誉教授、長寿料理の研究家です。
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