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週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/ ぼーっと見てたら、浅田彰のフーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。 (…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的
Arkansas 10-Year-Old Won’t Pledge Allegiance Until Gays Gain Equality :: EDGE San Francisco 10-year-old refuses to pledge allegiance until there’s gay equality in the USA - from Pink News - all the latest gay news from the gay community - Pink News 米国アーカンソー州の10歳の少年が、同国のLGBT市民が平等な権利を得るまでは「忠誠の誓い」を拒否すると発言して話題になっているというニュース。 「忠誠の誓い」とは、アメリカ国民の自国に対する誓約であり、小学校の始業時などによく国旗に向かって斉唱するもの。以下、忠誠の誓い - Wikipediaより誓
――出典はクリント・イーストウッドの映画『チェンジリング』。映画館でこの台詞を聞いたとき、まことにイーストウッドだなと思った。脚本を彼が書いていないことはもちろん知っている。 ⇒排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。 つまり、そういうことなのだが。そして、そういうことであることがわからない人は、どれだけ説明してもわからないのかも知れないとは思う。以下、mojimojiさんに対する批判ではない。 イーストウッドの映画には、毎度のごとく、法の側、秩序の側に立つ者であることを利用して、他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディストが登場する。あるいは偏見を公然と詳らかにする、自らを法を遵守する市民と規定する者が登場する。その、カテゴリーの意図的な反転はイーストウッド監督作の面白さであり、それ
ちょっと なつかしい。 わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ - hituziのブログ 無料体験コース 反ベジタリアニズムの思想の もちぬしが、ベジタリアンを限定形容詞にしてしまうのだ。なぜか。そうすることによって、ベジタリアニズムを他人ごとにしたいからです。にげたいからです。自分から、きりはなしたいからです。自分とは関係のないことにしたいからです。 きょうは、野菜をたべよう。そんなとき、あなたは すてきなベジタリアンです。 きのうは肉をたべました。それでも、あなたはベジタリアンです。 そういった ゆるい思想。ゆるい連帯。資格をとわない社会運動が必要なのです。 きょうは、「フェミニズムは、みんなのものだ」というはなしです。 ええと、いつもながら あたりまえのことを かきます。 性差別に反対するということは、なにもフェミニズムなどと なづけるまでもなく、当然のことだ。女性だからとい
⇒2009-09-18 ⇒http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090919/p1 またしても、駆け足かつ雑駁な議論になりますが。 一時的に倫理と道徳を弁別せずに書きますが。倫理道徳の根拠を下部構造に求める。そうした考え方はあります。一神教に発する文明は、マルクスがヘーゲルの「逆立」を批判したように、またニーチェが糞味噌にこきおろしたように、倫理道徳の根拠を「上部構造」に求めてきました。結果、教会の権威は、時に科学という試行を抑圧した。 「上部構造」は、人間とサルを切り離す場所に成立しました。マルクスを継ぐ誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースも、また一神教の代替物としての天皇批判を継いだ阿部謹也も、私たちの倫理道徳の場所を、下部構造に求めた。それは、資本主義の暴虐が「社会」を超えて世界を席巻した20世紀において、彼らが持ち合わせた問題意識でした。
鳩山兄さんの「友愛」がネタにされることが多いが、この日記をもし継続的に読まれている人がいたら、その「友愛(fraternity)」がこの日記の一つのキーワードに結果的になっていることを知っているのではないか……いやそんな読者を想定するのは幻想かな。 fraternityというのは存外に難しい概念で、多様な含みもあり、おそらくはマルクスのいうassociationにもつながるのだろうとは思うのだが、そうした社会原理的な捨象の前に、絶対主義時代が実際には社団社会(社団国家)であり、婚姻が社団の機能を持っていたあたりで、欧米の婚礼には神が娶せるという受動性(だから英語だとbe marriedの表現が多いのだけど)に加えて、Impedimentというものがある。日本語でなんというのか、字引を見直すと、「〔結婚などの法的契約の〕履行障害」というのがある。まあ、そうなのだが、これを結婚では会衆に問うこ
前回エントリの補足と応答ですにゃー。もらったトラバへの応答もかねて。 システムの条件としての代替可能性 人間の「代替不可能性」というのは、もちろん幻想である。そんなことは、それこそ分かりきったことだ。 戦争や緊急の事故、大災害などといった極限状況においては、当然ながらそんな幻想は吹っ飛んでしまう。 だが、そのような幻想がはぎとられる状況とは、まさに人間がただの生物に還元されてしまう状況と言うべきではないか。 そもそも、人間とは幻想すなわち観念によって生きもすれば死にもする生き物ではないか。 「ニンゲンにとって耐えられるものではにゃー」というのは、そういう意味だろう。 id:Midas氏は、「『代替可能』は残念ながら人間の条件」と言っているが、それはむしろ生物一般にとっての条件であって、特殊な生物としての人間の条件ではない。だからこそ、魚は途中で天敵に食われてもいいように無数の卵を産み、植物
⇒リベラリズムと他者危害(追記アリ - 地下生活者の手遊び 流石と思ったけど――やはり私の見解とはこの点で決定的に相違する。 問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら(そういう表現者もとうぜんいるでしょう)、陵辱をテーマとした作品を作ればいいのです。 たとえ表現の自由に紐が付こうと、表現には紐が付かない。私はそう考える。Chim↑Pomのときも書いたけれど、原則論として、表現したい人は勝手に表現するのであって、その表現を社会的な文脈に位置付けるのは他者。「問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら」などという紐は、およそあらゆる表現に対して付いてはならない。だから、雉と射手の存在を同時に肯定してなお事態を収拾する法の執行について述べた。 Chim↑Pomと陵辱エロゲの相違点は、現代アートと商業ということで、だから市場の性
⇒2009.6.7: 日記 五十嵐氏の事件を引き合いに出したことは不穏当でした。弁明させていただきますが、雉を撃つな、と言っているのでは私はない。雉を撃つな、とは誰に対しても言いません。誰が何故やったのか、ではなく、官憲が仕事をしないとき表現の自由について国家の法治が公共の利益を実現する、という発想に到底賛成できない、ということです。表現の自由を法治の原則において守ることさえしなかった、あるいはできなかった日の丸の官憲に、公共の利益に基づく表現の自由の制限を委ねることには躊躇します。 日本の官憲は、望むまでもなく、公共の利益を自称してポルノを弾圧してきました。この官憲に対する不信は、当然のことながら外国人排斥(日本においては移民でさえない)と関係がない。むしろ、警視庁草紙以来、弾圧の発想と技術を近代日本に積み上げてきた官憲は、公共の利益に基づく表現の自由の制限によって、マジョリティではなく
人権というコトバは、法の枠内におさめることのできるコトバではにゃー。無論、法と無関係に語ることは無理スジだろうけれど、法学が独占して取り扱う対象ではにゃーわけだ。ブンガクからもテツガクからも文化論からも、自由主義思想からもゲーム理論からも人権を語りえるものですにゃ。 僕は今回、だいたい自由主義思想の観点から人権について考えていますにゃ。例によって愚行権ベースにゃんね。法の話をしているわけではない、というのはそういうこと。 これに対し、「法学的にはこうですよ」という意見は歓迎するのだけれど、法学的におかしいからダメという話はナンセンスにゃんなあ。しかも、こちらが根拠をあげているのに対し、無根拠にDISられてもお笑いですにゃ。 いただいたレスやトラバにはなるべくお応えしていきたいとは思うのだけれど、時間がとれないので今日はとりあえず1点。今回は法の範囲内のお話ということで。 「レス」にレス 世
I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies. Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and military men tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the nov
赤、黄、緑とユダのライオンはラスタファリ運動のシンボルである。 ラスタファリ運動(ラスタファリうんどう、英: Rastafari movement)またはラスタファリアニズム (Rastafarianism) は、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教的思想運動である。 ラスタファリ運動の実践者は「ラスタファリアン」、または「ラスタピープル」、「ラスタパーソン」、もしくは単に「ラスタ」と呼ぶ。ラスタファリアンはこの宗教運動のことを「主義」(イズム、-ism) ではなく「人生観」(way of life) と考えるため、ラスタファリ運動 (Rastafari movement) と表現される。 ラスタファリ運動は聖書を聖典としてはいるが、特定の教祖や開祖は居らず、教義も成文化されていない。それゆえ宗教ではなく、思想運動であるとされる[1]。基本的にはアフリカ回帰運
Buddhism | 17:38 | iPhone で撮影し iPhone で投稿した iPhone なエントリid:antonian さんのところから頭によぎったこと今日 iPhone で撮った写真:自己を知ろうとするとき自己はスルリと背後に廻りこんでしまっている。ならば神の背後に回りこんでみるかってんで... 昼食でもご一緒にという申し出を固辞して訪問先を一旦あとにすると、1時間後の約束までどうして時間を潰そうかと思案しながら駅から上がってきた坂道を下り始めた。どこまでも抜けるような青空と西のほうから幾重にも織り成してその青を覆ってしまうかのような白と灰の雲。その動きはあたかも一寸顔を出した春にまだ早いぞと冬が牽制しているかのように頬を刺すような冷たい風を吹き降ろす。 何も商う様子の見られない住宅街の坂を下る途中に僕は朽ち欠けた看板と真っ暗な店内が覗きながらも軋んだ扉のガラス窓に「営業
なんか、左翼(この際サヨクでもいいですが)というものを誤解している人が多いんじゃないか。左翼というのは、話し合って理解し合えたり、妥協点を見出そうとしたり、そういう対象じゃないんですよ。もっとブレない理論指導部なんです、構造として。 左翼には左翼としての最終目標があって、それは世界同時革命とかなんとか、まあそれぞれなんで深くは追求しませんけれども、とにかくそういうものがある。しかし、多くの人にとってはその目標は目指すところではありませんね(って表明することの政治性はとりあえず不問に処します)。たぶん迷惑です。少なくとも現時点では。 それから、左翼というのは、困窮した民を救って、教え導いてくれるとても立派な、慈悲に溢れた人達ではない。実態として違う、ではなく、もともと『そのような役割』を期待するのが間違いである。そんな義理は無い。その信念とするところを達成する過程で、行動への表れの一つの形と
このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネットグループ(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※表示価格は、全て税込です。 ※サービス品質維持のため、一時的に対象となる料金へ一定割合の「サービス維持調整費」を加算させていただきます。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 日本のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 レジストラ「GMO Internet Group, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 2024年5月時点の調査。
ネットサヨクについて狭い観測範囲ながら、常々感じていることを書いておく。 ぼくは26歳までフリーターで、さしたる夢も自信もなく、といって将来のための努力もせず、渋々重い腰をあげて運良く採用された会社に入り、幸運を自覚しながらもその会社のありようが性に合わず2年で退職し、知人のツテで一時アルバイトに返り咲き、今は細々とサラリーマンをしている。食い詰めるほどの薄給ではないけれど、それはただワープアではないという程度に恵まれているにすぎない。少し前の流行言葉でいえば負け組というやつだろうし、格差社会の下半分に含まれていることは疑いようもない。ネットサヨクというのは、本来そういう人の味方なんだろうと思う。 彼らはインテリだ。書かれる文章は大抵小難しい。背景を知らないと正しく読めない主張や、学術的な思考力を要求する議論も少なくない。そして自らの言葉を解さず、誤読する人たちを冷笑的に、或いは、痛烈に罵
「歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日本には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような
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