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2023年8月4日のブックマーク (5件)

  • 8割が餓死・病死、倒れたら自決を “地獄”を生きた104歳元兵士の怒り「検証していない」(毎日新聞)

    104歳の中野清香(なかの・きよか)さんは「地獄」を知っている。約80年前、そこにいたからだ。 水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士がいた。まだ生きているのに、誰も助け起こさない。 蛆(うじ)がわく死体の隣で眠っても、死臭が気にならなくなっていた――。 「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えると、とても恐ろしい」 子犬の肉球までった 太平洋戦争で最も悲惨な戦場の1つといわれる東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)の戦い。日に戻ることができた兵士は1割もいないとされる。 「い物のことしか頭にない。敵の攻撃も恐ろしくなかった」 イナゴを捕まえて羽をむしり、そのままべた。10センチぐらいのトカゲを火の中に放り込んで口にいれた。山中でちょろちょろと歩いてきた子犬を殺し、足裏の肉球までらいついた。 降伏は許されず、突入して潔く死ぬよう玉砕命令が出た時、銃1丁

    8割が餓死・病死、倒れたら自決を “地獄”を生きた104歳元兵士の怒り「検証していない」(毎日新聞)
    takun71
    takun71 2023/08/04
    こういう戦争の生き証人の方も高齢でどんどん亡くなっていく現実
  • 羽生結弦さんが結婚「私、羽生結弦は入籍する運びとなりました」…自身の公式SNSで発表(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

    フィギュアスケート男子で2014年ソチ、18年平昌五輪を連覇し、昨年7月にプロ転向した羽生結弦さんが4日、自身の公式SNSで結婚を発表した。以下は報告全文。 「応援してくださっている皆さま いつも応援してくださり、ありがとうございます。この度、私、羽生結弦は入籍する運びとなりました。 これまでの24年間、スケートと共に生きてきました。特に、この数年間は、コロナや自然災害、世界情勢等によって、不安定で目まぐるしく変化する世界の中で、多くのことを感じながら、スケートと向き合い、自分自身や世界について、さまざまなことを考え続けてきました。 プロに転向した今も、競技者としての過去も、人間として未熟な私ですが、皆様からのたくさんの応援や期待、そして視線から計り知れないほど大きな力をいただいてきました。 当にありがとうございます。 今日も、人生をかけて『羽生結弦』のスケートを深め、一生懸命に努力を続

    羽生結弦さんが結婚「私、羽生結弦は入籍する運びとなりました」…自身の公式SNSで発表(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
    takun71
    takun71 2023/08/04
    あー、これはショックで死人が出るやつや。。w
  • 「作りたいゲームを自由に作る」ために、まずはIT企業として10年かけて500人規模の大会社を作り上げ、その利益をゲーム制作に──ってどういうこと!? 100万本を売り上げた高難度2Dアクション『エンダーリリーズ』開発元の社長が“ただ者ではない”

    小林氏: ありがとうございます(笑)。少し時間はかかりましたけどね。 自社パブリッシュだったので「海外にパッケージ版を流通させる」のは難しい体験でした。いろいろな勉強になりましたね。海外版はアメリカのLimited Run Gamesさんと提携して出したんですが、国内版はほぼすべて自社パブリッシュで、流通だけお任せするという感じでした。 ──地域的な内訳はどのような感じだったんでしょうか。 小林氏: 30万くらいが国内で、それ以外が海外。一番売れたのは北米です。順位的に言えば北米・中国・日TOP3になりますね。デザイン的には日っぽいので、アジア圏はともかく、北米は少し意外な感じはしました。 ──パッケージ版とダウンロード版の売り上げの割合みたいなものってどうでしたか。 小林氏: 約90%くらいがダウンロード版です。ダウンロード版が先行していて、パッケージ版が後からだったというのもあ

    「作りたいゲームを自由に作る」ために、まずはIT企業として10年かけて500人規模の大会社を作り上げ、その利益をゲーム制作に──ってどういうこと!? 100万本を売り上げた高難度2Dアクション『エンダーリリーズ』開発元の社長が“ただ者ではない”
    takun71
    takun71 2023/08/04
    情熱すごいな
  • 大西瀧治郎 - Wikipedia

    大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、1891年〈明治24年〉6月2日 - 1945年〈昭和20年〉8月16日)は、日の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。 笹井醇一(海軍少佐)は甥(大西のである淑恵の姉、久栄の息子)である。 若宮 (水上機母艦) 1891年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現:丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。 旧制柏原中学校在学中、日海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた広瀬武夫中佐を熱心に崇拝した。1909年、海軍兵学校40期[注釈 1]に20番の成績で入学し、兵学校では、名物の棒倒し競技で、同期の山口多聞と毎年大暴れして、抜群の棒倒し男と目された。剣道は兵学校で最高の一級、柔道も最上位であった[1]。寄宿舎の寮長も務め、秩序を乱す者がいれば、その者を布団に簀巻きにして、2

    大西瀧治郎 - Wikipedia
  • 栗林忠道 - Wikipedia

    栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。 陸軍士官学校(1907年) 栗林忠道の肖像画 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合

    栗林忠道 - Wikipedia