はてなキーワード: 百目鬼とは
これは映像研には手を出すな!のアニメを7話まで見たただのオタクの感想である。
ロボの設定に迷いを感じ制作に逃げ腰になった浅草氏への金森氏の激励?である。これを受けた浅草氏は、完成品には表れないような部分まで自分の納得いくように突き詰めることで矛盾を克服し意欲を取り戻す。そして「浅草氏の創作スイッチは『自由』か」と締められる。
「みんなあんたが指示したものに近づけるため最善を尽くしてる。それはあんたがいいものを想像してると期待しているからです。(略)だが、出来上がったものがクソ面白く無かったら責任は全部お前にあるからな。なぜならあんたは監督なんだ!」
・よって監督には自分自身が納得できる形を追求する(義務と)権利がある
このときの主題は後者だ。しかしアニメ版で追加されたセリフによって、情報自体は変わらないがニュアンスが「責任」に偏った気がする。「責任がある」「みんな期待している」からの「浅草氏のスイッチは自由」という展開に繋がるだろうか。
このあたりを境に他にも以下のようなアニメオリジナル要素が加えられていく
・クライアント(ロボ部)の意向に振り回される様(キャスティング・OP映像)
これらは「アニメの制作現場」的な要素で、特に浅草氏の監督としての立場が強調されている。もしかしたら水崎氏がほぼ一人で実作業をしているように見えるのを避けようとしたのかもしれない。
しかしあくまで一個人の感想でしかないが、これらの要素は映像研という作品を若干読み違えてないだろうか。
映像研は「アニメ業界モノ」ではない。確かにアニメ製作手法などの話も出てくるがそれがメインではない。彼らの置かれた環境は制作現場ではなくモラトリアムだ。それなりの自由と生存権が保証された世界で、各々のやりたい事と向き合い実現していく創作者の理想だ。そこで描かれる悩みはクライアントや下請けなどの外的要因よりも、自己の理想や動機との向き合い方などの内的要因の方ではないだろうか。私は映像研という作品の中心は「アニメ制作」ではなく「創作と自主活動」だと思っていた。
映像研は業界注目度の高そうな作品だ。現職のアニメーターにとってアニメ制作の創造的で楽しい部分を切り取ったようなものは作りにくいのかもしれない。ただもし今後も制作現場の苦労的な面が入ってくるとすると、なんだかあまり素直に楽しめないかもしれない。
青春よ楽しくあってくれ。
昔、バカ殿で、田代が蜘蛛の巣にかかった蝶を助けてあげると夜に田代のもと蝶が恩返しに来て気持ち良い事をしてくれたのを見たバカ殿が、同じように蝶を助けるのだが、蜘蛛を懲らしめようと踏んでしまい、蝶が恩返しにくるのだが、蜘蛛も復讐に来るというコントがあった。
xxxHOLiCでは、百目鬼が蜘蛛の巣を取り払ったせいで蜘蛛に呪われて目が見えなくなるエピソードがあった。
婆さんが死んだ初盆でお坊さんが蜘蛛の糸の話をしてくれたあと、盆の間に絶対してはいけないことが殺生であり、虫一匹の命であなたが極楽浄土へ行ける可能性も生まれるという話をしてくれた。
蜘蛛は益虫でゴキブリや羽虫などを捕まえて喰ってくれるという話も聞いた。
蜘蛛を殺すやつはかわいそうだとおもっている。
なまじキャラを知ってるだけに面白かった。A106みたいな愚直なまでに人間を信頼しているロボットにおっさんは弱い。
よくある「ロボットと人間の共存」「ロボットの成長」の王道を踏まえつつ、「天馬博士とお茶の水博士の共同作業」をメインで映している。なので原作のアトムが好きな人には不評じゃないのかなとおもい見ていた。
じいちゃんの家で見た時代劇を思い出す。全体的に綺麗に(風情があるようなみたいな)書かれているのと、人情の世界の話なのでこういうのにおっさんは弱い。
歴史の長い作品だけに自分みたいな人間が語るのもどうかと思うんだけど、やはり長谷川平蔵のアウトローにも人情の考え方が非常に心に刺さる。こういうのは子供の頃には感じなかった。
異世界物の真逆。異世界の住人はどうやってこの世界に馴染んでいくのかを見ると面白い。けど、ちょっと登場人物がオタク寄り(オタク受けを狙った的な意味で)なので、こう、ディープな住人じゃないところに異世界の住人が来たらどうなるかを見たくなる、それがエルマなんだろうけどちょっと貧乏部分だけしかかかれないのが残念だった。
これを見ながら俺が中学生の時にスマホがあってLINEがあったら連絡帳みたいな紙をもらったことがない俺でも…いや、普通に考えて変わらない。
ジェネレーションギャップをめっちゃくちゃ感じた作品。おっさんはいつでも心は若くありたいと考えいるので、青春物におっさんは弱い。
最後の最後でその後まで描写しちゃうのはよくなかったと思うけど、それを差し引いても今までのアニメにないキラキラしてないモジモジした恋愛の書き方をしていて良い。
おっさんはテイルズウィーバーっていうネトゲで恋愛したことがあるのでこういうのに弱い。
ネットゲームあるあるとして見るとおもしろ部分(ガチャで出てくるポーションセットなど)と、最初はゲーム仲間だったのがどんどん関係が発展していくというのが若干の生々しさがあってよかった。しかし、ギルドメンバー間でギスギスしないからアニメはいいよね。
ちょっとした小話
こういった萌え萌えの女の子だけの日常アニメっていうのは好きじゃないんだけど、ガヴリールドロップアウトは完走できた。なぜかを考えたら過剰な百合キャラがメインにいなかったからだと思う。タプリスがめっちゃでてきたらみるのやめてたとおもう。
今のアニメには非常に百合キャラが多い。というか、制作者も「いまのトレンド」的な感覚でいれてきているんじゃないかって思う。そういう狙ったような百合キャラがおっさん非常に好きじゃないのだと気付かされた。
小林さんちのメイドラゴンを良かったアニメに入れたが、やはり最後に「もっとこうオタク向けじゃない関係のドラゴンと人間がみたい」っていう感想なのは自分のそういうところが出ている(それとカンナカムイに付きまとってた幼女)。それを差し引いてもファンタジーを現代にという路線、小林とカンナカムイ、滝谷とファフニールの関係性というのはとてもよかった。
今年は、王道化してた百合がだんだんと退いていった気配がとてもする。意図的にそうなりそうなアニメを見ないようにしていたら1話、3話で切る作品ばかりになって結局、こういうガヴリールドロップアウトみたいな萌え萌え日常アニメは残らないのが今までだったのだ。数少ないから尊い。そう思える位置にまた百合が来て欲しいと思う。
追記
gokkie 正直あのクールはけもフレより鬼平の方が面白いし出来も良かったと思ってる。 問題は時代劇の出来が良すぎてあれだけ出来が良いアニメ鬼平でも霞んじゃうのがこう。 このラインナップならID0も合いそ。
それな
鬼平のお陰で時代劇をちょっと見るようになったんだけど、夜や暗所での殺陣の緊張感(程よく暗いので何をやっているかまでは見れないせいで息を飲むような殺陣)はアニメには無理。アナログのよさっていうのがあるけど、ああいう部分だと思うわ。想像を掻き立てる良さっていうか。
あとはやっぱ、アニメの涙と現実の涙は違うなって思う。当たり前だけどアニメだとどうしても綺麗すぎる。かと言って汚くしちゃうと汚いだけになる。その中間を越えていければな。
aukusoe “そういう狙ったような百合キャラ” どういうのだろう? 百合の方の私モテのうっちー、シンデレラの方のアイマスの愛海らが好きなんだけど、彼女たちは狙ったような百合キャラなのかなあ……
こればかりは、同意を得られないのを承知で言ってる。なんというか、不自然ってわけじゃないんだけど、出て来る萌え日常アニメで必ずと行って百合キャラ(女が女に対して愛おしくしている描写)があると、スパイスではあるんだけど、なれすぎて逆にくどく感じる。
ごちうさは好きなんだけど、シャロのリゼに対する感情というか、うまくいえないんだけど、それもシャロちゃんの魅力の一つなのはわかるんだけど、あまりにも舌に馴染みすぎて弾けないスパイスに感じるというか…。自分の肌感なので同意を得られないのはわかっているけど、やっぱりくどく感じる。
ヴィーネは百合キャラなのかな… おせっかいやきの幼馴染って感じだという認識(xxxHOLiCでいう百目鬼と四月一日みたいな関係に思える、があれも結構薔薇薔薇しいからそうなのかも…)
Earofrice 「全然前情報無しで視聴」というのは「原作既読勢ゆえのバイアスがない」とかそういう意味なのだろうか。「原作を知らない人にとって高いハードルを越える」という意味なら、視聴したキッカケ知りたいな。
なんというか、nasneのアニメ検索で出てきたのは毎シーズン片っ端から録画してるんだけど、それに引っかかったやつはとりあえず1話を見るようにしてる。面白かったら録画繰り返しを設定といった感じで。なので視聴キッカケは「やってたから」って感じ。
あとはdTv加入するとスマホ代オトクっていわれて入ったやつ、見ないと損で見ていたら切れなくなったから、やっていなかったりするのはそっちで見ている。でも、こっちは結構しっていないと見ないかな…。
あと、1個、本当は書きたかったけどまだ完結してないからかけないやつも書いてこの増田は終わりにする。
こういうのにおっさんは弱いのは、もう察してくれると思うんだけど、初めて先が気になって原作買った。(放送開始時、完結していたっていうのが大きいけど。)
犬屋敷がホームレスのおっさんを救ったり、人を救ったりして、そういうたびに、なぜか知らないが涙が溢れる。本当に優しい世界っていうのがある。けもフレよりもダイレクトに。
ヒロのパートは確かにムカつく。けど、このヒロのパートがあるからこそ、犬屋敷のパートになってスカッと泣けるんだと思う。「このためにロボットになった」ってところは泣かないように決めてたのに、ついつい先の展開のあるセリフを思い出すと涙が出てきてしかたがなかった。
最近初音ミクが人気だ。これはすごいというようなことをいえば賞賛され、少しでも否定的なことを書いただけで全力で批判される気がする。しかしこの人気は「本物」なんだろうか?初音ミクに人気があること自体は否定しない。ニコニコ動画という枠の中でだが、確実に人気があるといえる。問題はその理由である。TBS騒動で初音ミクの魅力は人と同じようなことができるから人気があると主張されている。その主張に疑問を感じる。
正直なところ初音ミクは絵のほうで人気がでただけだろうと思う。初音ミクの原動力は言うまでもなくニコニコ動画である。そのニコニコ動画で人気があるのはどちらかといえば初音ミクを書くほうだ。ニコニコ動画で初音ミクを検索すると5000件以上ある。ほとんどが「歌わせた」ものだが、再生数は少ない。一方書いたほうは数が少ない「初音ミク 描」で検索しても300件ぐらいしかヒットしない。仮に初音ミク動画が5000あり、そのなかで描く動画が300個でそれ以外が歌わせる動画であるとすれば、その数は4700個。もちろんいいかげんな計算だが、それでもかなり歌わせる動画が描く動画に比べて多いことは間違いない。しかし描いた動画のほうが人気が高いものの比率が高い。再生回数が多い順で並び替えた一ページ目に描いた動画は4つでてくる。
歌わせたほうはもっとある。人によってなにを歌わせた動画に入れるのか判断が分かれるかもしれないが、数は16個くらいだろう。絶対数自体は歌わせたほうがあるが、歌わせたものが描いたものよりも母数が多いことを考えれば比率としては描いた動画の方が高いだろう。また再生回数の小さい方で見ても描いたものが人気があるといえる。「初音ミク 描」で検索して再生回数の少ない順で並び替えれば、再生数が小さいものが出てくる。しかしそれでも最低300回ぐらいの再生回数がある。検索結果の2P目がだいたい500から800回ぐらいで、3P目が800から1200回の再生回数を誇っている。一方歌わせたほうはどうだろうか?単純に「初音ミク」で検索して再生回数の少ない順で並び替えてみると100回前後の動画がたくさんヒットする。2P目もほとんど変わらない。再生回数の小さいもので比べても歌わせるほうは描くほうに比べて人気がないといえる。確かに歌わせた動画で人気のある動画はある。しかし歌わせたもの全体からみるとその比率は少ないし、人気のないものの再生回数も低く全体的に基盤が低いといえる。しかし描いたほうは基盤が高く300以下の動画数だが、それなりに初音ミク動画の上位をキープし、再生回数が最低の動画でも再生回数が歌わせたものよりはある。ニコニコ動画では歌ではなく絵に人気があるといえるだろう。さらに初音ミクのエロに対する需要もあることを考えればこのことは明白である。描いたもので人気があるのはそれ系統のものだ。またエロを前面に出している釣り動画もあるし、その動画は人気?がある。こういうことを考えれば、やはり絵で売れたと考えていいだろう。
ではなぜ初音ミクの魅力として人間に近いことができるからということになったのだろうか?その理由は多分そういうことをいっている人間が「部外者」、つまりTBS騒動時点では興味がなかった人間であるからだろう。グーグルで初音ミクを検索してTBS批判をしているところを探したら、次の二つが見つかった。
しかしこれらの二つはTBS騒動以前に初音ミクを取り上げていない。一方TBSを批判しているところを探す過程で見つけた
ではTBS騒動まえに初音ミクを取り上げたり描いたりしているけど、TBSになんの批判もしていない。もっと踏み込んで初音ミクを描いていたサイトやブログを探してみた。「初音ミク 絵」検索して次のところが見つかった。
みればわかるようにこれらのサイトorブログではTBSを批判していないのだ。だからといってTBS報道に前から興味をもっていた人が不快感を覚えなかったということを主張するつもりは毛頭ない。またTBS騒動前から興味を持っていた人全員がTBSを批判していないと主張するつもりもない。いいたいのは今初音ミクがリアルに近くてすごいと主張し、かつTBSや「一般人なるもの」を批判している人はTBS騒動後に興味を持った人たちが多いではないのかということだ。そうだとすれば事実の観察に基づく人気の理由といま主張されている魅力がずれてしまっていることが説明できる。
もちろんなんだかんだいって歌わせることにも魅力があるのだろう。しかし初音ミクの人気の源泉はやはり「人間に近いことができること」ではなくかわいい絵なんだろう。だから「人間に近いことができる」という主張に人気がある現状には疑問を感じる。
たぶん本当の視力が測れれば0.1ぐらいしかないと思う。でも、免許の更新で要メガネとされたことはないし、視力検査ではその気になれば1.5だろうが2.0だろうが「見える」。何故か。視力検査には必ず「判定する人」が付いているからである。
説明は難しいが「流れ込んでくる」感じ。止めることはできない。視覚とはちょっと違う位置、といったらいいのか、ともかく目を閉じたって関係ない。何でもかんでも「見える」わけではなくて、その人が集中してみたものの情報だけが入ってくる感じらしい。
最近は開き直るようになった。別に、自分の網膜に映っていようがいまいが、自分の脳が視覚情報を正しく認識しているには違いないからだ。運転とか危ないだろうって? 大丈夫。標識ぐらいは自力で見えるし、人の全然いないところでの運転はほとんどしないから。誰かがそれを見ていれば大丈夫。