はてなキーワード: 生活文化とは
NHKの「3ヶ月で学ぶ世界史」という番組がいい。アジアの視点で紀元前の古代から近代までの世界史の流れが解説される。
もちろん時間に限りがあるので、細かい部分は省略されて、王朝単位で大まかに説明されてしまうのだが、それでも高校世界史しか知らない自分みたいな人間には西欧視点でない歴史解説が面白すぎる。
昔の王朝の支配地域の地図でやたら広範囲に色が塗られているが、別にその隅々まで厳しく占領して中央が管理していたわけではなく、多くは現地の支配層を恭順させた上で任せる緩い支配だった。
一番勉強になったのは、ユーラシア大陸を股にかけた遊牧民の重要性。この遊牧民がアラブ商人になったり傭兵になったりしながら大昔から日本からヨーロッパまで世界を繋いでいた。遊牧民は世界経済に欠かせない存在だった。
これが西側視点になると、定住しない遊牧民は非文明な悪者集団として伝えられるだけになる。そのイメージは現代では差別感情となり、物語ではジープに乗ってヒャッハーと叫びながら奪いに来る世紀末の無法者集団にまでつながる。
西欧が技術発展するにつれ、ユーラシア大陸の人やモノをつなげる遊牧民の役割が終了する。というか邪魔になる。
航路の発展で中抜きする遊牧民抜きでアジア各地と取引できるようになる。西欧人にとって遊牧民は農地や資源開発できる土地を無駄遣いしている馬鹿だ。
西欧が列強になりせっかく引いた国境線を好き勝手に線をまたぐ遊牧民は目障りになる。
イスラエル建国のドキュメンタリーで当時のパレスチナ人指導者の息子はこう回顧した。「わたしの父はパレスチナの独立ではなくアラブ国家の建国を目指していた。より大きな民族国家を作ろうとして建国宣言でイスラエルに遅れをとってしまった」。
そりゃそうだ。広範囲に関係性を持って生活文化を作ってた中で突然に直線の国境線が引かれて勝手にここからここまでパレスチナとされるほうが本来はおかしかった。しかしイスラエルのユダヤ人相手にそうした歴史のそもそも論を話している場合ではなかった。
国境のない時代にユーラシア大陸を歩き回って人類の文明発展を支えたアジアの民族たち。世界の多様な視点を理解する重要性を感じた。
古典の日に関する法律 https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=424AC1000000081
(目的)
第一条 この法律は、古典が、我が国の文化において重要な位置を占め、優れた価値を有していることに鑑み、古典の日を設けること等により、様々な場において、国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ、もって心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「古典」とは、文学、音楽、美術、演劇、伝統芸能、演芸、生活文化その他の文化芸術、学術又は思想の分野における古来の文化的所産であって、我が国において創造され、又は継承され、国民に多くの恵沢をもたらすものとして、優れた価値を有すると認められるに至ったものをいう。
(古典の日)
第三条 国民の間に広く古典についての関心と理解を深めるようにするため、古典の日を設ける。
3 国及び地方公共団体は、古典の日には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする。
4 国及び地方公共団体は、前項に規定するもののほか、家庭、学校、職場、地域その他の様々な場において、国民が古典に親しむことができるよう、古典に関する学習及び古典を活用した教育の機会の整備、古典に関する調査研究の推進及びその成果の普及その他の必要な施策を講ずるよう努めるものとする。
附 則
こんな法律があったんだな。
古典の日https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E3%81%AE%E6%97%A5
“田舎者と貧乏人を初めて見た話”を読んだ感想を、そっと書き残す。
それも日本で5本の指に入るほどの田舎で生まれ、高校卒業までそこから出たことはなかった。
小学校は地元の公立に通い、そのあと中学受験をして、家の近くの中高一貫校を卒業した。
中高時代は近くの学校まで自転車で通学し、部活と勉強が生活のほとんどだった。
現役で慶應に進んだ。
まさかそこでここまで大きなカルチャーショックを受けるとは思っていなかった。
私は自分がいかに世間知らずだったかということを全く知らなかった。
まず、初めに、「この店、もってる株主優待券使えるじゃん」という会話に驚いた。
喉元まで出かかって飲み込んだ。
田舎では子供はもちろん、大人だってそんなものは持っていなかった。
他にも非常に面食らうことが多かった。
23区内で実家の近くに、マンションを借りて下宿させてもらっているひと
就職解禁日に東京ガスの内定が決まった報告を親から知らされるひと
などなど挙げだしたらキリがない
世の中は生まれた瞬間から不平等だということを腹の底から理解したね。
田舎ではそこそこ裕福な側だったから、余計に東京の富裕層をみておどろいたね。
都内御三家卒トリーバーチさんが言う通り、たしかに生活文化もぜんぜん違った。
ただ、今までの自分と異なった生活文化の良いところにたくさん気づけたし、良いとおもったところは自分に取り入れていったから、そこは都内御三家卒トリーバーチさんと異なる点かな。
まあ、東京という街が、大部分日本全国の地方からの上京者で構成されるので、地方出身者がその文化に馴染みやすいのは、構成からみてそうだろうというのはあるけどさ。
ただ、この文章は都内御三家卒トリーバーチさんへのアンチテーゼだから、敢えて悪いところも書くけど
都内御三家卒トリーバーチさんみたいに、いわゆる東京の消費文化にどっぷり浸かっているひとを見たときに、「なんだか人として薄っぺらいなあ」と感じたね。
それは、そういった人達が、自らの意識じゃなくて、営利企業の広告・周りの人々の目線・マウントといった外部の刺激に翻弄され踊らされ、自己を見つめる機会が少なく、モノを消費させられているかんじがするからだとおもう。
なんだか操り人形というか、外部の刺激にただ反応している動物のようにも見えるんだよ。
最近そういう消費させられているかんじをダサいと感じる精神性が、世界的に若い人の間で増えてきているように感じる。
あと少し話は変わるんだけどさ、都内御三家卒トリーバーチさんの文章を読んで
やっぱり日本で最も根深い差別は“出身地差別”だとあらためて確認することになったね。
例えばこんなかんじ
「大阪出身なんだ、なんかおもろいこと言ってよ笑」
「埼玉出身なんだ、ひっ捕らえろ」
それも無自覚で問題視もされてないから、LGBT差別なんかよりも根深い。
人種もLGBTも本人の自由意志による選択ではないから、そのことで差別するのはいけないことなんだよな。その理屈は全くもって正しいとおもう。
そして出身地も本人の意志で選んだものじゃないよな。それなら“出身地差別”も前の2つの差別と同じようにやめようとなるはずだとおもうんだけど、実際はそうはなってない。
「田舎者の無粋さと、田舎のつまらなさには心底辟易だわ。関わりたくないわ。早く都へ帰りたいわ。」って言ってるけどさ
それは白人が「黒人の無粋さと、つまらなさには心底辟易だわ。関わりたくないわ。白人だけのコミュニティですごしたいわ。」というのと、構造的に全く同じだと自覚したほうがいいよ。
ただね、そんなバカにされている地方出身者にも、都内御三家卒トリーバーチさんよりも明確に恵まれている点がある。
それはスタート地点が低く恵まれていない地方出身者の方が、それから先の人生の伸びしろが大きいということだ。
もうね楽しくて仕方ないよ、ワクワクするね。
どんどん生活の質が上がっていく。これは本当に希望に満ちあふれているよ。
人間って生活の質が向上したときに幸福感を感じるというのが持論で、それは進化生物学的にも則しているとおもう。
(※もちろんそれだけでなく、他にも幸福感を感じるときはある)
そう考えたら、これからの人生ずっと昇り調子の地方出身者は幸せだとおもう。
生まれた瞬間から上限近くだと、それ以降の人生良くて現状維持で悪ければ転落だよね。
それは不幸だとおもう。
実際、都内御三家卒トリーバーチさんは都落ちして、生活の質の低下に苦しんでいるよね。
あとこの仕組みには、都内御三家卒トリーバーチさんへの救いも内包されているよ。
だって、都落ちした都内御三家卒トリーバーチさんは、その出来事によって、今までの都内での暮らしの素晴らしさに気づけたわけだし、何より一度下がったらこれから上がる楽しみを得られるわけだからね。
フェミニズムの歴史を学ぶとわかるんだけど、宗教(この場合キリスト教)とすごく密接な関わりがあるんだよね。キリスト教は欧米の生活文化の基盤だし、そのキリスト教は強い父権社会の価値観を持つ宗教だから、つまり欧米社会=父権社会=男性社会であり、それに対する反発と改善の意識がフェミニズムの方向性を決めてきたって構造。
でも日本では、キリスト教の価値観がそこまで民衆のなかで内面化してないから、フェミニズムはどうしても「戦う相手が居ないのでサンドバッグを探してうろつきまわる狂犬」みたいになるんだよ。宗教を持ってないのにそれを防衛するという意味では保守なんだけど、それってやっぱり宗教じゃない。
日本は治安や生活文化のレベルがかなり高いので、その高さを前提にした習慣がたくさんある。
たとえば、ある商品を売ってる(牛丼でもティッシュペーパーでも良い)企業があったとして、モンスタークレーマー(たとえば、店頭で俺には500円で二杯の牛丼をよこせと暴れる人)が出た場合、下手に時間をかけて処理する(人件費という形で対策費用を消費する)よりも、素直にもういっぱい牛丼を与えたほうが、金銭的には合理的判断になる。
モンスタークレーマーに二杯の牛丼を提供しても、大多数はそれに追随しないまっとうな顧客なので、そういう判断が成立するわけだ(みんなが2杯要求し始めるのならば、どこかでその悪循環を断ち切る必要があるが)。
モンスタークレーマーがたべている二杯目の牛丼のコストは、では誰が負担しているかというと。最終的には価格に薄く載せる形でまっとうな顧客が負担している。
良識ある市場では、以上のように「良識のない顧客のほうが結果的に大きい利益を手にして、善良な顧客が彼らの悪行の負担を背負う」状況が発生する。万引き犯の与えた損害を回復するために、書店がどれだけそれ以外の本を売らなければならないかという悲劇はよく聞くけれど、それはまだ犯罪だから法的な対処が可能で、犯罪ではないケースでも、上の牛丼店のような話はいくらでもある。
金銭的以外の話に目を向けると、こういう状況が長く続くと、「あれ? 邪悪な顧客のほうが得をするのでは?」と多くのユーザーが気づき始める。「社会の良識>私的損得」である場合、モンスター的な要求は抑制されるが、しきい値を超えて多くのユーザーが「私的損得>社会の良識」と判断したとき、社会の雰囲気は激変する。これがいわゆるモラルハザードだ。
それはコモンズの問題。社会を維持するためには様々な物が必要で、そのひとつがコモンズ。社会参加者の行動規範もあたえるし、法や制度にまで落とし込まれていない福祉とか地域社会の維持とかもコモンズに寄りかかっている。「みんなが当然だと思ってるから機能している無形のインフラ」はおおよそコモンズ。
もちろん町内会やPTAのように徐々に時代とそぐわなくなる慣習やコモンズもあるんだけど、公園がきれいなのも、人気のラーメン屋に行列ができるのも、コモンズのおかげ。
これがあるからみんなが快適に暮らせているわけなんだけど、これって参加者がそれぞれに行動自制や労力を持ち寄ってるから維持されてるわけ。コモンズによって生きていられるのだから、その維持には全員参加で貢献しなければならない。
日本は比較的恵まれてて豊かな先進国なのだけど、その居心地の良さはコモンズが強力であることが背景にある。悪い方面で評すれば同調圧力だけど、良い方向に評すれば謙虚で几帳面な生活文化があるから。金払ったんだから俺らはお客様だぞー! なんてサッカースタジアムにうんことゲロ撒き散らかしたりはしない。
んでまあ、コモンズは前出したように「みんなが心地よく過ごせるという利益を得ているんだから、みんなも維持に貢献しましょうね」って理屈で動いてるんだけど、それを、子どもに言い含めるように理屈抜きで感情駆動にした表現が「日本は良い国、愛そうぜ」ってものだ。
だから、本質的には愛情は必要ない。愛情なくただコモンズの維持に貢献すればいい。でもそれって普通の人間の精神には難しい。参加コミュへ「参加している意識」が必要で、必要ならば愛着心とか向上心とかあったほうがずっと楽で、多くの場合まっとうだ。愛国心はそこまで必要じゃないけれど、社会貢献は必要だ。
「法に反しない範囲であるのならば暗黙の前提や協定であるコモンズなんて破ってもOKだ」という人間がいるけれど、じゃあ、彼らはコモンズから利益を得ていないかというと、得ている。秩序ある社会の利益は万民にとって有益だから。なので、そういうことを言う人は「社会維持観点でのフリーライダー」だとみなされる。
近年、経済的に厳しさを増す中で、ベンチャー企業のオーナーの発言などが合理主義に偏りすぎて、この種の「コモンズに対する搾取」方向になったりして炎上する(法的には無罪なんだから何言っても/何やっても良いだろう系)。また移民が増えれば、彼らは日本旧来のコモンズ維持の習慣なんかは学習していないわけだから、当然日本のコモンズへ貢献しない(でも清潔や安全や信頼ベースの商習慣などの利益は得る)。そういう光景が日常化して、世間でも、コモンズの維持に敏感になってきているように思える。日本的に言うと「これだから他所者は信用できない」だ。
愛国心を求めるような言説はその文脈に従って理解されるべきだと思う。要するに大事なのは地域社会の心地よさなんだから、そこに参加して貢献すればそれでいいだけだ。
2018/06/10 13:44 追記
なんかブコメいっぱいつけてもらったんで、補足を追記。上記の生地は裏返しても成立する。つまり「国を愛する精神を声高に叫んでも、地域社会の維持に貢献しなければコモンズ的にはタダ乗り」。素人Web論壇みたいなのが花盛りで、そういう「愛国心だけをさけぶひと」が可視化されちゃったのも不幸なことだと思う。公共の場所はきれいに使う、列の割り込みはしない、軽挙妄動せず災害に備えて準備する、子どもがかけだしたら安全に注意する。別に大した話じゃないのに愛国なんとかで締め付けるのは窮屈。良い文化は捨てる必要ないよ。
西暦2015に最高裁が「選択的夫婦別姓は却下」と判断を示しました。
これを受けて原告団長の塚本協子さんは「判決を聞いて涙が止まらなかった」
「『塚本協子』として生きること、死ぬことができなくなりました。」と述べました。
しかし待ってください。それって法律で解決しなくちゃいけないことでしょうか?
真犯人の名前を教えましょう。旧姓で呼んでくれない職場、旧姓で呼んでくれない銀行、旧姓で呼んでくれない葬式。
やつらです。
数年をかけて裁判を何度も起こすより! 三井住友銀行に毎日クレームを送りましょう。
この投稿を見たら「ペンネームでも簡単に口座が! マイナンバーを持ってお近くの銀行へ!」のキャンペーンをしてください。
「パスポートに名前を記入させないで」とお便りを送りましょう。
年賀状なんてやめて、外務省とか東京都生活文化局とかに絵葉書を送りましょう。
「佐藤から始まる同姓同名なんてたくさんいるんだから『本日は晴天なり』と自筆記入させてくれませんか?」と添えて。
「子供の姓はどうするんだ」
今回の訴訟では、子供の姓のルール改正は求めていませんので、「結婚時に決めた戸籍筆頭者の姓に統一する」だけです。もし、別のニーズ(子供は新しい姓にするとか)が発生したら、また時代に合わせて改正を検討すればいいと思います。海外のように、両親の名字をくっつけて子供の姓にする時代が来るかもしれませんね。「ますだおかだ」とか。
みなさんには役人の友達がいませんか? みなさんの友達は泣いていませんか?
「鈴木と佐藤が結婚するだけで『鈴木』『佐藤』『鈴木佐藤』『佐藤鈴木』『鈴佐』『鈴藤』『佐木』『木藤』とにかくたくさんだ!」
ただでさえ無駄の多い役所仕事に無理難題を要求するのは、みなさんの反対するところではありませんか?
選択的夫婦別姓は結局、戸籍にしがみついているだけですから最高裁が別姓を認めてくれたところで無意味です。
子供の名字は、親の名字は、先祖の名字は、友達の名字は……。戸籍に全てを任せようとしてしまいます。
選択的夫婦別姓の先にあるのは、子供が「父親の名字になりたい。母は要らなかった。戸籍を変えたい」と訴訟を起こす未来です。
効率的・実務的に言って役所をただ混乱させるだけの選択的夫婦別姓制度には断固反対していくべきで、
「そういえば所ジョージさんって芳賀隆之って戸籍上なってるらしいですが、所ジョージの方が本名って感じがしません?」と不動産会社の人に言いましょう。
選択的夫婦別姓なんて結局、子供の名字をどうするのか決めなくちゃいけないんですから。
既に主旨は述べましたが、ではどうして戸籍を擁護するのか整理させてください。
みなさんもご存じの通り、夫婦別姓というのは極めて男女差別的な側面があります。
中韓が現在も夫婦別姓であるように、極東では女性は家族の中でただ一人、男の姓を名乗ることを許されないものでした。
そこで明治維新の頃、列強のルール「妻は夫の名字を名乗る」という先進的な男女差別へと乗り換えたのが日本です。
名字の話をするだけで昔の各国のパワーバランスの話になりました。
名は……ちょっと土地を変えれば全く違う理論で働いている、とても価値のあるものです。年輪です。地層です。百科事典です。
ロシアには「父親の名前が、子供に自動的に足される風習」があります。「父称」で検索。
プーチン大統領は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」という名ですが、ミドルネームにあたる「ウラジーミロヴィチ」は父親から来ています。
砕いて言うと「ウラジーミル、ウラジーミルの子の、プーチン」です。ウラジーミル・プーチンの父もウラジーミルだとミドルネームに書いてあるのです。
父親と子供の名前が同じというのは日本からすると変かもしれません。
しかし「名前に無頓着な名前」は世界的には多々あることで、マクドナルドは「ドナルドの息子」という意味だとされています。
マクミランは「ミランの息子」、マッカーサーは「アーサーの息子」とされています。
名は文化・歴史的に価値のあるもので、善とか悪とかそういう尺度で語るべきものではありません。
日本では源義経は牛若丸だし、豊臣秀吉は羽柴藤吉郎だし、鳳凰院凶真は岡部倫太郎だし……。
名は大切なものではありましたが、そのせいか代わりの名前がぽんぽんと出てくるものでありました。
選択的夫婦別姓の先にあるのは「寿限無」や「ピカソ」のように長い長い名前です。
「親のせいで俺の名前120字以上になった! ツイートできない!」となります。
そういう一般的な人間のユーモアと役所仕事というのは相性が悪いものです。
名乗りたい名前があるなら自由に名乗ってくれて構いません。それが国民の総意になる未来もあるでしょう。
しかしそれはともかくとして国がきちんと古くさく管理するのを許してあげてくれないでしょうか?
そうしてきちんとされたものが百年先、千年先にどう解釈されるのか私たちには全く想像できないのですから。
AEDで人命救助したら周囲に痴漢扱いされて事情聴取受けたっていうツイートを読んで思った。
この国には社会教育の場がほとんどない(他の国にはあるぞ中世ジャップ! という話ではなく、少なくともこの国にはないが他は知らないという意味)。
学校教育の手を離れると、会社の研修くらいしか知の更新が行われない。
会社の研修も生活文化のものはだいたい若いころに受けることになる。
運転免許証の更新ですら、AEDの講習が必須なのは二種のみである。
人類最強の殺人兵器を使用する免許もらってるのに、取得のときに講習を受けなかった人たちは未だにその知識がない。
国連調査官が発表した援助交際の統計は古いだけかもしれない。1996年では、都内の高校生の12%が援助校愛の経験があったとの調査結果が発表された。日本政府の抗議は「統計が古すぎる」ということか?(Guardian 1996)
今話題のアレですね、という事で軽く調べてみた。
"schoolgirls pander to Lolita fantasy"というタイトルらしく色々と探してみました。
見つかりませんでした。
まぁ1996年12月の記事ですしね。予想通りと言えば予想通り。
ただそれと思わしきものを引用して書かれた著作やブログは見つかった為、記事そのものは確かにあったぽい。
で、そのブログがこちら。
The History of the Gyaru - Part Two
http://neojaponisme.com/2012/05/08/the-history-of-the-gyaru-part-two/
neojaponismeという日本の文化のあれこれについて考察している所みたいでして、件のSchoolgirls pander to the Lolita Fantasy.を引用して書かれたのがこのThe History of the Gyaru - Part Twoらしいです。
で、文明の申し子ググルさん翻訳を使用してみたところ援助交際率12%という数字は出てきませんでした。残念。
とはいえ気になる事も書かれていて。
……宮台真司?
で、見つけたのがこちら。
Teenage Japanese fashion victims
http://www.smh.com.au/daily/archive/961214/features/141296-features4.html
The Sydney Morning Heraldというオーストラリアの日刊紙の1996年12月14日の記事。古くてそのままじゃあ見れないのでインターネットアーカイブに突っ込んでみました。
その中で気になったのが、
1996年の調査と言うところで上のNYタイムズと一致しましたしこれは根元は一緒だなとピンッときましたね。
で、見つけたのがこちら。
要は高校生の援助交際に対する意識調査のレポートでそこに1996年の調査の数字が判断材料して書かれていました。
曰く、
……コレ根元だ!
色々調べた結果がこちら。
どこいったの8%
組織が大きくなって、扱う金も大きくなるといろいろと利権が生じる。
>小野寺まさる?@onoderamasaru
>東日本大震災の募金では、日本ユニセフ協会は生活支援物資の殆どを“生協”から調達を
>していた。しかも仕入価格は異常に高く、又「可能な限り被災地に近い業者から物資を
>購入する」との意図は欠片も無かった。
>因みに、日本ユニセフ協会の各地区の支部の事務所はその殆どが全国各地の“生協”内にある。
>https://twitter.com/onoderamasaru/status/400778471367901184