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2013-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20130116140154

を、ふと思い出したわけですよ。アニメまおゆう9話の例のメイド姉演説聞いて。

これはメイド長の説教で言われていた「虫」というのが一体なんなのか、ということに対する一つの資料だ。

先に言っておくとメイド長の言う「虫」と、メイド姉の言う「虫」には微妙齟齬があるということを前提にして話したい。あまり重要ではないのだけど、要するに師弟関係にある二人の思想家が言ってることは非常に近い所から非常に近いものを言っているが、そもそも別の話ですよ、程度のエクスキューズだと思って欲しい。

「虫」というのは、そして「人間」というのは、我々現実レイヤーの者にとってもかなり直接的に転写可能な概念である

現実における彼らとは一体なんなのか。メイド姉の演説を聞いていて、ふと、「まおゆう」批判者よりもむしろ、「まおゆう信者のほうにこそ「虫」は多いのではないか、と思ったのだ。

自分運命を掴めない存在は虫」とメイド長は言い、

自分意志を他人に譲り渡して考えることを忘れた者は虫」とメイド姉は言う。

これを素直にとり、また元記事の文脈に即するならば、「自らの努力で自らの生活改善しない存在は虫」と言うべきなのかもしれない。

だが、しかし、結局、勇者魔王メイド長が(あるいは、それに代わる存在が)いなければ農奴姉妹は脱走農奴姉妹しかなく、メイド姉妹にはなれない。なれるはずがない。メイド長が言うように、乞食姉妹になるくらいが関の山だっただろう。

まり彼女は「自らの努力で自らの生活改善できない存在」だったのだ。彼女はそれを「運命」と呼ぶ。メイド長はそれを「自分でつかめ」と言う。

だが、与えられた運命を掴んだメイド姉は言うのだ。

自分を、家族を守るため、石を投げることが必要であれば投げるべき。ただし、他人に言われたからという理由で石を投げるなら虫」

ここだ。最も重要なのはここなのだ

これを言い換えるとこうなる。

自分の力で運命を掴めない存在は虫だと言う他人の言にそのまま乗るなら、そいつは虫」なのだ

その上で元記事の文脈に乗ると、「人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る」というテーマに耐えられない人々は、だがそれ故に、実は「虫」ではないのである

彼らが置かれた現実、そのテーマ根底から覆す現実とは、まさに、守らなければならない家族自分に相当する。守らなければそのまま死ぬだけからだ。メイド姉の該当部分以降を鑑みれば、彼らは、逆説的に虫ではないからだ。

そしてメイド姉が「虫」と呼ぶのは、それにすら、無痛であることを選び、耐え切ってしまう者のことだ。

であれば、「虫」というその名は、まおゆうが示した希望の姿にうっかり感動してしまい、その光を盲目的に信じこんでしまった者にこそ相応しいのだろう。

もちろんまおゆう信者の、ましてやまおゆうを楽しんでいる一般ユーザーの全員がそうだとは言わない。だが、その一部には確実に「虫」がいる。そして彼ら「虫」の姿は、努力主義者、苦行主義者意識の高い社畜、その他諸々の、現代の一部で積極的に害悪に貢献する立ち位置から発せられる言論とダブる所が無いとは、私にはとても言えない。

それに「耐えられない」と叫び、「ふざけるな」と憤る人々。

その姿は、石を投げる農民達の怒号に重なるのだ。

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