[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

2013-01-16

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185

http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185

とか読んで。

まおゆうからまりまおゆうとは関係のない地平の話をする。

(だから、上の記事に対する直接的なレスとはとても言えないのだが)

まおゆうを取り巻く大きな断絶


まおゆうを取り巻くアンチの言説は、まおゆうという作品に対していろんなツッコミをする。それは、

1)内容の科学的もしくは専門的妥当

(たとえば、1年で農業改革なんて出来ねぇよ、とか)

2)内容の政治的、倫理的善悪

(個人にそこまでの自助を要求するのはいかがなものか?)

おもにこの2方向に集約されると思う。

(あとは、ファンや作者に対する人格批判なんだが、その話はこの文章後半に持ち越す)

上記の2点はたしかに疵である。結果物語は駄作になり得るレベルの疵かもしれない。

が、それは要するに、究極的には小説としての巧拙の問題なのだ

ここで言う巧拙っていうのはやれ台本形式がどうしたとか文章のレベルがどうのこうの言う最近ラノベ語りではなく、物語の展開から隙を取り除く程度の意味合いだ。

巧拙の話で言えば、ダメな作品が世の中にあるのは当たり前だし、むしろ良いことだ(母数的な意味で)。

それがメジャー化したところで別段何の問題だって有りはしない。「それ以外の選択肢」があふれた現代なのだから

しかし巧拙の程度の問題に対して、どうも、アンチの人は常軌を逸して過激なように思える。

Twitterでは焚書を促したりする人や、ファンにたいして自殺を勧めるような表現まで見えるわけで、それはどうにも違和感がぬぐえない。

上のURLも楽しんでいるだけのファンにガソリン放火をして自分燃えながらゲラゲラ笑っている絵面に見える。

ここにはなんかもっと、個人のアイデンティティを賭け金にしたなにかがあるのを感じてしまうのだ。

まおゆうにおいて経済がどうこうとかいうのはテクスチャであるというのは見れば判るわけだけど

そのテクスチャを通して、あるいは取り除いて、まおゆうという物語の言っていることはほぼ1点に集約される。

それは「人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る」ということ。これだけだ。

まおゆうに激しい拒絶反応を示す人々は、どうも、まさにこの部分が受け入れられないように見える。

人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る」という考えそのものが受け入れられない。

もっといえば「人間努力で何かが改善できる、何かが為せるだなどといった欺瞞を高所から語るな」と憤ってるように見える。

そしてその感情を、俺は、リアルな話ではあると感じる。

それが良いのか悪いのか、とくに、そんなもん世間様に開陳して良いのかどうかは横に置く。

彼らがそういう憤りを感じているのは、現代社会において、リアルだととても強く感じるのだ。

いま思えば、初期にまおゆうを礼賛した人々は「人間は自らの努力社会改善することが出来る」ということに感動を覚えていたようだ。

まおゆうがそれに値する作品か? という話に接続したいわけではない。

どう感じるかは個人の自由なのだからその感想自体はまったく間違っていない、という話だ。

しかしその一方で、「人間は自らの努力社会改善することが出来る」という作品や、それを無邪気に礼賛する人というのは、

ある視点から見たら、どうしようもなく無神経で、脳天気で、生かしておくわけにはいかないほどいらだたしさを持つと言うことも、理解出来る。

この問題はとても深く、大きい。それは圧倒的な断絶だ。

(こう書いてしまうと作品のコアファンや作者には申し訳ないけれど)もはや、まおゆうは、どうでもいい。

まおゆうに描かれている作中の問題提起であるとか、作品の疵であるとか、小説としての上手い下手であるとか、そんなものを越えた問題がここにある。

こう例えると卑近になってしまうかもしれないのだが、

それは、小中高とよい大学に入れば幸せになると言われ多くの時間苦痛勉強に費やし、大学に入っても就職のために歯車的なロールを強要され

しかし実際ふたを開けてみれば、終身雇用崩壊経済はガタガタになり、どんなに働いても給料高齢者年金で吸い上げられ自分はもらえないと知ったような。

いわば、洗脳に近い価値観インストールを受けたけど、それらはみんなうんこでした――みたいな人間が、

人間は自らの努力社会を(自らの生活を)改善することが出来る!」なんて朗らかな事を言われたら殺意を覚えても仕方がない。

その殺意の前には、作中が中世に近いファンタジーで、いま実際の現実は21世紀なのだなんていう「歴史オタ」のいいざまはなんの意味を持たない。

まおゆうを認める派と認めない派の対立というのは、おそらく、すでにまおゆうとは関係ない次元にあるように思う。

その対立は、まおゆうのものよりもずっと現代的な問題だ。

この問題点接続したことが、まおゆうの最新の価値であるように思う。

2013/01/16:誤字なおしたよーごめんよ

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん