父の死後母親はスラム街を離れ、シングルマザーとして働きながら子育て。
その頃から人並み外れた商才を周囲に感じさせる異端児であった。
やがて母はよき男性と再婚。継父は氏に対し実の息子のように遇し、名門大学に進学する。
在学中に事業を興し失敗。
事業を精算せざるを得ない状況になったときに、法の力の絶大さに触れ、弁護士を目指す。
弁護士としての彼は人の三倍の仕事をこなし、テレビタレントを副業とするまでの有名人となる。
そして、大政党からの推薦を得て、州知事候補として立候補するまでとなる。
生まれ持った商才、弁護士時代に培った法律の知識と交渉術、それらを駆使し破綻寸前の州を建て直そうと奮闘する。
次第に、扇動の才も発揮していく。
しかし、それらを持ってしても彼の行く手を阻むのは、組織そのものを解体しなければならない構造的な問題、それを守る既得権益層。
この冬、州知事を辞任し、市長選挙立候補という前代未聞の奇策に打って出る。
独裁者と罵られ、ヒットラーとさえ言われながらも、圧倒的な支持を得て当選。
彼の戦いの第二章が今始まる!!
logic_masterにからまないと。
「(犯罪を)犯す」というつもりで言ったのではないかという人もいたけど、そうではないらしいので(沖縄に対する罪悪感があったとも思えないし) (※あとで触れる内容にもかぶるけど誤解のないように補記:つまり、この感性は、男女関係における「犯す」を「本当に悪いこと」と認識していない感覚がある。デートレイプとか夫婦間の合意なき性交渉とか、そんなの)。
オフレコの懇親での発言とかいう話だが、記者は全員男性だったのだろうかというのが気になる。男性集団というものが男性に与える安心感がうっかり言わせたのかなあとか(こういう放言は、男性集団のウチの世界では、何気ない軽口として出てくるような印象がなくもない)。
あと、もうひとつ引っかかるのは、(もちろん当然といえば当然なのだが)誰もかれもこの人を批判しているということ。
つまり、この人とそう大差ない世界観を持ち、そういう発言が閉じられた「ウチ」の世界でなされたときには一緒に手を叩いて笑いそうな人が、「今回の発言を叩くことが自らの利益になる」と見て怒ったポーズを取っているんじゃないかとか、そんなことを邪推する。
「努力の人」とか「成功者」とかいう露骨なキャッチコピーで紹介されることは少なくなってきたとは思うが、先駆者的な役割をかつて果した(今成している)人の話というのは実際価値があるものだと思う。奇抜なアイデアや行動力は、若者がビジネスの場をはじめとした様々の環境で活躍するのに、大いに参考にしてしかるべき部分が多い。
だけど、そういった人の話を積極的に取り込んで自分の糧にし、成長しようとする若者こそ、知っておかねばならないと考えることがある。それは、成功者がそのスタートラインから一つの目的に向けて一定のスピードで走ってきたかどうかは危ういことに気付かず、そのせいで自分自身に無力感を抱くおそれがあることだ。
インタビューや講演というのは、少なからず商業用に加工された言葉をもって構成された、一連の創作だ。なので、「『○○になりたい』という目的をしっかりもってやり続けてきた」と、数年経って語るのは、いわば後だしである。何十年前、その講演者が若かりしころ。グングンと栄養を吸い、学び、考え、経験し、成長を続けていたころ。そのときから、彼はすでに目標・目的を明示的な言葉で固め、自身の未来に向けて据えていたのであろうか。おそらくは違うことと思われる。今になって雄弁に自身の成功や挫折を語る彼が、まさにがむしゃらに走り続けているそのときから、確固たる『人生の目標』をくっきりと頭に浮かばせていたとは考えられない。それは「がむしゃら」というべき状態ではない。目的を達成し、まさに次世代の人間たちの先達となるために自分自身の経験を惜しみなく語ってくれるその人は、語るに連れて気付かぬうちに言葉に囚われ、過去の自分の脳を急激に現在の状態まで成長させた錯覚に陥っているのだ。
きっと、若さや自信に任せて夢中で走り続けているとき、彼の頭の中には言葉にならない願望や感情の断片が粒子状になったものが多数揺れ動いていたのだと思う。ときにそれらは結集し、一つの具体的な将来像を成したかもしれない。ときにそれらは霧散し、彼の眼を曇らせ眩ませるだけの濃霧にもなったかもしれない。でもその試行錯誤のうちに、ときたまチラつく幻のような自分の真意を認識し、直観を追い続けることで、何年後・何十年後に、粒子は密度を増し、振り返って考えたときに、自分が思い描くべきだった青写真がようやっと形成されるのだと思う。時が経った彼らはその写真を認識することで、あたかも若かりし自分はずっと前からそれを知覚しており、それだけを追い求めた健気な青年だったと、過去を振り返るのだろう。これを読んでる人だって、きっと「今になってあのときの自分(彼/彼女)の気持ちがわかった」という経験は何度も何度もしてきたことだと思う。
時が経ち、過去のことを正確に理解し、それを後世のために語り伝えるのは素晴らしいことだと思う。だが、素晴らしいとは言え、今を走る若者に、数年経過後に知覚された経験を差し出すのは、残酷だと言わざるをえない。なぜなら、彼が差し出す『私は20歳の頃こうだった』『君等も20歳のときはこうすると良い』は、本当は数十年分の経験を上乗せしたのちに多少薄めることで作られた「架空の20歳」だからである。
そして、若者がその真似をして自分を知覚しようとしたところで、得られるものはたかが知れている。語られる20歳が隠し持つ経験の差は絶対に埋めることはできないレベルにある。先達の語るかつての20歳と、今を生きる自分の20歳を比べて思うのだ。『僕は無力だ』と。
僕以外の人がしたほうが絶対うまくいくのに。
なぜまだ僕がしないといけないのだろう。
死にたいと願えば、もう死ねるかな。生きたい人がいるのに失礼な話だ。
でも、もうだめだ。なにか最後の支えが折れた。どうしてこの時間まで起きているんだろう。
どうして寝るのだろう。仕事するのだろう。この文章を書いているのだろう。
死ねばどうでもいいことなのに。
「男はみんな『セックスできるおかあさん』が良いんだろ?絶対なってやんねー。セックスできるおとうさんが来い」
みたいなのあったじゃん。
あれ読んで、一瞬納得しかけたのね。そりゃあえっちできてさ、なんでも言うこと聞いてくれてさ、つつんでくれてさ、そういう相手なら一生べったり依存して生きていきたいよな。
それで子供のころのことを思い出してみたんだが、全然ダメだった。何がダメって、母と同じ傾向の行動をとる異性がぽんと現れてセックスさせてあげるって言ったとしても、私は到底やれないんだ。
近所の母親の流行について行くことに汲々として教育方針が頻繁に変わるため色々な習い事や受験をひっきりなしに変更させられたり、宗教や占いに次々とはまって私の名前の漢字をしょっちゅういじくったりあちこちの神社仏閣へ行かされて砂だの砂利だの枝だのかっぱらってこいと言われたりざくざく金を失ったりするし、健康食品やマルチ商法にはまっては金や人脈を失ったりする。
さらに常に機嫌が悪く怒っており、父に大して始終文句を言っていて喧嘩というか一方的な罵倒が毎日毎日繰り返される。私は父の職業をそれなりに尊敬していた。稼いでくるし、職人だし。だが、母は気に入らないようであんな不安定な仕事に就くな勉強しろ勉強しろ博士になれ医者になれ役人になれとぐちぐち繰り返す。
正直言って、父はあんな女と良くまだ結婚してるな-と思う。顔は一応ちょっと綺麗な方なのかも知れないが、私だったらあの生活に耐えられないよ。
私の母はさ、いわゆる最初に言った「おかあさん」じゃ全然無いわけですよ。多分私は小さい子のよくやる「ままだいすきーままとけっこんするー」って段階が全くなかった。
別に「おかあさん」じゃなくても良いのだけどさ、成人するまでの間、いや、小学生ぐらいまでの間に憧れの異性の一人ぐらいはいないと、異性をほしがる動機ってのが形成されないんじゃないかなあ、と思う。
いまだに「ああこの人と一緒に暮らしたいな」って思った事がないんだ、私は。
ママは魅力的でいてくれないと。ファッカーどころかマザーファッカーにすらなれない。私は、あの釣りの対象にさえなることができなかったんだ。
準備って具体的に何するの?
エロマンガとか萌えマンガとかに出てくるダメすぎる主人公がイラついて仕方がない。
ただの取り柄がない冴えない男とかだったらまだしも、何の取り柄もないクズのくせに妙に女に高圧的に接する奴とか、
ダラダラしてるだけの怠惰な奴とか、人格破綻してるゴミとか、そういうのが出てくるとウザ過ぎて読む気がしなくなる。
鬼畜系とかそういう向きの話だったらそういう世界観なんだなってことで適当に流せるけど、普通のラブコメ物とかに
そういう奴が出てくるのが理解できない。
作者が悪意を持って描いてるのか?それともああいうのが受けるのか?
連投中
「強力な武器」とかそういう単語の定義は知らねーってことだよ。
そういうのいちいち解説しないと理解してくれない読解力欠如系の突っ込みを相手にするのもめんどくさくて嫌いだぞ。
俺は元増田じゃないから知らんけど、俺にはめんどくささを全力で回避しようとしない人間の方が理解できないな。
新しいことを始めたり自分の慣れたやり方を手放す方がめんどくさいってことなんだろうけど、もろオッサンの発想だよなーって思う。
やっぱ単に、「めんどくさくなくなる」程度のもんだよな