自分で省みることのできる自己像なんていくら客観的になったつもりでも限られてるもんだよ。
人からどう見られてるかなんて、誰にも本当にはわからない。
少なくとも一面があるなら、それを裏から見る見方があるはずだしね。なんて。
確かに好きよりも嫌いのほうが同意してくれる人は多いよね。まあ声の大きさにも寄るのだろうけど。
それに、好きを公言するのは勇気がいるものね。
嫌いって言ったのを否定されるより、好きっていたのを否定されるほうがこわいもの。
なんていうか、コミュニケーションに貪欲になりすぎて、いろいろなものがただただ消費されるのが口惜しい気がする。
自己の存在が認めて貰えないから、誰かを否定することで自分に注目を集める。
そういうことの連鎖が、今日本中で起きているような気がする。
そうなのかなあ。世知辛いなあ。
自己の存在なんて、結局自己完結的に認めるのが一番確実で手っ取り早いのにね。
あと否定するより、疎遠になってくれたらなって思うことがあるなあ。
例え論理的に担当者に「いえ、ペニオクの利点は…」って説明されても
「いや、あかんわ、あんた、ペニオクはあかん…あかんのやで」やんわりと否定しちゃうだろうな。
「何でですか? 手数料だけでも純利益が大幅にアップしますよ!」
「いいか、ペニオクは名前が悪いんじゃ!日本人は名前に敏感! 名前に「ペニ」なんて入ってたらすぐ性的な方向に考えちゃうから!」
「分かりました。では、どうすれば」
「ゼニオクでええやろ」
「それはあまりに露骨では…」
「ゼニ稼ぐことの何が悪いねん!だいたいヤフオクやって、個人と一緒に商品並べてる、『こっちがわ』の人間に見せかけ解いて、
実は体育館みたいな倉庫もった大商のやつだっているだろうが!」
「そうですね…じゃあゼニオクにします」
「Oh、頼むで。あ、ちょっと待て!」
「はい、何でしょう」
「おおきに!」
「嫌いを共有したい」んだと思うよ。
「好き」よりも「嫌い」の方が同意してくれる人多いからさ。
つまり、コミュニケーションの一環としての「嫌い」であって、
嫌いを連発する人は寂しいんだと思う。
僕もそれは不思議に思っていた。
自己の存在が認めて貰えないから、誰かを否定することで自分に注目を集める。
そういうことの連鎖が、今日本中で起きているような気がする。
昔は結構おだやかだったと思うけど、
今じゃどのスレ見てもどの動画見てもコメント欄は全て言い争いになっている。
もっと仲良くやろうよ、なんて簡単な言葉で片付くはずはない。
でも、簡単な言葉で片付けたいなあ。だって面倒なんだもん。
どうしても史実的におかしい、またはリアリティにかけるところが出てくると思う。
こうして不備をパッケージング化した商品は、一時期流行り、やがて忘れ去られ、
最後には9割引の値段がついてしまう。
そういうところまで落ちたところで、ようやく突っ込みコレクターは手を出す。(この場合の『手』は突っ込みなのか、それともお金を出して自分のものにするということなのか)
新品に突っ込みを入れるのは野暮ってもんだぜ!
最近なんでもすぐに嫌いになれる人が多くてびっくりする。
なんていうか、嫌いって言葉の敷居が低くなってる気がする。
その人の少し目に付くところだとか、一面だけにしか目がいってないのに、そこだけで判断してシャットアウトしちゃうのはなんでなんだろう。
別に好きになれって言うわけじゃないけれど、軽々しく嫌い嫌い嫌いって判断していっちゃうのは短慮過ぎると思う。
そもそも、嫌いになれるほど情報を得てないんと違うの?
空気を読むっていう慣習にとらわれているのかなあ。
自己顕示欲が強いだけ?自分の所属をはっきりさせたいだけ?一体全体誰に対してはっきりしたいのかな。
嫌いになるって、エネルギー使うことだと思うんだけどな。
彼女は自分が仲間と運営していたサークル会員の一人で何年か一緒に行動していた。
知識や行動力がずば抜けているうえに、笑顔が絶えない人で、
私を含む主催者の手が届かないところまでフォローをしてもらっていた。
しかし、団体で行動しているときとは違い、
いざ、二人きりになったときに話が続かないという人だった。
理由はいくつか思い当たるが、簡単にまとめれば、
お互いに認めている部分はあっただろうけど、どこかしら疑ってしまう部分が
あったのだろうなと今となっては思う。人というのは難しい。
2年半前に一身上の理由で運営から手を引いたこともあり、彼女と連絡を
とることも消息をしることも全くなかった。普通に元気でいるだろうと思っていたので
思い出すことも全くなかった。訃報が入ったのもサークルの仲間を
二人通してのことである。そういう意味では薄いつながりである。
それでも一緒に笑って一緒に感動した仲間が突然いなくなるというのは、衝撃が大きいうえに
めずらしくない病気という形で失ってしまうのは、
自分たちの後ろにも「それ」がひそんでいるのではないかという暗い何かが覆いかぶさってくる。
若い頃にはおそらくなかった暗さであり、重さである。
その暗さや重さについて考える。
20代のころは光の向こう側にある「未来」に突き進んでいた。
突き進む自分には将来への不安という影がまとわりついていたけど
しかし、30代後半という時期に足を踏み入れるとその光は弱まり
まとわりついてくるのは不安という影ではなく、「老い」という現実である。
それに立ち向かえる武器を今はまだもてていない。
そんなへタレな自分であるけど、立ち向かうことなく人生を終えてしまった
彼女の分まで生きて戦っていければ此れ幸いと思う。
現状で育児休暇が取れてるのは、それが許されるだけの大企業か役所くらい。
大半の企業、特に中小企業では男の育休なんて寝言か、さもなければ「今までお疲れ様。次の職場でも頑張ってね」って事になるか。
あと、男の育児休暇は妻にとって、助けになるってだけじゃなく
「私の夫は育児休暇が取れるような良質で安定した職場に勤めている」もしくは
「私の家庭は育児休暇中の収入を補えるだけの充分な資産がある」ということで
ある種の見栄が張れる環境なんじゃないかなとも思うんだが。
おい、○○!
オレはお前が嫌いだ。
誰にも嫌われまいとビクビクして、
何も責任負いたくないって、選択を先延ばしにして、
こっちは少しでも立ち向かおうとしてんのに逃げんなクソが。
人がやんなきゃならんことをやってなくて済むわけ無いだろ。
どうせ先延ばしにしたって、いつか来んだよ。
逃げれ切れるはずがないんだよばーか
お前が日本の癌だ
戦国BASARAを見て歴史がどうのこうの言う人にたいして、石頭なので「いや、史実は!」とか大人気なく突っ込みたくて仕方ない。
たとえば、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』だったら
『5年間』ではじまり、『ロックンロールの自殺者』で終わらないと気持ち悪い。
いまだにベスト盤を買うことに一抹の恥ずかしさを覚えるな。
それがニートの生きがいなんですか?
増田にいるような奴らはそう思うだろうね