涼州
【略史】 はじめ涼州刺史耿鄙が不正な官吏程球を治中従事として信任し、多くの人々が恨みを抱いていた。中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌が枹罕・河関の盗賊どもとともに叛逆し、湟中義従北宮伯玉・李文侯を将軍に擁立し、護羌校尉伶徴を殺害した。北宮伯玉らは故(もと)の新安県令辺章・金城従事韓遂を誘拐して総帥に推戴し、ともに金城太守陳懿を殺した。 翌年春には軍勢数万人にふくれあがり、宦官を誅殺することを名目に三輔地方に闖入した。左車騎将軍皇甫嵩・中郎将董卓が迎撃したが功績を挙げられず、八月には張温が車騎将軍となって美陽に駐屯した。辺章らは美陽を襲撃して張温を撃破したが、十一月、陣中に流星が落ちたため金城に敗走した。張温は盪寇将軍周慎に金城を包囲させる一方、破虜将軍董卓を望垣に進めて先零羌を討たせたが、いずれも勝つことができず、張温は軍勢を引き揚げて長安に帰還し、さらに翌三年冬には京師(みやこ)に徴し返された。 韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺害し、軍勢十万人余りをこぞって隴西郡を包囲した。また漢陽郡の王国も合衆将軍を自称して韓遂に合流した。四年、刺史耿鄙は叛逆者を討伐するため隴西郡に入ったが、狄道まで来たところで謀叛が起こり、程球とともに殺害された。隴西太守李相如は韓遂と連合し、また耿鄙の司馬馬騰も軍勢を擁して謀叛した。韓遂らは王国を推戴して主導者とした。酒泉太守黄衍は降服して王国らに同調したが、漢陽太守傅燮は押し寄せる敵軍に屈せず戦死した。 王国らは三輔地方で略奪を働いていたが、五年、陳倉城で左将軍皇甫嵩・前将軍董卓に包囲されたうえ敗北した。韓遂らは王国を排斥し、故の信都県令閻忠を主導者に祭り上げようとしたが、閻忠は恥に思って病死した。こうして韓遂らは権勢を争って、互いに攻撃しあうようになった。 【刺史・牧】耿鄙 / 种劭 / 韋端 / 邯鄲商 / 韋康 / 雛岐 / 張既 / 温恢 / 孟建 / 魏延 / 楊欣 【州人】 【領郡】隴西郡 / 漢陽郡 / 武都郡 / 金城郡 / (西平郡) / 安定郡 / 北地郡 / 武威郡 / 張掖郡 / 酒泉郡 / 敦煌郡 / 張掖属国 / 張掖居延属国 |
涼州
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涼州 | |
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各種表記 | |
拼音: | Liangzhou |
日本語読み: | りょうしゅう |
英文: | Liang Province |
涼州(りょうしゅう, Liangzhou)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省・寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。
歴史
漢代
紀元前106年(元封5年)、漢の武帝が全国を13州に分割し、各州に刺史を置いた際に涼州が設置された。隴西・武都・金城・安定・北地・武威・天水・張掖・酒泉・敦煌の10郡国を管轄した。
前漢末の混乱期には隗囂が割拠したが馬援らにより平定されている。後漢が成立すると隴県を州治とした。194年(興平元年)に州西部を分割して新たに雍州を設置している。
魏晋南北朝時代
三国時代になると魏により州治は姑臧県に遷された。魏代の涼州刺史は同時に戊己校尉も兼任したため、その行政範囲は西域まで及ぶ広大なものとなっている。
西晋末の永嘉年間以後、八王の乱の中で涼州刺史の張軌は自立、前涼を建てると、州南東部に河州を設置している。この時代の涼州は西域諸勢力の拠点となり、前涼以降も後涼・南涼・北涼・西涼などが拠点としている。
北魏が成立すると、涼州はその辺境であるという地理的理由により神䴥年間に敦煌鎮に降格されたが、490年(太和14年)に再設置された。西魏の時代には州西部に西涼州が設置されるなど、細分化が進んだ。北周の時代には西域への要地として涼州総管府が設置されている。
北周時代の管轄郡は下記の4郡であった。
- 武威郡
- 番和郡
- 広武郡
- 泉城郡
隋代
隋初に設置された涼州は3郡8県を管轄していたが、607年(大業3年)、郡制施行に伴い武威郡と改称され、下部に4県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||||||
州 | 涼州 | 郡 | 武威郡 | ||||||||
郡 | 武威郡 | 番和郡 | 広武郡 | 県 | 姑臧県 昌松県 番和県 会寧県 | ||||||
県 | 姑臧県 昌松県 |
彰県 燕支県 力乾県 安寧県 広城県 |
広武県 |
唐代
唐代が成立すると武威郡が涼州と改称された。唐代は吐蕃との間で発生した戦闘において最前線となり、唐と吐蕃による統治が交互に繰り返された。
宋代
1028年(天聖6年)、李徳明が涼州を陥落させ、宋代(北宋)の行政権が及ぶようになると西涼府と改称された。景徳年間には西夏の勢力下に置かれることとなった。
元代
元代初は西涼府とされていたが、1278年(至元15年)に永昌路が設置されると、西涼府は西涼州に降格し、その管轄とされた。
元代の管轄県は下記の2県であった。
明清代
明代が成立すると、洪武年間に涼州衛とされ、清代の1724年(雍正2年)に涼州府と改編された。中華民国が成立すると府制廃止に伴い、涼州の行政区画名称は消滅することになる。
涼州詞
涼州を舞台にした「涼州詞」が多く作られているが、中でも有名なのが唐の王翰による七言絶句である。
起句では、西域から伝わった「葡萄美酒」、すなわちワインや「夜光杯」といったエキゾチックな小道具が登場する。古来、涼州は天山山脈を越えてヨーロッパへ通ずる東西路の交通の要所(河西回廊)であったため、珍しいものが伝わっていたことに由来する。 同じ理由から涼州は国境防衛の要地でもあり、異民族との戦場になることも多かった。そこに「馬上催」という落ち着かなさの原因があるのかもしれず、結句に「幾人帰」と戦に向かう厳しさと不安が詠われるのである。
脚注
- ^ 「沙場」とは「砂漠」ではなく「戦場」の意味だとも言われる
関連項目
涼州と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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