吉良持清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 02:26 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天文元年1月23日(1532年2月28日) |
戒名 | 妙恵寺殿または妙念寺殿 |
官位 | 中務大輔、左兵衛佐、左京大夫 |
氏族 | 後期東条吉良(下吉良)氏 |
父母 | 父:吉良義藤 |
子 | 持広、荒川義広 |
吉良 持清(きら もちきよ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。後期東条吉良(下吉良)氏6代当主。三河国東条城主。
幼少期に父・吉良義藤が没したと伝わる。このため、松平氏の一族で青野松平家・松平義春が後見したというが信憑性に乏しい。後年、吉良義昭が松平元康と戦って敗れ、東条城に義春の孫・松平家忠が入ったことから創られた伝説と思われる。
西条吉良(下吉良)氏の当主が常は京都に住していたのに対して、下吉良家の当主は通常は在国し、稀に上洛するという形をとっていたが、持清の場合、記録に残るのは永正6年(1509年)12月3日に上洛して10代将軍・足利義稙に年始の祝儀として太刀一腰を献上している[1]。この時は左京大夫と呼ばれている。
在京の折に冷泉為和に歌道を学んでいたらしく、大永2年(1522年)に為和を東条城に招いている。為和はその書『為和卿記』に同年10月4日、東条城にて詠んだ歌を載せている。
享禄年間(1528年 - 1531年)に為和は知行地のある駿河国に下向、今川氏の庇護を受ける。天文2年(1533年)に為和は三河を通って上洛するが、その際には吉良のことを何も記していない。前年に持清が没していたためと思われる。
脚注
- ^ 『大館記』。
出典
- 『吉良町史 中世後期・近世』
その他
固有名詞の分類
- 吉良持清のページへのリンク