候補都市
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「2016年夏季オリンピックの開催地選考」の記事における「候補都市」の解説
都市国結果リオデジャネイロ ブラジル開催地に決定リオデジャネイロは、本大会の10年前に遡る2006年9月1日にブラジルオリンピック委員会によってブラジルの国内候補都市として選出された。1936年、1940年、2004年、2012年に次ぐ5度目の招致で、初めて正式候補都市の段階に進んだ。リオデジャネイロは全競技を市内で実施することを企画して、サッカー予選会場以外のあらゆる競技場を市内に配置し、4つの競技会場群(バーハ、コパカバーナ、デオドロ、マラカナン)に会場を集約させる計画を打ち出した。とりわけその中心地は山と海の自然に囲まれた最新開発地域で成長著しいバーハである。開会式、閉会式、サッカー決勝を行うメインスタジアムはエスタジオ・ド・マラカナンで、陸上競技はエスタジオ・オリンピコ・ジョアン・アベランジェで行い、選手の約半数は選手村から10分以内に移動できるようにした。サッカー予選に関しては、ベロオリゾンテ、ブラジリア、サルヴァドール、サンパウロの各都市で試合を行う予定とされた。開催期間は8月5日-21日(パラリンピックはブラジル独立記念日の9月7日-18日)を予定した。宿泊施設はリオデジャネイロ市内に約5万室ある。ブラジルは1950 FIFAワールドカップを開催した際に、決勝の舞台となったリオデジャネイロでインフラが整備されたが、既に半世紀以上が経過して老朽化しており、過去の招致活動でもインフラ、治安、国際大会の開催実績といった不安を指摘され、失敗している。しかし、2007年7月にリオデジャネイロでパンアメリカン競技大会が開催され、様々な近代的施設が建設されたことで状況は一変した。またブラジルは2014 FIFAワールドカップの開催を勝ち取り、これまで抱えていた課題を解決する大きな一歩となった。IOC委員でもあるカルロス・ヌズマンが招致委員会の会長を務め、政府の強い支援や国民・市民の高い支持を背景に招致活動を積極的に進めていった。開催地を決める第121次IOC総会の会場ではルラ大統領やペレ、中央銀行総裁といった国の要人やスポーツ界の名士が積極的なロビー外交を展開し、多くの支持を取り付けた。招致ロゴは、ハートをモチーフに4つの会場群と海、山、天空を描いたもので、特に山はリオデジャネイロの象徴であるポン・ヂ・アスーカル(2012年に世界遺産)を模したものである。 マドリード スペイン決選投票にて落選マドリードは2012年夏季オリンピックにも立候補したがロンドンが開催地に選ばれたため、その日に市長が2016年大会の招致に意欲を示した。 2012年招致での奮戦を考慮して、市議会は満場一致で新しい申請書の提出を決議した。 2007年5月、市長が唯一の国内候補都市としてマドリードをスペインオリンピック委員会(COE)に申請した。 IOC前会長フアン・アントニオ・サマランチの助力も得られ、会場の85%ができておりオリンピック予選大会を経験するなど、2012年招致での高評価から多くの恩恵を受けた。後の計画では、東側とマンサナーレス川沿いの会場群2か所が強調された 。マドリードの強みは国民及び市民の世論で、IOCや招致委員会の報告書でも9割近い支持率と、立候補4都市の中で一番高かった。問題点となりうるのは、直前の夏季大会が2012年ロンドンオリンピックで冬季大会も2014年ソチオリンピックであるため、次がマドリードでは同じヨーロッパ大陸での開催が続いてしまう事が一つ挙げられた(歴史的にも1952年ヘルシンキオリンピック以降は同一大陸で夏季大会の連続開催はない)。2004年にマドリード列車爆破テロ事件も起きており、治安に関する懸念も存在していた。これらの課題に対しマドリード招致委員会は、大陸のローテーションではなく文化のローテーションを訴えた。総会に国王フアン・カルロス1世が登壇したことや、サマランチ前会長の影響力もあって一定票を獲得し、リオデジャネイロとの決選投票になったものの最後で敗れた。招致ロゴはコルレ(Corle)と呼ばれる歓迎の手形をモチーフに、オリンピックカラーの5色とマドリードの頭文字Mを描いたもので、公募によって選ばれた。 東京 日本第2回投票にて落選詳細は「2016年東京オリンピック構想」を参照 東京は1964年東京オリンピック以来の開催を目指して立候補した。日本オリンピック委員会(JOC)は2006年8月、福岡を上回るとして東京を国内候補都市に選出した。 東京は「史上最もコンパクトで効率的なオリンピック」と宣伝し、半径8km以内に9割の会場を配置する計画を打ち出した。東京湾に埋立て地の造成を約束し、会場群をベイゾーンとヘリテッジゾーンの2つに分け、その中心にメイン会場の東京オリンピックスタジアムを設置。宿泊施設は半径10km以内に8万室を備えるとした。インフラや治安の良さ、財政面などを高く評価され、1次選考では申請都市の中でトップの評価を得て通過した。大掛かりな招致活動はあったものの、東京の公的支援は他の候補都市に遅れをとっていた。2007年12月に62%そして2008年3月に72%あった支持率は、2009年5月に56%まで落ち込んだ 。アジアで2008年北京オリンピックが開催されたばかり(最終投票が実施されたのが北京大会の1年後)だったこともマイナス要因となった。当時、自由民主党(与党)がオリンピック招致に積極的だったが、参議院ではこれに反対する民主党が最大勢力だったため国会決議が立候補ファイルの提出に間に合わなかったことも影響し、第2回目の投票では20票しか獲得できずに落選した。招致ロゴは伝統的な水引の結びをモチーフに、オリンピックカラーの5色で世界の結束を示している。 シカゴ アメリカ合衆国第1回投票にて落選2007年4月14日、米国オリンピック委員会(USOC)は2016年夏季オリンピックの国内候補都市としてシカゴを選出した。シカゴは1904年夏季オリンピックの開催地に選ばれながら、同年の万国博覧会と合同でセントルイス開催になった経緯がある。シカゴには、大規模な公共交通システム、広大な会場、多くのスポーツ文化(男女ホッケー、野球、サッカー、バスケットボール、アメリカンフットボール、で各プロチームが存在)がある。計画では、市の南側にオリンピックスタジアム、西に水泳場、などミシガン湖周辺に4つの会場群があり、多くの会場が選手村から15分以内で到着できるものとなった。大会に向けて建設予定の16会場ほか申請費用(4,930万米ドル)は民間部門で負担となり、インフラ面の費用を政府が拠出する予定となった。この招致には、シカゴ在住のバラク・オバマ大統領ほか各界著名人(オプラ・ウィンフリー、マイケル・フェルプス、マイケル・ジョーダン)の後押しがあった。しかし現地の公的支援は他の候補と比べても小さく、反対記事を掲載する地元紙もあった。インフラほか支援・資金面で最強の候補と国内メディアは報じたが、IOC評価では東京やマドリードに及ばなかった。開催地を決める選挙直前に(テレビ放映権をめぐり)米国オリンピック委員会の会長が交代するといった騒動もあり、シカゴは1回目の投票で18票にとどまって最下位で落選した。シカゴの招致ロゴは、シカゴ市旗にも描かれている星を中央に、下にはミシガン湖の自然を示す青と緑、上側は空をオレンジで描いている。
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「候補都市」の例文・使い方・用例・文例
- その後,JOCは8月30日に投票で候補都市を選ぶ予定だ。
- 東京が2016年五輪の日本の候補都市に
- 日本オリンピック委員会(JOC)は2016年夏季五輪の国内における公式候補都市に東京都を選出した。
- 東京都は他の国の候補都市に勝つために,まだ多くの問題を解決し,計画を改善しなければならない。
- 3つの候補都市は,ソチ,韓国のピョンチャン(平昌),オーストリアのザルツブルクだった。
- グアテマラでのIOC総会で,3つの候補都市が五輪開催のために最後のアピールを行った。
- 1回目の投票では,どの候補都市も過半数を獲得しなかった。
- 投票前,候補都市の東京,シカゴ,マドリード,リオが最終プレゼンテーションを行った。
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