アレックス・ガーランドは、アメリカ社会の無意識に潜む幾多の神話を呼び覚ます:映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』池田純一レビュー(ネタバレあり)

『エクス・マキナ』等で知られるアレックス・ガーランドの新作『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は、ドキュメンタリーを装った戦争映画・政治映画“ではない”。しかも本作で描かれる「分断」は、青(民主党)vs. 赤(共和党)といった「今日のそれ」ではなく、米国社会の“集団的深層心理”に則した分断、いわば時代を超えた米国の神話に根ざした分断だ。ガーランドが本作に忍び込ませた真意を、デザインシンカー・池田純一が浮き彫りにする(物語の重大な核心に触れていますのでご注意ください)。
映画『シビル・ウォーアメリカ最後の日』レビュー(ネタバレあり):アレックス・ガーランドは、アメリカ社会の無意識に潜む幾多の神話を呼び覚ます

アレックス・ガーランドは意地が悪い

映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は、観たものを皆、容赦なく不穏な気分に陥れる。
アレックス・ガーランドの作品はどれもそうだが、映画の隅々に「認知的不協和」を誘発する仕掛けが幾重にも埋め込まれている。何か一般常識、あるいは物語の定石から外れた発言やシーンが突然示され、その都度、妙な違和感を覚えさせられる。それも一度や二度ではない。基本的には上映中ずっとだ。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
10月4日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開 配給:ハピネットファントム・スタジオ
ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

正直に告白すれば、『エクス・マキナ』にしても『アナイアレイション -全滅領域-』にしても、さらには『MEN 同じ顔の男たち』にしても、心穏やかに観ることができたものはひとつもない。常に心をざわつかされる。端的に気持ち悪い。例えが古くて恐縮だが、90年代にデイヴィッド・リンチやデヴィッド・クローネンバーグの作品をミニシアターで観ていた頃のような不快感。

『シビル・ウォー』でもそれは変わらない。鑑賞中も、鑑賞後も、形容しがたい嫌な気分にさせられる。とても疲れる作品。しかも、その疲労感を映画の芸術性に由来すると誤認させるほどの徹底ぶり。本当にアレックス・ガーランドは意地が悪い。

事実、この作品は、最初から最後まで、非常に巧妙に構成された、狡猾な映画だ。「意地の悪さ」でいえば、とてもイギリス的。ひねくれている。アメリカの映画にしばしばつきまとう「楽天的」なピーナッツバター臭が一切しない。代わりに、スコーンをジャムで頂くような澄ましたスタイルでアメリカを描き、それもまた、認知的不協和をもたらしている。文字通りの悪夢、それも白昼夢である。

その意味で、叙述トリックに溢れた作品であり極めて文学的。その叙述トリックにしても、個々のシーンから複数のシークエンス、さらにはそれらシークエンスの総体としての映画全体にいたるまで周到に仕掛けられている。その上、全編に亘り、リアルで鮮烈なシークエンスが続く映像美に満ちた作品でもある。その意味で芸術的。

アレックス・ガーランド | ALEX GARLAND...

アレックス・ガーランド | ALEX GARLAND
1970年、英国・ロンドン生まれ。小説家としてキャリアをスタートし、『ビーチ』や『四次元立方体』などの作品で知られる。その後、脚本家に転身し、ダニー・ボイル監督の『28日後...』(02)でデビュー。その続編である『28週後...』(07)では製作総指揮も務めた。2015年、監督デビュー作『エクス・マキナ』(14)で、アカデミー賞オリジナル脚本賞のほか、英国アカデミー賞優秀英国映画賞、および優秀英国新人賞にノミネート。脚本・監督作品に『アナイアレイション ‒全滅領域‒』(18)、オリジナルテレビシリーズ「DEVS/デヴス」(20)、『MEN 同じ顔の男たち』(22)などがある。そのほか脚本を執筆した作品には、『サンシャイン2057』(07/ダニー・ボイル監督)、『わたしを離さないで』(10/マーク・ロマネク監督)、『ジャッジ・ドレッド』(12/ピート・トラヴィス監督)、ビデオゲーム「ディーエムシー デビルメイクライ」(13)などがある。次作である長編映画監督5作目『Warfare』の撮影が現在進行中。


Monica Schipper/Getty Images

だが、その実、扱われているのは、ホラー、それも社会派ホラーという「テラー」なのだ。いってしまえば、アレックス・ガーランドは、イギリス人のジョーダン・ピールである。ヒップホップではなくパンクで味付けされた社会派テラー。イギリスらしく、「レイス」ではなく「クラス」が隠し味になっている。ヒップホップが、しなやかに別様の存在形態を提案することで、現状を受け入れながら自分たちの陣地を確保しその領土を広げていくことで世の中の風景を変えていこうとするのに対して、パンクはより直接的に権力の源泉たる政府に対して抵抗する。そうしたパンクなアメリカがこの映画では描かれる。そう思えば、『シビル・ウォー』の中でカリフォルニアとテキサスが手を組んでワシントンDCに攻め入るのも理解できる。イギリスでいう貴族と平民の対立が、東部と西部の対立になぞらえられている。日頃から感じられてきた支配・被支配の関係への不信が暴君の登場で爆発したのだ。

ホラーとテラーの違い

ところで、ホラーとテラーの違いだが、ホラーがもっぱらお化けや吸血鬼など超常的な存在によって与えられる恐怖映画で、それゆえ、正体がわかり、それらを退治できれば安堵できるミステリーでもあるのに対して、テラーの方は、複数の様々な要因が練り合わさって生じた「不穏な空気」にさらされた人たちが漠然と抱く不安が、社会のそこかしこでふつふつと生じ、徐々にその不安がパニックに転じる様子を扱う。暴発に至る一歩前の絶望的な「空気」感を描くものである。

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ここでは、ひとまずそのようにホラーとテラーを区別しておく。そう定めた上で、『シビル・ウォー』は、後者のテラーを描いたもの、「社会派テラー」映画である。

ジョーダン・ピールの出世作『ゲット・アウト』は、黒人男性が婚約者の白人女性の実家に挨拶に赴いてみたら、彼女の家族だけでなく親族や知人たちまで含めて、人種差別主義の白人優位主義者たちが待っており、主人公の黒人男性は、いわばハニートラップに引っ掛かったまま、いつの間にか黒人差別主義者たちの下に贄として差し出されていた。物語は、主人公の黒人男性が、白人の差別主義者たちの監禁・洗脳から逃げ出す間の恐怖が主題となる。

『ゲット・アウト』がユニークだったのは、アメリカ社会の深層に根付いた白人と黒人の間の非対称な関係をあぶり出し、それらを恐怖の源泉として取り出してみせたことだ。ただ「怖い」だけでなく、「怖さの質」が、ジョーダン・ピールのこの作品によって変わった。「社会派テラー」というジャンルが確立されたといってよい。

その本質は、社会に根づいたinstitution(=社会的な創発によって慣習化された決まり)が暗黙のうちに、あるいは、無意識のうちに、その社会の構成員に与える悪夢であり脅威である。「人種=レイス」に焦点をあて、それまでハリウッドで娯楽作品としてはタブー視されてきた「人種差別」を主題にした現代的な恐怖映画を確立したのがピール。それを「クラス」、それもアメリカ的な東と西の非対称性から来る潜在的な「階級意識」に読み替えて、全米を舞台にした火力満載の大戦闘に変えたのがガーランド。

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そう思うと、『シビル・ウォー』のクレジットに、『ゲット・アウト』と同じく2010年代に社会的に挑発的な映画を多数、製作・配給してきたことで知られるA24の名があることにも納得がいく。A24やジョーダン・ピールは、2010年代の文化思潮である「オバマコア」の重要な立役者でもある。2008年に黒人のバラク・オバマが大統領になったことで、社会的タブーの蓋がそこかしこでこじ開けられた結果、これまでの価値の序列を転覆させるような、多文化的で多様な作品が、様々なジャンルで次々と創作された。そのひとつがジョーダン・ピールの社会派テラーである。そうした社会派テラーを、南部の田舎町からアメリカ全土にまで引き伸ばしてみせて表現したのが、ガーランドの『シビル・ウォー』である。

とにかく恐怖映画なのである。

ヴァーチャルとリアルが転倒した世界

だから、アメリカで見かけるレビューで、この映画に対して、ゾンビ映画、アポカリプス映画、ナイトメア映画などが、内戦の恐怖の隠喩のためにテンプレ的に援用されている、と指摘するものは、この映画の核を見誤っている。事実は全く逆で、『シビル・ウォー』は、指摘の通り、ゾンビ映画であり、アポカリプス映画であり、ナイトメア映画なのだ。ふりではない。この映画は、『ゾンビランド』であり、『2012』であり、『ウォッチメン』なのだ。ヴァーチャルとリアルが転倒した世界。

むしろ、「内戦」をもたらしそうな社会的な危機の臨界点を、こうした恐怖映画のイメージで了解してお茶を濁そうとしているアメリカ社会を揶揄しているようにすら見える。だから、主役のジャーナリスト・カルテットの中に、戦場に行くとアドレナリンがバンバン分泌され興奮する者まで現れる。

ところで、いまさらだが、映画『シビル・ウォー』はジャーナリスト4人によるロードムービーだ。

キミはどんなアメリカ人なんだい?

憲法を無視して3期目の就任を敢行した独裁的な大統領に対して、現状優勢な分離独立派の「ウェスタン・フォース」──カリフォルニアとテキサスの2州同盟──によって、その大統領が殺害される前に、独占インタビューを決行するために動き出した、リー、ジェシー、ジョエル、サミーのカルテットによるロードムービー。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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ニューヨークのマンハッタンから出発し、ペンシルヴァニアを抜けてウエスト・ヴァージニアに入ったあたりから、紛争地帯にしては奇々怪々な「トワイライトゾーン」が始まり、それまでの常識が通じない、法が失効したような不可解な街や人びとが彼らを待ち受け、最後には戦火のさなかのDCにたどり着くという話だ。

主人公は受賞歴もあるフォトジャーナリストのリー。彼女と、ロイターの記者であるジョエルがワシントンDC行きを計画し、それに『ニューヨーク・タイムズ』のベテラン記者だったサミーと、フォトジャーナリスト志望の若い女性ジェシーが加わった変則的なチームだ。そのため、後部座席に座るサミーとジェシーを振り返り、ここは老人ホームと幼稚園かとリーは嘆いてみせる。そんな頑固者のリーをたしなめながらイージー・ゴーイングで進もうとするジョエル。この4人が、戦禍の街を車で駆け抜けていく。

ここまで書けばわかるように、この映画は、「内戦」ではなく「内戦報道」の映画だ。奇妙キテレツでグロ満載の戦場が、文脈もなく、つまり背景事情にほとんど触れられることもなく、ただただ次々と紹介されていく。その様子も、基本的にはフォトジャーナリストが捉えたショットの連続として、写真というアクセントを与えられて切り取られる。

だが唯一、そうではなくなる瞬間が訪れる。

ジョエルの作戦を聞きつけて、マンハッタンから追いかけてきたアジア系ジャーナリストの二人が、爆音をたてて「ヒャッハー」とばかりに車を操り、ジョエルたちにカーレースを挑む脳天気な姿を描いたと思ったら、その直後には一転して、白人ミリシアに拉致されてしまう。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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ピンクのハート型のサングラスを掛けて銃口を向ける、ジェシー・プレモンス演じるイカれたミリシアの白人男性は口角を上げながら次のように問いかける。

What kind of American are you?
キミはどんなアメリカ人なんだい?

この場面は、映画の中で最も鮮烈なシーンだ。というのも、この場面だけが唯一、主人公たちジャーナリストが、身の危険をヒリヒリと感じる、直接の殺害対象にされてしまうからだ。ここで彼らは、観察者ではなく内戦の当事者となった。生殺与奪の権利を完全に奪われている。取材のときのような、自らの意思で危険な場所に足を踏み入れているという状況ではない。自分たちは戦闘の当事者ではなくあくまでも傍観者であるという立場も取れない。実際、アメリカ人ではない、香港出身のジャーナリスト仲間は、先ほどの問いを投げかけた白人のミリシアに問答無用で射殺されてしまう。

まさに理不尽。

「プレス」と書かれたベストを着たり、「メディア」と書かれたIDを首に掲げていたりすれば、あたかもそれらが結界や防御壁のように機能し、自分には銃弾が当たらないと勘違いできる感性。ジャーナリストにはよくも悪くも、そのようなおかしなメンタルが求められるのだが、そのお約束の圏外から有無も言わさず銃殺される。

「リアル」な紛争地帯が立ち現れる瞬間

もちろん、実際には、戦場に向かうにあたり、銃弾が飛び交う場に出向くのは自分の意志で選択したこと、と自ら言い聞かせ、だから弾は当たらないと信じこむ。ベストやIDもそのためのお守りであり護符のようなものだ。逆に、そうした意志が弛緩した、覚悟の全くない、だらけた時間があったとしても不思議ではない、むしろそれが人間である。覚悟のオンオフの切り替えは、戦場で銃を構える兵士と変わらない。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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だが、まさにその、ジャーナリストの仮面を取った「素の人間」のときに、白人ミリシアに拉致され、銃口を向けられ、生殺与奪の権利を奪われ、ただの木偶の坊として銃殺される。皮肉にも、この映画では、その場面が最も人間的な場面になる。なぜなら、ジャーナリストの、あるいは、フォトジャーナリストの見る世界の枠組みが外れ「リアル」な紛争地帯が立ち現れるからだ。普通の人間ならあの銃口を突きつけられた場面で失禁してもおかしくはない。そうならなかったのは、まがりなりにも彼らジャーナリストが、これまで戦場を身近に観察=疑似体験してきたからなのだろう。

こうした不可解で理不尽な紛争地帯を経験してリーたちはDCにたどり着く。つまりカルテットは、あくまでも主役であって、主人公ではない。物語を回す舞台装置にすぎない。行く先々で事件に遭遇するだけだ。だからこそのロードムービー。彼らはただの視点人物であり、まさにカメラである。それゆえどれだけ惨状を見せつけられても動じない鋼の精神をもつ。裏返すと、事実報道に徹するカメラ=ジャーナリストであることをやめた瞬間、彼らは一人の人間にもどり、その人間としての行動に対して相応の報いを受けることになる。

本作は“シミュレーション映画”ではない

もうすでに気づいている人もいるだろうが、この映画では、実現性が高いと想定される近未来のアメリカの「内戦」が描かれると思ってはいけない。シミュレーション映画ではない。ある意味、タイトルは盛大なツリである。大統領選の年、しかもトランプが2度目の大統領に挑戦する年にこのタイトルは挑発的すぎるのだが、しかし、それも狙ってのものだ(だからといってウケだけを狙っているわけでもない)。

その結果、この映画に対しては、お門違いのレビューも現れた。その多くは、まさにタイトルにつられて観てしまったであろう政治学者やジャーナリスト、あるいは社会運動家といった、「来たるべきアメリカの内戦」に敏感な専門家たちである。彼らは一様に、内戦に至った理由が描かれていない、これではいたずらに社会を不穏にするだけだ、と不満を漏らす。だが、それは見当違いなのだ。

もちろん、そういう反応もわからなくはない。

映画冒頭の、ニューヨークの暴動現場での人間爆弾テロに驚愕して、これは現代の延長線上にあるリアルな近未来を描いた戦争映画だと見事に「誤認」させられる。

ズルい。

その後に、大統領への直接インタビューに向かおうと相談するジャーナリストたちの姿を描くことで、これは最後には内戦の理由や行方に触れる政争劇だと「誤認」させられる。

ズルい。

「トワイライトゾーン」とカルテットにわざわざ言わせたのも、ガーランドが仕込んだ、ここからいよいよ本編が始まりますよ、というエクスキューズだったのだ。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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この映画は、決して政治ドキュメンタリーではないし、政治スリラーでもない。やたらと銃撃音や砲撃音ばかりがリアルに響くが、戦争映画でもない。あの爆音の連続は、単に映画鑑賞者の思考能力を奪うための「拷問」であり、そうして「ナマの不安」を鑑賞者の中に呼び起こさせるための手の込んだ仕掛けである。真っ暗な個室で洗脳のために意味不明な、ひたすら点滅するだけのサイケデリックな映像を見せられ続けるのに近い。椅子が揺れないヴァーチャルライドである。

市街戦描写が意味するものとは?

このように、冒頭であっさり「ドキュメンタリーを装った戦争映画・政治映画」だと誤認させられる。本当は、『「ドキュメンタリーを装った戦争映画・政治映画」……を装った社会派テラー(恐怖)映画』なのに。

だが、本作の題目は、新種の恐怖のありようとその顛末を描くことにあり、その恐怖の原因は関係ない。軍用仕様のアサルトライフルによる銃撃事件が後を絶たないアメリカで最後のタガが外れたら、どれだけ火力の高い紛争が日常化するか、そんな悪夢のファンタジーである。だから、なぜ内戦が起こったのか、そのことを描く必要はない。その点で、内戦は、天災や、エイリアンの襲来などと同じくらい、根拠不在の厄災である。ゾンビ映画で、ゾンビになった原因の追究にまで至らないのと同じこと。

そもそも、内戦の理由、それも公式発表されることのない本当の理由を知るものなど、現在進行形の事件においては、ごく少数の政府関係者に限られる。だから、理由もなくとにかく惨事が起こってしまった、というくらいの方が、一般市民の認識の仕方に近いだろう。本作で描かれるのは、内戦によって社会秩序が崩壊し社会習慣への信頼も失われてしまった無法地帯では、何が起こっておかしくはない、という単純な真実だ。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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だが、そうした描写も、最後の首都DCでの火力超満載の市街戦描写で忘却の彼方に消えてしまう。なにしろ、地上戦は『フルメタル・ジャケット』、戦闘ヘリによる市街戦は『ブラックホーク・ダウン』、だがその本質は『ヒート』でしかなく、無意味な銃撃戦が延々と繰り広げられる。見る者の感覚を麻痺させるためだけに。

一般市民からすれば、ある日突然、社会秩序が崩壊するような出来事が生じ、その結果、社会の底が抜け、無法地帯が生じた、ただそれだけのことだ。それにどう対処するか、対処の余裕がまだあるのか、など、具体的な防衛策に勤しむのがせいぜいである。作中でも、かろうじて相互扶助のコロニーや武装市民に守られた街がギリギリのところで平穏を保っていた。対して、ミリシアが好き放題に人間を狩っては埋めるところもある。互いに、相手に発砲されたから、という理由でその相手を狙撃すべく延々と待ち伏せする者たちもいる。そうした内戦の下での、振れ幅の大きい数々の狂った日常を描くことで、観客の常識や信念も揺さぶろうとする。

だから、内戦に至った政治的理由に一切触れていないのは不誠実だ、という評者たちには、「いや、あんた、なに勘違いしてるのさ?」といいたくなる。まんまとガーランドの手の平の上で踊らされているだけのこと。むしろ、そんな糾弾に対してガーランドは、してやったり、とほくそ笑んでいるはず。

内戦に至るのではないか、という見えない不安が世の中に蔓延っている、という点では、パンデミックに近いのかもしれない。まずは目の前の感染危機に対処し、社会的パニックのきっかけを可能な限り減じることが重要だった、あの頃に。

逆に、直近のコロナ禍のときに感じた、差し迫った、だが見えない危機に対して抱いた「漠たる不安」を、多分、近々起こるかもしれない「シビル・ウォー=内戦」の不安へと投射して人びとは恐怖するはずだと、ガーランドは想定したのかもしれない。どこから来るかわからない恐怖が、ウイルスのような不可視の暴力として、突然やってくる。そう理解する。そのデモストレーションがこの映画である。人の悪意の「アウトブレイク」だ。

ジャーナリストが尊敬されない時代

ここまで見てきたように、本作の中心にはジャーナリストがいる。

ではなぜ、ジャーナリストが中心になったのか。ガーランドによれば、ジャーナリストは、医者が社会に必要なように、政府をもつ社会にとっては無条件に必要な存在であるにもかかわらず、今は全く尊敬されなくなった。そうした世間の誤った認識を変えたかったからだいう。

ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

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そのため、この映画では、ジャーナリストが感じる無念さが強調される。こんなことが母国アメリカでは起こらないようにと警鐘を鳴らすために紛争地帯の取材を重ねてきたはずだったのに、内戦が始まってしまった無念さ。内戦という災厄に対して、社会一般の「不安」と、ジャーナリストの「無念」という情動を淡々と伝える映画が『シビル・ウォー』である。

ジャーナリストに注目するのは、ガーランド自身の生い立ちと深く関わっている。

ガーランドは、政治漫画家の息子。祖父は政治漫画編集者。そのため、幼少の頃は父の友人のジャーナリストに囲まれて育った。名付け親もそのジャーナリストたちのひとりだという。

そのような少年時代の経験から、ガーランドは当初、ジャーナリストになりたかったのだが、ノンフィクションを書くことが自分には不向きなことに気づき、フィクションを書く方に転じた。最初は『ビーチ』という、レオナルド・ディカプリオ主演の映画にもなった小説を書いたが、職業としての小説家に魅力を感じず、そのまま映画界に移り脚本家となった。カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』の映画化にあたり、脚本を担当したのもガーランドである。

そうして『エクス・マキナ』で監督デビューした。といっても、監督をしたのは、脚本家と監督のすり合わせをこの映画では避けたかったからだという。その後は、『アナイアレイション -全滅領域-』や『MEN 同じ顔の男たち』などSF的な映画を撮り、今回の『シビル・ウォー』に至る。

もともとジャーナリスト志望であったからか、ガーランドの作品は基本的に、現実の中に潜む別様の潜在的可能性を引き出すようなスペキュラティブな作風が特徴である。ジャーナリズムとフィクションの中間のような思弁的なナラティブだ。

ちなみに、ガーランドの母は心理学者、母方の祖父は1960年度のノーベル生理学・医学賞を受賞したピーター・ブライアン・メダワー。

© HultonDeutsch CollectionCORBISCorbis via Getty Images

© Hulton-Deutsch Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images

つまり、父方は政治風刺、母方は学者という絵に書いたようなイギリスのインテリ一家の出身である。ガーランドはあるインタビューで、ノンフィクションといえば科学と歴史のことと答えていたのも納得だ。創作表現と科学思考の2つの血筋があればこそ、数々のSF的なスペキュラティブな作品を世に送り出すことができたのだろう。耽美的な映像志向も理解できる。

ガーランドの作風には、幼少時に父の友人のジャーナリストたちから聞いた外国の話が、異なる世界・異なる文明の物語に思えたことも影響しているのだという。サイバーパンクの創始者の一人であるウィリアム・ギブスンの有名な言葉に、「未来はすでにここにある、ただ均等に分配されていないだけだ」というものがあるが、ガーランドはこの命題をいわばリバースエンジニアリングするように、彼我の文化の差を「もうひとつの未来」に落とし込み、スペキュラティブ=思弁的な物語を生み出している。

「ウェスタン・フォース」は起こり得る!?

『シビル・ウォー』についてもそうしたスペキュラティブな志向が活かされており、今ある現実の、分断化されたアメリカ社会の延長線上にあるような内戦を描いたりはしない。単純にレッド・ステイト(共和党支持州)とブルー・ステイト(民主党支持州)が戦火を交えるにまで対立を深めた結果の内戦などには興味はない。内戦といって、一般に想像されるような民衆蜂起にもしない。

代わりに、この映画の鑑賞者が皆、口を揃えて異論を述べたくなるような展開、すなわち、よりにもよって、ブルー・ステイト随一のカリフォルニア州と、同じくレッド・ステイト随一のテキサス州が、分離独立派の同盟として「ウェスタン・フォース」を形成し、独裁的な大統領に戦いを挑む、という物語を練り上げた。この「ウェスタン・フォース」には、深南部を抱えたフロリダ・アライアンスが賛同する。

ただアメリカの歴史を振り返れば、言われるほど、この展開はおかしいようにも思われない。むしろ、レッド・ステイトとブルー・ステイトに還元されない、アメリカ社会に潜伏する無意識の分断線を明るみに出している。

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ⓒ2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

少しだけ現実の話をすれば、この夏、カマラ・ハリスが大統領候補になって以後の大統領選の動きが、意外とこの映画をなぞっている。カリフォルニアが拠点のカマラ・ハリスを、テキサスを拠点とするブッシュ家に連なる政治家や軍人、学者が支持に回った。カリフォルニアとテキサスの同盟は起こり得る。言われるほど無茶な話ではないのだ。

もうひとつ、カマラのランニングメイト=副大統領候補のティム・ウォルツはミネソタの出身だが、この映画でミネソタは、北西部から中西部にかけての州連合である「新人民軍」に属する。ティムが声高に訴えて回っている「(政府の介入に対する)放っておいてくれ(Mind your own business!)」は、まさに新人民軍を結集させる西部のリバタリアン魂の真髄である。新人民軍も決してリアリティのない話ではないのである。

現実的に見ても、アメリカ50州のうち、人口規模において最大のカリフォルニアと2番手のテキサスが組むのは、両者の州経済が、全米を束ねた連邦経済に圧倒的に貢献していることを思えば、むしろ自然なものである。自分たちの経済を東海岸の連邦政府の独裁者に好き勝手されるのは許しがたい、だったら実力行使に訴えるまでだ、という論理だろう。アメリカがイギリスから独立したときの「代表なければ課税なし」の理屈に近い。西部人はそれこそ伝統的に東部人が嫌いなのだから、十分あり得る話だ。

ウェスタン・フォースに接近した「フロリダ・アライアンス」にしても、アラバマやジョージアなどが深南部の利害を代表している。「ニュー・ピープルズ・アーミー」にしても、名前だけなら確かに毛沢東主義の人民軍のように聞こえるが、所属するのが、北西部のワシントンやオレゴンから、カナダ国境沿いのモンタナからミネソタ、そこから南下してサウスダコタやユタも含まれるのだから、むしろアメリカ的なポピュリズムの匂いがする。

つまり、「ウェスタン・フォース」は、東部と西部の間の非対称な支配の歴史を、「フロリダ・アライアンス」は、南北戦争以来の深南部が北部に抱く怨恨の歴史を、「ニュー・ピープルズ・アーミー」は、19世紀末に中西部の農業地帯から湧き上がったポピュリズムの歴史を、それぞれ反映している。独裁的な大統領であるにもかかわらず連邦に留まっている残りの「ロイヤリスト・ステイツ(忠誠州)」に、ニューヨークやマサチューセッツ、ペンシルヴァニアやヴァージニアの名があるのは、独立13州の建国を導いた自分たちこそが元祖アメリカであるという自負の伝統があるからだろう。

映画『シビル・ウォー...

映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』における“各陣営”の分布マップ。緑が「ウェスタン・フォース」、えんじ色が「フロリダ・アライアンス」、山吹色が「ニュー・ピープルズ・アーミー」、青が「ロイヤリスト・ステイツ(忠誠州)」となっている。Map depicting the division of the United States in the 2024 film Civil War (CC0 1.0 Universal)

この「内戦」はアメリカの神話に根ざしている

いずれも、多分にアメリカ社会の集団的な深層心理に即した分断であり、二大政党制という硬直した対立のために蓋をされた、時代を超えた、アメリカの神話に根ざしたかたちの内戦だったのだ。

先ほど見たように、ウェスタン・フォース、フロリダ・アライアンス、ニュー・ピープルズ・アーミー、の州連合には、それぞれ、西部開拓時代(19世紀前半)、南北戦争時代(19世紀半ば)、産業革命時代(19世紀後半)と、バラバラの時代の歴史が召喚されている。その意味で神話であり、それが言い過ぎならおとぎ話、すなわちファンタジーである。いずれにせよ、アメリカ各地の古層に眠る集団の記憶に支えられた蜂起なのだ。

もしかしたら、ガーランドは、イギリスの4王国──イングランド、スコットランド、ウェールズ、ノースアイルランド──の対立に準じて、この内戦下のアメリカを創造したのかもしれない。

カルテットの一人で、『ニューヨーク・タイムズ』のベテラン記者だったサミーによれば、「ウェスタン・フォース」のカリフォルニアとテキサス、ならびにその支援州であるフロリダは、第2次世界大戦におけるアメリカ・イギリス・ロシアのようなものであり、大統領を殺害し共通の敵が消えれば、今度は、3州の間での覇権争いの戦いが始まるに違いないと見ていた。まさに『ゲーム・オブ・スローンズ』。だがあの架空の叙事詩も、もとをたどれば中世の「七王国時代」のグレートブリテン島の歴史に基づいていた。

ガーランドの『シビル・ウォー』もまた、アメリカ人の心を支える神話化された歴史を抉り出すものなのかもしれない。それは原初的であるがゆえに、赤=共和党と青=民主党の対立よりも、より本質的で、より予言的だ。国を転覆させるに至る底冷えの恐怖。それを静謐で抑制された映像を通じて「報道」として描いてみせた。そんなアレックス・ガーランドは紛れもなく文学的で芸術的な、だが言いようもないほど冷徹で狡猾な映像創作者だ。そこには彼が生涯憧れる凛としたジャーナリストの姿が見え隠れする。

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雑誌『WIRED』日本版 VOL.54
「The Regenerative City」 好評発売中!

今後、都市への人口集中はますます進み、2050年には、世界人口の約70%が都市で暮らしていると予想されている。「都市の未来」を考えることは、つまり「わたしたちの暮らしの未来」を考えることと同義なのだ。だからこそ、都市が直面する課題──気候変動に伴う災害の激甚化や文化の喪失、貧困や格差──に「いまこそ」向き合う必要がある。そして、課題に立ち向かうために重要なのが、自然本来の生成力を生かして都市を再生する「リジェネラティブ」 の視点だと『WIRED』日本版は考える。「100年に一度」とも称される大規模再開発が進む東京で、次代の「リジェネラティブ・シティ」の姿を描き出す、総力特集! 詳細はこちら