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ヨハン・クライフ

登録日:2016/04/14 (木) 21:59:16
更新日:2024/11/10 Sun 03:22:30
所要時間:約 56 分で読めます


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2016年3月24日、あるサッカー界の偉人がこの世を去った


彼の名はJohan Cruyff(ヨハン・クライフ)


選手としても監督としても数多の栄光をつかんだ男


そしてその哲学により、サッカー界全体が劇的な進化を遂げていった……


彼はまさに、サッカーの申し子だったのである




美しく敗れることは恥ではない。

無様に勝つことを恥と思え。





少年時代


「わたしの少年時代は瞬く間に過ぎて行った。一番思い出に残っているのは友達とサッカーをして過ごした、いつまでも続く午後の時間……」


1947年4月25日、オランダ・アムステルダム郊外のベトンドルプ地区にて生を授かる。
青果店を営んでいた家は貧しく、自転車すら買ってあげられないほどだった。
そんな中で彼は、兄のヘニーと共に路地裏に転がっているあらゆるものをボール代わりにしながら、学業そっちのけでサッカーにのめりこんだ。
小学校大会で優勝した時はGK、CK、FK、PK、スローインまで何もかも一人でこなすという、「もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな」状態だったらしい。
ある時はストライカー、またある時はドリブラーやパサー、さらには最後尾にまで姿を見せる神出鬼没さ。
ポジションを超越した変幻自在ぶりは、すでにこの頃から現れていたのだ。
さらに7歳の頃にはピッチに見立てたテーブルに銀紙を並べてシステムを作り出し、やがて新しい練習法も考案するようになった。
……つまり、この時点で選手としてだけでなく、監督としての才能も片鱗を見せていたのである

幸運だったのは、名門アヤックスの本拠地・デメールスタジアムが家から数百メートルという近所にあったことと、
父マグヌスは青果物をアヤックスに卸す御用商人だったこと、父の親友「ヘンクおじさん」が用具係としてこのクラブに勤めていたことだった。
4~5歳の頃から父に付き添ってアヤックスの用具室やスタジアムに出入りするようになり、授業が終われば一目散に「ヘンクおじさん」の元に駆けつけた。
共にコーナーフラッグを立てたり、ラインを引いたり、ゴールネットを張ったり、スパイクを磨いたり、ボールを膨らませたり……
クリスマスや誕生日には決まってボールをお願いし、すぐに靴を消耗させてしまうので、いらなくなった靴を取っておいてくれるよう頼んでいた。
もっとも、まだ幼かったので、靴下を四枚重ねて履く必要があったが。
そうしているうちに、クラブの手伝いをしてくれる不思議な少年はマスコット的存在になっていった。
1軍の選手たちは兄弟にボールを与えて遊ばせたり、ロッカールームにも入れるようにした。
彼は幼い頃から一流クラブと選手たちの裏側を直に見ながら育ったのである。ある意味、究極の英才教育と言っても過言ではない
何よりの楽しみは、毎週日曜日に行われる試合。兄といっしょにスタジアムへの道を渡り、正面席にいつも陣取った。
また、後に第二の故郷となるFCバルセロナを応援し始めたのも、9~10歳頃からのことだった。

10歳の時、彼は「ヘンクおじさん」にアヤックスでプレーできるかテストさせてほしいと頼んだ。しかし、その必要はなかった。
7歳の頃から、ユースチーム(10~12歳)の紅白戦で人数が足りなくなるチャンスをうかがい、ついに欠員を出した時、練習に参加するのに成功していた。
そうして次からは人数が足りているにもかかわらず、紅白戦に参加できるようになったのだ。
華奢な体でありながら、美しいボールさばきのテクニック。誰もが「この子は将来すごい選手になるぞ」とささやいた。
おかげで彼は入団テストなしで正式にアヤックスの一員となり、素晴らしい才能を開花させていった。

しかし12歳の時、最愛の父を心臓発作で喪うという悲劇に見舞われる。
彼はこのことについて多くを語らないが、周囲からは精神的に相当なショックを受けているのが見て取れた。
後に完璧主義のあまり、周囲と軋轢や衝突を起こすようになったのはこれが影響しているのではという声もある。
また、墓の前を通りかかるたびに必ず立ち止まり、父の魂と言葉を交わしていたという。
おそらく優勝を共に祝えない代わりに、常に父の存在を感じながら、最高のフットボーラーになることを誓っていたのだろう……

ジュニアチームのスターの座に輝くのに、それほど時間はかからなかった。
14歳の時、CFとして1シーズンの公式戦で実に74得点を挙げ、16歳で2軍に定着。
1軍の監督だったヴィック・バッキンガムはついに機は熟したと判断。
トップチームへ引き上げられ、弱冠16歳にして当時のスター、ピート・カイザーに次ぐオランダで2番目のプロ契約を結んだのである
さらにこの時期には母ネルと「ヘンクおじさん」が再婚。
「ヘンクおじさん」は元々家族同然の存在だったため、父の死で揺らいでいた彼の精神は安定を得た。
母は青果店を転売し、スタジアム内の売店などの仕事を引き受けた。そうすれば、いつでも息子たちの活躍を見守ることができるからである。
こうして一家は文字通りアヤックスに養われることとなったのだ。


アヤックス時代~栄光と叛逆


64年11月15日。トップチームでのデビュー戦はアウェイで1-3で敗れた。
しかしこの1点は、他でもないデビューしたてのクライフが決めたものだった。
ホームのデビュー戦は11月22日、強豪PSV戦。こちらは5-0の大勝を収め、ここでも得点を決めている。
鮮烈なデビューを遂げたクライフは瞬く間に、ファンの心をつかみアイドルとなった。
しかし、どんなにアイドル扱いされても、彼は決して神経質にならなかった。
幼い頃からスタジアムに出入りし、手伝いをし、歳上の選手たちと共に練習し、家族は実質スタジアムの中で生活していた。
デメールスタジアムはまさに、彼の家そのものだったのだ

65年、彼にとって大きく運命を動かす出来事があった。もう一人のサッカーの歴史を変えた男……リヌス・ミケルス監督就任である。
ミケルスは監督ライセンスを取ったばかりで、プロクラブを率いるのはこれが初めてだった。
さらに当時オランダリーグはプロ化したばかりで、アヤックスもまだセミプロ同然の状態。経済力にも乏しかった。
周りから心配する声も上がったが、元教師でもあるミケルスはチームに、特にワガママ放題のクライフに規律を叩き込むことに心血を注いだ。


アヤックスは65-66シーズンを皮切りに、数々の栄光を築きあげる。
72-73シーズンまでに、実に6度のリーグ制覇を成し遂げた。
クライフもまた、66-67シーズンと71-72シーズンに得点王の座に輝いている。

ミケルスの編み出した戦術の特徴はこの6つだ。

①常に試合の主導権を握る。
②そのためにはボールをキープする都合上、ボールを自ら探しに行く。
③探すのを容易にするため、相手の進入口を徹底的に閉ざす。
④ボールを持ったらバリエーションのある攻撃を仕掛ける。そのためにはDFも攻撃に参加する。
⑤そのために選手たちはポジションの相互受け渡しを徹底する。
⑥ゲームが激しくなっても、その逆の時も常にリズムを支配する。

自己犠牲の精神とチームへの献身、優れた身体能力、戦術への理解度……多くを要求される非常に高度な戦術だった。
アヤックスの選手たちはこれらの要求に見事に応えた。
もちろん、この戦術をピッチ上で操ったのは他でもないクライフだ。
常識破りのサッカーを志向するミケルスに、それを理解・表現し、周りを引っぱることができるクライフ。
二人の出会いはどちらにとっても幸運なものだったのだ
そしてこれは、W杯西ドイツ大会で世界に大きな衝撃を与えた戦術の原型となる

アヤックスとクライフの名が一躍欧州サッカー界に知れ渡ったのは、66年12月7日のこと。
チャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ。以下CC)で彼らはホームにイングランドの強豪リバプールを迎えた。
対戦前リバプールの名将ビル・シャンクリーは聞き慣れないこのクラブに対して、「アヤックス?洗剤の名前か?」と言い放ったという。*1
当日は試合の決行さえ危ぶまれるほどの濃霧だったが、アヤックスはコンディションの悪いリバプールの選手たちを翻弄。
実況は霧の中を自在に動き回る白いユニフォームのアヤックスの選手たちを「霧の中を飛ぶ幽霊」と表現した。
終わってみればスコアは5-1。オランダのクラブが初めてイングランドのクラブを破った歴史的瞬間だった
シャンクリーはアヤックスが勝てたのは霧のおかげだとし、次の試合は7-0で勝つと宣言してきたが、
アウェイ2戦目もクライフの2得点で2-2に持ちこみ、見事リバプールを撃破。試合後シャンクリーはアヤックスのロッカールームを訪れ、その戦いぶりを賞賛。
準々決勝でチェコのデュクラ・プラハに敗れたものの、この2試合がきっかけでアヤックスとクライフはその存在を欧州に轟かせることになった。

71年、CC決勝でギリシャのパナシナイコスを2-0で破り、アヤックスはついに欧州初制覇。
クライフもこの年、欧州最優秀選手(バロンドール)に選出された。
その後彼は73年、74年もバロンドールを受賞。合計で3度輝くことになった
なお、彼自身はこの賞について「個人的には全く関心がない。あれはメディアのサーカスだよ」とぶった切っていたりする。
アヤックスはわが世の春を謳歌していた。
ミケルスはこの最中にバルサに移ったが、アヤックスはピッチ上の監督であるクライフに率いられ、
72年にはインテルを、73年にはユベントスを破り、3年連続で欧州一の座に輝いた






……しかし、アヤックスとクライフの蜜月はやがて終わりを迎える。







サッカー界が大規模なショービジネスへと変貌を遂げつつある中、クライフは金銭面でクラブに不満を持つようになった。
「自分たちの活躍のおかげでクラブは莫大な利益を得ているのに、どうして選手たちの報酬は少ないままなのか?」
選手たちのために給料の交渉を買って出ていたクライフは手放しがたい大スターであると同時に、クラブ内では悩みの種となっていた。

73年、子供の頃からの憧れだったバルサからオファーが届いた。それは、3年契約で100万ドル(約2億8100万円)という破格のものだった。
実は69年の暮れにバルサと仮契約を交わし、移籍が決まりかけていたのだが、当時のスペインの規則で外国人選手の加入が却下され涙を飲んでいた
今回はその規定もなくなったため、バルサは再びラブコールを送ってきたのだ。
立志伝中の宝石商コア・コスター*2を父に持つ妻ダニーもモデルとして国際的に活躍していたことから理解があり、彼女もバルセロナがお気に入りだった。
さらに恩師であるミケルスも、ここで指揮を執っている……
が、ややこしいことにミケルスは、クライフ一人に法外な移籍金を使うなら、別の選手数人を取るべきと考えていた(結局一番のお目当ての獲得に失敗したが)。
一方バルサはミケルスに内緒で獲得を目指していたが、そこでアヤックスが要求したのは300万ドル(約8億4300万円)という、とても受け入れがたい金額であった。

出たいクライフと、出せないアヤックス。交渉は長引き、緊迫し、こじれにこじれていく。
試合に出てもやる気のないプレーに終始し、言動がエスカレートする一方の彼に同僚やファンもいよいよ耐えられなくなり、関係は悪化の一途をたどっていた。
「バルサに移籍できなければ、わたしは引退する」「移籍を許さなければ裁判での決着も辞さない」……彼はクラブにあらゆる脅しをかけた。
8月13日の午前11時、最後の説得に臨んだクラブはこれまで以上の給料と、選手たちの投票によって剥奪された主将の地位の回復を約束。
それでも彼が首を縦に振らないと、アヤックスに残ることを条件にバルサと同じ金額を出すと切りだした。
……返ってきた言葉は、文字通りアヤックスにトドメを刺すものだった。
「もう経済的な問題じゃないんです」
15時55分。ついにアヤックスは折れ、クライフは待ちに待った瞬間を迎えた。
長き戦いがようやく幕を下ろし、晴れて青えんじのユニフォームに袖を通せるようになったのである。

……彼の登場、そしてこの戦いと巣立ちにより、サッカーがアマチュアだった時代は終わりを告げた。
以降、他の選手たちはクラブとわざわざ争わなくとも実力に見合った給料をもらえ、そうでなくてもまともな恩恵を受けられるようになった。
クライフは選手の待遇改善にも大きな影響を与えたのだ。プロ選手たちは彼に足を向けて寝られまい。


バルサ時代~舞い降りた救世主


彼が満を持して加入したFCバルセロナ。
バルセロナと言えば、カタルーニャの州都……
36年のスペイン内戦後、39年にフランシスコ・フランコ将軍に統治されると、自治権が剥奪され、公の場でのカタルーニャ語の使用が禁じられてしまった
政治機関だけでなくカタルーニャ人の文化的要素すべてに圧力がかかり、彼らのアイデンティティまでもが迫害されようとしていた。
バルサもまた、宿敵レアル・マドリーからの弾圧*3を受け続け、リーグ優勝したのは59-60シーズンが最後となっていた。
そんな状況の中で、本拠地であるカンプ・ノウではカタルーニャ語の使用が許されていた。
こうした歴史的背景も踏まえると、この移籍がいかに大事件だったかがうかがえるであろう。
9月の親善試合でカンプ・ノウのピッチに立った時には、8万5千人の観衆から万雷の拍手で迎え入れられた。

バルサ加入後、とりわけ仲良くしていたのはFWのカルレス・レシャックだった。
バルセロナの街に下見に出た時、案内役を買って出たのだ。
悪ふざけが好きだった二人はウマが合い、後の監督時代にコンビを組んでいる。解任時のゴタゴタでクライフについていかなかったのが原因で絶縁されたが
ちなみにレシャックは横浜フリューゲルスの監督時代に遠藤保仁を、バルサで育成を担当していた頃にかのリオネル・メッシを発掘した人物として知られている。

手続きが遅れたため、彼は8試合目までデビューできなかった。その間、バルサが挙げた勝利はわずか2つ。
誰もが今か今かとデビューを待っていた。
73年10月28日、グラナダ戦でついにリーガ・エスパニョーラデビュー。試合は4-0の大勝に終わり、うちクライフは2得点。
ここからバルサの快進撃が始まった。バルサはリーグ優勝を決めたヒホン戦まで1試合も負けなかった
たった一人の選手の存在が、チームをここまで劇的に変えるものなのかと誰もが驚愕した。
特に74年2月17日に行われた、不倶戴天の敵レアル・マドリーとの敵地でのクラシコは歴史的なものとなった。







REAL MADRID     vs    BARCELONA

0  -  5


ASENSI:2-CRUYFF-J.CARLOS-SOTIL







近年では08-09シーズンの2-6や10-11シーズンの5-0といった大勝が多く見られるが、時代を考えると、その重みは段違いである。
リアルタイムで見た人にとっては文字通り「歴史が変わった瞬間」であり、一生忘れられない記憶となった。
事実、それから1年少しでフランコが死去、軍事独裁政権が終焉する。この勝利はカタルーニャ苦難の時代の終わりを暗示していたのだ。

他にも、アトレティコ・マドリー戦では高いロビングボールにジャンピング・アウトサイドボレーというゴラッソ(スーパーゴール)も披露している。
このゴールは99年、クラブ創立100周年を祝うテレビ番組のファン投票でバルサ史上最高のゴールに選ばれた


そして14年ぶりの優勝を決めた時、クライフは忘れられないほど感動的な体験をする。
バルセロナの人々は誰もが「おめでとう」ではなく「ありがとう」と感謝したのだ。
つまりこの栄冠は文字通りバルセロナで暮らす人たち、さらに言うなら長い間虐げられ、押さえつけられてきた人々みんなのものだった。
加えて、アウェイクラシコ直前に授かった息子に「ジョルディ」という名前をつけていた。*4
これはカタルーニャの守護聖人の名前であり、ますます彼らの心をつかんだ。
ジーザス・クライストと同じイニシャルを持ち、この地を心から愛したクライフはカタルーニャ人にとっての『救世主』だったのだ。

またクライフは、自分の肖像権をビジネスにした最初のサッカー選手だということも忘れてはならない。
手足の長いすらりとした体つきに、どこか中性的な美しい顔立ち。プレーだけでなく、ルックスもまた絵になる選手だった。
彼の名を冠した商品が無数に登場し、映画出演に加えてレコードも吹き込んだ。
プレー以外でも莫大な収益を得た彼は、もはや単なるサッカー選手の域を超えた『スーパースター』そのものだった。

ただ、73-74シーズンの後はタイトルに決して恵まれていたとは言えず、他に獲得したのは最後のシーズンとなった77-78シーズンの国王杯のみ。
にも関わらず、壮行試合として行われたバルサ対アヤックス戦のカンプ・ノウは満員となった。
それは長きにわたる暗い時代にピリオドを打ってくれた彼への感謝の気持ちを伝えるためであり、最後の「ありがとう」を言うためであった。
「ありがとうヨハン、いつかまた会いましょう!」

かくしてこの地における『救世主』となったクライフ。
後に彼は危機的状況に陥ったバルサに監督として舞い戻り、数々の栄冠をもたらすことになる。


1974年ワールドカップ~革命の時


74年W杯西ドイツ大会。オランダにとって、第二次世界大戦前の第1回、第2回大会以来となる世界の檜舞台に立つ時がやって来た。
チームの中心はもちろんクライフとかつてのアヤックスのチームメイトたち、そしてミケルスだ。*5
アヤックスの大躍進とは裏腹に、代表はW杯出場自体が歴史的快挙だった。
そんな彼らは、この大会でサッカー界の常識をひっくり返すレベルの、かつてない衝撃を与えていくことになる。

一次リーグ、ウルグアイとの初戦。観客たちは奇妙なものを目の当たりにしていた。
オランダの選手たちは名前のアルファベット順に背番号をつけている中、クライフは特例としてアヤックス時代からおなじみの14をつけていた。
ついでに彼のユニフォームのみ、アディダスのトレードマークたる3本線が2本線になっていた(理由は後述)。
キックオフの笛が吹かれると、さらに尋常ならざる光景がピッチ上に展開されていく。
オランダの選手たちは攻守にめまぐるしくポジションチェンジを繰り返し、相手を翻弄したのだ
ウルグアイはなすすべもなく無意味なファウルを繰り返して退場者を出すだけに終わり、スコアは2-0。オレンジ軍団最初の犠牲者となった。

それまでのサッカーの戦術といえば、各々がそれぞれの役割をこなす分業制だった。
このオランダの場合わかりやすく言うと、「1つのボールの動きに全員が連動」「10人で守り、10人で攻める」
フィールドの10人が攻守両面に関われば、当然圧倒的に数的優位に立てる。さらにGKさえもフィールドプレーヤーのようにプレーした。
少しでもボールを持つとたちまち四方から取り囲まれ、守っていても、次々にオレンジの群れに襲われる……その動きはまるで〝渦〟のようだった。
ある者はそれを「組織された無秩序」という、矛盾していながらも的確な表現で捉えた。
この戦術を初めて目の当たりにした選手たちはとても同じ人数で戦っているとは思えず、「まるで意味がわからんぞ!」「( ゚д゚)ポカーン」状態を味わっただろう。
相手チームは次々とオレンジ軍団の餌食となり、トラウマを植えつけられた。
下の動画は彼らのボール狩りの様子だが、半世紀前にこれだけ統率のとれた動きがなされていたのは感嘆の一語に尽きる。


続くスウェーデン戦では相手のハードなディフェンスの前にスコアレスドロー。
決定力不足という課題を晒したものの、この試合で披露した軸足の後ろを通す美しいターンは語り草になり、何度も放送された。
これが後に「クライフターン」と呼ばれる足技である。
ブルガリア戦は4-1で勝利し、二次リーグに進出。
グループAに入ったオランダと同居したのはブラジル、アルゼンチン、東ドイツ。南米の強豪が2つも入るという死の組である。
一方グループBは開催国西ドイツ、ポーランド、ユーゴスラビア、スウェーデン。
両組の1位で決勝戦が行われるというルールだった。
オランダは死の組に入りながらも、アルゼンチン相手にクライフの先制点で口火を切ると4-0の大勝、東ドイツ相手に2-0と一蹴。
決勝進出がかかったブラジル戦を控えた。

ところがブラジルは情報が楽に手に入る時代でないとはいえ、前回王者のプライドもあってか、ろくにオランダについて調べてなかったらしい。
唯一ロベルト・リベリーノだけがオランダのサッカーを知っており、「あいつら強いって、マジやばいって!!」と警戒を促したが、
他の選手や監督は「オレンジ軍団?何それおいしいの?」と取り合わなかった。

グループA最終戦。
ブラジルはオランダの圧倒的スキルの前に何もできなかった。
前半を何とか無失点で折り返すものの、後半開始直後クライフの絶妙な折り返しからヨハン・ニースケンスに先制点を叩きこまれる。
ブラジルは王国、王者のプライドをかなぐり捨て、ラフプレー上等でオランダを潰そうとした。
肘打ち、蹴り……ブラジルはすっかり冷静さを失ってしまった。
後半20分。ゴール前のクロス目がけてクライフは一気に駆け上がり、ボールの軌道に合わせ……文字通り「空を飛んだ」


『フライングダッチマン』はクライフの愛称で最も有名だが、元々はワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人』の題材になった幽霊船が由来と言われる。
ブラジルの息の根を止めたあまりに美しいボレーのおかげで、神出鬼没で不気味な幽霊船のイメージから神々しい『空飛ぶオランダ人』へと昇華されたのである。

こうして前回王者に完勝したオランダ。
王国を真っ向勝負から打ち破った新興国の姿は新たな時代の到来を予感させ、誰もがこの異次元のチームこそ新たな王者にふさわしいと考えた。
決勝に待っていたのは開催国西ドイツ。皇帝フランツ・ベッケンバウアー、爆撃機ゲルト・ミュラーなどを擁する難敵。
何より、言わずと知れた不屈のゲルマン魂。今までの相手とはまた話が別である。

7月7日。ついに迎えた決勝戦。
試合はいきなり動いた。開始からわずか1分、ペナルティエリアに侵入したクライフにDFウリ・ヘーネスが必死に足を伸ばし、倒してしまう。
PKのチャンスを得たオランダはニースケンスが決め先制。
この先制点で俄然優位に立ったオランダは勝利を確信したかのように、優雅なパス回しを繰り広げた。
が、相手は不屈のゲルマン魂の持ち主。彼らを相手に慢心とも取れるプレーは結果的に命取りとなる
主将のベッケンバウアーは一喝し、試合をいったん落ちつかせる。
ディフェンスゾーンを固めると、ベルティ・フォクツ一人が〝渦〟の中心たるクライフをマンマークし、徹底的に攻撃の起点を潰したのである
その徹底ぶりはサイドラインを割ってボールを取りに行く時でさえ纏わりつくほどであった
西ドイツは次第に反撃の糸口をつかみだしていった。
25分。ヴォルフガング・オべラートからのパスを受けたダイブの名人ベルント・ヘルツェンバインがPKをゲット。
パウル・ブライトナーが決め、試合をふり出しに戻す。
ここから試合は一進一退の展開になるが、前半終了間際、ついに均衡が崩れた。
爆撃機ミュラーが自分の後ろにトラップしたボールをスピンさせてゴールに叩きこんだ。西ドイツ、逆転
前半終了を告げる笛が鳴らされると、クライフは主審に当たり散らし警告を受けてしまう。明らかにフォクツのマンマークに苛立ちを隠せない様子だった。
後半に入るとオランダは中盤を押し上げ、西ドイツのゾーンを破ろうとした。西ドイツもすかさずカウンター。
オランダはこのカウンターを見事なラインコントロールで封じていく。
が、後はニースケンスが強烈なボレーでゴールを脅かしたのみで、オランダの決定機はそのまま訪れなかった。
こうしてクライフの翼をもぐことに成功した西ドイツは、大方の予想を覆し54年以来2度目の栄冠に輝いたのだった
オランダの選手たちは頽れ、クライフはベッケンバウアーにユニフォーム交換を求めた。

試合後クライフは敗因をこのように振りかえっている。
「我々は最も秀でたチームだったが、及ばなかった。プレーだけでない、ドイツ人の持つ勝利のメンタリティとオランダ人の精神的弱さの問題だった」
確かに、地元開催で優勝が義務付けられていた西ドイツとW杯出場そのものが快挙だったオランダでは、意識に差があるのも無理はないかもしれない。
さらに西ドイツの中心選手の多くはバイエルン所属であり、前年のCCでアヤックスと対戦した経験があった。
つまりブラジルと違い、オランダの強さを身をもって知っていたのだ。
他にも、ピッチ外の騒動も敗因の一端だったと言えるだろう。
決勝戦の前日、ドイツの「ビルト・ツァイトゥング紙」があるスキャンダルをすっぱ抜いた。
その内容とは、オランダの選手数人がホテルのプールで女たちとシャンペンのボトルを何本も空け、全員朝まで裸で騒ぎ、じゃれあっていたというものだった。
この事件が報じられると、選手の妻や恋人は大激怒。彼らはこってり油をしぼられ、試合に集中できなかったと言われる。
今でもオランダのファンたちは、このスキャンダルさえなければ……と信じているとのこと。

だが、この敗戦でオランダの評価は揺らがなかった。
各メディアはオランダの見せた戦いぶりを、あまりの驚きと衝撃、賞賛を持って様々に表現した。
「これは未来のフットボールだ!」
「どこの惑星からやって来たのか?」
さらにはそのアバンギャルドさから映画史に残る問題作『時計じかけのオレンジ』に例えたり……
中でも、この言葉ほどシンプルかつ的確にオランダのサッカーを伝えた言葉はあるまい。







トータルフットボール







この時見せたオランダの戦術の数々が、現代サッカーの礎になったのだ。


選手時代晩年~渡米、そして帰郷


78年にバルサとの契約を終え、一度引退したクライフが向かった先は新大陸アメリカだった。
もっとも、ビジネスに関して後ろ盾であった義父から自立し事業を色々始めたものの、見事に騙され財産の4分の3を失う事態にまでなっていたという事情もあるが。
68年に発足したばかりのNASL(北米サッカーリーグ)はサッカーの王様ペレがNYコスモスに移籍したことにより、一種のブームが巻き起こっていた。
歴史の浅いNASLは人気を定着させるべく、各国からスター選手を買い漁った。要するに90年代黎明期のJリーグや2010年代の中国リーグ、2020年代のカタール、サウジリーグなどと同じような状況。
NYコスモスはエキシビジョンとして参加したクライフに優先的交渉を行うための仮契約を締結し、3年契約で400万ドルを提供したが、
アメリカサッカー界の発展の助力となりたかった彼は果たすべき役目はないとし、固辞した。
79年、移籍した先は恩師ミケルスのいるロサンゼルス・アズテックス。ここで彼は早速持ち味を発揮し、年間最優秀選手に選ばれる。

翌80年には、ワシントン・ディプロマッツに移籍。
実はこのクラブは日本にも遠征し、5試合を戦っている。
クライフは怪我のため3試合に前半だけ顔見せした程度だったが、日本のファンはこぞって詰めかけた。
ちなみに福岡での日本代表との一戦では後の代表監督、岡田武史氏ともマッチアップしている。
また、この時期クライフはワシントン大学のセミナーに参加し、スポーツ管理学を学んだ。
この経験が監督時代に役に立ったのは言うまでもないだろう。

だが、NASLのブームは長くは続かなかった。スター頼りで自国の若手が育たず、そのスター選手たちはすでに年齢的に峠を越えていたため、程なく衰退。
他にも各クラブ間の財政力の不均衡など様々な問題を抱えていたNASLは、84年に解体の憂き目を見る。
とはいえ94年W杯の成功と新たに設立されたMLS(メジャーリーグサッカー)という、再度の挑戦でアメリカへのサッカー定着は成功したといえ、NASLの反省は活かされたようである。

81年2月にはスペイン2部レバンテに移籍するが、10試合に出場してわずか2得点。
おまけに会長が中米に夜逃げし、事前に約束したボーナスを受け取れず、たった4ヶ月でケンカ別れ。
6月にはACミランとの契約交渉を進め、招待選手として親善試合に出場。
しかし45分だけ出場したこの試合で怪我のため精彩を欠き、ミラン入団はお流れに。
このまま引退は決定的だろうと思われた……が、オランダに帰還した時、彼は輝きを取り戻す。

クライフは11月、古巣アヤックスへ復帰。
復帰した時すでに34歳と選手人生は晩年だったが、2度のリーグ優勝とオランダ杯を獲得。
中でも、82年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦ではサッカー史に残る有名なゴールを決めている。


PKを味方にパスしてワンツーという、コロンブスの卵的発想の奇想天外なゴール。
後にこのPKパスはティエリ・アンリとロベール・ピレスが挑戦して失敗したが、メッシからルイス・スアレスへアシストと言う形で成功させている。

……が、アヤックスとクライフは再び軋轢を起こす。
ちょうどその頃、第二の父親「ヘンクおじさん」が他界した上、故障が相次ぎ彼は心身ともに満身創痍と言ってもいい状態だった。
そこにアヤックスは追い打ちをかけるように引退勧告をしてきたのである。当然彼が憤らないはずがない。
何と、翌年ファンとの対立も顧みず、最大の宿敵フェイエノールトに移籍し、リーグ優勝とオランダ杯の2冠を獲得したのである
叛逆児は現役最後の時まで自らの姿勢を貫いたのだ。

これを最後に選手としてのキャリアに幕を下ろした彼だが、程なくして監督という新たな道へと踏み出していくことになる。
世の中には「名選手、名監督にあらず」の言葉があり、監督になっても選手時代ほどの業績を残せないケースが多い。
しかしクライフは今までの常識を悉く打ち破ってきた男である。彼の場合、この格言さえ全く通じなかった
そして、選手時代に匹敵するかそれ以上の業績を成し遂げていくことになるのである……


監督時代~ドリームチーム


古巣に反旗を翻して2年後の85年。
アヤックスに「放蕩息子」が帰ってきた……監督として!
クライフは監督のライセンスを持っておらず、そのための勉強をしたことがなかったが、名前とカリスマ性だけで通用した。
というか彼は路地裏やフィールドの上ですべてを学び、サッカーについてわざわざ机上で勉強しなくても何でも知っていたのだ。
ただ、このままだとスタンド入りできなかったので、「テクニカルディレクター」という役職を新たに設けた。*6
理論的には監督の上に立つ、クラブのサッカー全体に関する責任者とでも言うべきもの。
さらに言えば、選手の食事内容から移動や宿泊先、選手の契約期間から年俸、放出選手の移籍金まであらゆる決定権を持ち、すべて思うがままにできる権限である。
これはアメリカ流のもので、クライフが最初に欧州に持ちこんだ概念だ。
87年にはフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン、アーロン・ヴィンター、デニス・ベルカンプを擁してカップウィナーズカップを制覇した。

だが、こうしたやり方は体制側から疎んじられるもの。
やがてアヤックスの理事会は次第に彼の独裁的な姿勢を嫌うようになっていった。
最終的に自分の判断だけでファン・バステンのミラン移籍を決めたのが決定打となり、三たび決裂するのであった。

その頃、もう一つの故郷バルサは大変な危機に見舞われていた。
クライフが去った後のバルサは低迷が続いており、リーグ優勝を果たしたのは84-85シーズンのみ。
その状況を打破すべく86年、メキシコW杯の得点王であるイングランド代表のゲーリー・リネカーとウェールズ代表のマーク・ヒューズを獲得。
が、当時は外国人選手を2人までしか登録できなかったため、中心選手だったベルント・シュスターとスティーブ・アーチボルドが登録外に。
ベンチにすら入れなくなった二人は当然激怒、メディアを通して激しくジョセップ・ルイス・ヌニェス会長たちを批判した。
……この時点でものすごい泥沼である。これで結果を残せるほうがおかしい

86-87シーズンはクラシコでリネカーがハットトリックを達成したこと以外見所がほぼないまま終わった。
翌シーズン、リーグ序盤でテリー・ベナブレス監督が解任され、ルイス・アラゴネスが新監督に就任。
しかし荒治療もむなしく不甲斐ない試合続きで、カンプ・ノウのスタンドには抗議の白ハンカチが毎試合乱舞。
トドメに88年4月28日、選手肖像権に関する税金未納問題が国税局の指摘により発覚。選手たちはエスペリア・ホテルにて会見を開き、会長の退陣を要求した
まさに前代未聞、これが世に言う「エスペリアの反乱事件」
これに愛想を尽かしたソシオ(クラブ会員)たちは、その2日後のカンプ・ノウでのクラシコすら投げ出した。
試合を見に来たソシオも、バルサの選手にブーイングするだけでなく、マドリーの選手のプレーに拍手する始末。
チームどころか、上層部からソシオに至るまでクラブのすべてがバラバラ……
この大混乱の最中、ヌニェス会長が再選のために打った一世一代の大博打こそ、「クライフの帰還」だった。

ところが、会長とクライフの仲は元々良好ではなかった。
あらゆる実績と知恵、強い個性と信念の持ち主を兼ね備えるがゆえに、軋轢や衝突を何度も繰り広げるクライフの性格を会長はよく知っていたのだ。

バルサに舞い戻ったクライフは宣言した。
「フットボールチームには一人の独裁者が必要である。そして、バルセロナの独裁者はわたしである」
言葉通り、彼はいきなり大ナタを振るう。
前年に在籍した選手たちのうち残ったのはわずか9人、残りの10人以上は全員放出された。新たに補強した選手は12人。
このことでチームが大幅に入れ替わったため、シーズンが始まるまでのわずか1ヶ月間に新たなシステムの基本を浸透させなければならなくなった
オランダでの合宿では初日からいきなり練習試合が組まれ、そこから丸2週間一切休みなし。
そしてバルセロナに戻ってからさらに9回の練習試合。異例のハードスケジュールである。
迎えた新シーズン、マドリーに5ポイント差の2位で終わるものの、カップウィナーズカップを獲得。人々は新生バルサに期待をかけた。

しかし、2年目は産みの苦しみを体現したようなシーズンとなる。
紳士かつ誠実な姿勢でファンの人気を得ていたリネカーと仲違いし放出。
このシーズンも結局マドリーが大差をつけて5連覇を達成、ソシオの間でも解任動議が提案されるなど不満が燻り始めるが、
どうにかマドリーを破って国王杯を獲得し、首の皮一枚で繋がっているような状況だった。

迎えた3年目。ついにクライフバルサはドリームチームとして花開く。
彼は才能あふれる外国選手たちを呼び寄せていた。
ミカエル・ラウドルップ、ロナルド・クーマン、フリスト・ストイチコフ……
カンテラ(下部組織)からは、後にサッカー史上最強と呼ばれるバルサを率い、クライフの理想を完璧に再現したジョセップ・グアルディオラ(以下ペップ)などを発掘。
90-91シーズンは前半戦だけで14勝3分け2敗という圧倒的な成績を叩きだし、そのままマドリーに大差をつけて優勝。
さらにそのスタイルは、当時主流だった防御一方で結果第一主義のサッカーに一石を投じるものだった
それは、70年代の「トータルフットボール」をさらに進化させた、エンタメ性あふれる攻撃サッカー。
皆がリスクを恐れず攻めまくるスペクタクルな試合が客を引き付け、べナブレス時代4万人程度しか入らなかったカンプ・ノウに9万人もの観衆を呼び戻した。*7

91-92シーズンにはペップが本格的に大活躍し始める。
バルサは6年ぶりにCC決勝に進出。
これまでバルサは2度決勝に進出していながら悉く涙を飲んできた過去があった。まさに積年の雪辱を果たす大一番。
選手たちが聖地ウェンブリーのグラウンドに出る時、クライフはこんな言葉を投げかけた。
「さあ、楽しんで行って来い!」
バルサの攻撃的サッカーに対し、カウンターで得点を狙う相手サンプドリア。
両者再三のチャンスをものにできず、試合は延長後半戦へともつれ込んだ。
この展開に、前評判で圧倒的優位と言われながら、PK戦で4人が失敗し敗れた6年前の「セビージャの悲劇」の記憶がファン達の中でちらつき始める。
しかし延長後半6分、ついに試合が動いた。


クーマンの度肝を抜くようなFKは相手の壁を突き抜け、ゴールに突き刺さった。
試合終了の笛が吹かれると、カタルーニャ広場やランブラス広場に何十万人と人が押し寄せ、
バルセロナ、いやカタルーニャ全体が文字通り永遠に続くかのようなお祭り騒ぎになった。
悲願のCC初制覇。92年5月20日はバルサにとって最高の日となったのだ。
カタルーニャ州庁舎のバルコニーに姿を現したペップは叫んだ。
「バルセロナ市民のみなさん! ついに我々は戻ってきた!」
これはフランコが死去した時、カタルーニャ首相ジョセップ・タラデリャスが20年間にわたる亡命生活を終え、バルセロナに戻ってきた時に語ったのと同じ言葉。


その直後にはマドリーとのリーグ優勝をかけた戦いがあった。
最終節直前、バルサは勝ち点差1で2位につけていた。得失点差では勝っていたため、勝ち点で並べば優勝が決まるのだ(当時は勝利時のポイントが2)。
バルサとマドリーの最終戦のキックオフは6月7日同時刻に始まった。
テネリフェでのマドリーは順調に試合を進め、前半で0-2。このままではバルサが勝っても、マドリーが優勝してしまう……!
カンプ・ノウの観客たちは目の前の試合そっちのけで、テネリフェ対マドリーの試合のラジオ中継にかじりついていた。
するとここからまさかの展開が起こる。何とマドリーは後半に入ると、オウンゴールにGKのミスなどが重なり、3-2の逆転負けを喫したのである!
一方バルサはこの最終戦にきっちり勝利し、シーズン初めから首位を走っていた宿敵相手に最後の最後で大逆転というこれ以上ない形でリーグ連覇を決めたのだった。
ウェンブリーの決戦から日が経ってないのもあって、カタルーニャ各地はますますお祭り騒ぎに。

92-93シーズンは即戦力となるような補強は無しで、現状維持。
このシーズンもまた、マドリーが最終節を前に1ポイント差で首位に立っているという状況。
その結果、バルサは勝ち、マドリーは再びテネリフェに敗れるという、これまた前年にそっくりな展開で史上初の3連覇
しかしこの頃から、スター選手たちとの軋轢が表面化しつつあった。
紳士的で、繊細な芸術家肌のラウドルップは強豪相手に燃えるが、格下相手にはモチベーションが下がるタイプであった。
クライフの度重なる挑発、批判に耐えかね、彼はだんだんと鬱屈していく。
荒くれ者のストイチコフもまた、彼の批判の矢面に立たされた選手だった。
こちらは批判に対して真っ向から反撃するタイプであり、それがますます批判を招くことになっていく。

93-94シーズン、劇薬がバルサにやって来た。ロマーリオである。
「バルサが俺と契約したのは、俺のゴールが必要だったからだ」と豪語するブラジルの天才は、在籍期間はわずか2年だったが、
クライフが「一人の選手が持てる可能な限りの才能を持ち合わせている」と太鼓判を押すほどの能力を見せつけた。
問題は外国人枠。ラウドルップ、クーマン、ストイチコフ、ロマーリオ。同時にプレーできるのは3人までである。
「もし少しでも気を抜くような選手が現れたとしたら、その選手にはベンチ生活が待っているだろう」と、クライフは選手たちにプレッシャーをかけた。
最終節、またまた逆転優勝をかけて臨む試合となったが、バルサは相変わらずの強運を見せつける。
首位のデポルティボは試合終了間際にPKを止められ引き分け、バルサは勝利。
勝ち点で並び、デポルとの直接対決の成績で上回っていたため、ついにリーグ4連覇
この調子で、4日後のアテネでのチャンピオンズリーグ(CL)決勝ミラン戦も勝てると誰もが楽観視していた。
2月から無敗の絶好調だった上、相手の主将フランコ・バレージとアレッサンドロ・コスタクルタが出場できないのだ。*10

……果たして待っていたのは、あまりにも残酷な結末だった。







BARCELONA     vs    AC MILAN

0  -  4


22'MASSARO 45'MASSARO 47'SAVICEVIC 58'DESAILLY







天国から地獄に突き落とされるかのような、壮絶なまでの大敗
匹夫ファビオ・カペッロ監督はウェンブリーの時が嘘のように楽観的なバルサを尻目に、完璧な準備を整えてこの試合に臨んだのである。ジーザス憤死しかけたのでは……
クライフが生み出したスペクタクルなサッカーは多くの者を魅了したと同時に、同じ数の挑戦者も生み出していたのだ。
この試合を境に、ついにドリームチームの落日が始まる。

翌日にはスビサレッタとサリナスは戦力外を言い渡され、ラウドルップはマドリーに「禁断の移籍」をしてしまった。
チームはたちまちタイトルから見放され、94-95シーズンは皮肉にもラウドルップが移籍したマドリーがリーグ優勝。
95-96シーズンにはクーマンも、対立の果てにストイチコフも去っていった。
サイクルの終わりを実感していたクライフは生え抜きの選手を多く起用するなど、原点への回帰を目指した。
が、ここまで来ると、クラブ上層部が黙っているはずがない。
ヌニェス会長は「誤った決断を下した」「自分の利益のためにバルサを利用しようとした」と告発。この時すでに次期監督としてボビー・ロブソンと契約を取り付けていたのである。
クライフは突然の解雇を言い渡され、別れのあいさつすらさせてもらえなかった。

解任の翌日のホーム戦。そこにもうクライフの姿はなかった。
しかしそこで勝利の立役者となったのはジョルディ・クライフ…彼の息子だ。
終了間際に交代でベンチに下がるジョルディを、観客たちがスタンディング・オべーションで送る。
やがて「クライフ、クライフ!」と、バルセロナを愛した親子へのエールがいつまでも響き渡るのであった。

───バルサの監督に就任してから8年。
獲得したタイトルはリーグ優勝4回、国王杯1回、カップウィナーズカップ1回、CC1回、スペインスーパーカップ3回
「わたしは栄光の時代を築くためにやって来た」の宣言通り、かつてないほどの黄金時代を築きあげたクライフ。
終わり方は呆気なく寂しいものではあったが、バルサにとって忘れられないくらい大きなインパクトを残した。
何より、数々のタイトル以上に大切なものをサッカーに関わる者たちに教えた。
それは難しい戦術などではなく、「ボールを持つこと」「フィールドに出て楽しむこと」という、サッカーの根幹をなすシンプルかつ重要なテーマ……

月日は流れて99年3月10日。
彼を称えるために行われた親善試合*11は満員御礼。
そこにはかつてのドリームチームのメンバーがほぼ勢ぞろい。
スビサレッタ、ラウドルップ、ストイチコフ、クーマン、エウセビオ、サリナス、チキ・ベギリスタイン……
かつて追われた選手も、自ら去っていった選手も皆、過去の問題をすべて忘れてカンプ・ノウとクライフの元に戻って来た。
そしてカンプ・ノウの観客席から「ヨハン、ヨハン!」のかけ声が繰り返しこだまする……
ドリームチームの記憶はいつまでも、美しいまま残り続ける。


───彼のまいた種は、暗黒期を終焉させたライカールト時代や、ペップがもたらした黄金時代につながっていった。


その他のエピソード
















名言集


  • ボールを動かせ、ボールは疲れない。

  • 美しく勝利せよ!

  • すべての短所に長所がある。

  • ボールを持っていれば、点を取られない。

  • フットボールはとてもシンプルなものである。しかし、最も難しいのはシンプルにプレーすることである。

  • 才能ある若手にこそ、挫折を経験させなければならない。挫折はその選手を成長させる、最大の良薬だからである。

  • 怒りは、大きなことを達成するためのバネとなりうる。

  • 理解できるまではわからない。

  • 能力のない選手ほど、他人のミスを責めたがる。

  • 月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと心中した方がマシだ。

  • 1-0で守りきって勝つより、4-5で攻めきって負けるほうがいい。

  • 勝つ時は少々汚くてもいいが、敗れる時は美しく。

  • いくら点を取られても、相手より1点多くとればよい。

  • 現代のサッカーは楽しさが欠けている。
    子供の頃から走ること、戦うこと、結果を求めることばかりを追求し、基本的な技術すら身につけないことはバカげている。

  • フットボールの試合は、まず観客を楽しませなければならない。

  • 大量にリードしている時はわざとシュートをバーに当てる。そのほうが盛り上がるからね。

  • ひとたびピッチに立ったら、人生同様、試合を満喫しないとね。

  • サッカーとは頭で考えるスポーツである。

  • 選手がうまくプレーできないのは、ポジションが適正じゃないからか、才能がないかのどちらかだ。

  • 小国が試合に勝つためには賢くなければならない。

  • よい監督は、あるプレーヤーの短所を、別のプレーヤーの長所でカモフラージュする。

  • 普通の監督は、勝利したものをコピーしようとする。なぜなら、誰もが勝利を望むからだ。
    しかし、わたしが常に大切だと思うのは、フットボールの場合、ボールは友達であるということだ。
    ボールが望むようにプレーする。友達でなければ、ボールはどこかへ行ってしまうからね。

  • わたしはどんなイタリアのプレイヤーよりもデル・ピエロを好む。彼のプレーはとてもファンタスティックだ。
    ただ強いて言うなら彼はイタリアに生まれるべきではなかった。イタリアサッカーは彼がそのプレースタイルのままでいようとすることを許さないだろう。


  • (世界最高の選手と呼ばれていることについて)わたしもそう思う。

  • わたしはフットボールを始めて以来多くの選手を見てきたが、みんなわたしより下手だった。
    わたしは下手な選手を誰よりも見続けてきた。だから彼らの気持ちはよくわかる。

  • わたしは間違ったことがない、間違うことはわたしにとって難しいからだ。

  • わたし以上にサッカーのことを知っている人間などいない。誰が監督講習で、わたしに授業をするというんだい?

  • ボールを持てばわたしが主役だ。決定するのはわたしで、だから創造するのはわたしだ。

  • わたしが来る前はクラブの金庫はいつも空だったが、わたしが出て行く頃には金庫はいっぱいだった。

  • わたしはどのオランダ人よりもスペイン語が上手。だが、どのスペイン人よりもスペイン語が下手。

  • プレッシングは優れたテクニックの前では無力だ。

  • ボールを奪われたら追うのは当然だ。でも60メートル走るなよ。6メートルでいいんだ。

  • プレーがうまく行くか行かないかは、だいたい5メートル以内で決まるんだ。

  • サッカーでは100メートルより30メートルから40メートルを速く走ることが重要。だがもっと重要なのは”いつ”走るかだ。

  • ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ。

  • ボールなしでもゲームを支配することは可能だし、ボールありでも可能だ。

  • 試合終了後、ウイングのスパイクの裏は、タッチラインの石灰で真っ白になっていなければならない。

  • (マークを外すのが得意なアトレティコのマノロ・サンチェス対策を聞かれて)何もしなくていい。遠巻きに見てろ。*13

  • 最終節に逆転優勝したのがラッキーだという連中がいるが、それは間違いだ。
    最後の最後に持てる力を発揮して勝利をもぎ取ることは真に力のある者にしかできない。

  • いくら技術に優れたスーパースターでも、その上には、勝者が、チャンピオンがいるものだ。

  • 決勝で敗れた後、わたしは茫然自失となった。
    しかし数年後、サッカーファンの記憶に残っているのは勝った西ドイツではなくて、敗れたオランダの方だと知った。

  • 本当に素晴らしいフットボールは、国境を超え、自分の属する国籍までも忘れさせ、人々を熱狂させることだ。

  • 勝とうが負けようが、後に残したもの、それが重要なのだ。

  • W杯と最優秀選手賞のどちらが欲しいかと聞かれたら、間違いなく後者を選ぶ。
    優勝したチームが魅力的とは限らないが、後者は一番魅力的なフットボールをした選手に贈られるものだから。

  • スタジアムに陸上トラックがあるクラブでは、絶対に働きたくないね。

  • イタリアは勝つことができなくても、われわれがイタリアに負けることはある。

  • イングランドのフットボールは見ている分には最も面白い。選手が危険を冒し、たくさんミスをするからだ。

  • マスコミによってわたしの人生は変わったと思う。特に本心を外に出してはならないと学んだ。

  • 他人を妬むのは醜い。しかし嫉妬せずにいられない人々もいる。

  • フットボールとは面白いものだ。いつこの世界から自分を抹殺してくるか分からない相手なのに、いつもそいつの首を救うことになるんだから。*14

  • 他の人が学校で学ぶことを、わたしは現実から学ばざるを得なかった。

  • 10年前ほどわたしは速くないかもしれない。けど今はもっとよく見えるようになったし、若くて速かった頃のようにエネルギーを消費しないんだ。

  • アヤックスとはサグラダ・ファミリアのようなもの。どちらも1日で出来あがるわけではない。

  • 人生で避けられないことは3つ。死と納税とバルサの優勝だ。














  • すべてに終わりが来る。しかし、ある意味、わたしは永遠だ。
Gracias Johan.

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最終更新:2024年11月10日 03:22

*1 実際にアヤックス(AJAX)と同じ綴りの食器用洗剤が存在する。ただし発音は「エイジャックス」

*2 この義父がマネージャーになったおかげで広告収入を荒稼ぎするなど、彼のブランドイメージが確立された

*3 アルフレッド・ディ・ステファノのようにすでに契約を交わしていた選手を強引に引き抜いたり、審判を操り選手を脅すなど

*4 当時はカタルーニャ名であるこの名前は禁止されていたのだが、クライフは「わたしはオランダ人だ、息子の名前はわたしが決める」と押し通し、結果、息子は当時のバルセロナで初めて公的に登録された「ジョルディ」となったのだった

*5 ここでミケルスが監督をしているのを見て「……ん?」と思った方も多いかもしれないが、実際大会3か月前にフランティシェク・ファドロンク監督が解任され、急遽バルサで監督をしていたミケルスにお鉢が回って来た。準備期間の短さはもちろん、大会が始まるまでアヤックス組とフェイエ組の対立、主力選手の相次ぐ離脱と問題山積みだったという

*6 もっとも、彼は80年に選手兼テクニカルアドバイザーの役職で監督としての第一歩を踏み出していた。11月30日のトゥエンテ戦、ホームで1-3でリードされるというあまりに不甲斐ない試合にいたたまれなくなり、ベンチに割り込み指揮を飛ばしたところ、なんと5-3の逆転勝利を収めてしまった

*7 その代わり、あまりにも攻撃に偏るため「ヒッチコック・ディフェンス」と揶揄されるほど守備がガラ空きになることも。観客はもちろん、一人でエリア外に出ざるを得なくなるGKのアンドニ・スビサレッタは常にヒヤヒヤものだっただろう

*8 フルーツフレーバーの重曹。スペイン人が胃腸を壊した時によく飲むもの

*9 監督とアシスタントコーチの関係は封建的な主従関係そのものと言っていい

*10 だが、クライフ本人はチームが死力を尽くしてリーグ優勝を果たし、ガス欠状態になっているのを見て、この試合に勝てないであろうことを予感していたという

*11 監督時代の契約書の中に、「もし契約の途中で解任した場合、その後3年間クラブの監督をしなければ、クライフを称える親善試合を行うか、3億ペセタを支払う」という条項があったため、ヌニェス会長はしぶしぶ開催するハメになった

*12 06年から胸にユニセフのロゴを入れていたが、これは社会貢献にアピールするためで、年間150万ユーロを支払っていた

*13 その作戦は見事的中し、不自然な自由の中マノロは混乱、完璧に封じ込められた

*14 マドリーの名選手、ホルヘ・バルダーノが監督へのオファーを受けた時に送った手紙より抜粋。クライフ自身も、バルサとの契約を結んだその時から常に上層部から睨まれ続けていた