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日本刀

登録日: 2009/06/14(日) 00:12:20
更新日:2024/12/09 Mon 20:34:28
所要時間:約 32 分で読めます




この項目では現実の日本刀について扱う。
フィクションやカルチャーにおける日本刀については日本刀(漫画・ゲーム)の項目を参照。


【概要】

日本刀とは、日本の独自の製法で作り上げた類を示す。
日本刀と言えば断りがなければ、基本的に打刀のことを指してることが多い。

本来、刀は刀であり、本来は「日本」で修飾される必要がなかったが、明治維新以降の欧米文化流入やナショナリズムの成長、
そして旧陸海軍で採用された軍刀やアジア圏の他の刀剣類などとの差別化のため、日本刀と呼ばれるようになった。


大分類としては、薙刀(なぎなた)や忍刀も日本刀に分類されるが、一般的にイメージされるのは、反りのついた鋭い片刃の打刀の事である。
日本刀は、西洋の剣に代表される様な質量で「叩き切る」のではなく、「斬る」「突く」という事に優れているという言説も見られる。

尤も西洋剣も「刃筋を立てて切り裂く」剣技などは多数あり、かつ切れ味も鋭いものも発見されているため、
西洋剣は切れ味が悪くて振り回すだけ」というのは、日本刀贔屓ではあるのだが、近年までヨーロッパの刀剣類の研究はほとんど進んでおらず、19世紀に提唱された英国学者らの推論そのままだったというのが大きい*1
また、日本では「使い古されたモノは新品よりも信頼性が高いが、新品はその信頼性がわからない」という価値観から現存する名刀が多いが、逆に向こうでは「古いものより新しいもの」という価値観の違いや「慢性的な戦乱の大規模化により、文化財の散逸・焼失しやすい」といった歴史的な背景から、現存する名剣の類いは皆無である。
日本刀の場合は歴史的経緯とニーズの変化などにより、大太刀のほとんどが打刀程度に磨上(すりあげ)されており、原型は留めていないが後に遺ったものは多かったということも大きい。

元々は日本の剣も鋳造の諸刃であった。
古代の銅剣や三種の神器の一つである「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」なども諸刃の直剣である。
これは、日本に金属が伝わった時点で大陸では軍用としては片刃が主流であり、諸刃はほとんど儀礼用あるいは民間人の護身用だったため。
日本に大陸軍が遠征してきた訳でもない以上、片刃のものは伝わりづらく、漂着しやすかったのが諸刃のタイプだったからである。
また戦闘形態の違いや武器の移り変わりが欧州と異なっていた事や、高温多湿の風土から西洋の一部で使われたプレートアーマーの様な全身を覆う防具が好まれず
露出している肌を斬り付ける攻撃が有効であった事から、より斬る事へと特化していった。これは同じ気候のアラブ圏におけるシャムシールや、中国における柳葉刀と同じ傾向である。
今のように、鞘から抜き易い様に反った形状になったのは平安時代中期と考えられている。

日本や中国における漢字圏では、「諸刃=剣」「片刃=刀」という漢字を当てて区別しているが、欧州では諸刃も片刃もひっくるめて(ソード)の分類である。
また、欧州では鋳造による諸刃の剣ばかり……というイメージが強いかもしれないがこれも、誤りである。
時代・文化(民族)によって様々であり、冶金技術もそれに応じて異なる。
なぜそうなったのかは欧州の歴史と武具を紐づけていくと分かりやすいと思う。日本は異民族によって滅び滅ぼされの過去がないのでイメージしにくいかもしれないが…。

余談だが国内・国外でも片手で扱うナイフ類については、取り回しを良くする為に片刃にするのが一般的である。


「刀匠=ブランド」という意味合いも兼ねており、妖刀「村正」などは刀匠の名からその刀が連想できるほど有名である。
他にも、正宗、村雨、虎鉄、孫六兼元、菊一文字
あたりは創作で出てくることが多いので一度は聞いたことがあるだろう。



【歴史】

中世前半(武士台頭~南北朝の戦いまで)

平安時代後期頃に太刀(刃を下にしてさげる*2)として成立した日本刀は、今日の多くの人が想像するような刀よりも長く、かつ大きく反っていた。

しかし初期の太刀は合戦で常用する武器ではなく、危険回避用的に使われるか、日常的に起きる喧嘩・乱闘で使うモノという考えが主流だった。

(現代の日本とは違い、中世の日本では法治もモラルも崩壊していたため、戦争や抗争によらない殺人が日常風景と化していたといわれる*3。中世では、喧嘩で武器を使用することは珍しくなく、太刀などで武装した強盗も多かったため、護身用として就寝時に枕元に太刀や弓矢を置いておく習慣もあった。)

この段階では、騎乗した武士*4が、その馬を走らせながら弓矢の撃ち合うのが合戦のメインであり、太刀はやむを得ず馬を乗り捨て、徒歩状態になってしまった場合のみ使用した。この他には薙刀を持った歩兵(後の雑兵・足軽)もいたが、歩兵はまだ戦闘に寄与する存在ではなかった。

ところが平安時代末期に源平合戦(治承・寿永の乱)が勃発すると、この状況は大きく変化する。この戦争は以前の決闘めいた暗黙のルールのもとに行われていた小競り合いとは違い大規模かつ長期的な内乱だった。この源平の合戦では本来武士扱いされていなかった身分の人々が、武士身分として戦争に参加するようになり、戦闘のルールが崩れ、日常の喧嘩で使う武器だった太刀が、合戦であっても積極的に使われるようになったとされる。
源平以前ならば、武士の武芸・武術は「弓馬の道」という言葉があるように、弓術・馬術・相撲が重視されていたが、鎌倉時代に入ると新たに「剣の武芸」なる概念が登場する。この文言は『吾妻鏡』に載るくらいなのでそれなりに認知されていたと思われる*5

その後、源平の合戦に勝った源氏により鎌倉幕府が成立、社会が安定したことで再び以前のような小競り合いが続くようになるが、今度は蒙古襲来を境に再び社会が不安定になったことで、戦乱が各地で起こるようになり、やがて鎌倉幕府も倒される。

ここでも武器や戦法の変化が起こる。鎌倉時代中期までは弓矢で戦う騎兵同士の戦いが主体だったが、今回は戦乱の更なる大規模化により、訓練に時間がかかる弓使いよりも、訓練に時間がかからない太刀や薙刀が重視されたことで武士の間で白兵戦の増加した。
甲冑も接近戦向けの物へ重装甲化していき、弓の代用品となった太刀や薙刀も大型化し、その後に発生した南北朝の乱では、長大な日本刀(大太刀・長巻)が流行したといわれる。ちなみに武士の武器だった弓矢は位の低い雑兵達(歩兵)の得物に変化し、威力も上がっていたことで籠城戦などで猛威を振るうことになり、雑兵の戦力的な価値が向上していく。

「槍はどうした槍は!?」と思われるかもしれないが、槍のような武器が中世日本に現れたのは南北朝の戦いから*6で、それもここで言う武士の武器ではなく、この頃はまだ戦に寄与しない下級兵士の得物だったらしい。武士階層に普及するのは室町時代中頃という説もある。

ちなみに、甲冑を着こんだ戦場での太刀の使用法は、甲冑の防護が手薄な四肢などを斬り付けるだけでなく、兜で守られた頭部を殴り付け、脳震盪を起こさせ、隙が生まれたところに、組み付いて短刀で止めを刺す使い方もした。特に南北朝の戦いが起こる前は、兜にクッションが備えられていないことがほとんどであり、しっかりと頭に固定していなかったため、強打されると脱げやすく、脳震盪も起こしやすかった。そのため太刀で殴り付ける戦法は効果的だった。

もちろん、固い兜を殴り付ければ、刀身が曲がってしまうこともあったが、そんな時は戦闘後などの足で踏んづけて曲がりを修正した。体系化された剣術が成立する前の時代だったこともあり、刀の使用法はかなり乱暴であったのだ。

中世後半(南北朝の戦い終結後)

南北朝の戦いが終わり、室町幕府が立てられ平穏が訪れたと思いきや、今度の幕府は力が弱く常に内戦の火種が渦巻いていた上、耕作技術の向上により人口が増えたことで余裕ができ、武士でない人々も自治権を求めて各町村の独立が強まり重武装化の傾向がよりいっそう強まった*7。それによって社会が不安定なのは変わらず、各地で些細な揉め事であっても、その解決法として刃傷沙汰が頻発するようになる。

それにより平民の団結と武装化が進んでいき、彼らの持ち歩く護身用として、短く反りが浅いもの・・・今でいう打刀が室町時代の中頃あたりから出まわり始める。やがて、貴族や武士達もこれは使い易いということで、そういった刀を腰に帯びるようになった。*8
また反りの具合から刃を上にして差し入れると腰を撚るだけで抜刀出来て、なかなかに便利である。
ついでだから服装ももっと楽なものにしてしまえ、というのが室町末期から安土桃山時代の「戦国時代」の衣装である。

ぶっちゃけ、刀が護身用の道具であると共に犯罪者の凶器でもあった点は、室町時代であろうが、戦国時代あろうが、その前の鎌倉時代や平安時代とあまり変わらない。
…というか武装する層が増えてむしろ悪化している。

ちなみに日本剣術の源流が生まれたのもこの室町時代の頃である。
戦国時代になり、武将や公家などの高貴な身分の人々が剣術を習うのは、政敵による暗殺・襲撃の懸念だけでなく、ほんの些細な感情の弾みで、部下や友人が殺人者に変貌してしまうかもしれないという不安もそれなりに大きかったからでもある。

いかに合戦が多い時代といえども、実際には甲冑を着込んで合戦をしている時間よりも、平服で日常生活を営んでいる時間の方が長い。加えて合戦に兵士や後方支援要員として関わるのは、全体人口の一握りであり、多くの人間にとって、もっともその使用を目にする武器は刀剣類となる*9

平時の護身というと、合戦と比べてなんとなく軽視されやすいが、当時の物騒な社会背景を考慮すれば、あまりバカにできないし、後世に刀が持ち上げられるのも、けして霊媒的なモノだけが理由ではない。

……とまぁ、ここまではあくまでも合戦でない平時の話である。

では戦争の場合はどうなのかというと、合戦の武具としても大太刀は馬上で振り回すための大型武器として鎌倉時代末期以降より使われていたが、古今東西の大型刀剣の共通項として「とにかく値段が高いこと」*10が問題視されただけではなく、馬上で槍や薙刀等の長柄武器を扱う技法が室町時代の後半から確立したため、活躍の場を狭めていく。

やがて戦場が大規模化し、歩兵主体になってくるにつれて大太刀の衰退は加速し、鉄砲、刀という装備が主流になっていった(使用されなくなったわけではなく、大太刀や長巻を使用する兵士は少数ながら戦乱期の終わりまで存在していたし、島津氏や朝倉氏、徳川氏などの一部の大名はそのような者たちの部隊を持っていた。)。

なお当時は自分の装備は自分で負担するものであり、殿様や雇い主が武器を貸し与えるのが主流になるのは、実は戦国時代の末期である。*11

こうした諸々の事情から、太刀から「打ち下ろす」刀である打刀が主流になっていった。

ちなみに戦国時代の終わりには、江戸時代に武士の身分標識として強制化される大小二本差、すなわち打刀と短めの打刀(脇差)のセットを身につけるスタイル(通称大小)が主流になり始める。

なお、この時代の合戦における刀の使い方というのは、どうも後述の介者剣術とはやや異なり、手足を狙って斬り付けるものだったようである。戦国時代後半から末期における合戦の様相も記しである、兵法書『雑兵物語』には、防具の手薄な手足を狙って斬り付けることが推奨されており、実際に戦国時代を経験した武将である太田牛一が書き残した『信長公記』には、手足を斬りつけられ返り討ちにされた、窮地に追い込まれそうになった武将や兵士の逸話が登場する。

近世*12(豊臣秀吉による天下統一後)


この頃になると、日本各地で頻発していた内戦も、豊臣政権による天下統一を境に沈静化していく。

以前は治安の悪さから武士だけでなく、百姓や僧侶が帯刀するのは珍しくはなかったが、政権発足後は治安維持や身分統制等の理由から、武士以外の帯刀や武装権を規制する刀狩りに、大名のみならず各町村同士の勝手な武力紛争を禁ずる喧嘩停止令が発令された。

これによって実質的に大小の帯刀が武士のみに制限されたことで、「弓矢が武家のシンボル」が廃れ、「刀は武士のシンボル」という認識へシフトするようになり、戦国時代までは「刀」と言えば現代でいうところの短刀のことを表すのが一般的だったのが、太刀や打刀といった刀剣類を示すようにもなったといわれる。

刀の形状に関しては、安土桃山時代ではやや長めの打刀が流行っていたが、江戸時代辺りから定寸と呼ばれる刃渡り二尺三寸(約70cm)前後のモノが主流となり、これが現代に続く、日本刀の基本的な長さとなる。
刃渡りが短くなっていった理由としては「想定される使用場所が広い戦場から狭い場内や街中へシフトしたため」「平時でも邪魔にならずに帯びるため」等があるがはっきりしない。

しかしながら、実際には各地域毎にバラつきが大きく、百姓が大小を帯びることもあったし、許可制ながらも、護身用として旅人が短めの刀を携帯することは珍しくなかった。また、地方によってはより長い刀を携帯することが可能な地域もあり、刀の刃渡りの制限に関しては、かなりいい加減だった。なお定寸と呼ばれる刃渡り二尺三寸の由来は不明であり、幕府の法令が起源としているものの、その由来は「剣術の1流派の内容を参考にした」説や「あえて絶妙に扱いにくい刃渡りとした」説、「登城の際のマナーだった」説などもある。

西暦1700年代辺りには「刀は武士の魂」というフレーズの元となる、「大小は武士の魂」という思想が現れるようになる。

治安が安定していくにつれ、江戸時代初期はまっすぐで、肉厚幅広の刀だったものが、江戸時代中頃にはカーブの付いた細身のモノが目立つようになる。しかし、江戸時代後期になると、治安の悪化が進行したことや民間のガス抜きなどの様々な要因が重なったことで、竹刀剣術の奨励がより促進されでいき、やがて竹刀と使用感が変わらないようにまっすぐな刀が徐々に流行るようになる。

近代

江戸幕府が倒れ、明治政府が新たな日本の支配者となる。四民平等や廃刀令等の政策により、武士階級は実質的に消滅し、刀剣類の携帯も警察官や軍人以外は禁止された。

刀は武士の魂という言葉があるが、この考えは明治時代から広まり始めたといわれており、プロパガンダ的な要素もあったといわれる。

【様式】

日本刀は歴史的事情から主に打刀(腰に直接帯びた時に抜き易い反り方で、成人男性の腕の長さに合わせたもの)の事を言い、もっとも一般的な刀である。
打刀は簡単に、全長のうち(なかご)と呼ばれる、打っていない部分を握りのパーツである柄で覆い、目釘で留めて刀身とを(つば)で分けている。
因みに日本刀は世界に蔓延る刀の中でもっとも複雑な刀と言われる所以は、柄だけで下から柄下地、鮫皮、目釘、目貫(めぬき)(かしら)、柄巻き、(ふち)という多くの部品で構成されている為である。

因みに目貫は元来留め金具であるが、目立つ部分でもある為か、飾り金物の意味合いも強い。
街中のにぎやかな通りを「目貫通り」(目貫=刀の柄の最も目立つにぎやかな場所)と呼ぶ語源でもある。


【区別】

時代により大まかに区分されている。ただし、美術鑑賞からの見地が主体であり、実用品としての学術的考察ではない。また、伝承も混じっていることにも注意されたし。

古刀・・・平安時代末期~文禄4年(西暦1595年)までの約600年間

 平安時代末期・公家文化の影響もあって上品な体配が多い。
 鎌倉時代初期・武士の時代へとなり、優雅で豪壮な体配になってきた。刃文も意図的に変化させる様になった。
 鎌倉時代中期・貞永式目によって質実剛健の気風が生まれ、強さが更に強調されるデザインとなった。
 鎌倉時代末期・新しい鍛錬法となり、軟硬の鉄を適度に混ぜた実用兼美の太刀となった。
 南北朝時代・敵を圧倒威圧する為に4尺や5尺もある様な大太刀が流行った。現存する大磨上げ無銘の刀は主にこの時代の物。
 室町時代初期・鎌倉初期の太刀を写した復古調が流行った。脇指(脇差)の生産が急増したのもこの頃。
 室町時代中期・屋内でも使用できるように2尺2寸前後の頑丈な片手打ちが流行った。また大量の需要に応じるために数打ち物と呼ばれる粗製品が大量生産された。
 室町時代末期・織田信長が長篠の戦いで鉄砲を有効に使用して武田騎馬軍を壊滅させたことにより戦闘方法が一変。鎧も隙間のない物になったので、これに対抗して刀は寸が延びて豪壮になった。

新刀・・・慶長元年~宝暦13年(西暦1596~1763年)

 国産の硬くて脆い炭素含有量が高い和鋼が使用され始め、古刀とは明らかに違う物が現われた。
 鋼材の欠点を補うため軟かい鋼を心鉄にした構造になっている。
 実践経験のない武士が増え、剣術の流行で突きが重視され、小切先で反りの少ない、先幅の狭い物に変化してきた。
 なお、明暦の大火で多くの刀剣が焼けてしまったため、優秀な刀工の品が多く消失している。
 大まかには江戸物と大阪物とで分かれる。

新々刀・・・明和元年~慶応3年(西暦1764~1867年)

 新々刀前期(1764~1803年)
  助広写しが全国に流行し盛んに行われた。
 新々刀後期(1804~1867年)
  鎌倉、南北朝の姿が流行し特に天保になると慶長新刀写しも盛んに行われた。


【造り方】

平安~室町時代など多くの銘刀が作られた古刀の製法は現在でも殆ど判っていない。
これは口伝などで製造法が伝わっていて文献が残っていなかったり、統一された製法・素材ではなかったりして不明であるため。

近年では戦国時代の頃は輸入の鉄鉱石や砂鉄などが主に使われていたという説が有力視されている。


江戸時代から主流になった新刀・新々刀の製法は大まかに以下の通りである。

刀の造り方としては、砂鉄から精錬した造鋼*13を熱して打ち延ばし、細かく割る。
それを選別して皮鉄用と心鉄用に分け、鍛錬という作業をする。

これは地鉄(じがね)をつくる作業であり、加熱し叩くというよく知られた作業である。皮鉄、心鉄それぞれに行う。
この作業は、加熱することで融点が低い内部の不純物が遊離し、それを叩いて弾き飛ばすことで不純物を取り除き、純度が高まる、という仕組みである。
この方法により純度と硬度が得られた(但し、純度と硬度が低いと問題だが、単純に高ければ高いほど良いというわけでもない)。

これさらに繰り返し、折り返ししながら行う。

これにより日本刀の硬さが決まる。
その後皮鉄と心鉄を組み合わせる為、心鉄を平らに、皮鉄をUの字に形成する。
心鉄を皮鉄で包む作業を造込み(つくりこみ)といい、流派によってやり方が多少異なる。

この作業のあと素延べをし、ようやく見慣れた日本刀の形になっていく。
形ができたら鋒をつくり、火造りで小槌を使い完全な日本刀の形にしていきながら刃を打ち出す。
次に荒仕上げをして表面等を整え、焼き刃土(粘土、炭、砥石の粉等を混ぜたもの)を塗り刃文を入れる。この作業を土置きという。
ここまで来ると後は焼き入れをする。加熱した刀身を水で一気に冷やす、これもよく知られた場面であろう作業である。


日本刀のキモである反りはここで付けられる。刀匠のもっとも緊張する場と言われ、刀の善し悪しもここで決まる。

ここで粗悪品でなければ、歪みや反り、曲がりを整える。
この反り、焼き入れにより自然に付くと勘違いが多いが、焼き入れをしてもほとんど反らない。そのため実際は刀匠が焼き入れ時の歪みを計算に入れつつ、事前に叩いて反らしている。

刀匠の仕事は最後に荒研ぎするだけで実質ここで終わり、後は砥ぎ、外装などの他の専門職人へ渡される。


余談だが、日本刀は峰の部分に軟かく高い柔軟性を持つ心鉄を使用し、刃の部分に高硬度だが脆い皮鉄を使用して切れ味と強度を確保するので、
某逆刃刀は現在の日本刀造りの行程で作った場合は普通の日本刀と比べてかなり脆くなる。
とは言え、作中の逆刃刀が通常の行程で作られているとは思い難い。(※製造者は経験豊かで試行錯誤もしているだろう…というよりとんでもない刀を作りまくっている名工という設定であり、登場した製作物の中では逆刃刀は構造的に易しく現実的な部類である)
実際に再現された逆刃刀でも当然スイカ程度なら真っ二つに叩き割ってのけるので、いずれにせよ人の頭をカチ割るくらいは何と言うことはない。
また、峰の部分に硬い棟鉄を使うような造りもある。


この後は研師の仕事で、備水砥(びんすいど)改正砥(かいせいど)(ちゅう)名倉砥(なぐらど)(こま)名倉砥(なぐらど)内曇(うちぐもり)刃砥(はど)内曇(うちぐもり)地砥(じど)と、目の粗いものから順に六種類の砥石を使用する。
この刃物研ぎに適した砥石は現在でも日本でしか産出していない固有品で某所に有る産出地を掘り尽したら完全に地球から無くなるとまで言われている(なので先述の通り具体的な産出地は明かされていない)。

他に、白銀(しろがね)師(ハバキをつくる)、鞘師、塗師、柄巻師、鍔師といる。

なお、この様な独特な製法は日本古来の物で、鋳造の韓国刀が起源というのは真っ赤な嘘である。
ただし、日本刀の製法が逆に向こうに伝わり、独自にアレンジされた「倭刀」というものは存在するので、一緒くたにして否定しないように。



【長さの区分】

長さに関しては大体以下の通りだが、あくまで江戸時代以降の分類であることに注意

短刀(たんとう)小刀(こがたな)) ≪ (短い)脇差し ≪ 小太刀 ≪ 打刀 ≪ 太刀 ≪ 野太刀(大太刀)

一般的な刀身の長さで言えば
短刀は一尺(約30cm)
脇差は一尺八寸(約55cm)かそれ以下
小太刀~打刀は二尺(約60㎝)前後
野太刀になると三尺(約90cm)以上
といった感じ。

太刀と野太刀には鞘に帯びや鎧につける為の金具がついていることがあり、その場合は反りを下にして帯刀する。

所有者の身長に合わせて適切な長さも変わってくるため、刀身を擦り上げて調節された刀も多い。
前述通り、時代が下るにつれて短い刀が好まれてきたため、往年の太刀を擦り上げて打刀に直したものも良く見つかる。

【強度】

日本刀は近代のナイフや銃とは違い、「職人のカン」頼みの規格化されてないモノであるため、一振りごとの性能が大きく1つや2つの使用例では性能を推し量ることは難しい。よく言われるピンからキリまでというやつである*14

以下は、あくまで一例であることを留意されたし。

以前フジテレビ系で放送していたテレビ番組「トリビアの泉」の企画で日本刀と拳銃どちらが強いか?というものが放送され、
刃に対しまっすぐに拳銃弾(.45ACP)を撃ち込むものだったが、日本刀にとってはとてもじゃないが有利過ぎて対決どころではないものだった。

第二弾としてマシンガン(M2重機関銃)を撃ち込んでいたが、やはり同じ手法。
この対決に意味などない、というのが正しい答えである。因みに一度目は弾はふたつに分かれ(刃溢れなし)、二度目は数発を切ったのち、
刀身と弾丸の位置が直行を保てなくなり、弾丸が刀身の側面に当たる様になって、最終的に刀身が折れ吹っ飛んだ。
ちなみに拳銃弾くらいならナイフでも同じ芸当も出来ないことはないらしい。

身も蓋もないツッコミになるが、これで分かるのは『銃弾の勢いってのは凄いんだな~』『硬度・切れ味はある程度以上には良い』という程度しか分からず、総合的な性能差は測れていない。
ちなみにこの実験では固定されていたが、仮に人力でやると刀が弾き飛ばされる・堪えられても一発後にグラつくのがオチだし、何より切れたところで弾の脅威がなくなるわけでもない。
ついでに言えば拳銃側も対徹甲用のAP弾を使用して頂きたかったところである(いずれにせよあまり意味はないが)。

そもそもこの二つの性能差を測るというのが無茶なので(銃弾を刀で切ったり弾くのは創作物のみ)、題名がおかしいと言った方が正しいだろうか。
勝負ではなく、「銃弾を刀で切ることは出来るのか?」ならばツッコミは大分減っていただろう。



【逸話】

日本刀に関して幾つか有名な逸話があるので、それの紹介と解説をしていく。
ただし、ある面で正しくある面で間違い、誇張されている、現代となっては曖昧、などの話が多いので決して鵜呑みにせず、各自が多方面の視点から考えて頂きたい。

二、三人斬れば刃毀れする?

有名な話だが、これはかつて日本陸軍将校だった山本七平が著者を務めた体験談(エッセイ)が元ネタと言われる。

これに対し「"引くようにして斬る"という使い方や、"防具や骨を狙わず首筋等の比較的やわらかい急所を狙う"といった丁寧な扱いをすれば、こんなに早く駄目にはならず、脂巻きも起り難い。」

・・・などの反論がなされることもあるが実は、このエッセイには「日本刀で切れるのはせいぜい3人まである。その理由は自分の体験によるもの・・・」という以上の内容は記しておらず、なぜ切れなくなるのかという理由は本著では触れられていない。

それどころか刃こぼれするとか脂が巻いて…という記述すらなく、これらの要因はこの逸話が広まるに従い尾ひれが付いたものと考えられる。
また、刃毀れしたところで武器として使えなくなるわけではないし、脂が巻けば切れ味が落ちるのは事実であるが、それで何人まで切れるかどうかは全く別の話なのだ。
これは別に日本刀に限った話ではなく、包丁などでも同じことであるし、日本刀の切り方自体が鉈や斧に近い。

なお、「日本刀は引くように斬る・引いて斬る」という動作は、実は情報の出所がよく分かっていない(引くようにして斬るのは、演劇の際に引くように斬る動きを実戦の動作と勘違いしたものという考察や指導者の例えをそのまま真に受けたという説もある。)。

ただし合戦や平時の喧嘩などの実用場面ではそんな悠長なこと拘っていられるわけないので、場面によってはむしろ正しい。何でも与太話と吐き捨てないように注意したい。
更に日本刀は構造と性質上、特に最後まで真っ直ぐに振り切れなかった時には脆く、割と刃毀れしやすかったり折れやすかったりと総合的には脆いとされるが、この辺の考えは流派(方式)や指導者によって大きく変わるため、「○○は××だ」とは断言はできない。
毎回真っ直ぐ・切る対象と範囲を冷静に選べるなどの状況を限定すればかなり頑丈かもしれないが、稽古や料理ならともかく相手も殺しにかかってくる実戦で人間がそんな運用することは非常に困難である。

また、古刀については品質に差があり過ぎるみたいなので一概に言えない。
こちらは鋼の性質から総合的に折れるより曲がりやすかったとされている。

例えば時代劇で見られるような刀同士の打ち合い・鍔迫り合いや地面への叩きつけなどをガッキンガッキンやっていれば、
あっという間に刃こぼれを起こすことは間違いなく、場合によっては折れることも珍しくないだろう。
そして実戦では止めを除くと狙って突くか、上手く組み伏せることができれば斬る程度がせいぜいであり、剣豪であってもそれは変わらないだろう。

実際も…というよりむしろ本気の殺し合いなので時代劇以上に、がむしゃらに振るうことは多かったと推測される。

例えば、新撰組の隊長を勤め、江戸時代末期の剣豪に名を連ねた斉藤一は実戦では基本的に敵が動かなくなるまでメッタ打ちにするのがやっとだった。戦いの最中に突きや細かい剣技を繰り出すのが難しく、味方に鼓舞されて己で決意して初めて使用できたという有り様だった。」(意訳)と当時を振り返っている。

また、戦国時代を経験した剣豪であり、新陰流の伝承者の一人でもあった柳生宗矩は敵に一太刀浴びせたらそのまま相手が動かなくなるまでメッタ打ちにしろ。斬れたか斬れないかはあまり考えるな、余計なことを考えてると反撃されて死ぬぞ」(意訳)としている。

他の例では、桜田門外の変で彦根藩士の河西忠左衛門と永田太郎兵衛正備が使った刀が現存しているが、
河西忠左衛門の刀は刃こぼれし、永田太郎兵衛正備の刀には斬りこみ傷が多数あるなど、これだけでも実際の戦闘の激しさを物語っている。
後述の近藤勇も池田屋において同僚達の刀は折れたり曲がったりしたという手紙を残している。
戦国時代時代の武将も予備の太刀や打刀を携帯する者もおり、実戦で使う安物の刀とそうでない高価な名刀を使い分けていたといわれる。さらにいえば、実は槍や刀剣類による接近戦は弓矢による射撃戦と比較して死亡率が高い傾向がある*15*16

この様なことから乱戦や合戦で扱うことを前提にしたなら、
「切れ味に関しては二、三人にしか使えないということはないが、破損(刃こぼれ程度も含む)する可能性は高い」、くわえて「白兵戦における戦死率の高さを考慮すれば、武器が壊れて使えなくなる前に武器の使用者が殺される可能性が非常に高い」ことから、刀剣であれ、槍/薙刀であれ、同じ武器を白兵戦で使い続けていくことは出来ないということになる。

真剣での受け太刀……NG?それともOK?

「敵が切り付けて来たときに、刀で受け止めるのはご法度だ。」という言説があるが、流派によるとしかいいようがなく、ご法度というのも半分誇張で、「理想上は受け止めない方がいい」としていながらも、やむを得ず受けなければならない場合は、多少の破損を忍んでも受けるという流派は多い。ただし、単純に受け止めるだけの受け技は少なく、受けの状態からすぐに、もしくは同時に攻撃に転じられるような攻防一体の受け技が主流である。

実際、戦乱期を経験した剣豪らを開祖とする、いわゆる古流剣術の中には、相手の斬擊をあえて刃でガッツリ受け止めたうえで、股間を蹴りあげたり、柄頭で打突する技もある*17。また、相手の胴を刺したりする技も存在する*18し、受ける箇所も流派によっては、刃ではなく棟だったり鎬だったりバラバラである*19

なお激戦を表す慣用句として使われる「火花を散らす」も互いに刃をガッツリ打ち込み火花が飛び散る様が由来になっている。

もろちん、受けを完全にタブー視した流派も多くあることも事実であるし、受けを否定的に見る流派が多数派であるのは変わらない。
ではなぜ、そこまで「受け」をネガティブ気味にとらえる理由というのも、また流派によって千差万別で、「一旦受けに回ると防戦一方になりやすく、特に体格差があると逆転できずに負けやすいから」とする流派*20や「純粋な受け太刀は非効率」とする流派*21もあるし、「大きな破損に繋がる可能性を懸念」した流派もある。

刀は突くもの?

刀剣類は、斬りつける攻撃(斬擊)よりも突き刺す攻撃(刺突)の方が、相手に致命傷を与えやすい。流派によっては刺突を重視する所もある位である。

しかしながら、刺突という動作は実は人間の本能に反した動きでもあり、一定の緊張状態に置かれた人間に棒状のモノを持たせて戦わせると、無意識的に振り回す動作を最優先に行ってしまう習性がある。刺突は動作そのものは斬擊よりも簡単なのだが、人間の心理的な問題として、実戦で刺突を行うのは意外と難しいのである。

もう1つの欠点として、攻撃を当てた際の衝撃力が斬撃と比べて少なく、相手の攻撃動作を止めることができず、相討ちになる可能性が高い点があり、実際に日本剣術でも(流派にもよるが)、突きは相討ちになりやすいという注意喚起がなされていたり、「死に太刀」とも呼ばれ忌避されていたりすることもある*22

そのためかはわからないが、戦国時代後期にに来日した外国人宣教師は「刀は切るもの」として認識しており、「我々(スペイン・ポルトガル人)は刺突武器を好むが、日本人は刀を始め斬り付ける武器を好む」とも評している。朝鮮出兵時の朝鮮・明側の記録でも、刀は切るモノであると認識しており、切れ味を強調していることも多い。

さらに刀にまつわる言葉も、斬撃や打撃に関連したものとなっていることが多い。例えば、日本刀の一種である、太刀の由来は「断つ」から来ているし、合戦での武功においても、古い文書では槍の場合は「一番槍穿」と書かれることが多いのに対し、太刀の場合は「一番太刀打」と表記され、打撃を意味する「打」の文字が当てはめられる。さらには薙刀や太刀のことを古くは「打物」と呼んだ。

激しい戦闘のことを慣用句では「鎬を削る」「火花を散らす」と言い表したりもするが、そのほかには古くは「鍔を割る」とも表現することもあったが*23、いずれも斬撃や打撃の動作が由来である。


なお、突きを重視する流派というのも、実戦で突きは難しいが非常に強力な技には変わらないため、本番の緊張状態であろうとも、自在に刺突を使えるように、より鍛練を重ねなければならないという考えが根底にあるともいわれる。
一説には「刀は突くもの」という言葉は、「刀は斬るもの」という固定観念を捨てろというのが本旨であり、佐分利流槍術の思想を拡大解釈したものではないかという推測もあるがよくわかっていない。

「どうして日本刀は両手で使いますか?」

と並び、海外の人から疑問に思われることが多い(武具関連の)逸話の1つである。

世界的には刀剣類は片手で使うことが大前提のモノがその殆どを占め、両手で扱うものはかなり少ない。
日本以外の地域において、両手用で扱う刀剣というのはもっぱら大型であり、一種の長柄武器として扱われる事が多かった。片手で扱う刀剣は戦場はもちろん、乱闘や通り魔などの日常生活上の殺し合いまで、様々な用途に使用されてきたのに対し、両手用の刀剣類の用途は基本的にほぼ戦場かせいぜい斬首刑のみと用途が狭く、やや特殊なポジションだった。

対して日本刀はというと、(大太刀を別とすれば)諸外国では片手用サイズ相当するにも関わらず、両手で扱う点ですでにかなり特殊な部類に入り、なおかつ片手用の刀剣類の需要を奪い、主流派に居座っていることも含めれば、イレギュラーといえばイレギュラーではある。

では日本刀がいつから両手で扱うものになったかはよくわかっていないが、絵画資料を根拠に鎌倉時代中頃からすでに両手持ちだったとする人もいれば、戦国時代には片手で扱うとされる短い刀が流行ったという言い伝えや、室町時代から始まる演劇である「能」を根拠に、古くは片手で使うことが多かったという主張もある*24

なお、戦国時代の後半(16世紀後半~末期まで)に来日したキリスト教宣教師たちは、日本刀は両手で扱うモノだったと証言していおり、少なくとも16世紀の段階で日本刀は両手で扱う事が主流だったと考えられる。

日本刀がなぜ両手持ちなのかも、なにぶん研究が全く進んでいないためよくわかっていない。

かつてのネット上では、日本刀を両手で扱う理由として、「日本人は海外の人と比べて体格が劣り、非力だったためだ」という意見がまことしやかに語られていた。もし、その理屈ならば長柄槍や薙刀などの他の武具も小型軽量の傾向がないと不自然であるが、サイズや重さ的にそのような様子は見られないという問題がある。

他の説としては「ヨーロッパの剣はポメルと呼ばれる重りを柄に装着することで、重心*25を手元に寄せているため、片手でも快適に剣を扱うことができるが、日本刀はそのような構造にはなく、重心が刀身の先端付近にあるため、両手でないと扱えないのではないか」という意見もある。
(実際には、ヨーロッパのメッサーや中東のシミター、柳葉刀など、ポメルで重心の位置を調整しておらず、かつ刀身の先端付近に重心のある刀剣は日本刀だけではない)


二刀流/双刀・双剣の記事も参照されたし

試し切り

昔から青竹入り畳表が試し斬りに利用される。その理由は、硬さや弾力性等諸々の条件が人体に近いという経験則があったためである。
青竹部分が骨、畳表の部分は肉に近いと言われており、これを斬り飛ばすことが出来れば人の首を刎ね飛ばせるだろうと言われている。
創作物でイメージしやすい巻き藁については、昔は簡単に用意できたという理由で普及していたと思われる。
ちなみに通常の畳表が巻き藁と呼ばれていることも多いので紛らわしい。現在はこの青竹の入っていない畳表が使われることが多い。

脂巻きで切れ味が鈍る?

「脂巻きで切れ味が鈍る」という概念は厳密には間違い。日本刀は油を塗布して保管するもので油単体が問題ではない。
研がなくても問題ない程度に刀身が大丈夫であるならば多少脂がついたところで切れ味そのものは大差ない。
普段から手入れしている日本刀を実用して問題になるのは、血液の塩分によって生じる錆びである。
とは言え、脂も含めた血肉で抜けづらくなったり、抵抗が強まり真っ直ぐ振り切ることが難しくなっていく、余計な負荷がかかりやすい、滑る、などの影響が考えられるので完全に無影響でもない。
何よりも人の脂が付いたままだと血を拭って油を塗布することが出来ないので、放置すると劣化を招くことは必至。
使用していなければ簡易な手入れで問題ないが、実用した場合はそうはいかないので広義では正解。


刀は戦場で使われていたのか

合戦時は「そもそも刀は武器として誰も使わなかった」なんて話がされることもあるが、これは誤り。
携帯し易いこともあって幅広い年代で使われている上、諸々の事情から江戸時代末期においては日本刀はメインの武装だった(ただし江戸時代以降でも合戦になると話は別)。
前述の通り決闘の様相が強かった源平合戦の頃も大太刀が実用されていた上、同じく当時よく使われていた薙刀も半ば槍だが分類上は刀である。
しかし『合戦のイメージが強い戦国時代』ではあまり使われておらず、予備(と身分を表す装飾)の意味合いが強いという考察もある。
要は刀は武器として使われていたが、メイン武器であるかはまた別の話である……というのが正しい。
余談だが、源平合戦の頃でも集団戦などではがよく使われているので、こういったところからも一概には言えない。

また、組み伏せて鎧の隙間に刃を通す介者剣術などと呼ばれる合戦武術も伝わっている。

ただし、上記の合戦時の剣術については疑問の声も多い。
というのも介者剣術という言葉がいつ発生したかは不明であり、編集者が調べた限り最も古い記述は戦前の昭和7年に出版された『柳生流兵法剣道』という本である。
単語だけ見れば「介者剣法」や「介者剣道」「甲冑武者剣法」等、一冊の本の中で、同じ意味合いでいろいろな言い方をしているので、少なくとも決まった名詞として存在したわけではなく、
それゆえに表記揺れが発生していると考えられる。

この本の著者である柳生厳長氏は当時の尾張柳生家当主であり、
いわゆる尾張柳生(“家”と“流派”双方)は尾張柳生家の家祖である柳生兵庫助が考案した「直立たる身の位」が当時革新的なものであったとしている。
兵庫助が記したとされる『始終不捨書』に「直立タル身之位事」とあるので全否定するつもりはないが、
この件に関して尾張柳生家はモロ利害関係の当事者になるので、ある程度割引いてみるべきであろう。

内容についても疑問点が多く、考案されたであろう時期も検討しながら考えていくと……

(1)16世紀前半の新当流伝書には甲冑付けた絵図で構えを書いているものもあるが、現存する陰流や新陰流の伝書にある人物画は鎧をつけておらず、中條流の技解説も甲冑への言及が無い。

(2)介者剣法の説明で挙げられる鎧は徒歩武者クラスが前提であり、戦国時代の主力である軽装の足軽雑兵は考慮されていない。

(3)かと言って江戸時代以降になると甲冑はあまり使用されていない。平時は諸事情から幕府側ぐらいしか着けておらず、そして本格的な合戦では銃や大砲などがバンバン放たれていたので効果が薄く、甲冑の終焉を迎えた。よって江戸時代以降に実用されていたとは考えづらい。

(4)甲冑で致命傷は避けやすいと思われるが、殴打や突撃などの衝撃は相当なものと考えられる。しかし、そのことには触れられていない。

(5)話は戻り、戦国時代の近接戦は主に槍が使われていて、そのことは様々な文献にも書かれている。そのため一族から戦場をよく学ぶはずの武者が果たして刀をメイン武器にして、介者剣法を重要視するのか?という疑問がある。

(6)戦国時代の戦いの主役は前述の通り各地の足軽なのだが、その足軽が体系的な剣法を学び、実際に活用出来たのか?となると甚だ疑問である。

(7)止めを刺す場面ならば分かるが、多対多となる合戦で毎回防具のない場所を冷静に狙っていられるわけがない。確かに理想的なのだが、あまり実戦的に見えない。

(8)介者剣法は低い姿勢で甲冑を頼りにして進み、相手の下側から甲冑の隙間を攻撃したり足を斬ることが基本とされていたりするが、甲冑を着て集団での突撃や斬り合いの最中に四股を踏む時のように足を広げて腰を落とした体勢に移行して敵に斬りかかる…という器用過ぎる真似が常人に出来るのか?という疑問がある。

などの点から、このような剣法の原案が早期に考案されていたとしても別におかしくはないのだが、
戦国時代などの合戦で現在知られている介者剣法がバリバリに実用されていたか?という話になると怪しくなってくる。
そして活用する場合も、遠距離攻撃していたらよほど接近されたり、槍が折れたり抜けなかったり弾かれたりしたため、刀を抜いて…といった咄嗟の対応事例が多いはずで、
そんな緊急状況下で冷静に剣法を実践出来るのか?というハードルも超えなければならない。
もちろん事前に甲冑対策などの知識を貯えておくことは大切なのだが…。

江戸時代でも御前試合の様な形式ならば実戦的だとも考えられるが、 そもそもこれは妄想を基に二次創作した類だと思われる。
二次創作としては何ら問題ないが、資料としてはあまり役に立たない。

平安~室町時代の戦模様からすると似たような剣法が考案・実用されていてもおかしくはないが、体系化されていたのかは不明。
この頃でも弓を除外したところで、長く重たい武器が好まれていたり、馬上で戦われていたとされる時代でもあるため、介者剣法をそのまま当てはめることは難しい。
仮に実在していても、元寇や戦国時代などの戦模様の移り変わりによって実用性の薄いモノとして廃れたのではないだろうか?
(※歴史考証や各合戦などの細かな検証などはしていません)

この様に介者剣法の考証を進めていくだけでも一冊の本に仕上がりかねない勢いであり、
この話の発端である『介者剣法というものが伝わっているよ → だから合戦でも刀はバリバリに使われていたよ』という論については割と危うい。


軍刀の質

「近代の軍刀は粗悪で斬れなかった」という話もあるが、これも語弊がある。
数が必要だった上に悪徳業者が販売・試行錯誤の初期・戦争後期の資材などの不足・手入れ不十分による、粗悪な乱造品や長持ちしないものが多かったことも確かだが、
どちらかと言えば流説の流布が大きいとされている(特に手入れに関しては日本刀でも同じことが言える)。

兗洲虎徹などのスプリング刀など、鉄の質が上がった影響などもあって、近代軍刀は場合によっては下手な日本刀より長く持つ良質な刀もまた多かった。
中には金属工学的知見を用いて硬度を上げた地金を従来と一線を画した方法で鍛造した「興亜一心刀(満鉄刀)」のような、近代工業技術を駆使した刀も作られている。
また日本刀の方が概ね寒さに弱かったとされており、満州やロシアなど北方の寒冷地では近代軍刀の方が重宝されたという記録もある。
他にも時代の移り変わりと共に急遽軍刀の需要が急速に高まったため、
実は軍刀の歴史は短期間ながらも変動や試行錯誤が激しく、そう単純ではないことにも留意。
余談ながら、家伝の刀を軍刀に拵え直して出征、そのまま戦死や行方不明となった方が非常に多かったため、戦時中に失われた名刀の類は多い。

七ツ胴、八ツ胴

よく日本刀の品質に関する話として、江戸時代の検分(死体を用いた試し斬り)で「七ツ、八ツ胴」、と称される刀。
つまり七、八人重ねた程度までは、難なく背骨ごと真っ二つにする切れ味が当時存在した名刀には数多くあったという。
要は「まとめて七、八人ぶった切れるよ!」というとんでもない話である。
ただし、所謂江戸期に入って刀の見聞の方法が死に胴などが一般的になるにつれて、
所謂死に胴の記録更新が目的化していった、所謂死体斬り専用包丁状態だったものも混じっているという問題がある。

もちろん自前の鍛造技術を示すためという意味では何の問題も無いが、
そういった記録更新の為に作られた日本刀が実用的な物であったかは大分怪しい。
実際七つ胴などに使われた刀はその後刃がつぶれたり、曲がってしまったりしている。

首切り役人の山田朝右衛門などは当時から既に「あいつは賄賂もらうと適当な刀でも名刀だっていうから信用ならない」と言った大名の記述も残っている。
そもそも対象が動く・動かない、実戦・試し切り、装備の有無、などにより実戦条件とは違い過ぎる。
そのため検分結果は何とも評価しがたいものとなっている。

名刀の切れ味

日本刀で実戦で人を斬るという詳細な記録は意外と少ないため、実は江戸時代においても日本刀が実践向けなのかを研究する者が居たりするなど、昔から物議を醸している。
しかし、日本史上最高の日本刀として知られる、『童子切安綱』と『大包平』についてはこれらとは一線を画している。

童子切安綱に関しては難なく六つ胴に届いた上に土台に食い込むという異常な切れ味を誇る上、しっかり現存している。
伝説の様に実際に鬼を斬ったかどうかはともかくとして、その切れ味については疑いの余地が無い。
霊験あらたか、とか言いたいところだが、ここまでくると怖い。

これに並び称される大包平の方はそういった記録は無いが、かなり大きな太刀(刃長89.2cm、反り3.5cm、元幅3.7cm)であるにも関わらず重ね(厚み)が薄く、
重さがたったの1.35kgである。
通常こうした拵えだとこの倍近い重さがあってしかるべきであり、平安時代の製造技術の高さが窺える。
実際、現代の技術を考慮しても、この二振りは日本史上最高傑作と評されている。
因みに打刀の重量は700g~1400g前後である。アマチュア野球用の金属バットは規定により900g以上と定められているので大体それぐらい。
ただし、刀も金属バットも重心の位置により、実際によりも軽く感じたり、逆に重く感じたりするので数値だけでは一概に比較できないので注意。

現代の刀鍛冶

一部刀鍛冶が多くいた地域の特産品が鋼製刃の農耕道具(鍬とか)や調理包丁という例が各地にあるが(石川県鶴来町(現白山市)とか)、
それは刀鍛冶が需要の少ない時期に副業でやっていたのが、明治維新以降日本刀が造れなくなったことで本業にしだしたとか。

日本刀は武器としてだけではなく美術工芸品としても古くから人気があり、今でも製造が続けられている。

しかし、日本刀の製法は時代や刀匠により大きく異なるため謎の部分も多く、現代の技術をもってしても再現不能な作品が幾つもある。
そもそも、職人芸を神秘視する文化から、口伝でのみ伝えられる技術、刀匠個人の勘によるところも大きいので、
それらを作った刀匠が既に故人である以上、もはや再現は望めないとされる。
現代刀と古刀は、見た目が似ているだけの別の武器とも言え、ロストテクノロジーの身近な例にしばしば挙げられる。

……がそれはあくまで伝統的な方法に限定すればの話であって、
材料の選別から何から本当に現代の知識と技術をフルに使い、製造の手段を選ばずに作れば古刀と互角以上のものも作れないことはない。
ただ、それをやると銃刀法に引っかかって警察のお世話になるので、できないというのが実情である。

なお鍵屋の辻の決闘にて荒木又右衛門の刀が折られたことに対して、戸波親清が仇討ちに折れやすい新刀を用いたことを批判し、
それを聞いた又右衛門は親清の弟子となって、刀剣鑑定の修行を積んだという逸話がある。
真偽はともかくとして、この時期には新刀は折れやすく、古刀の方が信頼できるという認識があったようである。
因みに荒木又右衛門が入門の時に書いた誓詞は現存している。

【武器としての日本刀】

ローテク武器の花形、剣。
その中でも日本独自のものということで持て囃される日本刀だが、前述している通り、日本刀(※打刀)は戦場における主力兵装であることはほとんどない。

戦国時代の戦傷に関するデータ(文書や各地の遺骨)を見てみると、そのほとんどが鉄砲傷や矢傷、つまり飛び道具によるものとされる。一方の近接戦用武器での戦傷のデータは少なく、それも多くは刀ではなく槍によるものであった。

しかしながら、これらのデータは特に文書の場合、現存しているのは合戦に勝利した側の文書であり、そもそも敗走側はこの手の文書を作成しない。負傷の記録も合戦から生還した兵士らの自己申告であり、戦死者はその要因がほとんど不明である。

何故かというとこの手の記録は、負傷を一種の手柄として文書に書き留めておき、上司に提出することで、負傷とその原因によって決められた報償金をもらうことを目的に作成していたからである。特に戦死は特別扱いで、原因によらず、褒美も一律であったため、死因を書く必要がなかった。また、合戦に負けた場合、損害が大きいため、文書を作成する余裕はなく、仮に作成したとしても受理されないことが多かったとされる。

くわえて、記録対象は武士とその従者といった正規兵のみであり、サンプルが少ない上に偏りの強いものとなる。1次史料を使った統計でありながら、文書の性格を無視した統計データでもあり、意外と信用性は低いのである。

とはいえ、それらを差し引いても、優れた武士を「弓取り」と呼び、第一の勲功は「槍の高名」&「一番槍*26」という言葉で表したことからも、が戦国時代の主兵装であった事を示している。

槍、そして飛び道具にリーチで大きく劣る刀は、メイン武器として多用される飛び道具や長柄武器が使えない状況下や乱戦、組討ちなどで用いられるサブウェポンであった。あまり使われていない割に多くの者が携帯していたことからも、この様な扱いがうかがえる。


槍や飛び道具にリーチで大きく劣るというのは上記のとおりであるが、言い換えれば短いということでそれらの武器よりも携帯しやすく取り回しもいいということであり、
山中、森林、竹林、攻城などで戦うという事も考えられ、そのような場所では刀のほうが使い易い。
槍や飛び道具のリーチが重視される状況の方が圧倒的に多いことは確かだが、刀の取り回しのよさ、携帯のし易さが重視される場合だってある。


余談ながら刀以外にも薙刀、金棒、熊手、鎖鎌、etc…と、
ありとあらゆるものが昔から近接武器として使用されていて、今でもそれらを伝える古武術があちこちに現存している。
(※ただしそれが本当にいつからのものなのかは各流派毎に検証しないと本当のことが分からないこともある)

江戸時代に入り、槍や鉄砲の所持・携帯が厳しく制限される中*27で、武士にのみ打刀と脇差の二本差し(帯刀)が認められていたのも*28、主力兵装ではない証であると考えられている*29

武士=刀というイメージが出来上がっていったのはこのような経緯があったからで、やがて江戸中期に当たる18世紀初頭には、「刀は武士の魂」という思想の原型も現れるようになる。

しかし、江戸時代で剣術以外の戦闘術が完全に廃れたというわけではない。寧ろ奨励していた。
幕末にも高橋泥舟や山縣有朋など槍を使う著名人はいた。
安政3年(1856年)に発足した講武所では弓術・砲術・槍術・剣術・柔術部門があり(のちに弓術部門と柔術部門は廃止)銃隊調練場ものちに作られた。
また西南戦争では、薩摩軍の日本刀に平民出身の兵士で構成された政府軍が苦戦し、その対策として主に同じ薩摩出身の巡査(士族)で構成された抜刀隊を投入したという話もある。
実際のところ従来の戦闘術が廃れたのは明治になってからである。

なお日本刀が実用武器として日の目を見た時代として幕末がイメージされることが多い。
事実、維新志士と佐幕派が連日連夜殺しあっていた幕末においては、普段から携行しており*30、更に広い戦場ではなく市街地における遭遇戦や屋内戦が主流であり、
更に銃は銃で大きな音と硝煙を出すことから、確かに刀はこの時期・この場所においてはメインウェポンとして君臨したといえる。

日本刀が現代において武士の魂とされるのは、江戸時代の背景が大きいのは間違いないと思われるが、
(戦国時代の足軽は槍・弓・銃の配備や訓練が優先されており、日本刀の配備は二の次だったということも影響しているだろう)

しかし「日本刀が実用武器として日の目を見たのは幕末だけ」というわけではない。

しつこいようだが中世の日本は自力救済という側面が強く、洛中で集団同士の大抗争が繰り広げられるなど武力衝突が多く発生している殺伐っぷりである。
むろん様々な武器が使われているが、長物より持ち運び易く戦場も選ばず(一般家庭の屋内でも割と使いやすい…)、
斧やより概ね射程の長い日本刀はむしろ民間人の間では実用なメイン武器としての機能が強かったと考えられる。
なお秀吉の時代などで、村と村とが山や水路の権利を巡って武力衝突を行って処罰を受けている例もあり、
この際に農民が脇差を振るって人を殺傷したり、中には大刀・脇差の二本差しで戦闘の場に現われた農民すらいたとされている。
また、博徒や無宿人なども武器として長脇差を所持していた。

【コラム】

長大な日本刀

日本に存在する最古にして長大な刀は鹿島神宮に奉納してある「布都(フツ)御魂(ミタマノ)(ツルギ)」。
厨二漫画とかどうでもよくなるくらい長い。250cm近い。
反りはほとんどなく、長さも合わせて半ばロングランス。
そして刀身が黒い。
鞘等の外装も基本黒い。
フツとはモノを斬る際の音を現している為、その御魂。
つまり、モノを斬る神様の御魂が宿った剣ということになるそうな。
たまに漫画等にも登場するが、シャーマンキングのあれは全くの別物。

現存する中で最長の刀は全長465.5cm(うち刃は345.5cm)、重量75kgもある。
その名も「破邪(はじゃ)御太刀(おんたち)」。
猛烈な厨二マインドが迸っているが、これは幕末の尊皇攘夷の宿願を掛けて特注された代物。
ちょっとした小舟くらいの長さがあり、当然ながら実戦用ではなく神社への奉納品である。
神事と見立てて川を堰き止めて焼き入れしただの凄まじい逸話も事細かに記録されている重要文化財である。

実用されていたという記録があるもので最長の刀には「太郎太刀(たろうたち)」がある。
これは越前の刀匠、千代鶴の作とされるもので、刀の長さには諸説がある。
確かな現物は愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に収蔵されており、戦国時代朝倉家の武将・真柄直隆が使用していたという。
この刀は刀身だけで221.5cm、重さも4.5kgとぶっ飛んだ代物だが、このおっさんはコイツを実際に振り回して戦場で暴れ回ったらしい。
これくらいになると下手な槍よりもリーチと攻撃範囲が広く、切れなかったとしても打撃力だけで相当なものになる。
リアル戦国無双である。
流石にここまで大きいのは規格外だが、かつては大太刀を馬上武器として振るっていた時代もあるため、現実味が無いわけではない。侍って怖い。

銃刀法

よく刀剣類を不法所持していてヤクザなどがしょっ引かれた(いわゆる銃刀法違反)という話を聞くが
銃砲刀剣類所持等取締法では、二つの定義が存在する。
大まかに言えば「所持できる資格を持つ人」と「銃・刀剣類そのものを登録した免許」というものである。
基本的に骨董商が売買するような古刀の類は後者の「刀剣類の免許」は付帯されているので改めて取得する必要はない。
無論、大昔の蔵*31から出てきた刀などは許可をとっていない可能性があるので教育委員会や公安に届け出よう。

【名刀】

優れた刀は「名刀」と呼ばれ、その名前が後世まで受け継がれるものもの多い。
日本国内で現存しているものも多数あり、その多くが国宝や重要文化財などに指定されている。

天下五剣

名だたる刀の中でも特に名刀であるとされる5振り。まさに名刀中の名刀。
  • 童子切安綱(どうじぎりやすつな)
国宝
後述の大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」とされるスゴイ太刀。
平安時代、伯耆国大原の刀工・安綱作で、源頼光がこの刀で酒呑童子の首を落としたことから「童子切」の名が付いた。*32
幅が広く反りの強い刀身を持ち、「六ツ胴斬り」*33の逸話が残るほど斬れ味が鋭い。
足利将軍家→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠→松平家という流れを経て、戦後に国宝指定となる。現在は国立博物館に所蔵されている。

  • 鬼丸国綱(おにまるくにつな)
皇室が所有する一振り
その性質上、天下五剣で唯一文化財指定を受けていない。
鎌倉時代、山城国粟田口の刀工・国綱作の太刀で、鎌倉幕府の礎を築いた北条時頼がなんやかんやあって鬼から救ってもらった*34ことから「鬼丸」の名が付いた。
非常に反りの強い刀身を持ち、また刃文は沸*35が多い小乱れで、力強くありながら美しい見た目をしている。
所有する武士が負けたり衰退したりするジンクスがあったため嫌われていたが、明治時代に明治天皇に献上されたことで皇室所有となり現在に至る。

  • 三日月宗近(みかづきむねちか)
国宝
現在は国立博物館に所蔵されている。
平安時代、山城国三条の刀工・宗近作の太刀で、刀身の打除け*36が宵闇に浮かぶ三日月のように見えることが名の由来となっている。
太刀の例にもれず反りが強いが、鍔元の幅が広く切先の幅が狭い「踏ん張りが強い」形状をしており、その刀身は極めて優美。
前述の三日月型の打除けと合わせて「天下五剣の中でも随一の名刀」と言われる所以となっている。
明治維新後も徳川家が所持していたが、なんらかの理由で流出し、その後色々あって国立博物館に寄贈された。

  • 大典太光世(おおでんたみつよ)
国宝
現在は財団法人前田育徳会が所蔵している。
平安時代、筑後国三池の刀工・典太光世作の太刀。名前の由来は定かではないが、大包平や大兼光のように「その刀工の作の中で最も優れたもの」という意味で「大」が付けられたのではないか、とされている。
太刀としては刀身が短く身幅も広いため、前述の三日月宗近などと比べるとがっしりした印象を受ける。
霊力を持つ刀としても名が知られており、前田利家の娘の病を癒したエピソードが有名。その後もずっと前田家が所持しており、国宝指定されたときもそのままで現在に至る。

  • 数珠丸恒次(じゅずまるかねつぐ)
重要文化財
現在は兵庫県尼崎市の本興寺に所蔵されている。
鎌倉時代、備中国の刀工・青江恒次の作とされているが、諸説あり判然としていない。名前の由来は、信者よりこの刀を贈られた日蓮上人が「破邪顕正*37の太刀」として柄に数珠を巻き佩刀としたことから。
天下五剣の中では最も刀身が長く、また「踏ん張りが強い」形状をしている。
日蓮の没後は山梨県の久遠寺に所蔵されていたが、なんらかの理由で紛失。その後華族の競売にかけられているところを発見され紆余曲折を経て本興寺に寄進された。

その他の名刀

その他、と一括りにしてはいるが天下五剣に引けを取らない名刀も数多い。
  • 大包平(おおかねひら)
国宝
前述の童子切安綱と共に「日本刀の東西の両横綱」とされるヤバい太刀。
鎌倉時代、古備前派の刀工・包平作の太刀で、彼の刀の中でも最も優れた一振りとして「大包平」の名が付いた。
刀身が非常に長く上記の数珠丸恒次より長いが、この規模の太刀としては重さがとても軽い。*38
これは他の太刀に比べ刀身が薄く造られているためで、この長さと薄さを両立させた技術力の高さが大包平最大の特徴と言える。
岡山藩主の池田家が長らく所持していたが、戦後に文部省が買い上げて国立博物館に所蔵した。

  • へし切長谷部(へしきりはせべ)
国宝
現在は福岡県福岡市の福岡市博物館に所蔵されている。
南北朝時代、山城国の刀工・長谷部国重作の打刀。織田信長が所持し、その後黒田孝高(官兵衛)に下賜されて黒田家の家宝となった。
一風変わった名である「へし切」は漢字で書くと「圧切」となる。信長に無礼を働いた坊主が棚の下に隠れたので、信長がこの刀を圧し当てて棚ごと斬り殺した……という逸話が由来となっている。
普通そんな使い方では棚はおろか人間を斬るだけの威力も出ないので、それを為してしまったこの刀の斬れ味がいかに凄まじいか良くわかる。信長が馬鹿力だっただけかもしれないが
刀身は反りが浅く、刀身は薄く、身幅は広い、また切先が大きい。いずれも南北朝時代の刀剣の特徴である。
戦後、黒田家から他の伝来の品々と共に福岡市に寄贈され現在に至る。

  • 正宗(まさむね)
鎌倉時代末期に相模国鎌倉で活躍した刀工で、日本史上最高の刀匠として半ば伝説化された五郎入道正宗の手になる刀の総称。
現存するものは打刀と短刀があるが、打刀のほうはもともと太刀として鍛造されたものを仕立て直したのがほとんど。
正宗最大の特徴は「沸と地金の美しさ」であり、これが古今問わず多くの武士や大名を惹きつけ、現在でも人々を魅了する理由となっている。
その一方、実戦で振るわれた話や斬れ味を示す逸話に乏しいこと、名刀として広まったのが戦国時代末期以降であったことから、実用ではなく芸術品としての評価だけで高名になってしまっているとする見方もある。
有名なものとしては「城和泉正宗(じょういずみまさむね)*39」「日向正宗(ひゅうがまさむね)*40」あたりがよく知られている。

  • 村正(むらまさ)
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した初代・千子村正、および村正の名を継いだ刀工たちの手による刀の総称。ほとんどが打刀か短刀である。
薄く反りの少ない刀身、うねるような妖しい刃文、そしてなにより抜群の斬れ味が特徴。実戦刀としての性能はかの正宗を超えるとすら言われる。
徳川家康やその家族に害を為したから…という理由で江戸時代に「妖刀」として広まってしまうが、これは根拠のない俗説でしかない。
実際にはその素晴らしい斬れ味(と地理的に桑名が近かったこと)から多くの三河武士に愛用されており、家康も村正を所持していたほか、少なくとも二振りの村正を子孫に遺している(村正御大小)。
作品としては佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の愛刀「妙法村正(みょうほうむらまさ)」が最も有名か。また斬れ味の鋭さで鳴る「一胴七度(いちのどうしちど)*41」も有名。

  • 虎鉄(こてつ)
江戸前期に江戸で活躍した初代虎徹、および虎徹の名を継いだ刀工たちの手による刀の総称。
有名な話では新選組局長の近藤勇が二尺三寸五分の長曾祢興里虎徹(ながそねおきさとこてつ)(初代虎徹)を使っていたと言われている。
ただし当時から「大名差し」と言われるほど人気と値段の高い名物であったため、まず偽物であろうというのが定説。
というより多摩の田舎侍であった人物が、なんだってそんな凄まじい銘刀を手に入れられるのかという話になる。
一応、新選組の後ろ盾である大名や豪商とも付き合いがあったので、その縁で貰ったという説もなくもないが…。
どちらにせよ現物が残っていないので不明。
池田屋事件のあと、親に宛てた手紙では、
同僚の刀は折れたり曲がったりしたが、私の刀は虎鉄なので無事でした」と書かれており、
少なくとも本人は虎鉄と思い、満足していた模様。少なくとも虎徹だと思える程度には易々と折れたり曲がったりしない頑丈さはあったと思われる。

  • 菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
鎌倉時代の刀匠宗則が作った「一」の字が刻まれた刀の総称。
沖田総司が菊一文字則宗を使っていたという小説&マンガがあったりするが、当時から国宝クラスなので、やはり間違いだと言われている。
故に「菊の紋が一字書いてある刀」なのか「菊の字が一字書いてある刀」の議論が絶えない。
ちなみに菊一文字則宗は名刀の中でも贋作が山のようにある事でも有名。
また、沖田の愛刀は、加州金沢住長兵衛藤原清光(乞食清光)とも言われているが、結局不明。

  • 和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ)
鎌倉時代より続く名工「兼定」の二代目、及び兼定の四代目を開祖とする「会津兼定」の十一代目が「和泉守兼定」と名乗っていたため、彼らの作品が「和泉守兼定」である。
同じ「和泉守兼定」なのだが、二代目は「之定」、会津兼定の十一代目は「会津兼定」と区別される。
単に「和泉守兼定」と言う場合は之定であることが多い。
土方歳三の愛刀として知られ、近藤や沖田の愛刀とは違って東京都日野市の土方歳三資料館に現存している。
ただし司馬遼太郎の小説などでは「之定」とされているが、実際に残る愛刀は幕末生まれの「会津兼定」の方。
恐らく司馬はこの違いを知らなかったか、あえて脚色したものと思われる。

ちなみに新選組内で銘刀の類を腰に佩くのが流行ったという話も遺されているが、
同時に斬り合いで刃毀れしたり折れたりするのが嫌なので、出動には普通の無銘刀を持って行ったという話も遺っている。

  • 同田貫(どうだぬき)
室町時代中期、九州は肥後国(熊本県)に起源をもつ一派による刀の総称。
身幅広くて反りが浅く、重ねは厚くてまさに「ずんぐりとした」としか言えない見た目。肌目や沸にも一門内でこだわりみたいなのが一切見られず、当然ながら装飾にも乏しいというか、銘すら入れていない物が大半。
まあ率直に言って時代劇のモブ侍が持ってる殺陣用の模造刀みたいな見た目なので、美術品としての価値は正直あまり高くない……のだが、しかしこの刀の場合はむしろ伝統的に「だがそれがいい!」とされてきた。
というのも同田貫一門の刀は所謂「実戦刀」として古くから知られたブランドであり、刀に外見のよさなど不要、頑丈で切れ味が良ければよい!といった層から大いに評価されてきた歴史があるからである。
実際、その恐るべき切れ味と頑強さを物語る逸話には事欠かず、特に記録にも残っている明治19年の天覧兜割りで唯一兜割りを成功させたのは有名である。
華美な刀が高い評価を受けていた平和な江戸時代でも、「実戦で使うなら同田貫」との評価は一貫してあったが、時代錯誤にも日本刀を軍刀拵えにして実戦に持っていくのが流行った昭和期になるとさらなる人気が爆発し、高値で取引されていたという。

またその「実戦刀」というブランド力の高さから、剣豪小説などでも主人公格の差料として大人気である(あまりにも有名になりすぎたため、『子連れ狼』の様にちょっと捩っている例も多くみられる)。

ルパン三世に登場する石川五右衛門の一撃必殺の武器として有名だが、リアル斬鉄剣も存在する

◇リアル斬鉄剣
超硬合金を軟鉄に溝を掘ったものに並べて鑞付けし、ダイヤモンドディスクを付けたグラインダーで刃付けして日本刀様形状の模造刀で、
本来は日本刀として認められないため銃刀法違反だが、検証用として特別に許可された。
検証番組の中で、藤岡弘、が車のドアを斬った実験の結果、
 通常の日本刀(価格60万円前後の習作)- 6cm(折れなかったが、刃こぼれが起きて鞘に入らないぐらいに曲がる)
 超硬合金製の刀 - 22cm(折れず、曲がらず、刃こぼれも傷も無し)
と、優秀な斬れ味を証明した。この時に藤岡が超硬合金製の刀を「リアル斬鉄剣」と名付けた。

◇刀匠・初代小林康宏の逸品
孤高の刀匠・小林康宏は、従来の製法とは異なる製法で古刀を再現しようと試みた。
玉鋼を使う限りは古刀は作れないとし、地金からこだわったのである。
その結果、作品としては美術的価値のない物(日本刀は美術品である)として業界からは異端児扱いされる事となり、
頭の固い業界関係者の嫌がらせによって、従来の玉鋼の入手にも苦労する*42事となった。
だが、そうやって出来た刀(後に斬鉄剣と呼ばれる)を実際に試斬した武道家は、古刀にも迫る逸品であったとして評価は高い。

無銘

必ずしも無銘=ナマクラというわけではない。
無銘とは刀工の名前が茎に切られていない物や、意図的に削られてしまった物を差しており、無銘でもはっきりした特徴のある刀なら個人名まで、
そうでなくても流派、一派名までは作風によって分かったりする。
例えば、無銘正宗(まさむね)(名物石田正宗)や宮本武蔵の刀とされる無銘金重(かねしげ)などがある。

【余談】

大相撲の立行司は、間違いを起こしたら切腹するという覚悟を示すために、取り組みの時には脇差を所持している。
もっとも象徴的な意味合いが強く戦後の今は本物の刀ではない。


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最終更新:2024年12月09日 20:34

*1 しかしながら、日本もまた太平洋戦争敗戦後の影響から、実用品としての武具やミクロ視点での合戦の研究がタブーに近く、研究結果が古い時代でストップしていたり、伝承だよりだったり、いろいろイマイチな状態である。おまけに本職ではない有志の研究家が調査していることは珍しくなく、日本も人のことをいえる立場ではない。

*2 この状態を「佩く」という。対して、打刀のように刃を上にして帯びた状態を「差す」という。「打刀を佩く」「太刀を差す」は誤用であるため注意

*3 昼間から飲酒し、すでに酔っている武士も多かったようで、かなりキレやすかったようである。

*4 例外はあるものの、原則的には合戦で馬に乗る権利と、馬に乗りながら戦う技能を兼ね揃えた専業戦士が、戦国時代までの武士であり、これらの要素を満たさない者は正式な武士ではなかった。

*5 源頼朝の弟である源頼範の部下、当麻太郎が弓や剣の武芸で名の通った勇士であったとされている。源範頼は当麻太郎を頼朝の寝室に忍び込ませたため、暗殺を疑われ流刑にされている

*6 元寇の頃に元帝国の官吏が、当時の武士団の武装として長弓や長い刀剣はあっても、矛や戈はないという報告を日本に滞在していた者から受けている。この矛というのは槍のことである。そのため、少なくとも槍が登場したのは元寇後とする説が主流だが、それ以前から普及はしていないが存在はしたという説もある。

*7 やがて戦国時代に差し掛かるにつれ、今度は自然災害や不作による食糧難が問題となっていく

*8 なお打刀自体は武士より低い身分の召使いが携帯するものとして平安時代から存在するものである

*9 これは近代より前の時代ならば、どこの地域でも大体同じであり、日本特有でもない

*10 単純に使用する金属の量が多いのもあるが、長い刀身は高い製造技術が求められるため高く付くゾ。大部分が安価な木で構成された槍のほうが同じ値段で何本も作れる

*11 通説とは異なり、雑兵や足軽といった下級兵士の構成員は民間人の中でも比較的、地位があるものが多かった。

*12 日本に「近世」はなかった説があるがここでは割愛

*13 ※鎖国で鉄を輸入出来なくなったので国産の鉄を作り出したという説がある。

*14 これは日本刀だけでなく中世までに作られたあらゆる武具にも当てはまる。

*15 例えば、南北朝の戦いにて、傷を負い戦死した軍馬と傷を負ったが生還した軍馬の記録を調査したところ、全体的には弓矢が原因の傷が多かったものの、戦死と負傷の比率は太刀や薙刀による攻撃の方が、弓矢よりも戦死する確率が高かったという研究結果もある。

*16 また、中世ヨーロッパで鎧兜がアジア地域よりも発達したのは、武勇アピールの場として死傷率の高い白兵戦を重視したためであるとされる。

*17 柳生心眼流

*18 天真正伝香取神道流

*19 例えば明王朝の武術家が書き上げた「単刀法撰」には、重い長柄武器を倭刀の刃で受け止めると刃零れして殺傷力が激減するので(その日本剣術流派では)棟で受けるという記述がある。しかし、天真正伝香取神道流では棟や鎬で受けると折れやすいので刃で受けるとしている。

*20 新陰流がこれに近い

*21 宮本武蔵を開祖とする二天一流が該当する。

*22 ヨーロッパでは喧嘩や決闘で刀剣を使う際に、斬撃向けの剣で戦った場合と比べて、刺突向けの剣で戦いは相討ちとなり、双方死亡するケースが多く、刺突用の剣が流行ると死者が一時的に増えたが、結果的には喧嘩や決闘が減ったという事例がある

*23 例としては戦国武将の一人であり織田信長に仕えた太田牛一自身がまとめた、「信長公記」の桶狭間の戦いの様子を記した内容の一分にも使用されている。

*24 武士が台頭してから両手持ち主体に移行したと思われがちだが、それ以前からそこそこの大きさの両手持ちの刀は存在した

*25 物体が持っている、重さの中心点的なやつ。この点が取っ手に近いと持っている手に掛かる負荷が減って振り回しやすくなる代わりに、斬りつけた時の威力が下がる。逆に刀身の先端付近にあると片手で扱いづらくなるが、斬りつけた時の威力が上がる。

*26 刀での勲功は「一番太刀」や「太刀打ちの高名」と呼び、以前はそれが主流だったらしい。

*27 携帯は認められなかったが、所持は認められており、参勤交代など特定の条件下では携帯も認められた

*28 厳密には身分証明書として必ず所持することが義務であった。またそれ以外の身分でも旅の護身用など一定条件で脇差を持つことが許されていた。その為鍔や鞘が財布になっている物や、銭刀と呼ばれる脇差型の財布も作られた。

*29 但し刀も長さが規制され、少なくとも江戸一帯では刃渡り84cmが上限とされている

*30 特に甲冑装備など融通の利く佐幕派と違い、反乱軍である維新志士側は槍などをもって無駄に目を付けられるなどもっての外だった

*31 具体的には昭和21年以前に所蔵されたもの

*32 ……とされているが、最近の研究では制作年代が酒呑童子伝説よりも後なのでは?とする説もある

*33 江戸時代における試し斬りの等級。死体を重ね、一度に何体斬れるかによって等級が決まる。最高記録は七ツ胴

*34 時頼が悪夢で鬼に苦しめられていたところ、夢の中に翁が現れ「この刀の化身だけど刀身が錆びちゃって辛い。ワシの錆を落としてくれたら鬼から救ったるで」と言われた。早速その通りにして枕元に突き立てて置いたら、刀が倒れて火鉢の装飾を切り落としていた。この装飾が鬼の形をしていて、それから鬼は夢に出てこなくなった

*35 刃文の中で大きな粒子ができることがあり、これを沸と呼ぶ。光を受けてキラキラと輝くため美しい沸は評価の対象となる

*36 刃文の文様の一つ。平安~鎌倉期の刀剣に多く見られる

*37 邪な考えを打ち破り正しい様を示すこと

*38 普通この長さの太刀なら重さは2kgを超えるが、大包平は1.35kgしかない

*39 国宝/打刀。武田家臣・城和泉守昌茂が所持

*40 国宝/短刀。福山藩主・水野日向守勝成が所持

*41 前述の江戸時代の試し斬りにおいて、胸より少し上の「一の胴」斬りを七回成功させたことから名が付いた。この部位は肋骨が多く、よほど斬れ味が鋭くないと斬れない

*42 ほぼ全ての玉鋼は、日本美術刀剣保存協会によって保存・管理・供給されている。それを敵に回せば…