[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

シンザン(競走馬)

登録日:2022/07/20 (水) 13:39:00
更新日:2024/12/09 Mon 14:12:14
所要時間:約 34 分で読めます







最強の戦士。



シンザン(Shinzan)とは、かつて日本で生産・調教された元競走馬・種牡馬。
戦前のセントライト以来、日本競馬史上2頭目の三冠馬であり、その戦績・産駒成績・長寿ぶりのすべてにおいて日本競馬界に長く大きな影響を与え続けた、“五冠馬”にして“神馬”である。


データ

生誕:1961年4月2日
死没:1996年7月13日
父:ヒンドスタン
母:ハヤノボリ
母父:ハヤタケ
生産者:松橋牧場
馬主:橋元幸吉
調教師:武田文吾(京都競馬場)*1
主戦騎手:栗田勝
生涯成績:19戦15勝[15-4-0-0]
獲得賞金:5438万円
主な勝鞍*2:'64クラシック三冠、'65天皇賞(秋)*3、'65有馬記念、'64スプリングステークス*4、'65宝塚記念*5、'65目黒記念(秋)*6
タイトル:'64-'65啓衆社賞年度代表馬、'64最優秀4歳牡馬、'65最優秀5歳以上牡馬、顕彰馬(1984年選出)


五冠馬の血統背景

父ヒンドスタンはアイルランドダービーとセントジョージステークスの勝ち馬で、アイルランドで種牡馬入りするもパッとしなかったが日高軽種馬振興会により購入され、日本に持ち込まれた。
ちなみに抱き合せで買ってきたのが後の二冠馬コダマの父・ブッフラー*7
日本での播種はシンジケート総額以上の成功を収め、計7回のリーディングサイアー戴冠を果たし、一時代を築き上げた歴代屈指の大種牡馬である。
なんせ、産駒の重賞勝利総数は113。サンデーサイレンスディープインパクトキングカメハメハステイゴールドに次ぎ、2022年現在においてなお歴代5位である。平成のチート&大種牡馬に平然と混じる昭和の大種牡馬、恐るべし

母ハヤノボリは母系がビューチフルドリーマー系な上に、母父がトウルヌソル*8というとんでもない名血である。
トウルヌソルの何がとんでもないかって、彼を輸入し、内国産馬の礎として欧州の強い血統を播種できたという事実そのものが、日本競馬躍進の最初のターニングポイントと言っても過言ではないくらいのやべーやつなこと。ホントに何で日本で種付けできたんですかねこの御仁。やはりマネーイズパワーか。
ハヤノボリの父ハヤタケも京都農林省章典四歳呼馬(現・菊花賞)を勝った馬であり、母方に負けるような実績は残していない。

とまあ、父母双方がわりとやべー名血ということで、さぞや期待されたのではないかと後世の人間は思うのだろうが……
この手の能書きのお約束、特にそんなことはなかった


五冠馬の生涯

馬齢及び一部レース名については旧馬齢(数え年)で表記する。

誕生~デビュー前夜

1961年4月2日、北海道浦河町の松橋牧場。この小さな牧場で繋養されているハヤノボリが、その年の息子を産んだ。
場長が「まるで牝馬かロバじゃねーか」と思わず写真を撮り、ナニとタマを完備してるか確かめたほど小柄で華奢だったという。
血統名を松風だがそれがいい傾奇者の愛馬とは断じて関係ないと名付けられ、額に菱形の星をきらめかせたこの幼駒は、当歳時に庭先取引としては破格の350万円*9で名古屋の運送会社社長・橋元幸吉氏に購入された。

そして管理を引き受けたのが、“東の尾形・西の武田”と謳われ、尾形藤吉調教師と並び称された関西の名伯楽・武田文吾調教師。
なおこの武田師、尾形師とともに管理馬で八大競走を完全制覇した、日本競馬界に二人しかいない伝説的調教師である。この時点ではまだ未達成だが、それでも飛ぶ鳥を落とす勢いのつよつよ調教師。
そんな調教師ガチャゴッドレアな御仁が見初めたんだからさぞや前評判も……と言いたいところだが、武田師もぶっちゃけ「こいつの牝系に私が乗ってた馬*10がいるんだよね、懐かしー」的なノリで引き受けてたフシがあった。
そういうのもあり、この時点での松風の評価は「凄い良血だしタケブン*11が引き受けたからには素質馬なんだろうけど、ちっこいし無名牧場の出だしなぁ」程度のものだったようだ。

無名の零細である松橋牧場での馴致を嫌った武田師の意向もあり、離乳後即荻伏牧場に送られた松風だが、追い運動をさせても「しかたねぇなぁ」とばかりに最後方をのろのろ走り、ぼさっとしてて動きも硬く、「お前これのどこを評価せえと?」という感じの仔馬だったそうな。
ただ、体質が非常に丈夫で手がかからず、どれだけ走っても決してバテない幼駒離れしたタフさを持っていたとか。
史上初の八大競走五冠を達成した原動力であるパワーとスタミナは、どうもこの頃から既に図抜けていたようである。

1962年の11月に武田厩舎に入厩し、本格調教が開始されることに。この頃、馬主の意向でゴッドファーザーとなった武田師が、孫の栗田伸一氏*12から一字取り、「山のようにどっしりと落ち着いてる奴だから」ということで伸山(シンザン)と命名している(異説あり)。
なお、当時イケイケで選りすぐりの素質馬16頭が入厩してくることになってた武田厩舎では、シンザンが入れる馬房がなかった。ということで後回し。阪神競馬場の馬房に居候させられ、あろうことか厩務員すら決められなかった。何してんですかブンテキ……。しかしどうにか空き馬房ができたため入厩、厩務員もついた。
この中尾謙太郎厩務員、担当する予定の素質馬を厩務員同士のゴタゴタで諦めさせられており、ユメもキボーもないってな具合に落ち込んでいた。しかも担当のシンザンがボケっとしてる上に見た目も垢抜けないとあって、さらにガックリしたそうな。

さて、本格的に調教を受けることになったシンザンだが、例によって走らない。
そらもう中尾厩務員が仲間から「お前んとこの新参(・・)、全然走んねーのなwwww」ってな感じで煽られるくらいには走らない。
のだが中尾厩務員、バテずヘタれずなシンザンを世話するうちに「こいつ、実はとんでもない奴なのでは……?」と思うようになっていく。なんかオーラでも出てたんだろうか。
出てたらしい。しかもそれを感じてたのは厩務員だけではなく、厩舎のエース・栗田勝騎手もそうだった。ある日調教で跨って以降「こいつはひょっとするとコダマ*13より上かもしれん…!」と公言してはばからなかったくらいだから相当だ。
しかしこの時点では、武田師にとってシンザンはあくまで管理馬の一頭に過ぎず、あまつさえ「デビューをウメノチカラ*14と被らせて、わざわざ負けさせることもあるまいよ」と新馬戦の登録を回避。シンザンのデビュー戦は1963年11月10日にずれ込むことになった。
武田師の相馬眼ガバガバ説


3歳時

上記の通り武田師の逃げ宣言もあって63年11月10日の新馬戦でデビュー。3角で先頭に立つとそのまま押し切って、4馬身差の圧勝で初出走初勝利を飾る。
続くオープンをサクッと仕留め、当時の関西3歳馬最強決定戦・阪神3歳ステークス*15への出走条件を速攻でクリア。
……が、同期の素質馬プリマドンナとオンワードセカンドにぞっこん(特に後者*16)だった武田師は「オキニの2頭出すからシンザンは回避で」とシンザンをスルー。なお同レースはプリマドンナが勝ち、オンワードセカンドは4着に敗れた。
結局シンザンは裏番組送り、もとい3歳中距離特別に出走し4馬身差で完勝。連勝を3に伸ばし、重賞未挑戦とはいえ無敗のまま3歳シーズンを終えた。


4歳初期

1964年は1月のオープンで始動、これまた問題なく連勝を伸ばす。とはいえここまで重賞未経験。武田師のガバガバ相馬眼方針もあったとはいえ有力馬と対戦しておらず、その辺見極めるため重賞に出陣。
しかし後述の理由もあって調整が遅れ、2ヶ月の休養を経て関東遠征し、スプリングステークスに出走することに。なお、この年のスプリングステークス&皐月賞は中山競馬場改修工事中につき東京競馬場開催である。
ところが武田師、この遠征をスルー。そらまあ他の管理馬が引きも切らんのだからしかたなくはあるが、それにしたって自厩舎の馬が重賞遠征すんのについてかないってのはどうなのよ?
なお、スプリングステークス前にも栗田騎手が「テキ*17、やはりシンザンはオンワードセカンドなんかとはモノが違います。皐月賞では俺をシンザンに乗せてください」と言っているのだが、武田師は思い留まるように説得していたりする。
やっぱり武田師の相馬眼ガバガバじゃねーか

レース前の追い切りでも例によって走らないので人気も低く、14頭中の6番人気。だが本番では、かつて対戦回避させられたウメノチカラや弥生賞を勝ったトキノパレードらをねじ伏せ、無傷の5連勝目を重賞初出走初勝利で飾り、東高西底な当時の競馬シーンの常識を真っ向から覆してのけた。
これには武田師も自分の目が海のリハクなのを認めざるを得ず、東京にすっ飛んできて「俺の目が節穴だった。まさかお前がこれほどまでの大物だったとは」と直接シンザンに詫びを入れたという。
なおレース後しばらくして、当時資金繰りが苦しかった橋元氏のもとに九州の炭鉱王・上田清次郎から所有馬購入のオファーが届き、橋元氏も資金のためシンザン売却に応じる意思があったという。
しかしシンザンに脳を焼か(わからさ)れてガチ勢筆頭となった武田師がこれにブチギレし、「シンザンを売るなら私を殺してからにしろ」と猛反発。この取引はお流れとなったそうな。


戦後初のクラシック三冠

シンザンと時を同じくして大敗したオンワードセカンドを押し退け、一躍厩舎のエースにのし上がったシンザン。スプリングSを勝ったのだから当然、次走は皐月賞となった。
皐月賞では前走の圧倒的な勝ち方が評価され、断然の1番人気に推される。レース本番では抜群のスタートから余裕をつけて好位を追走し、直線で後続を振り落とす盤石のレース運びで、猛追してきたアスカを3/4馬身寄せ付けず一冠目を獲得。
この手応え抜群な勝ち方には武田師もご満悦で、東京競馬場所属の中村広師の自宅*18で競馬記者に「もしかするとクラシック三冠イケるわ」と漏らしてたりする。ブロウクンマグナムかな?

無敗で皐月を戴冠したからには当然、二冠目の期待もかかる。なおシンザン、例によって調教ではやる気どん底走る気絶無。
さすがにこの頃には武田師もシンザンの調教嫌いを見抜いており、「もう(調教で仕上げられないならレースを調教代わりにするしか)ないじゃん」とレースで叩いて仕上げる方針に転換。ダービー前の太め残り解消にオープン出走を決める。
しかし今度は栗田騎手が反発。「そんなことしなくてもシンザンは勝てるし、俺が勝たせます」と追い切りをテキトーに走らせ、レースも直線だけの競馬をさせた結果、ヤマニンシロにクビ差届かず2着。無敗連勝記録は6で止まった。
なおこの出走でシンザンは無事シェイプアップし、武田師は「やはり実戦で走らせると仕上がりが違うな、シンザンに限っては今後もこの方針でヨシ!」と確信したそうな。
テキトーに走らせても勝ち馬とクビ差とか大概バケモノなのでは?

さて、叩いて調子を上げたところで東京優駿である。
今回も1番人気に推されたシンザンは、入場者レコード(当時)の8万人が見守る中、26頭のライバルとともに発走。抜群の好スタートで内ラチ沿いのダービーポジション*19をキープすると、直線で鞍上の鞭に応えて末脚を伸ばし、一度交わされたウメノチカラをするりと差し返してゴール。
実にあっさりと勝ってのけると、他の馬が興奮露わに入線後もバタバタ走ってるのを後目に誰よりも早く止まり、シレッと引き上げてきたそうな。なお、そんなに疲れた様子も息が上がったようにも見えなかった模様
要するに差し返すまで本気で走ってなかったらしい。なのにウメノチカラの鞍上からは「こっちが理想的なレース運びしたのに負けちゃったんだから、シンザンは本当に強いわ」と言われている。本気の全力で走ったらどんだけぶっちぎってたんですかね(震え声)
ちなみに武田師、俳人としても知られており、ダービー後に「勝ち戻る 馬も騎手(のりて)よ 五月富士」と一句詠んでいる。

涼しい顔して二冠を制し、ついに戦後初の三冠に王手をかけたシンザンと陣営。もちろん夏は北海道で放牧し英気を養わせる──と思っていたのかぁ?
なんと男タケブン、まさかの京都残留を決定。「北海道で避暑させて、残暑厳しい京都に戻って体調崩すくらいなら、最初から京都の暑さに適応した状態で調整した方がいい」というのが理由である。これはかつて二冠馬コダマの調整ミスがあったからという。
が、この年の夏はよりによって40年ぶりのクソ猛暑。元々夏が苦手なシンザンに京都の暑さと湿度は容赦なく牙を剥き、7月下旬には重度の夏負けに陥ってしまった。
これはいかんと扇風機をガンガンにかけて馬房内の空気を撹拌・冷却し、さらにでかい氷塊を吊り下げたりと馬房内環境良化対策を講じた結果、どうにか8月下旬にはシンザンの体温も元に戻った。
なお、この夏に厩舎は一日60貫もの氷を消費し、ひと夏の間に氷代だけで20万円(当時)が消し飛んだ模様。まあ輸送費よりは安かった……のか?*20

体温こそ戻っても、体調が良化に転じたのは結局9月以降。こんな状況でじっくり調教なんてできるわけもなく、武田師は今回もレースを叩きまくる方向に舵を切った。
まずはオープン競走でひと叩き……2着。調子が上がらん、重賞で気合を入れるぞ、京都杯だ!……またしても2着。ついに重賞での敗戦を喫したことで「コダマ、メイズイ、今度はシンザンも三冠ならずか……」と囁かれるようになる。
が、11月を迎え残暑が一掃されるとシンザンの調子はV字回復。菊花賞直前の追い切りで併せ馬のオンワードセカンドをボコボコにしたあたり、どうも調教嫌いよりも復活の喜びの方が優先されたらしかった。
だがそれまでの絶不調ぶりは競馬ファンの懸念を呼び、菊花賞に出走する二冠馬としては史上初の2番人気に甘んじるハメに。ちなみに1番人気には前哨戦をきっちり勝ったウメノチカラが推された。

そんなこんなで菊花賞。なんだかんだ言っても三冠かかってるだけに熱い注目を浴びており、京都競馬場は推定全入場者数4万5000人超えというレコードを達成。なお、売上も当時のレコードを3割近く更新した模様。
このレースでは、武田師は珍しく婿殿に指示を出していた。栗田騎手の手腕を全面的に信頼している武田師は、レース本番はほぼ彼任せにしていたのだが、今回は例外。その指示とは「ウメノチカラより先に仕掛けるな」というもの。さてこれがどう影響するのか……
ともあれ、出走のお時間である。例によって例のごとく抜群の好スタートを切るシンザン。何ならそのまま先頭に立ちかねない勢いだ。
しかしそれを交わしてぶっ飛んでったのが、二冠牝馬カネケヤキ*21。爆逃げかましてかっ飛ばす彼女をスルーし、じっと好位に控えるシンザン。そしてこらえきれなかったか追走を始めるウメノチカラ。
4角回ってなおもカネケヤキ先頭、ウメノチカラが襲いかかる。ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)の実況担当・小坂巖アナも思わず

シンザン、どうした!?三冠はもう駄目か!?

と悲鳴。セントライト以来、戦後初の三冠の悲願はまたも潰えてしまうのか……!?

シンザンがきた!

シンザンがきたっ!

シンザンがきたっ!!

…が、ウメノチカラがカネケヤキを捉えた瞬間、栗田騎手渾身の檄が炸裂
それに応え一気に飛び出すシンザン。凄まじい切れ味で見る間にウメノチカラに肉薄するや、残り1ハロンで並ぶ間もなく鮮やかに突き抜け、2馬身半差にねじ伏せてゴールイン。
セントライト以来23年ぶり、戦後初のクラシック三冠が達成された瞬間を目の当たりにし、場内大歓声。
これには武田師もガッツポーズ、「三冠の 手綱の重み 菊に曳く」と詠んでいる。

なお、最後に見せた鮮烈な末脚の反動か疲労が抜けず、その後は年内全休と相なった。


5歳時

明けて1965年。当初の予定としてはサンケイ大阪盃*22で始動し、天皇賞(春)を春の大目標としていた陣営だが、シンザンが装蹄ミスから蹄に炎症を患い、さらに食欲不振と腰痛のトリプラーを食らいおじゃんに。
しかたがないのでプランを練り直し、オープンで叩いて宝塚記念に出ることとなった。え、アサホコ*23から逃げた?いやいやまさかそんなことは……ないよね?
なお、この時点では宝塚記念は八大競走には数えられておらず、当時の扱いとしては今で言うところのスーパーGⅡ*24的な感じだった。アサホコも同日の日本経済賞に出走してたぐらいだしね。
調教代わりにオープンを2回叩いて臨んだ宝塚記念では断然の1番人気に応え、不良馬場適性不安視もものかは、いつも通りの抜群のスタートからいつも通りに好位を追走し、直線抜け出して後続を封殺するいつも通りの盤石ぶりで危なげなく勝利。

そしてこの年も夏は京都で過ごすことに。前年ほど暑くなかったこと、陣営が早い段階でキッチリ馬房冷却に勤しんだこともあり、シンザンの体調は保たれたまま秋シーズンへ突入する。
まずは阪神競馬場で開催されるオープンでひと叩きし、調子を上げてから関東へ輸送、オープンで再度叩いて天皇賞(秋)へ……というのが秋季プランとして策定された。
ところがぎっちょん、阪神のオープンで勝った直後に関東で伝染性貧血病騒動が発生。東上がずれ込んでしまい、到着したのは出走予定のオープン終了後。しかし秋天までにシンザンのギアを上げるには、もうひと叩きしなければ……
とまあそんなわけで、武田師はやむなく目黒記念*25への出走を決断。ハンデキャップ戦で負担重量を減らす手段がなく、できれば出したくなかった、というのが武田師の本音だったようだ。実際、斤量は63kgとなかなかエグい値になった。
しかしシンザン、この重斤量も難なく克服し、4角から先頭に立つとそのまま押し切る王道の先行策でさぱっと勝利。しっかりギアを上げて秋天に臨む。

さて、秋天当日。いつも通り抜群のスタートを切って好位に陣取るシンザンを後目に、前走でねじ伏せたミハルカスが闘将・加賀騎手の策のもと大逃げを打ち、向こう正面で一度は後続に30馬身以上の超大差をつける。このまま押し切れるかミハルカス!?
押し切れなかった。大欅付近で2番手に押し上げたシンザンが直線向いて大外からミハルカスを強襲すると、さすがにバテながらも粘る彼を軽やかに抜き去り、懸命に追い上げるハクズイコウを2馬身差完封して秋の盾を獲得。鞍上栗田騎手にとっても初の天皇賞制覇であり、人馬ともに嬉しい勝利となった。
ちなみにこのレース、シンザンの単勝馬券は100円元返しだったりする。JRAのGⅠ級競争において他に5例しかない*26記録で、シンザンの人気と本番での強さがうかがえる。
なお、当時の天皇賞は勝ち抜き制*27であり、秋天を勝ったシンザンはこれで春天にも出走できなくなった。


第10回有馬記念-四冠馬シンザンの消失、あるいは史上初の五冠馬降臨-

これで八大競走*28中四冠を手中に収めたシンザン。いや馬だから手はないけど。ともかく、残すところは有馬記念のみ。他に戦うべきレースなど残っておらず、天皇賞後にシンザンの年内引退が発表され、最後の一冠有馬記念がラストランと定められた。
なんか驀進王みたいなこと言ってるが、上記の通り天皇賞は勝ち抜き制、海外遠征は活発でなく、短距離戦線はこの時期未整備通り越してほぼ更地。ガチのマジにこれ以上シンザンが走れるレースそのものが、それこそ有馬記念くらいしか存在しなかったのだ。
海外遠征を望む声もあったが、64年にワシントンDC国際に遠征&惨敗、その後故障引退したリュウフォーレルという前例があったため、武田師は「シンザンに海外遠征は絶対させん」と決めていたようである。

さて、ラストランであるからには有馬記念は勝たねばならないレースとなった。しかし懸念材料がひとつ。実はシンザン、中山童貞だったのである。いやマジで。
実は上でちょろっと述べていたのだが、ちょうど中山競馬場の改修工事とクラシックシーズンが重なってたこともあって、スプリングSと皐月賞は東京競馬場開催だったのだ。
中山童貞を有馬本番でいきなり捨てるのはリスクが高いこと、相変わらずの調教嫌いで叩かないと良化しないいつもの事情も相まって、武田師は本番前に一度、中山開催のオープンで叩くことを決断。なお件のオープン、有馬記念1週前である。連闘じゃねーか*29

これには反対意見もあり、主戦だった栗田騎手も猛反対。「連闘で有馬記念は無茶が過ぎます!初コースだろうとシンザンには関係ない、俺が勝たせます!」と言い募るも、そもそも調教だけでは太め残り確定なのをわかりきってる武田師は婿殿の反対を却下。
結局、古馬になって以降のオープンで鞍上を務めた見習い騎手*30の武田博騎手*31を鞍上にオープンを叩くが、関西では無名のクリデイに敗北してしまう。
この敗戦を阪神競馬場で聞かされて大ショックを受けた栗田騎手、当日は土曜日で翌日日曜日にも騎乗があったにもかかわらず調整ルームを飛び出し自棄酒を敢行、あまつさえ泥酔してぶっ倒れ搬送され、日曜日のレースをすっぽかしてしまい、「翌週からの騎乗停止処分」を喰らうという醜態をぶちかましてしまう。無念と切歯扼腕した気持ちがあったんだろうが、これは流石にちょっとやり過ぎてしまった……
案の定、(騎乗停止処分があったので元々乗せられないが)キレた武田師は「私の信頼できんヤネにシンザンを任せられるか!」と娘婿からシンザン主戦の座をボッシュート*32。代役を探したが、候補筆頭の加賀騎手に「シンザンに乗るより、むしろ僕はシンザンに勝ちたいので」と謝絶されたのを皮切りに、複数の騎手から騎乗依頼を断られる。
紆余曲折を経て、栗田騎手の弟弟子にあたる松本善登騎手(無論これがテン乗り)を鞍上に迎え、有馬記念に挑むことになった。
なお、単勝オッズ1.1倍と断然の1番人気、かつ人気投票の得票数はぶっちぎりのレコード*33と、もはやシンザンの前に敵はなく、いかにして勝つかがファンの注目するところだったようである。結構不安材料重なっててこれかー……

さて、有馬記念当日。
前回の反省もあってか今回大逃げではなく溜め逃げでレースを引っ張るミハルカス。そして例によって抜群の好スタートから好位に取り付くシンザン。このように、双方(・・)想定通りの展開でレースは進んだ。

そして直線向いた瞬間、溜めに溜めて後続を引きつけた加賀騎手が動いた。斜行と睨まれかねないほど一気に大外に振り、まだ荒れていない外ラチ周辺をブロックしたのである
そう、実は序盤の溜め逃げもこのための布石。これこそが闘将・加賀武見一世一代の大博打にして渾身の一手だった。
これで後続に走りやすい外側でミハルカスの後塵を拝するか、荒れ果てた内側に突っ込んで減速するかの二択を強要したのだ。
一瞬、3番手のシンザンが行き場を失ったように見えた。さらに4番手以下が荒れた内に振り、ヤマトキョウダイがミハルカスより外に振ったことで、加賀騎手は勝利を確信した。
「ヤマトキョウダイより外には振れない!シンザンは俺の後ろか、さもなくば荒れた内で減速だ!今度こそ、今度こそ俺とミハルカスの勝ちだ!」

だが、そんな逆境に屈するような惰弱な馬が、五冠に王手をかけるわけがなかった。

ヤマトキョウダイの左後方──すなわち外ラチギリギリいっぱいの最大外から、恐るべきシンザンの疾走音が迫ってくる。加賀騎手の全身が総毛立った。ありえない、これ以上外に振れるスペースなど……!?
あった。外ラチとヤマトキョウダイの間、馬がギリギリすり抜けられるかどうか。そんな極限に狭く、しかし確かに開かれた、“輝かしき勝利への直通路”が!
そのスペースに馬体を差し込み、すり抜け、ヤマトキョウダイを交わし、ミハルカスに襲いかかるシンザン。超大外からの強襲というカウンターを浴びたミハルカスに、もはや勝ち目は残されていなかった。

一方その頃、観客席からは悲鳴が上がっていた。大外も大外に突っ込んだため、後列からは最前列の観客でシンザンが見えなくなってしまったのだ。
無論、中継カメラから捉えられる角度でもなかった。これには実況も思わず

「シンザンが消えたッ!?」

と絶句。しかし次の瞬間、観客やカメラの死角から、凄まじい末脚でシンザンが「出現」。ミハルカスとヤマトキョウダイをもろともに撫で斬ると、後続に約2馬身差つけてゴール板に飛び込んだ。
史上初・前人未到・空前絶後の八大競走五冠達成。目の当たりにしたその快挙に、中山競馬場の天地は歓声で揺れた。
管理馬がついに達成した快挙に、武田師も「勝ち戻る 手綱(つな)に五冠の 年惜しむ」と一句。

なお、レース後のインタビューで松本騎手は「ありゃ誰が乗っても勝てますね」と、シンザンの強さに呆れたのか脱帽したのか、なんとも反応に困る発言をしている。
また、レース後に「シンザンが『外を回れ』と言った」「後半のコーナーで前の馬はバテてて、相手は加賀の馬(ミハルカス)だけだと思ってた。外に振られたけど内に持ち直す気はなかった、並べばこっちの方が強いから(大意)」ともコメントしている。
他、加賀騎手に「よくあそこを通ったね」と声をかけられて、「中山を知り尽くしているあんたが外に行ったから」とも。
松本騎手の意思とシンザンの闘争心が一致し、まるで導かれるように勝利への最短ルートを掴み取ったのが、この劇的な五冠達成に繋がったのではなかろうか。

この五冠達成という最高の誉れを最後に、シンザンは予定通り引退。明けて1966年1月、東京と京都で史上初となる東西2ヶ所での引退式を執り行い、最強の戦士はターフを去った。
通算成績は19戦15勝2着4回[15-4-0-0]、堂々の完全連対である。また、19連続連対は中央競馬における不破のレコードとなっており、連続連対数の次点は15連続のビワハヤヒデ。完全連対に限るならダイワスカーレットの12連続連対が次点となる。なお、路線が違うし、"連続"でも"完全"でもないが、龍王はこの境地にあと一歩のところまで迫っている。


種牡馬時代

馬主橋元氏の意向で、谷川弘一郎氏が代表を務める谷川牧場で種牡馬入り。歴代最強馬がおらが町にやってくるということで、浦河町では町を挙げた歓迎会が催された。
だが時は外国産種牡馬全盛期。内国産種牡馬としては大きな期待をかけられたが、「いくら八大競走勝利馬でも外国産馬にゃ敵わんべ」というのが定説……というかもはや呪いとなっていた。
これでは一流馬が肌馬に当てられるわけもなく、谷川牧場さんサイドも奔走したものの、種牡馬3年目までは付き合いのある牧場(知人とか親戚の経営)からの牝馬を中心に種付けを行うことに。

……が、最強の戦士はやはり種も強かったのか、初年度から産駒が勝ち上がるという上々のスタートを切ると、2年目以降の産駒から快速で名を馳せた重賞馬を続々と輩出。
これには他の馬主も生産界そのものもびっくり仰天。内国産種牡馬の見直しが急速に進み、アローエクスプレスやトウショウボーイといった内国産大種牡馬の活躍に繋がったというから、セカンドライフでもエポックメイキングな奴である。

その後も内国産種牡馬の筆頭格でありながらなかなか八大競走勝利産駒を出せなかったが、1978年産駒のミナガワマンナが菊花賞を父子制覇。
1981年といえばもはやシンザンも20歳。まだ種付けできなくもない年だが、それでも種牡馬引退を始める馬が出始める頃合いである。ゆえにミナガワマンナは「シンザン最後の大物」と称された。
でもそこで終わらないのがシンザンクオリティ。1982年産駒のミホシンザンが皐月賞・菊花賞・春天と八大競走三冠を手中に収め、種牡馬最晩年の「シンザンの最高傑作」爆誕に界隈は度肝を抜かされた。
それでも父を超える産駒が現れなかったあたり、やはり最強の戦士は偉大……どころじゃないな、うん。
高齢と受精能力低下に伴い、シンザンは1987年をもって種牡馬を引退。引き続き谷川牧場に繋養され、余生を送ることとなった。
この87年にミホシンザンが春天を制覇。父子で春秋天皇賞変則制覇を果たし、去りゆく父に最後の栄冠を捧げた。
後継種牡馬は目立った成績を残す事が出来ず、ミホシンザンの後継馬マイシンザン(重賞2勝)が早々に種牡馬引退となった事もあり父系としては途絶えているが、
産駒が多く古い血統だけに母系では現在でも稀に見かける名前となっており、中にはサラブレッド系種を飛び出しばん馬として活躍しているものもいる*34

橋元氏、栗田騎手、松本騎手、そして武田師。主だった関係者の多くがこの世を去った後も、シンザンは生き続けた。同世代の二冠牝馬カネケヤキのサラブレッド最長寿記録を更新し、さらにアングロアラブ種が持っていた軽種馬日本最長寿記録も更新。
後年に彼の持っていた最長寿記録はほぼすべて更新されたが、GⅠ級勝利馬の最長寿記録だけは今なおシンザンのものである。頑張れタイキフォーチュン
晩年には右目の視力と歯をすべて失い、背は落ちくぼみ、いかにも老馬でござるといった風体になりながら、なお放たれる威厳は周囲を圧倒し、彼が五冠馬であることを否が応でも思い出させたという。

しかし偉大なる最強の戦士も生物である以上、寄る年波には敵わず、1996年7月13日、偉大な先達やまだ見ぬ後輩のもとへと旅立っていった。満年齢35歳と102日の大往生だった。
死後葬儀が執り行われ、テンポイント以来となる土葬により谷川牧場の土となった。
日本の三冠馬はセントライト→シンザン→ミスターシービーまで結構な間隔が空いているが、シンザンの長寿も手伝い、常に1頭以上の三冠馬が存命の生存記録がある。人気種牡馬は15歳から20歳くらいで寿命を迎える中、現在ほど多数の種付けをこなしてはいないとはいえ、シンザンの長命さは際立っている。


余談

シンザン鉄

ある時、中尾厩務員がシンザンの右後ろ足の蹄からの出血を見咎めた。原因は後脚の踏み込みがめちゃくちゃ強く、前脚の蹄鉄とぶつかってしまうことにあった。シンザンの有り余るパワーの現れだが、ほっときゃ故障待ったなしである。
試行錯誤の末、後脚用の蹄鉄に通気孔付きのスリッパ型カバーを増設して蹄を保護し、さらに前脚用蹄鉄にT字のブリッジを溶接して強度を増した専用蹄鉄が開発された。
これが世に言うシンザン鉄である。走ると蹄鉄同士のぶつけ合いで「パァーン!」と凄まじい音が響いたそうな。重量は通常型のゆうに2倍。しかもこの頃の調教用蹄鉄は総鉄製。ちなみにあくまで調教用であり、レース時には通常のアルミ製蹄鉄を使っていた。
人間で言えば、手足にキロ単位の錘つけて陸上競技のトレーニングするようなもんだが、こんなもん着けてるから足腰が鍛えられたのか、元から苦にしないほど足腰がおかしな頑丈さだったのか、それともまさかの両方か。それはシンザンのみぞ知る。
また、無茶な改造をしただけあり蹄鉄そのものの耐久性も低かった。通常3週間は保つのだが、シンザン鉄は溶接部が1~2週間程度しか保たない紙耐久だった。なので打ち替えも頻繁にするハメになった。無論コストもマッハ。
当然装蹄も大変で、京都にいる時は通常の蹄鉄を装蹄したまま改修し、遠征時には予め作り置きしておいたものを持ち込んでいた。装蹄時間もクッソかかるので、シンザンは蹄鉄の打ち替えそのものが大嫌いになったそうな。

そんなもん着けてるから調教嫌いになったんだ、という説があるが、調教嫌いは元からだったんだよなぁ……
なお、シンザン鉄の開発に手間取ったのが、前述のシンザンの2ヶ月休養に繋がっている。まさか裸足で調教するわけにもいかんし。


二本脚の馬

ある日、武田師が乗り運動のためにシンザンを外に出し、博騎手が跨って歩き出そうとした次の瞬間。
シンザン、後脚で立ち上がり二足歩行を敢行。博騎手が必死でしがみついてるのを知ってか知らずか、その後50mほども器用にひょこひょこ歩き、おもむろに四足歩行に戻って歩いていった。
これには武田師も「いや、歩けとは言ったけど二本脚でやれとは言っとらんがな」と呆れ半分驚愕半分だったそうな。

二本脚で立つのはゴルシとかみたく足腰が強い馬が稀にやるのだが、そのままそこそこの距離を歩き、しかも鞍上乗っけてやらかしたのはさすがにシンザンだけだろう。……誰かそうだと言って?


鉈の切れ味

シンザンの末脚を表すに最も適切かつ有名な例え。
武田師の言葉であり、自身がかつて管理した二冠馬コダマと比較して

「コダマはカミソリ、シンザンは鉈の切れ味。ただしシンザンはヒゲも剃れる鉈だよ」

と語ったのが由来。要するにただ速いだけでなく、その速さを瞬時に発揮させるパワーと、その速さを発揮するまで垂れないタフなスタミナをすべて兼ね備えていた、ということ。
トップスピードを瞬時に発揮し、しかも維持できるからこそ、彼は五冠馬たり得たのだ。


本番を知る馬

武田師曰く「ゼニのかかってないところじゃ走らん」「ゴール板を知ってる。だからヤネが追わなくても自分で必要なだけ走れる」「利口な馬で、無駄っ走りをしなかった」。本当に馬かこいつ。
栗田騎手曰く「こっちが考えてることが電気みたいに伝わる、こんな乗りやすい馬はいない」。日本語理解しとらんかこいつ。

レースでもほぼ全力を出さず、最終直線で他馬を振り落とすときのみ全力を出し、ゴール直前で流してクールダウンに移行し、そのまま誰よりも早く止まってさっさと引き上げる。それをシンザン自身がわかってやっていた。
栗田騎手が「ハナ差だろうと勝ちは勝ち、着差よりも勝ったという事実こそ重要」というスタンスだったこともあり、人馬ともに「あえてレコードを狙わない走り」で一致していたわけだ。
ぶっちゃけ舐めプと言われても否定しづらいが、他馬の全力がシンザンの舐めプ以下だったわけで……
なお栗田騎手曰く「レコード取れって言うならなんぼでも取れますよ」とのことで、やはり当時のサラブレッドの中でシンザンが図抜けた超絶スペックだったことに疑いの余地はなさそうである。


シンザン記念

シンザン引退から二年後の1967年、日本中央競馬会はその名誉を称え4歳(現表記:3歳)限定重賞として「日刊スポーツ賞 シンザン記念」(京都競馬場1600M、現GⅢ)を創設。
残念なことにシンザンの末裔が勝利した例はないが、シンザンの乗り手の一人武田博は調教師転身後の2009年に自身の管理馬アントニオバローズがシンザン記念の勝利馬となっている。
歴代勝利馬を振り返ると「気まぐれジョージ」エリモジョージ・安田記念馬フレッシュボイス・日本調教馬初のヨーロッパGⅠ制覇シーキングザパール等未来の活躍馬を輩出。
また本レース後クラシック戦線で活躍した馬にはタニノギムレット(ダービー馬)・ジェンティルドンナ(牝馬三冠)…そして芝GⅠ9冠を達成した三冠牝馬アーモンドアイがいる。
後負けてる(3着)けどオルフェーヴル


シンザンを超えろ

圧倒的な戦績、内国産種牡馬の星として君臨した種牡馬時代。競走馬か種牡馬として偉大な成績を残した馬は数あれど、両方ともなるとそうはいない。ましてシンザンの時代には。
ゆえにこそ、シンザンという至上の輝きに目と脳を焼かれた日本のホースマンは、シンザンを超える競走馬を見出し育てることに躍起になった。
「シンザンを超えろ」はもはやスローガンを超えて、日本競馬の至上命題となったのである。

だが、それから約20年、五冠馬どころか三冠馬すら現れることはなかった。
そして、1983年クラシック三冠のミスターシービーを経て、1984年に史上初の無敗三冠を達成し、さらには1985年のジャパンカップ制覇と有馬記念連覇により永遠なる七冠の皇帝が降臨することで、日本競馬の悲願はついに果たされた。
まあ今度は七冠超えをシンザン記念に勝ったアーモンドアイまで果たせず、「皇帝の呪い」とか言われるようになったわけだが




追記・修正は最強の戦士を追想しながらお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 三冠馬
  • 名馬
  • 故馬
  • 神馬
  • 五冠馬
  • 皐月賞馬
  • ダービー馬
  • 菊花賞馬
  • シンザンを超えろ
  • 伸山
  • 神賛
  • 本番を知る馬
  • シンザン鉄
  • 二本脚の馬
  • 完全連対
  • シンザン
  • 内国産種牡馬の星(当時)
  • 鉈の切れ味
  • 好位先行
  • 最強の戦士
  • シンザン記念
  • 長寿
  • 競馬
  • 競走馬
  • 所要時間30分以上の項目
  • 天皇賞馬
  • 顕彰馬
  • 最優秀5歳以上牡馬
  • 年度代表馬
  • 彼の前では、全ての馬が挑戦者だった。
  • 神話生物

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年12月09日 14:12

*1 1969年に栗東トレセンが開設されるまでは競馬場で調教を行っており、当時の武田師は淀を拠点とする調教師だった。

*2 当時はグレード制未導入のため格付けなし。

*3 当時の施行距離は春天同様の芝3200m。

*4 皐月賞トライアルレース、施行距離は2022年現在と同じ芝1800m。

*5 当時は旧馬齢5歳以上対象、施行距離は芝2000m。

*6 当時は天皇賞同様春秋開催、施行距離は2022年現在と同じく芝2500m。格付けに関してはスプリングS同様だが、1984年のグレード制導入と同時に廃止された。

*7 この時組まれたのが日本初の種牡馬シンジケートとされる。

*8 1930~40年代の日本競馬を代表するチート種牡馬にして、当時の欧州二大主流血統であるセントサイモンとハンプトンのインブリードを併せ持つ超良血馬。競走馬時代はイギリスで24戦6勝の成績を残し、当時の日本円換算で約10万円という超大金で購入された。産駒ダービー馬輩出数6頭は歴代2位タイ。サンデーサイレンスと並び、ディープインパクトに次ぐダービーホースメーカーである。栄えある初代ダービー馬ワカタカ、トウカイテイオーの牝祖にして牝馬初のダービー馬ヒサトモ、日本競馬史上初の内国産リーディングサイアーとして無双したダービー馬クモハタ、牝馬ながら変則三冠を達成したクリフジなど、まさに綺羅星の如き名馬たちを輩出し、単騎で下総御料牧場の黄金時代を築き上げた。

*9 320万円とも。どちらにせよ無名牧場出身の幼駒としては破格の値段である。当時の日本ダービー優勝賞金が700万円なのを加味すると、ふっかけてるどころではないような……

*10 3代母のバッカナムビューチーのこと。

*11 武田師の愛称。他にはブンテキなど

*12 シンザン主戦・栗田勝騎手の実子で、後のJRA騎手・調教助手。武田師は母方の祖父に当たる。

*13 後の超絶名牝・シラオキの初期産駒。上記の通り父はヒンドスタンの抱き合わせことブッフラー。トキノミノルの再来と謳われ、その生涯をなぞるかのように皐月・ダービーを制し無敗二冠を達成。ダービー当時落馬負傷が完治しておらず、足にステンレスの金具を入れていた栗田騎手魂の騎乗は今でも語り草。距離適性や蓄積した脚部疲労もあって長距離戦はお察しだったが、インターミディエイト~2400m戦ではクソ強だった。

*14 幼駒時代から将来を嘱望されていた有力素質馬。主な勝案は朝日杯3歳ステークス。なおクラシック戦線ではシンザンにボコボコにされ、一度も勝てずじまい。

*15 現在の阪神ジュベナイルフィリーズ、施行距離は現在と同じく芝1600m。当時は牡牝混合戦。

*16 何しろタケブン最強伝説の牝馬部門を担った無敗牝馬二冠馬ミスオンワードの息子である。ちなみに中尾厩務員が本来担当する予定だった期待馬が彼だったんだとか。

*17 競馬界のみで使用される隠語で「調教師」の意。調教師には元騎手が多く、「騎手」を「手騎」と逆にしてひらがな読みした(きて→てき)ことが語源とされる。

*18 シンザンは関東遠征時に中村厩舎に入厩しており、その時は武田師も中村師の自宅に宿泊していた。

*19 1992年に制度改定され出走上限が18頭になるまでは、日本ダービーは20頭立て以上で開催されることもザラだった。ゆえに大外枠を掴まされたり道中で控えすぎた馬はほぼノーチャンと化すため、「ダービーを勝つには10番手以内の好位をキープしなければならない」というのが定説となる。これを俗にダービーポジションと呼んだ。なお現在はほぼ死語だが、近年の傾向としては4角で2~5番手の先行・差し馬の勝率が高いようで、ある意味これが現代版ダービーポジションと呼べなくもない。

*20 なんせ当時は北海道までの移動、となると汽車と船を乗り継いでようやく…という時代なので……

*21 三冠牝馬のページで述べられているが、当時はまだ牝馬三冠の三冠目のレースが存在しておらず、実はこのレース、クラシック三冠と史上初の牝馬三冠が懸かっていた。なお後述するがカネケヤキとは後年、別の形で競争することになる。

*22 現在の大阪杯。当時の施行距離は芝1800m。グレード制導入とともにGⅡに格付け。GⅠ昇格は2017年とかなり最近で、春古馬三冠が確立されたのもこの時期から。

*23 シンザンの1つ上の世代の馬。クラシック戦線ではパッとしない条件馬だったが、旧6歳になって鞍上が当時のリーディングジョッキー・加賀武見騎手に乗り替わると覚醒。重賞4連勝でシンザンが回避した春天に殴り込むと、不良馬場をものともしない7馬身差蹂躙で他馬を殲滅、当時のレコードとなる重賞5連勝で天皇賞馬となった。なおその後再びの低迷に苦しみ、引退後は生地青森で種牡馬となるも、馬産の中心が北海道に完全移行したこともあり肌馬に恵まれず、13歳の若さで病没。

*24 GⅡ競走の中でも賞金額が高く、GⅠ馬や後のGⅠ馬など豪華メンバーが集う傾向にあるレースのことを指す俗称。札幌記念、中山記念、毎日王冠あたりがそう呼ばれることが多い。

*25 当時は春秋2回開催。1984年以降はアルゼンチン共和国杯に秋競走の役割が受け継がれた。

*26 ‘51皐月賞・トキノミノル、‘57桜花賞・ミスオンワード、‘57秋天・ハクチカラ、‘57有馬記念・ハクチカラ、‘05菊花賞・ディープインパクト

*27 一度盾を獲った馬が二度目以降に負けたらその馬の威厳が下がる、という発想だとか。まあ実態としては「天皇賞勝つくらい優れた馬なんだから、はよ種牡馬になって種撒いてクレメンス」ってところだろう。勝ち抜き制と定められた当時は有馬記念もジャパンカップもなかったわけだし、盾を獲るのが各陣営の最大目標的な時代だった。一年の総決算として有馬記念が創設されて、ようやく天皇賞制覇即引退がトレンドでなくなったくらいなのだ。

*28 五大クラシックたる皐月賞・東京優駿・菊花賞・桜花賞・優駿牝馬、春秋天皇賞、有馬記念の総称。グレード制導入までの長きにわたって、日本競馬における最高格のレースとして重要視されてきた。桜花賞と優駿牝馬は牝馬限定戦、春秋天皇賞は80年まで勝ち抜き制のため、この頃の競走馬一頭が八大競走を勝てる最大数はクラシック三冠or牝馬二冠+菊花賞と、春秋天皇賞のいずれか+有馬記念の計五冠となる。GⅠ競走増加や路線細分化に伴い、ジャパンカップともども相対的な地位は低下しつつあるが、それでもなお歴史と数多駆け抜けた名馬たちの重みから、やはり他のGⅠとは一線を画する影響力を持つ。

*29 オープン直前まで馬体が重く太め残りバリバリだったため、オープンで叩いてシェイプアップしギアを上げておかなければ本番で負けてたという見方もある。どちらにせよ、シンザンの頑強さと調教嫌いがなければ取られない手ではあった。

*30 現在とは見習い騎手の定義が異なり、騎手免許取得から3年未満の騎手を一律でそう呼んでいた。要するにルーキー乗せると斤量を甘くしてくれるので、一線級の馬が調整兼ねてオープン出走する際は、経験積ませるのを兼ねて見習い騎手が手綱を取ることが多かった。

*31 武田師の長男。騎手引退後、調教師として厩舎を開設し、2016年に定年引退。

*32 おかげで栗田騎手はこれだけ主戦を務めたにもかかわらず、後述のシンザンの引退式の際に呼んでもらえず、シンザンのラストランに跨れなかった。

*33 あのハイセイコーやテンポイントですら破れず、投票方式が改定された1978年まで得票数トップであり続けた。

*34 例として、2015年のばんえいオークス馬ホクショウモモの5代母はシンザン産駒のハクヨウチカラである。