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「瑞巌寺境内遺跡」にスタンプ紋漆器はあるか?…いや、鎌倉との関係はそんな甘い話ではなさそうな…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/08/02/061559

「スタンプ紋のとは?…厚真と鎌倉を繋ぐ漆器に付いての備忘録」…

これの続報である。

鎌倉中心に作られ、厚真でも出土しているスタンプ紋漆器だが、この段階で宮城県は松島の「瑞巌寺境内遺跡」でも出土しているとの情報を入手していた。

前項を纏める時に読んでいる文献でも、漆器の出土は北東北でもあるのだが、スタンプ紋となるとあまり見ない。

直ぐに古書屋にあった「瑞巌寺境内遺跡試掘調査概報」 を取り寄せたが、木製品の中に3点の漆器片はあれども紋様が無いものだった。

なら、本発掘での出土となろうが、なかなか本発掘の発掘調査報告書が入手出来なかったので、この際瑞巌寺に直接行って見てこようと今回の訪問を行った訳だ。

事前に近辺の資料館で瑞巌寺宝物殿に展示はあったハズと詳しい方のお名前を教えて戴けていたので、アタックしてみる事にした。

事前に…

宝物殿内は写真NGであった。

境内はOKだが、寺の内部は同様にNG。

瑞巌寺伊達政宗を始めとして伊達氏の菩提寺として有名だが、その開基はそれより遥かに古く、衰微していたこの寺を伊達政宗が今の形に再建したとなっている。

ざっと由来を…

・828(天長5)年、慈覚大師円仁が「延福寺(松島寺)」として開基…

・1200年頃に北条政子が見仏上人に「水晶製五輪塔舎利」を寄進しそれが伝世品として残される。

この写真は東北歴史博物館の常設展示の複製品。

因みに、水晶製の仏舎利は珍しい様だが、実は筆者は似た物を見た事がある。

山形の鶴岡市藤島にある「東田川文化記念館」の常設展示「中山廃寺跡」出土の水晶製舎利塔。

14世紀位の廃寺跡の様だが、関連はあるのだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…

14世紀の庄内といえば、ここ鶴岡市藤島にある「藤島城」に陸奥将軍府北畠顕家の弟である北畠顕信が入城したや羽黒修験の別当寺の伝承があったりしている。

もとい…

・1259(建長4)年、天台宗寺院だった「延福寺(松島寺)」を北条時頼の命により法身禅師が臨済宗円福寺として改宗,創建…

この伝承には北条時頼廻国伝承が絡むので真偽は別として、天台宗寺院がここから海岸側へ移され江戸期迄併存した事、松島信仰の中心が臨済宗円福寺へ移されそのまま継続した事から、鎌倉幕府の圧力や強制があった事は間違いないだろうと瑞巌寺側では判断している様だ。

法身禅師はその後円福寺住職を辞し、青森県十和田市洞内に円福寺(現在は法蓮寺)を開山したとされる。

・1280(弘安3)年、祖父河野通信の足跡を辿り、一遍上人か訪れたとされる…

・1308(徳治2)年、先にある雄島の妙覚庵庵主であった頼賢の徳行を残す為に「頼賢碑」が建てられる。

この紀年碑や周囲の板碑(瑞巌寺でも150基程度出土)らで鎌倉期に盛んに信仰を集めていた事が解る。

雄島で最古の板碑は、

1285(弘安8)年との事。

この辺は一遍上人の来訪年代と概ね合致しそうだ。

板碑はこの周辺から石巻周辺地域に膨大に残される。

・1605(慶長10)年、伊達政宗が衰微していた円福寺の再建に着手、寺号を「松島青竜山瑞巖円福禅寺(松島山瑞巖寺)」と改め再建、四年を費して大伽藍を完成させた…

こんな感じである。

 

では、本題。

「スタンプ紋の漆器はあるか?」だが、結論から先に書けば、

漆器の出土は中世地層では71だがスタンプ紋は数個で、観察表に「印判」記述があるのは4個、常設展示で見る事は出来た。

コピー戴いた発掘調査報告書より。

・2枚目の写真の様に手書きで鶴を描いた物はあるが、厚真同様の「向かい鶴紋」のスタンプ紋は無い。

・遺跡は現宝物殿の真下になる。

となる。

発掘された方の話だと、伝承やこれらも含め鎌倉との関係は深かったであろう事は示唆される…そうだ。

それだけスタンプ紋そのものの検出が少ないのも事実。

ついでに…

椀や皿において、高台内や底部に文字やマークの刻字や焼印がされている物が数点ある。

・No.540

・No.556

では、「✕」の刻字が記載される。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/08/02/061559

「スタンプ紋のとは?…厚真と鎌倉を繋ぐ漆器に付いての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/27/211032

「この際、「内耳土鍋」を見に行こう!、あとがき…「+型刻書」は山形にもある!」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842

「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…

「+」「✕」の刻書,刻字はそれを作った側である本州以西に幾らでも事例があるのだ。

何故に北海道に行けば、どの時代においても「アイノのシロシ」との関連と判断されるのか?…筆者には全く理解不能である。

せめて近世後期位からなら理解もするが。

この辺の考察の仕方からも、北海道では本州との事例比較がされていないであろう事が示唆される。

 

如何であろうか?

厚真の向かい鶴のスタンプ紋が鎌倉との関係を想起させられる…これはその希少性からも理解されるところ。

それはこの松島においても同様であろう…

つか、実はこれでは終わらない。

筆者は中学修学旅行も含め、数回松島を訪れている。

朧気な記憶では「磨崖仏の様に観音像らが掘られたところ」がある程度は何となく覚えていた。

山形の山寺らでも崖の凹みに合わせお堂が作られた処があるのだが、そこまで興味が無ければ、へー、こんなものか…で終わる。

だが、今回は違う。

瑞巌寺の境内の崖はこう。

境内に入った段階で気が付いたが、崖一面に横穴が掘られ、内部に地蔵,観音,宝篋印塔,板碑らが納められているが、場所により風化が酷い処があり、中の地蔵らと年代差がありそうだと思っていた。

宝物殿で話を聞いたら、瑞巌寺〜雄島の崖にはこんな風に横穴が掘られた場所がずーっと並んでるそうだ。

岩質は「凝灰岩質」で、掘り易いからだと。

確かに先に奥松島方面に行った時に、凝灰岩を切り出した様な崖が目立つな…とは思っていた。

勧められたので雄島にも行ってみた。

先の「頼賢碑」はその雄島の尖端にあるのだが、そこに至る迄の道すがらはこうだ。

こんな風に挟道やトンネルが掘られたり無数に横穴が掘られている。

雄島の3枚目、壁の宝篋印塔や銘板が比較的形を残しているがこれが寛政年間で、既に文字どころか仏像であろう事しか変わらぬ程に風化した場所もある。

それで「あ!」っと気が付いた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

これらの横穴は、元々「やぐら」の類なのではないのか?と。

瑞巌寺境内遺跡」や付帯した岩屋遺構での遺物年代や板碑ら紀年遺物、伝承らを含め、これらが鎌倉〜南北朝辺りに作られたりしている事は疑い無いだろう。

ここで「やぐら」は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

全国規模で見た場合、北陸ら一部の少数を除けば殆どが鎌倉〜北神奈川と房総半島南沿岸に偏重して存在する。

鎌倉周辺は砂岩質、ここは凝灰岩質と軟らかい岩質だから可能であるともいえるが、凝灰岩質がある東北でも横穴の墓や廟はあまり見ない。

ここは恐らく特殊な事例だろう。

遺物だけではなく、共通した遺構を持つと考えれば、その関連性はかなり深いものとなろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…

牡鹿半島周辺で、熊野詣での先達に安倍姓安東氏の名があるのは概報。

安東氏が太平洋側も押さえていたのも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/11/210211

「対岸の状況はどうだったのか-3、更にあとがき…「稲崎袰崎神社の板碑」と安東(藤)氏の関係、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…

時宗門徒であった事も概報。

得宗家より蝦夷沙汰を任され、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041

「幻の港湾都市「十三湊」…中世北海道と東北を繋ぐ玄関」…

在地なのにも関わらず御家人の一角となり、関東御用津軽船の担い手であった事も概報。

つまり、太平洋ルートの湊の一つは、ここ松島〜石巻牡鹿半島にあり、鎌倉と接続されていたのではないか?…だ。

それなら、牡鹿半島でヤマセは防げるし、石巻の直ぐ隣は涌谷町…産金遺跡の地。

対して松島の南には陸奥国一ノ宮塩釜神社神社があり、その隣は国府多賀城」だ。

中世の湊としての地理的要衝として数えても良い立地。

候補としてインプットしてせねばなるまい。

少なくとも、文化や宗教で深い繋がりを持っていた可能性を感じさせる旅となった。

法身禅師の次の赴任先が「十和田」であった事も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/24/120855

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/08/180518

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?③…福島,新潟迄南下したらどうなるか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/14/053254

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?③、あとがき…では、山形で「方形居館」はどう捉えられているか?、そして北海道事例は?」…

これらを見れば見逃せまい。

これなら南北朝で何故北畠顕家多賀城迄下向する必要があったのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」…

わかろうもの。

ほとほと思う。

先行して「中世墓資料集成」と「中世城館」に注目しておいて正解だった。

そうでなければ気が付きはしなかった。

ミクロとマクロで比較する事は必要だ。

少しだけ穴が空いてきたか。

まだまだだ。

 

参考文献:

瑞巌寺境内遺跡試掘調査概報」 瑞巌寺博物館  平成5.3.30

瑞巌寺境内遺跡−新宝物殿建設に伴う発掘調査報告書−」  瑞巌寺  2009.8月

「松島 法身禅師ものがたり」  瑞巌寺  2022.7.31

イエズス会とフランシスコ会が反目した背景的理由とは?…最新刊「「海」から読みとく歴史世界」を読んでみる②&ゴールドラッシュとキリシタン-35

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/19/204248

「「金成マツ」が伝えたアイノ文学世界観とは?…最新刊「「海」から読みとく歴史世界」を読んでみる①」…

最新刊から2項目。

今迄も、織豊〜江戸初期において、カトリック側が一枚岩ではなかった事は概報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907

「ゴールドラッシュとキリシタン-24…「伊達政宗の倒幕計画」より際どいのはむしろ「バテレンや諸外国が一枚岩」ではない事」…

また、ポルトガルとスペインでは、その貿易形態が違っていたのも概報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207

ポルトガル,スペインとオランダの関係、と言う背景…「十七世紀のオランダ人がみた日本」を読んでみる」…

中南米で銀を調達していたスペインに対し、ポルトガルはアフリカの金のみを持ってChina(絹調達)→我が国(銀調達)→東南アジア(香辛料調達)→欧州へ…を繰り返していた様だ。

勿論、ポルトガルが推したのはイエズス会で、スペインが推したのがフランシスコ会

どうして反目に至るか?をあまり明瞭な記述がある文献を見ていなかった。

で、かなり明瞭な回答をくれたのが高橋裕史氏の「大航海時代と日本をめぐる海の攻防−ポルトガルとスペイン、そしてローマ教皇−」。

では、報告しよう。

 

まずは、ポルトガルが何故大航海時代の牽引をしたか?

①地中海商業の成立…

11世紀にノルマン人系のデーン人がフランスのノルマンディーを拠点に地中海へ進出し始める。

当時、地中海商業を牛耳っていたのは陸路で東方からの文物を支配していたイスラム圏の勢力。

で、イスラム勢力を駆逐し、この地中海の覇権を獲得と宗教勢力拡大の為に十字軍が編成され二百年におよび派遣される。

十字軍遠征は失敗に至るが、派遣による人的交流からキリスト教圏(欧州圏)とイスラム圏の間に商業関係が誕生し、イスラム圏…つまりオリエント圏や更に東方の文物が欧州圏に流入する事に。

だが、オリエント圏の主力だったアッパーズ朝(拠点はバグダッドやダマスカス)が12世紀に衰退し、エジプトのファーティマ朝が登場、拠点の移動や貿易路終点がアレキサンドリアへ変わっていく。

その為、ペルシャ湾経由から紅海経由にルート比重が動く。

ベネチアジェノバ台頭…

オリエント圏の産物はアレキサンドリアへ。

それを地中海の商業都市国家であるベネチアが買い付けし、欧州圏で売る…こんなルート開設し莫大な富を築く。

更にジェノバは西地中海のイスラム勢力制圧に成功,ジブラルタル海峡を押さえ、アフリカ北西部や欧州中部迄商船を送る様に。

オスマン帝国の西進…

15世紀になりオスマン帝国が西へ進出しエジプト征服。

ここで、地中海のベネチアジェノバの商業活動を制約した為に地中海勢力が衰退し始める。

だが、欧州内ではオリエントの産物や香辛料らの需要は高まるばかり。

香辛料らはイスラム圏への高額関税や手数料を支払うしかなくなる。

ここで欧州商人達がイスラム圏を介さず直接アジアと取引すべく海へ漕ぎ出す…大航海時代の幕開けとなる。

ポルトガルが海へ…

先陣を切ったのが、ジェノバの資本とノウハウを導入したポルトガル

14世紀には西アフリカのカナリア諸島迄進出した。

目的は、

・アフリカ側のイスラム勢力を制圧,駆逐

・伝説のキリスト教国の王を探し出しコンタクトする

・西アフリカの「金」と「奴隷貿易」をイスラム勢力から奪取

で、宗教的動機と経済的動機が重なっていた模様。

⑥スペインも海へ…

最大目的地が香辛料を獲得すべくアジアとなるが、スペインが西廻り航路へ向かい15世紀にバスコ・ダ・ガマがインドのカルカッタへ到達。

東廻り航路を使ったポルトガルは遅れをとる事になる。

両国の目的はアジアに向かう経路上の大陸や島らを最初に発見し領有権を得る事に変わっていく。

ここで一つ大問題が起きる。

ポルトガルとスペインが同じ大陸や島で鉢合わせになった場合、どちらの領有権となるか?

つか、そんなもん、もう国家成立している国々にとっては甚だ迷惑な問題なのだが。

バスコ・ダ・ガマカルカッタ到達は1498年らしい。

その頃、我が国は1493(明応2)年の明応の政変で事実上、戦国期へ突入。

北海道〜北東北と言えば、安東政季が田名部→北海道→檜山に入り、檜山安東氏成立。

その子安東忠季が檜山城を完成させたとされるのが1495(明応4)年で、北海道側も血生臭い風が吹いているとされる頃。

もとい…

ローマ教皇勅許とデマルカシオン設定…

発見した大陸と島に対する権利とそこに至るまでの航海領域の二つの権利、お互いにそれを主張しながら拡大しているポルトガルとスペイン。

異教徒征服事業でもあるそれらは、お互いに進行していくにつれ排他的にならざるをえない。

主張の正当性が担保出来なければ、進出先の権益を失う事になる。

で、ローマ教皇に働きかけ、1494年にトルデシーリャス条約を結ぶ。

この辺は世界史の大航海時代を習えば出て来る話だが、世界二分割帰属って話だ。

現在の国際法なぞ微塵も無い時代、ローマ教皇の名の元に、ポルトガルとスペインは世界を二分割する条約を結ぶ。

改めて、甚だ迷惑なお約束であるのだが、ローマ教皇にして真顔でこんな裁定をしちゃう時代があったと。

つか、ここまでが前提条件なのだが。

 

さて、本題。

我が国へのカトリック布教はイエズス会フランシスコ・ザビエルが最初。

大航海時代の海外布教は、布教地の教会をポルトガルとスペインの王が保護者と設定する「布教保護権」という制度だったと言う。

イエズス会の布教保護者はポルトガルで、主に経済面での支援の義務を負う。

インドのゴアを拠点にしていたイエズス会はChinaや我が国への布教を進めるが、同時に保護者としてポルトガル王から保護や資金援助を受ける代わりに王室利益とポルトガル国益を守り広げる事もしなければならない。

先の図を見て戴ければ解るが、我が国から西〜ユーラシア,アフリカ大陸を領有するとされたのがポルトガルで、南北アメリカ大陸らを領有するとされたのがスペイン。

ここで忘れてはいけない事が。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…

この一連の世界観。

本道らは情報があるが、千島より東は未知の領域。

そこにテニアン海峡と言う架空の海峡で、ユーラシアと北アメリカは隔てられ、本道の東の海の何処かに金銀島がある…こんな風に考えられていた。

そこに住む人々の総称が「yezo」。

と言う訳で、基本的にスペイン&フランシスコ会は入る隙は無かった様で、ポルトガルイエズス会の独占状態。

で、イエズス会は布教でキリシタンを増やし、大友宗麟,有馬晴信,大村純忠キリシタン大名という「日本の守護者」を獲得。

Chinaもポルトガルの領有と考えていたので明へ進出し、(法規内で)鎖国中のマカオへの居留が認められ欧州として独占的に交易が出来た。

この辺の実績で時のローマ教皇グレゴリウス13世に他の修道会の日本布教を厳禁(破れば破門罪)としイエズス会の拠点である東インド経由以外での進出は禁止され、イエズス会の独占を認められる。

時に1575年。

勿論、ローマ教皇にすれば「日本教会の保護者はポルトガル王である」、「(東インドら)ポルトガル国民の征服に属する地」という解釈。

そんな事は知った事じゃないと動いた人物がいる。

誰か?…「豊臣秀吉」。

ぶっちゃければ、フィリピンに居るスペイン総督に入貢する様に脅した…だ。

で、やり取りの末に正式な外交使節として派遣されたのがフランシスコ会のバウティスタ。

当然、秀吉からの召喚なので畿内へ苦も無く入る事にも成功。

イエズス会以外の会派が畿内で(ついでに)布教した最初の記録となる様で。

さてでは、核心へ。

日本のイエズス会は当然ながら拠点を通じて抗議をする。

何故、抗議したのか?

この数年前からヴァリニャーノらイエズス会宣教師はこんな風な他の修道会が日本参入を警戒していた様だ。

理由は、

①他宗派と捉えられるのを嫌った。

仏教らは諸宗派に分かれている。

カトリックは修道会は違えど元々はバチカンの教義に沿うので、実際行っている事は一致する。

だが、ミサの内容等が同じでも、修道服や行動が若干違いはある。

この差を日本人やChina人が理解出来るかをかなり危惧していた。

②修道会同士の見解不一致が出る。

日本人と欧州人では資質や習慣が違う。

ここで修道会同士の見解や布教スタンスの差が出てしまえば、矛盾ととられかねない。

③牌の問題。

修道会同士で資金調達や信者の食い合いをしてしまえば、足の引っ張り合いが起こる。

④日本人聖職者による布教。

最終的には外国人ではなく、自分達が育てた日本人聖職者の手により改宗が進むべき。

これらの危惧が現実化すると改宗が頓挫しかねず、単一会派で進めるべきとヴァリニャーノは書簡に書いている様で、それが日本イエズス会の総意としてローマイエズス会本部に報告され、スペイン,ポルトガル両王とローマ教皇から通達してもらえる様に調整する様に指示を出している。

そして、

⑤自分達の活動費を死守する為。

実は、「布教保護権」の制度ではバチカンからの恩賜と保護者たる保護国の王の年度給付金が主な活動費用となる。

ザビエル来日からヴァリニャーノが組織的布教の体系確立段階で、当初からの年間資金は2〜2.5倍に膨れ上がっていたそうだ。

しかしこの時、ポルトガル王からの資金援助が十分に回されてはいなかったらしい。

名目金額は大きいが、満額支払いが行われはしなかったそうだ。

資金が途絶えれば布教なぞ無理。

そこで日本イエズス会は、マカオポルトガル商人にコンタクトして対日貿易用の絹生糸の枠を一部割当して貰っていたと言い、多い時では年間経費の2/3をその利益で補ったそうだ。

これ、慈善活動ではなく経済活動になるので本来はNG。

が、会派を通じイエズス会総長とローマ教皇から特別に公認を取っていたようだ。

さて、これに他修道会が参入する事になればどうなるか?

イエズス会保護国ポルトガル

当然、フランシスコ会らはスペインが保護国

ただでさえ、ポルトガルの貿易スタイルは積荷を持たずにわらしべ長者的スタイル。

ポルトガル商人とイエズス会の利益が、スペイン商人と他修道会に食われかねない…と言う訳だ。

イエズス会単一会派での布教が、ポルトガルの権益をスペインから守る事に直結した。

⑥軍事侵略への嫌疑に対する危惧。

サン・フェリペ号の取り調べで航海長が「スペインが世界に領土を持っているのは、宣教師派遣→改宗,教化→軍事侵攻と教徒の内乱を起こしたから」と証言したのは知られた話ではあるが、それ以前から天下人や大名達は修道師やポルトガル,スペインが悪事を企てているのではないかと疑っていた様で、しかもそれを共有していたと著者は指摘している。

当然それは、バテレン追放令や禁教令が出される遥か前からだ。

そんな嫌疑が共有された地へ、他修道会がイエズス会と微妙に違う事を並べたらどうなるか?

疑惑は膨らみ、布教どころではなくなる。

以上、著者の挙げた理由を噛み砕くとこんなところか。

 

我々的にはこの⑤の理由がかなりシックリくる。

ただでさえ、奴隷交易は我が国では需要がなく、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/08/123257

バテレン追放令を施行したもう一つの理由…「南蛮人のみた日本」にある「人身売買」の事例」…

成り立ちはしない。

売り物の枠が減れば資金枯渇する。

しかもそんな蜜月関係をもつ商人の多くは奴隷商人も兼ねる。

ポルトガルの権益を守るには、奴隷商人の言う事には逆らえない。

故に、教義的に問題あろうとも、奴隷売買に眼を瞑るしかなかった…と言う感じ。

その後に実際にはイエズス会と他修道会は、ポルトガルとスペインの国家競合の図式そのままローマ教皇庁を巻き込む事になり、時のローマ教皇の思惑や新教皇のスタンスで話が二転三転。

教皇庁としては、国家権力が海外布教に介入する弊害を問題視せざるを得なくなり、「布教聖省」を設立して直接海外布教を統括する事になった様で。

しかも、プロテスタントのオランダやイギリスが海外進出を始め、台頭し始める。

秀吉も家康も通商出来れば良いだけ。

宣教師が各国国王の代理をしていたから話していただけで、自ら良い教義だと思っていた訳でもなく、むしろ侵略の危険性を共有していた。

気に入らなければ話をする必要も無い。

追放令出しても基本的には痛くも痒くもない訳だ。

 

如何であろうか?

特に経済的理由があるなら、反目していた理由としてかなり強く納得出来る。

と、各大名間で危機共有するだけの情報網が出来ていたのは少々驚きではあるが、それも直前迄、一向一揆ら国内宗教勢力と各々戦っていた事を加味すれば、必然的にそんな話にもなって来よう。

これも納得である。

こんな風に、各国王の代理や商人らと密接な関係を持っていたたら、最新技術を学ぶ機会もあったであろう。

我々が考える「宗教家は宗教だけでなく技術や文化の伝播者」と言うのも納得戴けるのではないだろうか?

政治の側面迄持ち合わせていたのだから。

単なる布教者では務まらなかった様で。

 

参考文献:

大航海時代と日本をめぐる海の攻防−ポルトガルとスペイン、そしてローマ教皇−」高橋裕史 『「海」から読みとく歴史世界』 高橋裕史/帝京大学出版会 2024.11.10

「金成マツ」が伝えたアイノ文学世界観とは?…最新刊「「海」から読みとく歴史世界」を読んでみる①…※追記あり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850

「定義や時代区分はそれで良いのか?…「河野本道」氏が問いかける事とは?」…

これを前項として…

SNSで紹介戴いた最新刊が入手出来たので、ここから紹介してみよう。

「海」から読みとく歴史世界」である。

海と人と、人と海とどのように関わってきたのか…これがテーマの様だ。

関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/06/054628

「この段階での公式見解-34…割と狭い人脈、近文は「川村モノクテ」と「金成マツ子」で繋がる」…

少し変わった編成。

鍵になるのは「金成マツ(関連項では金成マツ子としている)」である。

この最新刊には北海道絡みも寄稿されるとの事だったが、それが今回報告する論考…ズバリ書けば、金成マツが伝承したアイノ文学の世界観とは?が記述されている。

坂田美奈子氏の「「海でつながる」アイヌと和人 −金成マツ筆録アイヌ口承文学の和人モティーフについて−」 だ。

どうやら帝京大学博物館の昨年のセミナーでの講座がベースの模様。

実は、これそのものの論文と、同じ様な考え方を別論文で読んだ事があるのだが(河野本道氏だったか?)失念し探したが出て来ない。

折角だから、こちらを紹介してしまおうと言う事にする。

 

予め、前提条件を。

初期から本ブログを読んで戴いてる方は知っているかと思うが、

①本ブログでは所謂「アイヌ」を、古書記述に則って「アイノ」と表記している。

理由は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/23/193547

「この時点での公式見解⑧…「アイヌ」と言い出したのは「ジョン・バチェラー」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

「何故、古書記載の「アイノ」ではなく、「アイヌ」なのか…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる」…

ジョン・バチェラーは自分が作った造語でそれを自分が広めたと言っている。

現在、研究されてる方も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912

「北海道と津軽藩の関係は?…「高岡の森・津軽藩歴史館」特別展「津軽藩蝦夷地」にある津軽藩蝦夷地出動実績らを学ぶ」…

時代に寄って表現対象が変わってきた「蝦夷,夷狄,狄(これらは読み方すら変わる)」等を無条件で「アイヌ」と訳す事に何ら疑問を持っていない…これへの警鐘である。

寄って我々は「アイノ,ainos」ら海外も含めた記述をそのまま使っている。

②対立軸を作る為に作られた単語は使わない…

このブログでは基本的に「和人」と言う単語も使っていない。

これは北海道側についても同様で蝦夷地等地理的情報がある場合は「蝦夷衆」「〇〇の人々」「××頃の北海道の人々」らを使う様に心掛けている。

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/22/203708

「「ainomoxori」の初見は?…それを記事したのは「イグナシオ・モレーラ」 ※追記有り」…

イグナシオ・モレイラの記述からアイノ,ainos迄二百年位の空白があり、その意味する物が解っていないから。

その当時に直接インタビューした、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

「ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ」…

アンジェリス&カルバリオ神父ですらainosは使わず「yezo」と表現、その対象はどうやら「メナシ(目梨),テンショ(天塩)の人々」の様で、こちらは地理的要因を含む。

本項では「和人」と記載される部分は「本州系」としておく。

以上。

 

では進もう。

編著者の高橋裕史氏の論考概要がなかなか刺激的。

「近世蝦夷の歴史などで取り上げられているアイヌと和人との関係は、その多くの場合、アイヌ松前藩に足を運んで行われた城下交易、あるいは場所請負制や商場知行制などにほぼ限られている。またそうした交易において和人がアイヌを安価な労働力として搾取したり、アイヌ女性へ性暴力を加えたりしていた、とのイメージが強いことであろう。しかしこれはアイヌと和人との間に展開されてきた歴史の一面を捉えたものにすぎない。なぜこうした見方が確立し広く定着したかというと、それはこの分野の研究に用いられる史料に、その原因の一端があるからだ。

歴史の研究に「史料」は不可欠である。これなくして歴史の再構成や復元、多様な歴史像の提供は不可能と言ってもよい。歴史の研究にとって、史料がどれだけ重要な存在であるのかということにつ いて、たとえば東京大学文学部および大学院文学研究科「日本史学研究室」のホームページには、「研究の基礎は、古文書・記録・史書などの文献史料を正確に読み、内容を批判的に検討し、そこから論点を引き出して歴史像を構成することにある」と記されていることからも、史料の重要性は明らかであろう。 

ところが近世の蝦夷地におけるアイヌと和人の歴史の復元と再構成は、アイヌ側の史料が欠落しているがゆえに、和人がアイヌについて記した史料に多くを依拠する形で行われてきた。その結果、金田一京助(一八八二~一九七一)に代表されるような、神々と共存するアイヌ、和人と対立するアイヌといったステレオタイプ化されたアイヌ像が生み出され定着することになった。しかし金成マツが書き溜めたアイヌロ承文学のノートには、交易をフィルターとしてアイヌと和人との多様な関係が描かれている。それと同時にそこには、海がアイヌと和人との間をつなぐ一種の緩衝地帯としての機能を果たしていたことが明らかにされている。また併せて、そうした金成マツの口承伝承に描かれた世界観、たとえばアイヌにも和人にも善人がいれば悪人もいる等の世界観が受け入れられず、アイヌロ承文学の中にある特定の部分が継承されなかったことも考察されている。

事実だけでは割り切れない、あるいは事実の向こうにある世界や存在を「真理」とするならば、坂田論考はアイヌと和人の「真理」探究の場としての海を論じている。」

である。

で、この論考のベースは「金成マツ」が知里真志保博士の為に筆録した口承文学からアイノと所謂和人の人間関係をモティーフを再考し、表象分析からアイノと他者の関係がどう考えられていたか考察する事だそうだ。

前項でも触れているが、金成マツはアイノ口承文学の伝承者。

例えば、韻文形式のユーカラの様な英雄叙事詩や神謡,歌謡、散文形式の神々の説話や人々の説話、お笑いら…これらを伝承していたとされる。

同居しその一部を共有していた「知里幸恵」が、金田一京助博士の元で「アイヌ歌謡集」の校閲終了直後に死去した後に、その後を継ぐようにこれらの筆録を開始し、主に金田一博士には英雄叙事詩を、金田一博士の一番弟子である久保寺逸彦氏には主に神謡を、金田一博士の元で学び出した知里真志保氏には主に散文説話の筆録を渡したそうだ。

これは金田一博士が英雄叙事詩を重視した事や、それぞれ研究の棲み分けをしていた等諸説有り。

で、知里真志保氏宛の筆録ノートは、オリジナルが北海道立文学館にて保管されており、156話の物語が収録させる。

だが、知里真志保氏が生前に翻訳,出版したのは約50話に過ぎず、未だに翻訳は進められるが半分程度しか進んでいないそうである。

実はここに一つ問題が隠されているそうだが、それは後程。

アイノ口承文学と言えばユーカラを思い浮かべるのは、金田一博士が一番重視し優先的に記録し世に出した影響が大きいと著者の坂田氏は指摘する。

対して、金成マツは実はアイノ社会の中で最も語り継がれたであろう散文説話に愛着を持っていた様で、それを知里真志保氏に託した訳だ。

 

さてでは中身へ…

知里真志保宛ノートには156話で内訳は、

・散文説話…115話

    アイノ説話は92

    神々説話は8

    パナンペ譚は12

     本州系は3

・英雄叙事詩…6話

・神謡…6話

・歌謡…9話

・その他…20話

その他、知里真志保氏が金成マツから直接聞き取りしたと思われるものも参照。

との事。

ここで、アイノ系と本州系の関係はどんなふうに描かれるか?

①交易相手…

知里真志保氏宛ノートの中で本州系モティーフを含む物は35話あり、その中の21話が交易相手として描かれる。

その内ウィマムの相手としてが17話、ウィマム+蝦夷地交易相手が1話、蝦夷地交易の相手としてが3話。

ウィマム相手の「殿」は17+1=18話の中で11話に登場し、ほぼ百%が主人公の友人か善人として描かれるそうだ。

意外かも知れないが、

・主人公が船で長旅の末に到着…

・よく来たなと上陸の手伝い…

・ここで概ねの「殿」は長年付き合いがある友人か、主人公の父の交易相手か、初対面でも行為的に接する…

・主人公は上等の土産を、「殿」は酒と料理で歓待の上に土産を持たせ、二人の友情は末永く続いて、その子の代まで維持される…

こんな感じなのだそうだ。

この「殿」は、所謂殿様を指すだけではなく、本州系での土豪や商人の様な尊敬出来る人物全体を刺し、対等な立場の友人として描かれる様だ。

中には、無理難題をふっかける理不尽な大殿に命の危機に晒される主人公を助ける「殿」が居たりする。

これは実は「理不尽な大殿+極悪アイノ」VS「主人公+「(友人としての)殿」」…こんな構図だそうで。

これら物語の多くではアイノVS本州系と言う対立軸は描かれておらず、むしろ悪人VS善人たる主人公(+助ける者)…つまり勧善懲悪的な構図だと言うのだ。

 

②婦女略奪…

これを想像する方は多いだろう。

文中では二つの事例が。

・オイナソー

商船船長がオイナカムイ(文化を伝えた人物神)の妻を略奪するが救出,船底に穴を開け、船員毎海の藻屑に…

・極悪和人

極悪通詞が婚約者の居る娘を妻にしようと、婚約者を殺害。

この婚約者の魂が娘へ事件の全容を伝えた上で、極悪通詞に買収されたアイノごとその魂に報復され皆死んでいく…

特徴は、武士階級と言うよりは船頭,通詞等の場所請負制の出稼ぎ者、集団で悪さする、協力するアイノ…こんな物が多い。故に場所請負制を彷彿とさせる事になる。

但し、略奪者は常に出稼ぎ者とは言えず、悪い神々やアイノが既婚女性を略奪しようとするものもあり、「悪い出稼ぎ者」と言うパターンはこの手の物語の一バリエーションに過ぎないと坂田氏は指摘する。

 

③不可解な文化…

例えばトラブル時の解決。

・アイノ系は死刑は稀でツクナイら賠償支払いや話し合いでの解決が主。

・本州系は法や掟による解決が主。

よってお互いでトラブルとなった時の解決が難しいと認識されている事が読み取れ、お互いに猜疑心に苛まれる描写の事例がある。

 

④釣り好き…

本州系の百姓の主な生業は農耕。

だが、アイノ口承文学に登場する本州系の人物では(上記三編の本州系散文含め)、農民の登場頻度は極めて低く、武士や漁師だと言うのだ。

しかも「殿」らは釣り好きと言う設定がされる事が多いらしい。

これは金成マツ以外の事例でも、武士や足軽、商人,船頭、宿屋,蕎麦屋、鍛冶屋、山伏,神主,和尚ら多用な属性が登場するが本州系散文説話7篇の内、農民が登場するのは1編のみ。

坂田氏は、近代以前に北海道に訪れるとするならその主要目的の一つは漁業であるからと推測する。

 

⑤笑いや風刺の対象…

 上記のパナンペ譚らがこれに相当する様だ。

パナンペさんが小鳥を拝むと小鳥の鳴き声の様に放屁して「殿」から褒美を貰い、ペナンペさんがそれを真似たら脱糞し「殿」に斬りつけられた…みたいなものだ。

これは日本民話にも似たものがあるが、三人称で語られる散文説話は外来系の影響を受けるらしい。

ただ、日本民話では心優しい者が成功し心根が悪い者は失敗する様なパターンが多いが、散文説話全体ではその価値観が共通したりするが、文体の型が似るパナンペ譚では共通しないものもあるらしい。

ここが興味深いので少し引用…

「一方、アイヌと和人の言語コミュニケーションの質を風刺した話もある。「ユーカラの大家」という小話では、和人の間でユカラの大家といわれる和人がいる。実は、その人物のユカラはでたらめな のだが、アイヌ語のわからない日本人は感嘆して聞いていた、という話だ。これには対となる「日本語の大家」という小話もある。日本語の得意なアイヌがいる。実はその人物の日本語はいい加減なのだが、日本語のわからない他のアイヌは感嘆して聞いていた、というものだ。この一対の小話は非常 にシンプルながら、和人とアイヌの関係の特徴を鋭く表している。すなわち、空間的には隣接し、時間的にいかに長い関係史を持とうとも、言語コミュニケーションの点では驚くほど浅く、いい加減な関係ということだ。」

ここは後で少し続けてみようと思う。

 

⑥強い「殿」…

知里真志保宛ノートには、「殿」が悪人アイノを退治したり、守り神となったりする話が含まれる。

「一般的なアイヌ散文説話では、アイヌの主人公が悪人を懲らしめるか、処罰を神にゆだねる。事件がアイヌと和人との間で発生している場合には、アイヌが和人を直接罰するのではなく、その上位に ある殿に訴え、殿が和人を処罰することが多い。先に取り上げた「オイナソー」や「極悪和人」のように、神や死者の魂が直接和人を罰することはあるが、生きているアイヌが和人を直接罰するケースは見られない。和人の殿の力は、アイヌに害をなす和人を処罰するためにアイヌが使う力でもあったのだ。しかし和人の殿がアイヌの悪人を成敗する物語は極めてめずらしい。この物語はアイヌ散文說語といってよい。 話と和人の散文説話が合わさったような特徴を持つという形式の面でも、また内容の面でも稀有な物語といってよい。」

アイヌの世界観においては、アイヌも神々も万能ではなく、和人も同様である。通常、アイヌ散文説話で、神々の支援を受けて事件を解決するのはアイヌの村長の役目だが、上記二例は、その役割を場合によっては和人の殿が担うこともあり得る、ということを示している。」

こんな風だそうだ。

 

坂田氏は、

「金成マツ筆録の物語における和人は、極悪でも正義でもあり得る道徳的には両義的で、不可解な習俗を持つ存在として表象される。これら和人表象のうち、和人の殿が友人であったり、アイヌの悪人を成敗したりするような物語は、アイヌと和人の歴史を知っているものには、ほとんど理解しがたいかもしれない。」

として、モラル帰属…つまり、善悪判断の比較をしている。

これが散文説話に登場する善キャラと悪キャラの代表的な特徴の一部を纏めた表。

道徳的性質は、アイノ系,本州系だけではなく、神々に於いても変わりはしない様だ。

これはアイノ散文説話上では、道徳と社会文化を異なる基準として分けて考えている為で、特定の社会文化だからと善悪判断には使っておらず、(神々の世界含め)どんな社会文化でも善人(神)も居れば悪人(神)も居ると思考していると指摘する。

故に登場するキャラは個人単位で、それらがモラル帰属と社会文化帰属と言う二つの変数の組み合わせで表象されるとしている。

単純な「所謂和人=悪」なんて世界観で描かれてはいないと言うのだ。

少なくとも口承文学からその思考を遡ると、そんな結論に達している。

なんとなく、筆者的には納得出来るのだ。

坂田氏の主張を鵜呑みにする気は全くない。

理由は坂田氏の説明する歴史観と、我々が追ってきた歴史観が違うからだ。

坂田氏は数回「アイヌと和人の歴史を知っているものには、ほとんど理解しがたいかもしれない。」…こんな表現を使っているし、歴史概要の説明でも通説的に言われる「辛辣な場所請負制」や「極悪非道な和人」みたいな説明文を入れる。

が、我々が加賀家文書や新北海道史等でみる歴史観はこんな感じ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847

「推挙を受けての三役任命、そして…「加賀家文書」に残る「雇い方願上」にある労働システム」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

「江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757

「幕府や松前藩は本当に弾圧したのか?…「加賀家文書」に記される赤裸々な報告や史料の断片」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203

「この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

「この時点での公式見解⑦…新北海道史にある「通貨発行権持ちの非課税」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602

「この段階での公式見解23…屯田兵だけでなく、移民政策そのものが開拓使以前に幕府政策」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952

「この時点での公式見解-27…松前藩はアイノを弾圧したのか?、むしろ新北海道史が指摘しているのは「構造的欠陥」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415

松浦武四郎が記す「請負人と番人の悪虐非道」…だが、背景的にはどうなのか?」…

etc…

特に象徴的なのはこれか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327

「北海道開拓は明治政府?江戸幕府松前藩?、「否」…「蝦夷日誌」に記される、場所支配人,土地の民衆,出稼や移住者達の総力で行われた姿」…

口承散文で場所請負制らしい記述が多いとすれば、江戸中期〜幕末位が舞台になるだろう。

明治には場所請負制は廃止されるから、これは含まれない。

・中世…十三湊,秋田湊,外ヶ浜,糠部へ交易に渡る…

松前藩成立…交易場は松前に。

・※その後…商場知行制で各所に場所開設。

・江戸中期…場所請負制。

・江戸後期…幕府直轄→松前藩復活→再直轄化→東北諸藩統治…

こんな流れ。

※で影響したのは寛文九年蝦夷乱ではないだろうか。

坂田氏は乙名を中心にした三役での統治体制らには言及していないし、幕府直轄での同化政策やそれに伴う新シャモの登場にも触れてはおらず、幕府直轄や東北諸藩統治により徐々に改善された様は新北海道史等にも記事がある。

これらに触れていない段階で坂田氏と我々の歴史観には隔たりはある。

 

その上で、

A,文化社会の対立構図ではなく、個人のモラル帰属の対立構図…

加賀家文書にあるヲシタエの一件が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757

「幕府や松前藩は本当に弾圧したのか?…「加賀家文書」に記される赤裸々な報告や史料の断片」…

解り易い事例になるだろう。

仲良く暮らしていたところを場所の都合で引き裂かれるが、これをヲシタエ側から訴えを起こし元の鞘に収まる…これならヲシタエ視点なら別海側は善になり、釧路側の支配人と乙名は悪になる。

下位幕閣だった松浦武四郎も直轄後に悪辣且つ横暴は改善された事を強調するし、こんな風に訴えを起こす事も可能で、「⑥強い「殿」…」さながらに「大殿」が裁きを下す一件とは整合してくる。

これらは、複数の古文書との整合で、坂田氏が導きだした世界観との合致してくるだろう。

B,言語コミュニケーションの浅さ…

先の⑤のパターンだが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158

言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」…

地域によりコミュニケーション可能だったり無理だったりするのは寛文九年蝦夷乱時点で検出される。

言葉が通じる者と通じない者の存在はもう捉えてある。

現状での我々の見え方はこうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

江戸中期〜幕末に掛けてなら、ロシアの南下と国内での経済,雇用事情を鑑みれば、ロシア帰属を嫌っても

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/02/071009

「ロシア南下の緊迫度は、そんなもんじゃなかった…ソ連のお抱え学者が目を覆いたくなっていた「ロシアの暴挙と混乱」」…

本道迄辿り着ければ非課税の上で稼いだ文だけ身入りするシステムだ。

移動の件も

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

江戸中〜後期段階で記録され、更には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/10/203035

「「現代の送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう②」…

移動してきた事は、活動家第一世代が調べている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

江戸初期に「オリ」の様なバイリンガルが居る中で、定説の様に定住しているにも関わらず、その後に二百年も言語が近付かない事があるのだろうか?

この「オリ」の様な存在は坂田氏の散文事例の中にもある。

C,上下関係の希薄さ…

本州でも中世段階では由利本荘〜にかほ周辺の様に比較的小規模の土豪が乱立し、戦国大名化しなかった地域もある。

農耕が薄く土地に縛られ難くく隣の集落と離れた北海道なら土豪間の力の差が小さいであろうから、大勢力に束ねられ難いだろう。

擦文文化期迄あった大規模集落は中世以降に消える。

大勢力化出来なかった様は遺跡にも現れるので何の不思議も無い。

ましてや数千数万単位の軍が動く様な合戦で地域統一されて行く様も北海道では見受けられないので、必然的に土豪間の上下関係は付き難くなるだろう。

D,「⑥強い「殿」…」…

A,でも書いたが、C,の様に上下関係が付き難い状況にあったなら、そんな土豪間の思惑と言う不安定要素を持つ状況の中、圧倒的な治安維持能力を持つ幕府官僚や東北諸藩の武士が直接赴任するに至れば、揉め事は起こり難くなる。

庶民が訴えられるのは土豪、つまり三役迄。

中間層に命令を下せる者が居るならば、中間層が悪さが出来る範囲は狭まる。

武士層が悪く口伝されないのも、ある意味納得である。

口承説話は庶民が口伝したものだろう。

それは庶民が中間層をどう見ていたかも同時に示すのではないだろうか?

なら、悪辣な場所支配人に協力した辛辣な三役を表す場面が出て来るのも不思議な事ではない。

こんな風に、当然ながら江戸後期位を想定した時代観だが、我々が持つイメージそのままならば散文説話に現れる世界観とは乖離してはおらず、むしろ然もありなん。

坂田氏が捉えた口承説話の世界観は我々的には納得出来る。

逆に、通説的に語られる虐げられた民みたいなものが強調される方がステレオタイプなのではないのか?

坂田氏が使った「アイヌと和人の歴史を知っているものには、ほとんど理解しがたいかもしれない。」は、案外、坂田氏自身が研究を重ねる中で感じていた印象でもあるのではないだろうか?

何度も書いて居るが、何故か地方史書らでも待遇改善の話を書きつつも、「虐げられた」に逆戻りしていく。

考えてみて欲しい。

酒を飲みながら、パナンペ譚の様に下ネタで笑う姿は想像出来ないのだろうか?

その辺は本州も、今も昔も変わらない。

あくせく働き、悪辣な上司(三役)の悪口や愚痴をこぼしながら、家族や恋人と笑い、旨いものを食えば笑みがこぼれる…これがリアルな「人間の姿」だろう。

アイノ側に残された口承散文に現れるのは、そんなリアルな姿ではないのか?

それがリアルに近いからこそ、

蝦夷画に描かれる姿もいきいきとした物が多いのでは?

この辺は双方で合致してくる。

だからこそ金成マツは、自分の弟子でもある知里真志保氏にそのリアルな姿を託した…とすればこれも納得である。

 

では何故、坂田氏が使った「アイヌと和人の歴史を知っているものには、ほとんど理解しがたいかもしれない。」…と思われる程に、口承説話の世界観と通説的に言われる話が乖離したのか?

坂田氏はそこにも言及している。

「はじめに述べたとおり、マツは甥・知里真志保アイヌ語研究のためにアイヌ散文説話を中心とする口承文学を記録した。しかし、真志保宛ノートにある百五十六話のうち真志保が翻訳・紹介してい るのは約五十話に過ぎない。このうち和人関係モティーフを含む物語は八話である。真志保宛ノートの中の和人関係モティーフの物語は三十五話(全体の約二割)なので、真志保が翻訳・活字化した物語のなかの和人関係モティーフの割合(約五十話の十六%)は、ノート全体におけるそれよりやや少ない。しかし、より興味深いのは選択された物語の内容の方である。

真志保が生前翻訳したのは、和人の残酷さや暴力に関する表象、もしくは和人が風刺・笑いの対象になっている話がほとんどで、マッ筆録の物語の特徴といえる社会文化帰属とモラル帰属が交差する、 奥の深いアイヌ散文説話はほとんど活字化されていない。真志保宛ノートの全体像を知らず、真志保の訳出した物語だけで判断するなら、我々はマツ筆録アイヌロ承文学の和人表象に、アイヌの和人に 対する単純な嫌悪・軽蔑・不信感を読み取るだけで終わってしまうだろう。

真志保宛ノートには、真志保の手によるメモが多数書きこまれており、真志保がマツのノートのほぼすべてに目を通していることが確認できる(次頁図1)。

マツ筆録の物語群は真志保の学術的関心と必ずしも一致していなかったのかもしれないし、あるいは、真志保は一九六一年に五十二歳で亡くなったため、彼がもう少し長生きしていれば、残された物語を 取り上げる可能性もあったかもしれない。

真志保が生前、なぜこれらの物語を取り上げなかったのか、現状では推測するほかないが、彼があえて殺伐とした和人表象のテクストばかりを取り上げているところから類推すると、真志保はマツが残したような善良なアイヌと和人の友情の物語を心理的に受けつけることができなかったのかもしれない。もしくは積極的に拒絶しないまでも、消化することが難しかったのかもしれない、とも考えられる。」

研究の第一人者である知里真志保氏は、精神的問題か?たまたまの研究順序の問題か?はたまた恣意的か?…この辺は坂田氏も想像の域を出ないが、少なくとも敢えて先行し殺伐としたものを出版している事は間違いなさそうだ。

つまり、そこだけ読んでしまえば、殺伐した話しか理解出来ない事になる。

知里真志保氏と言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

人送りの一件で激昂し河野広道博士を糾弾するに至る程、気障変化の激しい人物なのだろう。

しかも、本人が努力した研究成果でも、彼個人としてだけでなく「アイノ出身のアイノ学者」と言うフィルターが掛かる様は彼を紹介した文らでも見て取れる。

それ…どうだろう?

恐らくこれは、砂澤ビッチ氏でも同様だろう。

知里真志保氏は幼少期に近くにアイノの家は2〜3軒の為に日常親しく話すのは殆どが本州系で、両親共にアイノ系なのにも関わらず両親が家庭でアイノ語を使う事は無かったと自書で述べてるそうだ。

「一高に進学した真志保は、東京で同級生や身の回りの和人から、アイヌは熊の肉を主食にしている、アイヌの娘は「口辺に入墨」をしている、アイヌは「野蛮人」である、などと折に触れ、聞かされ続ける。自分自身も経験していないような「アイヌ文化」が嘲笑と侮蔑の対象となって、自分を痛めつけるための資源として使われる。真志保は和人が親切にも彼に教示してくれるような「アイヌ文化」が消えていくことに感傷を感じてはいない。「一日も早く新しい文化に同化してしまふことが、今ではアイヌの生くべき唯一の道なのであるから、幌別村が他村に百歩を先んじて、早くも然ういふ状態に立到つたことを、私は寧ろ喜ばしく思ふものである」(「知里真志保著作集1』平凡社、一 九七三年、一五一頁)。なお、真志保が「新しい文化」への同化と述べ、「日本文化への同化」と述べて いない点には留意すべき点だろう。」

同様の事は活動家第一世代が言っている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

「過去と現在の二つのアイノを切り分けて欲しい」…これが主張。

そして、当時の世論操作がこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

そして主張は案外'70年頃から真逆になるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821

「民族運動第1世代との差異は何か?…現代「その血を引く人々」の発言ついての備忘録」…

既に捉えている。

知里真志保氏にすれば、色々な葛藤を抱えたまま研究を続けていた事になる。

同様の葛藤は萱野茂氏も持っていたであろうと坂田氏は指摘する。

そんな中、

アイヌの世界観についての以上のような定式化された説明は金田一に遡る。ここには和人についての言及はない。アイヌ散文説話にも神謡にも、和人関係モティーフは繰り返し語られており、金田一 もそれを認識しているが、捨象して構わないとも認識されているようである。

アイヌと自然の関係にしか焦点をあてない、金田一的な「アイヌの世界観」の語りは現代まで連綿と受け継がれてきた。今日まで、アイヌ口承文学の中の和人関係モティーフは、研究者によって、アイヌ文化に本質的な要素ではない、重要ではないとみなされ続けてきたのである。

一方、一九八○年代以降、和人の暴力・抑圧を語るモティーフに言及する著述が現れるようになる。一九七○年代に、アイヌによる尊厳回復運動が活発化し、萱野の憎悪を買ったようなアイヌ研究のあ り方は、アイヌによる痛烈な批判に晒され、継続困難となっていった。この時期を経て、アイヌは 「侮蔑の対象」から、救済されるべき「社会的弱者」として再発見されていった。アイヌは日本の政治権力による支配、和人による暴力や民族差別に苦しめられてきた被害者として見出され、アイヌアイヌ文化の尊重は日本の政治権力や学術的権威への批判と表裏一体のものとなっていった。このような思考型のもと、社会問題の告発とアイヌ文化の再評価を、相互不可分的な文脈で言及するタイプの言説がアイヌに関する言説の一種の定型となっていった。このような流れのなかで、アイヌロ承文学のなかの、特定のタイプの和人関係モティーフが、和人の悪行の証拠として取り上げられるようにもなった。

他方、アイヌ語研究者の意識も変化していった。一九七○年代以降、アイヌ語アイヌ文化研究に着手した非アイヌ研究者は、伝承者との生身の付き合いのなかで、和人がアイヌの人権や尊厳はもちろん、アイヌの生活圏そのものを破壊したという現実に向き合わざるを得なかった。一九八○年代以降、新しい世代の研究者がアイヌ語研究を担うようになり、近世後期の漁業労働に関係する散文説話 が紹介されるようになった。

アイヌ研究者が関心を寄せたのも、真志保同様、和人による暴力や抑圧を語るモティーフであった。そして、和人関係モティーフの意識化によって、アイヌの世界観・文化観に修正が加えられることもなかった。」

そして坂田氏はこう指摘する。

金成マツが残したアイノ口承説話にある「奥深いアイノ系と本州系の関係表象を「継承」する事が出来なかった」と。

 

如何であろうか?

ここでも学会内に身を置く坂田氏の視点と、社会背景を重ねながら学ぶ我々では見え方は違う。

だが、結論は同じ。

「研究者側の取り上げ方の問題」へ至る。

研究トレンドの問題もあれど、殺伐とした話を皆で取り上げれば、ステレオタイプにもなる。

これは考古学の方でも同様だろう。

散々言っているが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/08/180518

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?③…福島,新潟迄南下したらどうなるか?」…

本州との事例比較をやっている様には見えない。

考え様だが、

金田一博士の解釈をステレオタイプと言うが、それが現在迄継承されているイメージ。

同様に、殺伐とした部分を切り取って取り上げて迫害イメージを強調し刷り込む。

で、それをベースに政府広報らは行われている。

さて、誰がその二つのステレオタイプを修正するのか?

それらの研究には、多額の血税が使われているのだが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/21/070725

「北海道弾丸ツアー第五段、「道東編」…行ける東端「納沙布岬」へ行ったれ!、そして「チャシ」を見てみよう」…

研究が偏った為に、「(自分視点で)正しい事の為なら暴力をもいとわない」と言うテロリズムの論理を肯定する容器なっているのではないのか?

付記すれば、本書では事例紹介に重きを置いている様だが、論文の方は全体におけるそれぞれの比率みたいな切り口だった様に朧な記憶が。

数値化されている。

 

「朱に交われば赤くなる」…

 

※追記…

何故、こんな書き方をするのか?

我々はこんな事例を既に知っているからだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733

「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…

観光用ともとれる建物に、楽器、etc…

先の本州との事例確認の件のみに非ず。

学術と観光の切り分けが出来ているのか?

少なくとも、政府広報らでは(楽器が混ぜられるので)されてはいないであろう。

それを修正しなくて大丈夫なのか?

それを誰がやるのか?

誰の責任で検証と改善をするか?

血税を使ったなら、答える責任はあるのだ。

 

参考文献:

「「海でつながる」アイヌと和人 −金成マツ筆録アイヌ口承文学の和人モティーフについて−」   坂田美奈子  『「海」から読みとく歴史世界』  高橋裕史/帝京大学出版会  2024.11.10

アイヌ絵集成」 高倉新一郎 番町書房 昭和48.5.20

「樺太系?の熊送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう③ ※…追記有り

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258

「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/05/174710

「「熊送り場」はどんなものなのか?…文化遺跡を見てみよう①」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/10/203035

「「現代の送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう②」…

実は失念した論文を探していたら「熊送り場」の論文が出てきたので報告しておこう。

著者である「畠山三郎太」氏を含めた知床岬調査隊5名が1961年に知床岬の尖端付近調査中に「ワシ岩湾」で見つけたもので、

1963年当時報告はされたがこの遺構は僅かに報告されたに留まったとして改めて『河野広道博士没後二十年記念論文集』に寄稿したとしている。

丸太で組んだ木組が「イオマンテ」を彷彿とさせるが調べていくと…

因みに、この遺構は前項①の宇田川氏の論文には記載がされていない。

 

調査が行われたのは知床岬尖端部で、番屋に居た老漁師に話を聞いたところ、「ワシ岩湾」の海成段丘中腹に骨塚らしいものがあり、漁師は気持ち悪がり近付かないとの事で行ってみた…これが経緯だ。

この「ワシ岩」の入り江左側の大きな岩が突き出した下に木枠が組まれた遺構があり、獣の骨が祀られるていると言うもの。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258

「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…

での宇田川氏の形式分類によれば、

(1)御神木となる太い木の根元に位置する例。

(2)岩や並べた石の付近に存在する例。石積,集石の例も含めておく。

(3)石蘺を有する特殊な例。

(4)竪穴住居址等の窪地を聖地として利用する例。

(5)貝塚、貝層を形成している例。骨塚と言われるものも含む。

(6)岩陰を利用する。

(7)その他平坦地等に何らの施設も有していない例。

この中の(6)に相当しそうだ。

「遺構は、イチイ(Taxus Cuspidata Sieb. et Zucc.)の丸太の樹皮を剝ぎとって加工した、 ほぼ長方形に近い枠ぐみで、まず、直径14cmの丸太の小口を半割りにしたものを、長さ120 cmばかりに切って、曲面を下に、平面を上にむけて、海の方にむけて2本、ほぼ平行に置き、その上に、井げたを組むように、長さ91cmほどの丸太を、前端と後端とに2本、直交するようにのせます。さらにその上に、長さ129cmの丸太を2本のせるという様に、2段に組んでありました。丸太の組み手は、鉄のこで深さ3cmから4cmほどに垂直の切れ目を入れてから、 鉈のような、よく切れる金属製の刃物で、丸太の曲面がよくなじむように削り取ってありました(Fig. 2のb参照)。しかし、2段目の前方の北西の方角にあたる隅の組手だけは、他の組手の作り方とは異なっていて、鋸目を入れることなく、半円形のカーブに刃物でえぐり取ってあ りました(Fig.2のbのA材左端)。つまり、鋸目を入れて削り取った組手の部分は、押しても 動かないように、はまり込んでいますが、この2段目の北西の隅だけは、少し大きめの半円形 にえぐってありますので、その凹曲面の中の丸太は、押せば少しだけ転がるのです。しかし、転がりおちることはないのです。

海のむいた長い方の丸太の鼻先は、心もち天にそりかえるような形になって突き出ていました(Fig.2のc)。このイチイの丸太枠の上には、火山岩の大きな塊がおおいかぶさっていて、 シェルターの役目をしていました。その高さは、遺構の築かれた地面から1.3mでした。岩の天井は、奥の方にだんだん低くなっていて、その傾斜角は、およそ平均50度でした (Fig. 3)。雨や風をさけるようにして設けられた遺構の中には、ヒグマの成獣1頭分の全身骨格が、ていねいに葬られてあり、骨は体構の順につみ重ねてありました。その一番上に頭骨がのせてありましたが、調査隊がしらべた時には、下顎骨はみつからず、頭骨の上顎にも、本来は存在するはずの歯牙は1本も残っていませんでした。」

頭骨は、左上顎,口蓋骨,左頭骨の大部分を欠き、歯牙は全て脱落、頭骨全体は3分割の状態で、残存部は接合可能。

成獣のヒグマとの事。

それをオンコの木枠内に並べた様だ。

で、著者の畠山氏は河野広道博士へイオマンテに関連するものか?と問い合わせしたところ、下記の返事がきたとの事。

「「エペレセツの構造は、足がないという点で樺太アイヌのイソチェイ(イソ=熊、チェイ= 家、イソチェイは熊のおり)に似ています。イチイは、通称オンコ Taxus Cuspidata Sieb. et Zucc. で木質部は水につよく、腐りにくい木です。それで残ったのでしょう。幣場なしで熊檻の 中に熊の遺体を送るという例は、アイヌの場合聞いたことがありません。しかし、あの場所は、終戦頃まで斜里からオンネナイにかけてのアイヌの出稼ぎ場所、あるいは夏の狩猟場でしたか ら、やはりアイヌの残したものでしょう。但し、アイヌの古式によるものではなし、便宜的に 熊の遺骸を檻の中に入れたのではないでしょうか。それとも、イナウを供えて送る価値を認められないほど、何か悪いことをした熊(たとえば人を傷けるなど)で、罰の意味で檻の中にとじこめたのかもしれません。(ただし、私はそんな例を聞いたことはありませんが)いずれにしても、私のまだ知らない例に属するもので、稀らしいことだと思います。

尚、終戦直後、あの地方には樺太アイヌも行っていたはずですから、樺太アイヌの残したものか、斜里アイヌの残したものか、しらべて見る必要があるようです。御手紙によると檻が腐っ ていないというのですから、ことによると終戦直後ごろのものかもしれません。明治・大正という説は、ちょっと信用できません。檻の材と骨の腐蝕の状態から年代を御判断下さい。(私は実物を見ませんので判断することができませんが、明治・大正説をそのまま信用せずに、よく御検討下さい) 八月二二日」(原文のまま)」…

・本道アイノでは前例が無いパターン…

樺太のものに近いか…

・古いものではないだろう…

こんな印象が回答された事から、畠山氏はたまたま自分の住む集団住宅に樺太にいたというギリヤークのシャーマン(呪術師)だった中村千代氏へ木組の様子を話し尋ねたところ、ギリヤークの「熊神の骨倉」だと教えてくれ、なんとこの熊であろう熊肉を食べたそうだ。

1941(昭和16)年に樺太から知床岬へ来たのは25〜28歳の3名で、鉄砲での海獣漁に来た折に、熊を仕留めて送ったという。

本来、熊肉には女性が食べてはならぬ部位があるそうだが、中村氏は呪術を唱え食べちゃった…と。

この3名の内、2名は網走に来た事があり、「ギリヤーク」の著者である服部健氏とも知り合いらしく、服部氏からも裏取りした様だ。

因みにこの2名、1965(昭和20)年の終戦時にソ連軍に拉致されて服部氏もその後の行方を知らないらしい。

本来、樺太のギリヤークの骨倉は頭部を納める「頭倉」とそれ以外を納める「骨倉」に分かれるそうだが、ここでは頭部迄納めてしまったと言う差は出ている。

この時「頭倉」には他の骨は一片たりとも入れてはならず地上から1m程の高さに組み屋根付きで弊と供物を添え、「骨倉」は地上に組み屋根は無いそうだ。

頭部を特別に神聖化する特徴があるらしい。

少なくとも、ここ知床岬の「骨倉」は地上より10mは高い位置に建てられ、若者故に簡便化したものだったのでは?と畠山氏は考察している。

 

さて、如何であろうか?

樺太と言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり」…

熊の檻らしきものの所見は北樺太だった。

で、渡辺モデルが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる…」

これである。

宇田川氏の見解では岩陰の送り場出現は20世紀以降に本道に出現…

で、知床岬のこれは昭和16年のギリヤークのもので概ね決まり。

これの意味するものは?

まぁ時系列で並べてみれば、そんなところだろうなと。

 

※追記…

SNSで気になる事を教えて戴いた。

@studying_Ainuシ・シャモ様より。

先述の熊頭骨の写真だが…

https://x.com/studying_Ainu/status/1857666371506811314?t=pD9V56cm7onjq2J7feOEHA&s=19

紫◯の部分は、本著では「左頭骨の大部分を欠く」と表現されているが、後の研究では「左頭骨に穴があけられている」と判断されている様だ。

ここで「内モンゴル興隆溝遺跡」ら、大陸系の遺跡では「頭骨に穴を開ける」事例がある様だ。

この千歳市「美笛岩陰遺跡」の事例では…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/05/174710

「「熊送り場」はどんなものなのか?…文化遺跡を見てみよう①」…

頭骨に穴、又は頭骨に幣が突き刺してあり、木枠も検出される為に本項のギリヤークの事例に近い事になる訳だ。

宇田川氏の指摘を改めて…

「主体的な熊送り場の出現は19世紀後葉以降」だ。

改めて…

これが意味する事は?…だ。

 

参考文献:

「知床岬のクマ送り場遺構について」  畠山三郎太  『河野広道博士没後二十年記念論文集』河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日

アイヌ文化期の送り場遺構」 宇田川洋 『考古学雑誌 第70巻第4号』 日本考古学会 昭和60.3月

錫杖の拡散の様子を見てみよう…奈良,平安(擦文文化)期の宗教要素様子を追う為の備忘録、そして「石動山」登場!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

この辺を前項として進めよう。

 

全国的な中世墓制の分布がこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

中世、またはそれ以前の時代からその墓制の源となる宗教伝播はあったのだろうと言う考え方は無い訳ではない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見山廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

奈良,平安(擦文文化期)に北海道〜東北にも修験系の祭祀具や仏具を思わせるものはある。

今のところ、我々も

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

「和鏡」を指標にしてあれこれ学んで来た。

では今度は「錫杖」らを指標にして修験や仏教要素の北上の状況を確認してみよう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258

「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…

先のブログで紹介した宇田川氏の華甲記念論文集に収録された、小嶋芳孝氏の「錫杖状鉄製品と蝦夷の宗教」である。

関連項にある箕島氏の論文に北方との関連性ありと記述されたのが小嶋氏の論らしい。

とは言え、その論文へ進む前に一つ段階、順を追う必要がある様だ。

理由は小嶋氏の論文は、先行した東北を中心にした錫杖の分布や区分設定を前提に整理している部分があるからだ。

「岩手考古学」をまず第一段階として…

では報告しよう。

まずは分布。

この段階での事例は32で26遺跡。

建物跡…21

溝,河岸…2

古墳…1

埋納遺構…1

遺構外等…7

住居ら建物内からの出土が圧倒的である。

分布は

青森…12遺跡…24点

岩手…8遺跡…9点

秋田…2遺跡…3点

宮城…1遺跡…1点

福島…2遺跡…4点

茨城…1遺跡…1点

で、特に青森の岩木川上流〜秋田の米代川〜青森,岩手の馬渕川へ至るライン上や外ヶ浜、宮古周辺に集中しているのが解る。

では次に、錫杖状鉄製品の形態分類と、出土した出土した遺跡の傾向から年代を付加した表がこれ。

それまでも錫杖状鉄製品は幾つかの分類がされていたが、井上氏が改めて大きく二種類に分類している。

①Ⅰ類(正面形タイプ)

これが基本形で、

・Ⅰaは頭部と基部に分かれるもの

中で基部に捻りがあるもの(捻りが一箇所と二箇所(捻り方向は逆))と無いものがある。

・Ⅰbは頭部と基部な分かれずに扁平な板状のもの。

②Ⅱ類(断面形タイプ)

これは極珍しく、Ⅱa,bはそれぞれ1遺跡…1点米に限られる。

・Ⅱaは真横から見ると刀子状。

・Ⅱbは真横から見ると板状。

だ。

形式変化では、既に出現する8世紀にはⅠa,b共に確立され、Ⅱa,bは9世紀に限定され、11世紀前半の浪岡市「高屋敷遺跡」を最後に、現状では11世紀後半からは出土しなくなる傾向が見られる。

「高屋敷遺跡」は既に取り上げている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/21/174048

「防御性環壕集落「高屋敷館遺跡」とはどんなとこ?…土塁,空堀,鍛冶遺構、そして「二種類の内耳土器」」…

こんな処である。

筆者的には笑いが止まらぬ展開なのだが。

もとい…

井上氏は、これら錫杖状鉄製品を仏具や神道具と比較する事でルーツを探る検討をしている。

錫杖と言えば、こんな形を想像するだろう。

これは「日光男体山」のものだが、ハート型の頭部に鉄の環(遊環)が付けられたもの。

中世位にはこの手の錫杖が副葬されたりしている。

ちょっと形が違うと思われるだろう。

実は、安部知巳氏の福島県「笹目平遺跡」の錫杖状鉄製品の再報告で伝世品が報告され一気に検討が進んだ様だ。

それが長野県「小野神社・矢彦神社の神代鉾」だ。

安部氏は「錫杖形鉄製品の上部の渦巻き装飾は小野神社の子に 見られる鈎部の表現であり、蒸団のネジリは子に結び付けられた麻幣のひねりの様子を表し、 基部先端が棒状になるのも着飾の子の柄を模倣した証と考えたい」として、錫杖状鉄製品はこの神代鉾の模倣形態と解釈する。

安部氏は錫杖状鉄製品は仏具と限定せず、神道具や修験具も含めた祭祀具と考える様だ。

ここで…

緑の矢印が長野の神代鉾に接続された鉄鐸

同様の物は紫矢印の様に日光男体山でも出土している。

で、青◯の物が千歳市「末広遺跡」の錫杖状鉄製品、赤◯が浪岡市「高屋敷遺跡」の錫杖状鉄製品になる。

この辺の研究が進んだ事で、末広遺跡の鉄製品も錫杖状鉄製品と判断される様になっていったと言う事。

ただ、原田明芳氏は単独使用していた鉄鐸か鉄鉾に結びついたのは平安後期以降だとしており、安部氏の神代鉾の模倣形態と言うのも無理があるとも井上氏は指摘する。

もう1点、忘れてはいけない。

「舌」である。

上記図の通り、日光男体山神代鉾の事例では、鉄板を丸めた中に音を出す為の「舌」が付く。

実は、末広遺跡の事例も含め、東北の錫杖状鉄製品の多くにはこの「舌」が無い物が多く、単独で音は鳴らない。

「高屋敷遺跡」の場合は小札迄付属する。

この辺の解釈が、「何故11世紀後半に途切れ、伝世していないか?」と共に今後の課題となっている様だ。

因みに、日光男体山の様な仏具としての錫杖は宮古市「山口遺跡」の…

竪穴住居からも出土しているし、三鈷鐃や六器や和鏡との共伴事例があるので、宗教具として使われたであろう事は間違い無さそうだ。

 

ここまでが前提…

では、『アイヌ文化の成立  −宇田川洋先生 華甲記念論文集−』 に進もう。

小嶋氏はこの時期は石川県埋蔵文化財センターの所属。

序文部分より…

「筆者は1978~80年にかけて寺家遺跡 (石川県羽咋市)の調査を担当し、奈良~平安時代の祭祀遺物とともに鉄鐸を検出したことがある。寺家遺跡の報告書作成の過程では、日光男体山 (栃木県)の山頂から鉄鐸が多数出土しており(3)、諏訪大社(長野県)には杖の先端に鉄鐸を下げた神具が伝えられていることなどから、鉄鐸は日本固有の祭具と考えていた。しかし、1994 年に訪問したウラジオストク市のアルセーニエフ郷土博物館で、ウデゲのシャーマンが腰に鉄鐸状の金具を下げて儀式に臨んでいるジオラマを見学し、鉄鐸が日本固有の祭具ではないこと を知った。」…

そう、この小嶋氏の論が、大陸…沿海州との繋がりを指摘したものの一つ。

井上氏の論文へ付加する形でそれを論じるので、そちらを読まねばちんぷんかんぷんだった。

小嶋氏はここで、上記にある「舌」の有無に着目した訳だ。

ズバリ端的に書くと、

・筒状鉄製品は錫杖状鉄製品の頭部の遊環に装着された状態で出土…

・「寺家遺跡」「日光男体山」等関東以西では、鉄鐸内部に「舌」を伴い出土…

・北海道〜東北では宮城県「東山遺跡」の事例を除けばほぼ「舌」が無い…

・9世紀代の墓地とされるロシア沿海州「モノストリカ3遺跡」では81基の墓廣の内、61,62号墓の2基から筒状鉄製品に類似する物が検出し、

これには「舌」が無い。

・また、吉林省延辺朝鮮族自治州安図市「東風1号墓」からも検出する。

・序文の通り、シベリアや沿海州のシャーマンが儀式の際の衣装に筒状や円錐,円盤状の金属が付けられる。

以上より、

「北東北を中心に、8~11世紀の遺跡から出土する錫杖状鉄製品と簡形鉄製品などについて検討を進めてきた。従来の研究では、密教法具の錫杖や西日本の祭祀遺跡から出土する鉄鋼などと関連づけて仏教や神祇信仰が背景にある宗教具という見解が多かった。しかし、本稿で検討 したように、錫杖状鉄製品は上から吊して使用する発音具だった可能性が高く、手持ちで使用する密教法具の錫杖とは異なった機能を持っている。棒状部の捻りは、発音性能を高める工夫と思われる。また、筒形鉄製品も内側に舌を伴っておらず、舌を持つ西日本の鉄鐸とは異なっ た系譜の発音具である。以上の検討により、錫杖状鉄製品と筒形鉄製品には仏教や神祇信仰との関連を認めることができないと考えている。

ロシア沿海地方や中国吉林省の墳墓から出土している筒形鉄製品に類似した資料や、シャー マンが衣服に筒形鉄製品や鈴などを装着している事例などを参照すると、北東北の錫杖状鉄製品と筒形鉄製品や鉄製鈴は北東アジアに広がるシャーマニズムに関連した器具と位置づけることができるのではないだろうか。

一方で、9世紀後半から10世紀代の北東北の遺跡から、三鈷鏡や錫杖など密教法具の現物が出土している。山口館遺跡の事例は、9世紀後半の三陸海岸部に密教法具が伝わっていたことを示している。また、五輪野遺跡などがある津軽でも10世紀には密教法具が波及していたようである。北東北に密教法具を伝えたのは日本海を航海する船に乗った能登の修行僧だった可能性を考えたが、いずれにしても10世紀前後の北東北に密教系の仏教が伝わっていたことは否定できない。鳥海山遺跡(青森県平賀町)で出土した「大佛」と刻書された須恵器皿は、北東北 の人々に何らかの形で「仏」の概念が広まっていたことを示唆する興味深い資料である(32)。 錫杖状鉄製品や筒形鉄製品などと密教法具は、いずれも発音具として使用する祭具であり、これらを使用する宗教的な背景は共通していた可能性が高い。10世紀前後の北東北では、シャーマニズム密教系仏教が融合し、蝦夷社会の固有宗教として展開していたのではないだろうか。錫杖状鉄製品と筒形鉄製品や鉄製鈴は、蝦夷ユーラシア大陸を背景とする文化を持っていたことを示唆する重要な資料である。」

と、纏めている。

所謂「環日本海文化圏」的な論である。

まぁ、この辺があるので、この論文集に使われたのかな…と印象を持った。

ではこの小嶋氏の論を、井上氏はどう捉えているのか?

小嶋氏の論は宇田川氏の論文集に掲載される前に既に発表されていており、紹介している「岩手県考古学」に書いている。

「最近では、小嶋芳孝が青森県唐川城跡の報告書内で、錫杖型鉄製品や鉄鐸は金属片をうち鳴らす儀式に使用されたと推定でき、ロシア沿海地方に伝わるシャーマンダンスと共通する宗教楽器の可能性が高い。錫杖型鉄製品や鉄鐸の分布が北海道よりも北東北に多いことは、ロシア沿海地方と北東北の間に人の往来があった可能性を示唆しているのではないだろうか」とのべている(2002)。この説に関しては、ロシア沿海地方の祭祀具と類似する点は興味深いが、それがそく交流による伝播とするのはやや跳躍しており推測の域を脱していないと思われる。 現段階での錫杖状鉄製品の見解を整理すると、用途については仏具もしくは仏具の模倣品「神代鉾」の模倣品で神道系の祭祀具、仏教・神道修験道を含めた宗派を限定しない祭祀具、 系譜については律令国家側から持たされた遺物、律令国家側から持たされ東北北部で普及したもの、東北北部の地域的な祭祀具などの説が提示されている。」…

と、否定的な立場を取っている。

実は、この段階では確定出来る様な話では無かった様だ。

ここだけ見れば、従来の研究を重視すれば井上氏の様な考え方になるであろうし、「環日本海文化圏」的な立場を取れは小嶋氏の様な考え方を指示したであろう。

小嶋氏にしても、北東北への仏教要素の北上が同時期に進行していたのは認めて、上記の様な問題点を挙げている訳で。

小嶋氏は北陸視点から、こんな事も指摘している。

「錫杖状鉄製品と蝦夷の宗教」小嶋芳孝 より…

「石川県羽咋市福水寺家山遺跡では、9世紀後半の井戸横から錫杖・三鈷鐃・銅鏡が置かれた状態で発掘されている(31)。この遺跡は、古代末期から近世まで航海神として信仰を集めた石動山に連なる場所で、山林修行が行われていたと想定されている。『泰澄和尚伝』には、能登島出身の臥行者が出羽から京に官米を運ぶ船に越知山から鉢を飛ばして布施を請うたことが記されている。能登の山林修行者が日本海を航海する船と接触を持ち、時には布施を得ていたことが窺われる。北陸から北東北に向かう船に、密教法具を携えた山林修行者が便乗することもあったのではないだろうか。ちなみに、北海道のカリンバ遺跡(恵庭市)、亜別遺跡(平取町)、 カンカン2遺跡(平取町)、材木町5遺跡(釧路市)で出土している銅鋺は、北東北に三鈷鐃・ 錫杖などとともに伝わった密教法具の一部だった可能性がある。」

所謂「佐波理の銅鋺」も仏具の可能性を示唆している。

我々もこれら論文を読んでいた訳ではないが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552

「時系列上の矛盾…平取町「亜別遺跡」出土の「銅椀」と仏教の関連と言う視点」…

あちこちの資料館展示を見て回れば、北海道でそんな表示はしていないが「六器ではないのか?」と言う考え方には辿りつく。

六器や和鏡も修験具と捉えれば、上記の分布図はさらに北海道側では分布が広がるのは間違いないが、さすかにそこまで踏み込んではいない。

 

さて、どうだろう?

では、我々にはどうみえるのか?

①井上氏側の論に対して…

「ロシア沿海地方の祭祀具と類似する点は興味深いが、それがそく交流による伝播とするのはやや跳躍しており推測の域を脱していないと思われる」…とは言え、8〜10世紀の沿海州付近なら「渤海」だろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523

「㊗️10,000アクセス!…さて、そもそも「秋田城」とは、なんぞや?」…

秋田城の第Ⅰ〜Ⅱ期は外交機能を備え、「渤海」との交渉らが行われているのは、続日本紀や発掘結果からほぼ解っているし、「古四王寺」と考えられる遺構も見つかっている。

記録上以外の非正規分も含め、交流が無いとは言えないだろう。

ましてや会話は都からの通訳メインとは言え、僧侶による漢語での会話が想定されており、僧侶の同行は記録にもあるかと思う。

更には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/12/120755

「古代東北に「渡来系」はどの程度関与したか?…陸奥国司,出羽国司に任官された「百済王氏」の備忘録」…

国司や国介に百済王氏が赴任しているのは記録にあり、朝鮮半島系の言葉でも会話可能であった可能性も否めない。

全く皆無なハズは無いだろう。

②小嶋氏側の論に対して…

仮に「渤海」が関与し、交流があったとしても、秋田城の外交機能は第Ⅲ期には縮小され北陸や大宰府方面へ移管されていたかと思う。

鉄鐸の出土年代では上記を見る限りでは、「渤海」側は9世紀の出土と我が国が先になる。

非正規迄交流が進んでいたとしたら、同じ仏教国である我が国→「渤海」も視野に入れる必要はあるのでは?

ましてや「渤海」は10世紀には遼に滅ぼされているかと。

遼や金、李氏朝鮮らで仏教が盛んに行われていたなら祭祀具としての空白は無くなる可能性はあるが、それが近世〜近代のシャーマンの衣装の直結可能なのか?

幾らなんでも直結させるのは難しいと考えるが。

どちらの論も「渤海」とその後の状況と連動させねば、紐解くのは難しいと思うのだが。

確か「渤海」には密教は伝わっていて、交流の中から(方向は別にして)伝播するのは有り得るかと思う。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/09/27/205220

「「南無阿弥陀仏」を広めたのは誰か?…墓制拡散の担い手を探る為の備忘録」…

確かに我が国の隅々迄、仏教要素を広めたのは修験者や山の聖と言われた人々ではあるし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836

「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…

10世紀には「線刻阿弥陀三尊像瑞花双鳥八稜鏡」があるので、仏教要素は既にそれ以前に伝わっていた事は間違いないだろう。

渤海」が存在した前後に錫杖状鉄製品が集中するのは、興味深いと考える。

」がある鉄鐸が、北東北で「」を喪失し、それが大陸側に伝播したとするなら面白いと思う。

文化グラデーション的にはそちらの蓋然性が高くなると思うのは我々だけだろうか?

 

たまたま、理解の為に二つの論文を読み比べるに至ったが、両論の解釈の違いが見えて面白いと思う。

ここまで来たら、もう一つ触れねばなるまい。

石動山」の登場だ。

そりゃ北陸からの視点ならそうなるだろう。

上記は8〜11世紀位の話。

国交を持った国が滅び、関係が薄くなるのは考えられる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331

「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…

ならば、その後の時代のこれはどうなのか?

大陸側の遺物はその時代で喪失、北陸はほぼ同時代。

人の痕跡もこの通り。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010

樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀」…

むしろ本州側とのパイプが太かったとは、考えないのであろうか?

その辺が不思議なのだが。

 

参考文献…

「錫杖状鉄製品と蝦夷の宗教」 小嶋芳孝  『アイヌ文化の成立  −宇田川洋先生 華甲記念論文集−』  宇田川洋先生 華甲記念論文集刊行委員会    2004.3.13

「錫杖状鉄製品の研究-北東北なおける古代祭祀具の一形態-」  井上雅孝  『岩手考古学 第14号』  岩手考古学会  2002.9.30

「現代の送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう②

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/05/174710

「「熊送り場」はどんなものなのか?…文化遺跡を見てみよう①」…

前項はこちらで、これに続けていこう。

 

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258

「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…

ここで報告した「20世紀の送り場」で、割と詳細に記述された場所がある。

幾つか記述される旭川の事例だ。

前項では「旭川市弓成山南面岩陰遺跡」とされる部分の「アイヌ文化期の送り場遺構」での宇田川氏の記述はこうだ。

「岩陰の5mくらいの平坦地の先端部に樹令20年ほどのエンジュの木があり、その根元に1× 1.5mの範囲で遺物が残存していたという。木腕4,シュトイナウ1(破片3)の他に獣骨がやや多く見られる。クマ(頭骨は無く、1/3体くらい、150片ほど)、エゾイタチ頭骨1, エゾリ ス頭骨22、エゾタヌキ頭骨2, キタキツネ頭骨2、エゾノウサギ頭骨4,カケス頭骨1,ツグ ミ頭骨1,カモメのクチバシ1,小鳥の頭骨5がある。花矢約25本、一升瓶片,1961年製の缶詰の缶、ビニール袋4、オルゴール片等も残されている。3個のビニール袋の中には、エゾイタチ、エゾリス、エゾタヌキ、キタキツネ、カケス、カモメ等の骨が分散して入れてあったと いう。20世紀としてよいであろう。」

少々引っ掛かる部分もあるので、引用文献に遡って確認したくなったのでそれを報告しよう。

斉藤健二氏が調査報告した「近文アイヌの送り場」である。

 斉藤氏は報告以前からアイノ文化下での廃棄物に興味を持ち、近文周辺を中心に送り場と思われる場所の調査を進めていた様だ。

早速、「旭川市弓成山南面岩陰遺跡」とされる場所についての記述を引用してみよう。

「昭和43年4月、雪融をまって弓成山の石狩川をのぞむ南面をパトロール中、函館本線 から標高凡そ20mの段丘崖に3段に重なる巨大な硅石の岩石があり(位置は新函館本線近文駅よりオサラッベ川の鉄橋を渡るとトンネルがあるが、二つ目のトンネルの入口の上方)、 北東の最下部の端に自然に生じた岩蔭があり5m²くらいの平坦地になっており、その先端に樹令約20年くらいのエンジュの木があり、落葉がわずかに積重なり、クマ笹の若芽が出ている中に腐朽していたが原型を保っている。イナウ、木椀、ビニール袋に入った鳥獣の骨と熊の骨が置かれていた。

遺物

(1)   木椀   外側は黒塗りで花模様がある。内側は朱塗り、直径13cm、高さ8cm、厚さ 1.4cm、底部に所有印(シロシ)が刻まれている。

(2)   木椀   朱塗り、直径13cm、高さ3.4cm、厚さ1cm、底部に所有印(シロシ)

(3)   木椀    外側茶塗り、内側朱塗り、直径11cm、高さ5cm、厚さ0.7cm

(4)   木碗   外側茶塗り、鳥の模様あり、内側朱塗り、直径11cm、高さ3cm、厚さ0.4cm

(5)   シュトイナウ   完型が1本、長さ32cm、曲木である。二つに折れ先端部欠損しているもの1本、長さ30㎝、曲木である。他に破片3本、材質は不明

(6)   熊の骨   頭骨はなく、1体分のくらいである、 平均5cmに切断されており刃物の跡が多い。骨片の数量は約150個である。

(7)   エゾイタチの頭骨   1個

(8)   エゾリスの頭骨   22個

(9)   エゾタヌキの頭骨   2個

(10)   キタキツネの頭骨   2個

(11)   エゾノウサギの頭骨   4個

(12)   カケスの頭骨   1個

(13)   ツグミの頭骨   1個

(14)   カモメのクチバシ  1個

(15)   小鳥の頭骨(不明)   5個

(16)   花矢(エベレアイ)らしきもので、腐朽がいちじるしく中間部しか残っていないが 平均の長さ7cm、太さ1.5cmで約25本束になったようにまとまっている。

(17)   1升瓶(透明)の肩の部分の破片   1個

(18)   カン詰のカン   大洋漁業製品、赤貝1709、1961年7月製1個

(19)   ビニール袋4枚、普通のもの2枚、野菜用(穴あき)1枚、ワコーもやしと印刷してあるのが1枚

(20) 乳児の回転式玩具(オールゴールメリー)の飾花で桜の花の形で大きさは3.5cmビニール製で4葉あり、色分けは桃2枚、赤1枚、白1枚

この遺構の範囲は1mに1.5cm四方で、北西の端にイナウと花矢らしき棒の束があり、木椀は3個重ねてふせられ1個は少し離れてやはりふせてあった。南東の岩側に熊の骨が広がって散在しており、中間にはエゾノウサギの頭骨が4個1ヶ所にまとまり、3個のビニール袋の中にはエゾイタチ、エゾリス、エゾタヌキ、キタキツネ、カケス、カモメ等の鳥獣の骨が分散して入れてあった。興味のあるのはこの袋の中にビニール製の造花が4葉混入していたことで、その色彩がきわだっており印象的だった。天国に送り返す霊に花を供えたたのであろうか。送り物から約2cm離れてビンの破片やカン詰のカンが放置されていたが、これも送りの儀式に使用された品の一部と考えられる。これらの送り物についてそれぞれに持って いる意味や特色を考えてみたい。何故シュトイナウが使われているか。

シュトイナウは狩猟などに行って急に神を祭る必要のある時などこれで代用され、小刀さえあれば木の枝を切って何時でも誰でもできる簡単なイナウで、これをシュトイナウというのは、シュトという語を祖先と解して、先祖祭りの時に使うイナウという意味だとの解釈もある(註4)。

何故碗が欠損し伏せられているか。

アイヌの考え方は物も人間と全く同じような精神生活をしているが、椀が破損し使用にたえなくなるということは、霊が椀から離れるから死を意味することなる。欠損して伏せられてはじめて天国に帰れるのである。

何故カケスや海鳥であるカモメのロバシがあるのか。

プスクスリ(守り神)はエカシ(長老)が作るもので一家族の無事を願うもので、このお守は絶対に見せたり話をしないことになっており、この鉄則を破るとたちまちご利益がなくなるといわれ、人目を避けて保存する。材料はシナの木、ミズ木で作り長さは20cm前後で魚の背ビレやカケスの口ばしを削り花で包み家紋が刻まれる。本体はカケスではないかといわ れている。送り物のカケスやカモメの口ばしは、このプスクスリであったのではなかろうかと考えるより方法がない。

獣骨の動物名について北大の阿部博士に教えていただいた。さらに更科氏のアイヌ生物記 より動物を調べてみる。

  エゾイタチ   子供のために熊を獲ること、魚を漁ることを教へる、そしていろいろな事を 熊よりも早く知ることが出来る力のある神様として、家の神壇に大きな幣に包まれて祭れる のは、小さいくせに大きな人間の嫌なネズミをよくとってくるからである。

  エゾリス   動作が人を馬鹿にしているのでネズミ同様きらわれイナウももらえない。木ネズミをニョウ(木渡)といって、これを獲ることをむしろきらった。獲ったところで小さくて食うところも少なかったであろうが、それでも焼いて食うとおいしいものらしい。とある が送り場には22個と他の動物より圧倒的に多いのは最近他の動物は減少しているので割りに 獲りやすいエゾリスが注目されているのであろう。

  エゾタヌキ   モユツカムイといい、熊の叔父さんだとしている。山で獲るほか熊と同様に檻の中で飼育され、熊と同じ様に天国に送り帰される儀式がある。

  キタキツネ   タヌキの仲間で人をばかすとされているキツネは熊が天に帰る時熊の荷物背負(カムイウケコロ)して行く相棒であるとされるが、いろいろな力を持った動物と認められキツネの頭骨(アエサマンニオク)を占ないに用いることがある。

これによって罪人を発見したり、犯人を決めたり、原始的な裁判をしたという。

  エゾノウサギ   天に帰るのに独りで行くだけの力がないので熊が天に帰る時に熊の荷物を背負って行く人夫(カムイウケコロ)になって連れて行ってもらうのだといって、ウサギの頭骨はたくさんとっておいて熊の祭壇の根元に置かれた。さてこの送り場には熊の骨があり周りにキツネ、ウサギの頭骨があり、上記のように熊の霊を天に送るに一緒に道連れするとすれば一応の理解はできるのである。

  ヒグマ   熊祭りは子熊を生捕ってきて飼育し適当な時期に天国に送り帰してやる儀式でアイヌの最も重要な行事であり、熊送りは山で獲った熊を家に持ち帰り肉という食料を背負ってきてくれた神として感謝し願望の言葉を託して祝福して天国に熊を送り帰す式である。」

引用文中の(註4)は旭川市無形文化財保持者である杉村キナラブック氏の話の様だ。

では、その様子を写真で。

以上である。

ここは誰がこの行為をしたか等の伝承が残っていないのか、それら記述は無い。

では気になった点を。

①時間軸…

この遺構は何時頃使われたものなのであろうか?

時間を表す指標としては、

・調査が「昭和43年4月」である。

・遺構様相として「北東の最下部の端に自然に生じた岩蔭があり5m²くらいの平坦地になっており、そのその先端に樹令約20年くらいのエンジュの木があり、落葉がわずかに積重なり、クマ笹の若芽が出ている中に腐朽していたが原型を保っている。」

となる。

宇田川氏の特徴分類で行けば、

(1)御神木となる太い木の根元に位置する例。

(6)岩陰を利用する。

このどちらか、又は複合で…

とはならないだろう。

何故なら、朽ち果てようとしているそのエンジュの木は樹齢約20年だからだ。

斉藤氏が確認したのは昭和43年でそのエンジュの木が芽吹いたのは戦後直後の昭和20年位になるだろう。

写真を見た限り、熊の骨は岩陰の方で椀がエンジュの木の方向になり、椀等がエンジュの木を意識していたならそんな時間軸を遡る事は出来なくなるだろう。

それなのに近文の人達が誰も知らないと言うのは少々辻褄が合わない。

何せ…

「昭和44年10月、嵐山で造成中のアイヌ文化の"伝承のコタン"の現地で川村カネト氏(明治26年生れ)は頭骨をやはりこの附辺の大木の根元に送ったと話していたが、それと同じものと考えられる頭骨がどんな経過で移動したのが解からないが、故松井梅太郎の石碑と自然石にはさまって置かれているのを観察することができた。遺物は熊の頭骨、1個で片 面は火に焼けて黒くなっているがウンメンケ(頭骨のけづりかけによる飾り)がついていた。」…

これは関連項にある宇田川氏が「旭川市伝承のコタン遺跡」とした場所の記述だが、調査翌年には造成工事が着工している。

斉藤氏等の調査もそれが加速したのは、この工事を反映したものだろう。

で、伝承が聞き取れていない…これは非常に違和感のある処だ。

②熊の骨‥

「熊送り」のキーアイテム、「熊の頭骨」が何故かここには無い。

他の骨からの推測では1頭分の熊の骨。

野犬らが持っていった…いや、それなら持って行き易い四肢骨だろう。

不自然では?

③ビニール袋…

熊以外の骨は、ビニール袋に入れられて置かれていたと記述される。

これ、魂を送るとする祭祀の筋から見てどうなのか?

ここ以外で解体しビニール袋に入れて運び込んだなら解るが、ここが祭祀場ではない事になるのか?

ビニール袋に入れた事例は他には記述が無い。

④解説…

斉藤氏はここが送り場ならと言う主旨で動物らを解説、確かに筋は通ると御本人が記述しているが…これは推定の域を出てはいないのではないか?

あくまでも、ここが送り場遺構であればこの解釈なら説明可能であると言っているのだ。

何せ裏付けとなる周辺伝承が取れてはいない。

この辺が引っ掛かり、正直に言えばスッキリしない。

旭川に関しては…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440

「この時点での公式見解-30…旧「旭川市史」に記された北海道の教育創成記の実態 ※写真追加」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/07/133243

「この時点での公式見解-35…新旧「旭川市史」にある石狩川の特異性とその背景にあった「北海道労働環境の変遷」への説明」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935

「この時点での公式見解-36…旧旭川市史にある「旧土人保護法」が制定されるまでの経緯と背景」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212

「この時点での公式見解-37…旧旭川市史にある「ここに、近文コタン誕生す」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652

「この時点での公式見解-38…旧旭川市史にある「第一~三次近文コタン土地問題」が、民族問題の火付け役」…

一応、本項で扱った時代の背景は拾っている。

そんな中で、これら祭祀行為を行った伝承がハッキリしないと言うのも少々妙だとは思わないか?

これが、旭川郷土博物館研究報告と言う学術書である主旨から考えても、アイノ文化の一部だと断定して良いのか?と、思ってしまうのだが。

そりゃそうだ。

元々、送り場の概念や事例確認を学ぶきっかけは…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/17/090616

「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録…中世集団墓地「由比ヶ浜南遺跡」のもう一つの顔とは?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/22/175650

「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録、あとがき…なら、北海道事例「ニタップナイ遺跡」を見てみよう ※追記あり

」…

そもそも、文化の定義化されていない→熊送りに関する渡辺モデルの確認→たまたま中世の鹿の捨て場?送り場?と思われる鎌倉と厚真の類似事例を学んだ→そもそも送り場ってなんだ?…から、ここに至る。

元々、

・中世の類似事例があった…

・養育型熊送りが見えるのは近世中〜後期以降…

・近世末〜近現代に至り、送り場の様相が変貌し、考古学的に熊送りが見えるのは19〜20世紀…

ましてや、旭川は観光アイノがトップクラスに早くから行われ、明治末〜昭和初期には既にお土産らの製造等に舵を切っている。

これらが本州で言われる「捨て場」か?北海道で言われる「送り場」か?産業廃棄物置き場的なものか?、そしてどの文化に属する遺構か?、更には北海道系文化としても近世後期に表現された「口蝦夷,奥蝦夷,赤蝦夷」らのどれに属するか?

こんな話を既に学んでくれば、疑問が出て当然だ。

 

ではこの際、敢えてここに記述しておこう。

旭川の事情については研究者は事情や送り場の様相が変貌する理由、元々熊を送る文化のルーツが何処にあるのかを知っているハズである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

この末尾に「旭川に行き外アイノ(ヌ)を探せば解る」と書いた。

以前から知っていたが、この記述から現地に行って下さった方から写真を戴いた。

この地蔵様が某所にある。

プライバシーの問題があればと思い、ぼかし等調整している。

で、紫矢印の台座の部分には(一部名前部分を調整)こんな風に彫られる。

この部落と言う単語は北海道や東北では集落を意味するが…

「外アイヌ部落一同」…

何度も書いているが、自分達のルーツを調べて家系図を作り、ここに移住した後に明治に入り開拓使岩村の提案に応じて形成された集落が「近文コタン」。

これらルーツ探しに協力したと思われるのが後見役をやっていた河野広道博士や高倉新一朗博士だろう。

故に、自分達も研究者も文化ルーツや背景,事情は熟知するハズである。

案外…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

それら博士らが、太田竜氏ら左派過激派から眼をつけられ脅迫紛いの糾弾をされたのはそんな風に文化ルーツらを知っていたから…こんな疑惑も出ては来る。

政治的な背景はその項の通り。

まぁ、現状の政党でも中核派革マル派等左派過激派と繋がりがある処はあると言われるので然もあらんだが、敢えてそんな現代史にはここでは触れずにおく。

ググれば直ぐ出てくる。

 

如何であろうか?

脱線したが、近現代の事例を報告してみた。

論文著者である宇田川氏や斉藤氏は、この辺の事情は知った上で遺構らを記述する。

これも毎度書いているが、気になるならちゃんと引用文献迄遡って確認してみるべき。

引っ掛かるには、それが漠然としたものでもちゃんと理由がある。

確認してみれば良いだけである。

 

 

参考文献:

アイヌ文化期の送り場遺構」 宇田川洋 『考古学雑誌 第70巻第4号』 日本考古学会 昭和60.3月

「近文アイヌの送り場」  斉藤健二  『旭川郷土博物館研究報告 第6号』 市立旭川郷土博物館  昭和45.3.30

「増補 アイヌ考古学」 宇田川洋  北海道出版企画センター  2006.9.25

「熊送り場」はどんなものなのか?…近代アイノ文化遺跡を見てみよう①

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258

「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…

さて、前項では、宇田川氏の論文により「送り場」とはどんなものか?を学んでみた。

中〜近世迄の獣や貝、そして物らを送る行為の遺構は、19〜20世紀に至り変容し所謂「熊送り」が出現する。

では、その最終形態である「熊送り場」とはどんな遺構か?、宇田川氏が挙げたものの中で特徴的な物を確認してみようではないか。

千歳市「美笛岩陰遺跡」である。

関連項は当然ながら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/17/090616

「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録…中世集団墓地「由比ヶ浜南遺跡」のもう一つの顔とは?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/22/175650

「鎌倉にある獣頭骨が並ぶ遺構への備忘録、あとがき…なら、北海道事例「ニタップナイ遺跡」を見てみよう ※追記あり」…

原型的に言われた「ニタップナイ遺跡」と、本州類似例である「由比ヶ浜南遺跡」である。

前項の写真のこれ…

その現地写真がこれ。

宇田川氏の特徴分類で行けば、

(1)御神木となる太い木の根元に位置する例。

(2)岩や並べた石の付近に存在する例。石積,集石の例も含めておく。

(3)石蘺を有する特殊な例。

(4)竪穴住居址等の窪地を聖地として利用する例。

(5)貝塚、貝層を形成している例。骨塚と言われるものも含む。

(6)岩陰を利用する。

(7)その他平坦地等に何らの施設も有していない例。

思い切りの最終形態、(6)になるのだろう。

では「ニタップナイ遺跡」や「由比ヶ浜南遺跡」を上記に当て嵌めてみれば(5)?(7)?…

前後の時代に多い特徴である(4)や(5)に比べてかなり異質なのはご理解戴けるのではないだろうか?

では、学んでみよう。

千歳市美笛地区は、観光地である支笏湖湖畔地域の西側対岸にあり、湖畔地域に比べて訪れる人も少なく、金銀を産する「千歳鉱山」とキャンプ地,船着場がある程度だった様だ。

学術調査らも進んでなかったか、'80年代にありがちな大規模開発の話も出て来たので、調査近年に地元ハンターの間で「送り場がある」と知られていた場所の調査を行う事にしたと言うのが経緯。

前項にもあるが、ハンター達の噂以外の古書記述や地元の古老らを含めた伝承は全く途切れており、照合不能である。

遺構は、「送り場」と「小熊用のおりと野営跡」の2箇所、先の写真は「送り場」についてである。

引用する。

「(2) 送り場について

西に位置する地点は岩陰最西端の柱状節理を隔てたやや小高い所にあり、以前から熊の送り場として知られていた小さな岩陰である (Fig. 3・4)。岩陰の規模は高さ約2.3m,幅約2m, 奥行き約1.5mである。内部にはFig. 3の上図に示すように熊の頭骨が置かれ、東側の壁には木が立て掛けられていた。地表に露呈していた頭蓋骨でほぼ完形なものは9例であるが下顎骨を伴っている例は無い。いずれも岩陰の開口部に向けて置かれ、側頭部の左右どちらかに穴が穿たれている。さらに現地表面から約10cm下において、頭蓋骨1頭分,下顎骨7.5頭分,多数の歯などが出土した。頭蓋骨の出土状況は地表の例と変わらない。下顎骨は上下合せて9頭分であるが 左右がそろって出土した例は少なく外的要因で移動した可能性が強い。頭骨で目立つのは犬歯の欠失である。ほとんどの上顎、下顎の犬歯が抜かれたり、歯根部を残して折損している。また、6と8の頭蓋腔にはイナウキケが残存している。熊以外ではタヌキの頭骨が出土している。なおこれらの動物遺存体に関しては門崎允昭氏によって詳細な分析がなされている。

動物遺存体の他に多くの木製品が出土している。地表で確認した12点と出土した46点の計58点 である。虫食いや腐食の進行が著しく原形を止めているものは少ない。東の壁に立て掛けられていた以外は岩陰南西部に集中出土している。立て掛けていたものが倒れたのか、最初から置かれていたかは不明であるが、人為的に1ヵ所にまとめられていたことは確かなようである (Fig.3)。出土した木製品については、実測可能なすべてをFig. 5~7に図示した。Fig.5-1, 2は同一の祖印が刻まれたイナウである。1は全長76cmを測り、出土イナウ中原寸を示す唯一の資料である。10, 11は逆さ削りのイナウである。14~18は先端を尖らせ全面に削りをもつ箸状の製品である。いずれも削りかけがわずかに残っている。

Fig.6-19~22-24, Fig. 7-26~ 28は先端に割れを入れ、胴部に上から下へ複数の削り跡が残されている。現在は裸木であるが本来は樹皮が残されていたと思われる。Fig.6-24, Fig. 7-27からはイナウの基部がはさみ込まれて見つかっている。またFig. 6-24のようにササを山ブドウの蔓によって結束した例も認められた。Fig. 6-23, Fig. 7-30~32は先端が叉状の製品である。

Fig. 7-30~32は全面に縦位の丁寧な面取りが施されているが叉状の部分が欠損している。以上の事項からこの小さな岩陰がアイヌの人々の送り場であったことは確実と考えられるが、上顎と下顎の数が一致しない点、犬歯の欠損状態、イナウ等の出土状態などから、送り場本来の姿が残されていると考えるのは困難なことである。また送りが行なわれていた時期,送りを行っていた集団を特定することは現段階では極めて難しい。千歳における聞取り調査では、この岩陰で送りを行った人、送りを行っていたと聞いた人は無く、存在のみが伝わっている。唯一の手掛りはイナウに刻まれた祖印であるが現在まで調査の成果は上っていない。ただ地域的に見て、白老もしくは千歳の集団に帰属していたと考えるのが自然であり、時期については2世代に確実な情報が伝わっていない点を考えると、少なくても50年以上経過している可能性が強いと思われる。

(3) 小熊用のおりと野営跡

Fig. 8に示す東側調査地点の中央には小熊用のおりが据えられている。おりは長さ80~135 cm幅10~30cm,厚さ4~6cmの割り板を井桁に組んで積み上げ、根方に人頭大の軽石凝灰岩を埋め込み補強している。割り板は直径30~40cmの材をノコを用いずに切断し割っている。樹皮は付いたままである。おりの上には長さ77cm,幅18cm,厚さ10cm,中央部をV字状に抉った餌入れが置かれていた(Fig.9-12)。おりの製作者、製作年代は不明である。聞取り調査では送り場と同様の結果しか得られなかったが、逆にこのことは送り場とおりとの関連性を示唆しているのかも知れない。なお、おりの周囲から貧乏徳利が2点出土している(PI.X)。

おりの西側には、60本もの半截した木が立て掛けられている。これらは昭和25年頃まで熊狩りの際岩陰に姉崎等さんが蓄えた大量の薪である。野営は天井部のしっかりした柱状節理の下で行なわれ、そこには自作のかんじき、まな板、木製のへら、箸、木製のくさび、焚き付け用の樺皮, 砥石の他に金ヤスリ、針金、ビールやワインのビン、太い針金の取手を付けたコーヒー缶などが残されていた。天井部の岩には煤が黒く付着している。」

以上。

野営地に関しては、姉崎氏と言う方が熊狩り野営時に使っていた伝承があり、その為に地元ハンターの間ではこの遺構の存在が知られていたと言う事か。

ただ、その段階ですら伝承は途切れて何者がこの遺構を構築したか不明、最低二世代で伝承されていない…これが「50年は遡る」と推定している事の根拠の様だ。

ただ岩陰とは言え、吹き晒しに置かれた木材がそんなに保つハズもなく。

その辺は姉崎氏の野営地の焚き木と比較すれば似た答えになるのだろう。

これ以上の解明の為のヒントは、その段階では得られなかった様で、何時、誰が、どの様にこれを組み立てたのかは解ってはいない模様。

イナゥや檻と思われる遺物、古書にある頭骨を人為的に並べた事が「熊送り場」とする根拠であろう。

さて、我々的にはベースが「ニタップナイ遺跡」や「由比ヶ浜南遺跡」なので少々比較してみよう。

・類似点…

①3遺跡共、頭骨は人為的に並べられている。

②「ニタップナイ遺跡」と「美笛岩陰遺跡」では頭骨は段積みされる。

③3遺跡共、頭骨は意図して上顎と下顎が外されていて肢骨らは別の処にある。

・違う点…

①時期は由比ヶ浜南遺跡が13〜14世紀、ニタップナイ遺跡が14〜15世紀、美笛岩陰遺跡が20世紀以降

由比ヶ浜南遺跡とニタップナイ遺跡は鹿頭骨が主だが、美笛岩陰遺跡は熊主体に変容有り。

由比ヶ浜南遺跡とニタップナイ遺跡には無いが、美笛岩陰遺跡は頭骨側面に穴が開けられる。

由比ヶ浜南遺跡は平地に基壇状、ニタップナイ遺跡は平地に段積み、美笛岩陰遺跡は岩陰の中の平地に段積みだが、上段と下段では10cmの層位差がある。

由比ヶ浜南遺跡とニタップナイ遺跡では祭祀具的な物は無いが、美笛岩陰遺跡のみイナゥ状木製品がある。又、美笛岩陰遺跡のみ檻状木製品が付属するが、他の2箇所にはそれらしい付属遺構は無い

こんなところか。

どうだろう?

こうやって並べてみてみると、パッと眼で似てる様には見えても「ニタップナイ遺跡」と「美笛岩陰遺跡」の様相は案外違う点は大きかったりする。

むしろ、「ニタップナイ遺跡」と「由比ヶ浜南遺跡」の方が似通う印象。

勿論だが、宇田川氏らは先ず事例を並べて年代毎,特徴毎で層別を掛けながらその系統を辿るべく前項の如く事例を並べている訳で。

その辺は後の論文らで確認していけば良い訳だ。

 

そういえば、某大教授が近代→近世→中世→擦文,オホーツクと繋げてしまった方が良いみたいな主旨の発言をSNSでしていた様だが、筆者が直接うかがった学芸員や考古学系の文献ではそう考える為の問題点や解明すべき点をちゃんと指摘しており、断定している方は居ないと思うが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

何故、別の系統の研究者からその様な短絡的な発言が出るのか意味不明なのだが。

大体、定義化していない為、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

他系統との議論すら漠然としている状況なのでは?

つか、上記の通り、近世と近代間でも文化や宗教の核となる送り場の状況は変容している。

聞き取りらで調査出来たのは近代から。

簡単に近世と繋げる事すら難しいのは明らかだろう。

アカデミーに身を置くのだから、自ら定義設定して整合すれば宜しいだけ…これで終了。

まぁパフォーマンスが好きな方…なんだろうなと言うのが、個人的な感想である。

そんなもんはどうでも良いとして、近代事例は文献入手出来るならまた並べてみようと思う。

 

 

参考文献:

千歳市文化財調査報告書Ⅹ  千歳市美笛における埋蔵文化財分布調査」  千歳市教育委員会  1984.3.1